1997ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1231997

 食堂車花菜明りにメニュー読む

                           杉原竹女

菜は「菜の花」の別称。食堂車のテーブルに菜の花が活けてあり、あたかも花の明かりでメニューを読むような、楽しい気分。窓外の風景にも、時々菜の花畑が現れては消えていく。新幹線のビュッフェなどでは味わえない心持ちである。昨今の鉄道は能率一本やりで、情緒がなくてつまらない。昔の食堂車の料理は、美味とは言えず高価でもあったが、旅の楽しさを演出してくれていた。汽車の旅の楽しさをいま求めるとなると、さしずめヨーロッパの鉄道あたりだろうが、テレビで見るかぎりは演出過剰気味のように思える。手元不如意のときに、あちらでは駅弁を売ってないのも困る。(清水哲男)


March 1131997

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)


March 1031997

 手を拍つて小鮒追ひこむ春の暮

                           大串 章

ずは作者自註より。「小川に鮒の群を見つけると、手を打ち鳴らして石垣の穴に追い込む。ころあいをみて、その穴の中に手をつっこんで鮒を捕る」。学校帰りだろうか。私も、よく小川で遊んだ。唱歌の文句のように川水はサラサラと流れており、水の中を覗いているだけでも飽きることはなかった。小さな魚と小さな植物たち……。なかでも、私は岩蔭に住む蟹たちの剽軽な動きが好きだった。ただ、残念なことに、この句のような鮒の捕獲法があることは知らなかった。ずいぶんと楽しそうだ。なお「春の暮」は春の夕刻の意。春の終りを言う「暮春」などとは区別する。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます