1997年3月11日の句(前日までの二句を含む)

March 1131997

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)


March 1031997

 手を拍つて小鮒追ひこむ春の暮

                           大串 章

ずは作者自註より。「小川に鮒の群を見つけると、手を打ち鳴らして石垣の穴に追い込む。ころあいをみて、その穴の中に手をつっこんで鮒を捕る」。学校帰りだろうか。私も、よく小川で遊んだ。唱歌の文句のように川水はサラサラと流れており、水の中を覗いているだけでも飽きることはなかった。小さな魚と小さな植物たち……。なかでも、私は岩蔭に住む蟹たちの剽軽な動きが好きだった。ただ、残念なことに、この句のような鮒の捕獲法があることは知らなかった。ずいぶんと楽しそうだ。なお「春の暮」は春の夕刻の意。春の終りを言う「暮春」などとは区別する。(清水哲男)


March 0931997

 蝶が来てしらじらしくも絵にとまる

                           安田くにえ

れからの季節。戸外にイーゼルを立てて、絵を描く人が増えてくる。我が家の近所では、井の頭公園、神代植物公園など。見かけると、ほほえましい気分になる。通りがかりの人は、たいていひょいと絵をのぞいていく。なかには、立ち止ってしばし筆使いをみつめる人もいる。そんな折りに、たまさか蝶が飛んできて、絵にとまったというのである。すなわち、絵に描いたような出来事が起きた……。「こいつは出来過ぎだなあ」と、作者は苦笑している。「蝶よ、そこまでやるのかよ、しらじらしいぞ」と、絵の外の偶然の絵画的光景の発見に目を細めている。これぞ、俳句の楽しさ。俳諧の妙。(清水哲男)




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