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March 0131997

 ゆく雲の遠きはひかり卒業歌

                           古賀まり子

月一日。全国的に卒業式を行なう高校が多い。私の時代もそうだった。あの頃(1956)は、地元選出の議員なんぞがやってきて、長い祝辞を述べたものだ。なんのことはない。近未来の有権者に向けての選挙運動である。あくびをかみ殺して聞いていると、勇気ある奴が大声で「あーあ」と一言叫んだ。壇上の人は一瞬白い顔になり、周囲の教師は青い顔になったが、なんとかセレモニーは終了した。高校の卒業式で覚えているのは、結局、彼の「あーあ」だけである。この句のように、心理的にもせよ、清らかな思い出はない。(清水哲男)


March 1631997

 運命は笑ひ待ちをり卒業す

                           高浜虚子

の時代、留年せずに無事卒業してもその後の困難さを思えば、少数の例外を除けば「笑う」がごとき前途洋々としたものであるとは思えない。そして、運命はあざ「笑う」かのように複雑な管理機構の中で人を翻弄し続ける。この句は昭和十四年の作である。当時の大学・高等専門学校の卒業生(そして中学を含めても)は今の時代には考えられないほどのエリートであった。しかし戦火は大陸におよび「大学は出たけれど」の暗い時代であった。運命の笑いをシニカルなものとしてとらえたい。だが、大正時代、高商生へむけ「これよりは恋や事業や水温む」という句をつくっている虚子である。卒業切符を手にいれたものへの明るい運命(未来)を祝福する句とも言える。いずれにしろ読者のメンタリティをためすリトマス試験紙のような句である。『五百五十句』所収。(佐々木敏光)


March 0431998

 なんとよく泣くよ今年の卒業子

                           森田 峠

年にも、集団としての個性がある。なんとなく覇気に欠けるとか、派手好きの子が集まっているとか……。だから、それぞれの学年によって卒業式での雰囲気も異なる。教師である作者は、思いがけずにもよく泣く卒業生たちに、半ば苦笑しながらも、他方では愛情の深まりを感じている。たぶん、日頃は涙とはおよそ無縁の活発な学年だったのだろう。こういう句を読むと、誰もが自分の卒業時を思いだすにちがいない。私の高校卒業時は、涙など一切なかった。はじまると間もなく来賓の都会議員の挨拶があり、途中で誰かがいきなり「あーあ」と一声叫んだのだった。一瞬会場は真っ白になり、後は気まずい感じのままに式が終った。こんなふうでは、涙なんか流せっこない。叫んだのが誰かは知らないが、高校生にも共産党員がいた時代であり、ましてや基地の街にあった高校だ。保守系の議員の挨拶に反発しての「あーあ」だったのだろう。あれからもう四十年余の月日が流れた。当時当惑されたであろうC組担任のT先生は、矍鑠としてご健在である。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 1431998

 卒業す片恋のまま ま、いいか

                           福地泡介

出は「サンデー毎日」の「ヒッチ俳句」。「ま、いいか」が絶妙ですね。これを「ま、いいか 片恋のまま卒業す」とすると味がなくなってしまう。ここらへんがマンガ家のセンスである。ホースケは片想いが好きで(こういうと変であるが)、他にも「梅一輪ほどのひそかな片思い」という句もある。「ヒッチ俳句」にはマンガも添えられていて、評者は、立ち読みで愛読していました。福地泡介は1995年1月5日、57歳で死去。今回引用した句は東海林さだお編・福地泡介[マンガ+エッセイ]傑作選『ホースケがいた』(日本経済新聞社・1500円)による。この本が実にいい。こんな素晴らしい追悼集は久方読んだことがない。友の情けに泣ける本です。(井川博年)


March 0432000

 卒業歌遠嶺のみ見ること止めむ

                           寺山修司

者の生きた年代からすると、戦後もまだ数年というときの卒業式だ。歌っている卒業歌は、どこの学校でも『仰げば尊し』と決まっていた。その一節には「身を立て名を揚げ、やよ励めや」とあり、卒業生の理想的な未来像が指示されている。で、歌いながら「遠嶺のみ見ること止めむ」というのだから、明らかに寺山少年は、このフレーズに反発している。同じころに「たんぽぽは地の糧詩人は不遇でよし」と書いた少年だもの、なんで、旧弊な出世主義的理想像にうなずくことができようか。その意気や、よしである。昔の少年の反骨精神、純情とは大抵このようなかたちをしていた。ただし、実業の世界ではなかったにせよ、青森から東京に出てきた後の寺山修司の仕事ぶりを思うとき、私は複雑な心で掲句を見つめざるを得ない。彼ほどに「身を立て名を揚げ、やよ励めや」と、詩歌や演劇活動に邁進した男も珍しいからだ。この句を作ったときに、既にして彼は、別の意味での立身出世の「遠嶺」のみは、しっかり見ていたのだろうか。でも、そんな意地悪な味方をするのは止めにしよう。この「純情」こそを味わえばよいのだと、一方で私の心はささやきはじめている。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(清水哲男)


March 1432000

 卒業式辞雪ちらつけり今やめり

                           森田 峠

の女生徒の絵について、北国の読者からメールをいただきました。「当地では、卒業式と桜の花の色はあまり結びつきません。きのうも、とても『春の雪』とはいえぬ積雪がありました」。そういえば、そうですね。東京あたりでも、中学の卒業式のころに絵のような桜が咲く(高校だと三月初旬の式が多いので、桜とは無縁)のは、十年に一度くらいでしょうか。北国のみなさんは、卒業と雪とがむすびつくのは普通のことでしょう。ところで、作者は作句当時、尼崎市立尼崎高校の国語科の先生でした。関西です。彼の地の三月の雪は珍しく、式辞の間にも季節外れの雪が気になって、ちらちらと窓の外を見やっているという情景。先生としては、卒業式は毎春の決まりきった行事ですから、熱心に式辞に聞き入るというようなこともないわけです。そんな気分の延長されてできたような句が「卒業子ならびて泣くに教師笑む」。もとより慈顔をもっての微笑でしょうが、卒業に対する教師の思いと生徒のそれとは、どこかで微妙に食い違っている……。教師になったことがないのでわかりませんが、そんなふうに読めてしまいました。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 2032001

 口に出てわれから遠し卒業歌

                           石川桂郎

と、口をついて出た「卒業歌」だ。おそらく「仰げば尊し」だろう。しばらく小声で歌っているうちに、遠い日の卒業の頃が思い出された。懐かしい校舎や友人、教師の誰かれのこと……。甘酸っぱい記憶がよみがえる一方で、もう二度とこの歌を卒業式で歌うことのない自分の年齢に、あらためて感じ入っている。「われから遠し」は当たり前なのだが、やはり「われから遠し」と言ってみることで、遠さを客観化できたというわけだ。こういうことは私にもときどき起きて、つい最近の出来事のように思っていたことも、あらためて思い直してみると、長い年月が過ぎていたことにびっくりさせられたりする。卒業で言えば、「仰げば尊し」を歌って中学を出たのも、もう半世紀近くも昔のことになる。式が終わっても校舎を去りがたく、みんながなんとなく居残っているなかで、どういうわけか私は昇降口でハーモニカを吹いていた。しばらく吹いていると、教室にいた女子の一人が「そんな悲しい曲、吹かないでよ」と抗議しに出てきた。何の歌だったかは忘れたけれど、あわてて止めたことを、いまだに思い出すことがある。思い出しては、「われから遠し」の実感を深くする。あのときの女の子は、どうしているだろうか。私にハーモニカを止めさせたことを、覚えているかな。当時はいまと違って、高校に進学する生徒の数も少なかった。クラスの半分以下だった。だから、多くの級友にとっては、中学が最後の学校なのだった。去りがたい気持ちは、痛いほどによくわかる。書いているうちに、急にハーモニカを吹きたくなった。が、とっくになくしてしまった。『新日本大歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


March 1932004

 校塔に鳩多き日や卒業す

                           中村草田男

語は「卒業」。折しも卒業式シーズンである。多くの若者たちが、この春も学園を巣立ってゆく。掲句は、つとに有名な句だ。この古い青春句がいまでも人気があるのは、淡彩的なスケッチが、よく卒業式当日のしみじみとした明るさを伝えているからだろう。しかしよく読むと、さりげなげなスケッチの背後には作者の非凡な作意があることを感じる。作者も含めて、誰もふだんは「校塔」などつくづくと見上げるはずもなかったのが、いざ別れるとなると、学園のこのシンボルを見上げることになったのだ。だから、実はこの日だけ格別に「鳩」が多かったというわけではあるまい。いつもは気がつかなかっただけで、鳩は毎日のように群れていたはずなのである。それを、今日「卒業」の日だけにたくさん群れていると詠んだ。つまり、今日だけに多くの鳩を校塔に集めてしまったのは。卒業生の感傷でもあるけれど、その前に俳人として立たんとしていた草田男の並々ならぬ作句意欲だったと、私には思われる。現実に「鳩多き日」は季節的に毎日のことであり、作者が気づいたのはたまさか「卒業」の日だけのことであった。が、掲句では、この関係が逆転している。作者はいつも校塔を眺めていたのであり、いつもは鳩が少なかったと一瞬思わせるかのように、句は周到に設計されている。一見淡彩を匂わせているのだが、なかなかどうして、下地にはかなりの厚塗りが施されている。非凡な作意と言わざるを得ない所以だ。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


March 0232006

 卒業歌なればたちどまりきゝにけり

                           加藤かけい

語は「卒業」で春。私の場合は、中学卒業が最も想い出に残っている。卒業式での涙が、いちばん多かった。というのも、私が卒業した(1953年)学校では、高校に進学する同級生は四人か五人に一人くらいと少なく、あとは就職するか家事手伝いとして社会に出たからだ。とくに、女の子の進学率は低かった。つまり互いの進路がばらばらだったので、それこそ卒業歌の「仰げば尊し」の「いざ、さらば」の感懐は一入だったのである。卒業式の日に、私は学校にハーモニカを持っていった。式が終わった後の謝恩会で、何か一曲吹くためだったと思う。その謝恩会が終わった後も、みんなまだまだ校舎を去り難く、教室や校庭のあちこちで仲良し同士の輪ができているなか、私はひとりハーモニカを吹いて別れを惜しんでいた。と、突然つかつかと女の子が近づいてきて言った。「止めてよ、そんなの。悲しくなるばっかりじゃないの」。ただならぬ剣幕に圧倒されて、何も言い返せず、すごすごとハーモニカを引っ込めたことを覚えている。でも、往時茫々。もはや、その女の子の面影すらも忘れてしまった。あれは、いったい誰だったのか。掲句は、たまたま学校の傍を通りかかったときの句だろう。べつに母校でもなければ、身内の関係する学校でもない。しかし、聞こえてきた卒業歌にひとりでに足が止まり、しばし聞き入っている。聞いているうちに思い出されるのは,やはり自分の卒業したころのいろいろなことであり、友人たちの誰かれのことである。現在の卒業歌は学校によってさまざまに異なるが、昔は全国どこでも「仰げば尊し」に決まっていた。だから、たとえ縁もゆかりもない学校から聞こえてくる卒業歌でも、掲句のように、我がことに重ねられたというわけだ。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所収。(清水哲男)


March 0432007

 巻き込んで卒業証書はや古ぶ

                           福永耕二

のめぐり合わせで、わたしは卒業式というものにあまり縁がありません。高校の卒業式は、式半ばで答辞を読む生徒(わたしの親友でした)が、「このような形式だけの式典をわれわれは拒否します」と声高々と読み上げ、舞台に多くの生徒がなだれ込み、そのまま式は中止になりました。時代は七十年安保をむかえようとしていました。そののち大学にはいったものの、連日のバリケード封鎖で、構内で勉強する時間もろくに持たないまま4年生になり、当然のことながら卒業式はありませんでした。学部の事務所へ行って、学生証を見せ、食券を受け取るように卒業証書をもらいました。実に、悲しくなるほどに簡単な儀式でした。式辞も、答辞もありません。高らかに鳴るピアノの音もありません。窓から見える大きな空もありません。薄暗い事務室で、学部事務員と会話を交わすこともなく、卒業証書を巻き込んで筒に入れて、そそくさと高田馬場駅行きのバスに乗り込みました。後に考えればその当時は、時代そのものの卒業であったのかもしれません。掲句、わたしの場合とは違い、卒業証書には、きれいに込められた思いがあるようです。証書はきつく巻き込むことによって、すでに細かな皺がよります。皺がよったのは証書だけではなく、それまでの日々でもあります。卒業した身を待っているのは、筒の中とはあきらかに違う世界です。「古ぶ」と、決然と言い放つことによって、これからの時間がさらにまぶしく、磨かれてゆくようです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 0832007

 卒業や楊枝で渡すチーズの旗

                           秋元不死男

業式後の謝恩会だろうか。卒業生同士ではなく、クラスの担任かゼミの教授か、年配の社会人から卒業生にチーズの旗をひょいと手渡している雰囲気がある。「旗」と言っても、お子様ランチのてっぺんにある日の丸のようなものではなく、爪楊枝にチーズを刺しただけのものをおどけて表現しているのだろう。旗を渡す行為は、今度は君の番だよ、と今まで自分が負っていた役目を託すことでもある。オリンピックの閉会式で次の開催地へと旗を渡すシーンが象徴的だ。人生の先輩から後輩へ渡す旗が大きなフラッグではなくちっちゃなチーズの旗なのだ。学生生活を終え前途洋々の未来へ胸ふくらます卒業生へ「人生に過大な期待を持つなよ、ほどほどにな。」と、浮き立つ心を現実に引き戻すと同時に「おめでとう」と、華やかな祝福をも滲ませる演出が心憎い。このあたりに不死男特有の苦味あるウィットが感じられる。「不死男の句はどこか漢方薬の入った飴のような味わいがあり、それを人生の地味といえるならまさしくこれは新しい人生派の境地と称していいかも知れない。」と朝日文庫の解説で中井英夫が評しているとおり、不死男の句は後からじんわり効いてくるのだ。『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』(1985)所収。(三宅やよい)


June 3062007

 天瓜粉子供の頃の夕方よ

                           杉本 零

瓜粉(てんかふん)、いわゆるベビーパウダーのようなもので夏季。昨年八月に新増俳が始まって、一年になろうとしている。担当させていただくと決まって、それまであまり読むことのなかった句集その他を読むようになり、最初に惹かれた句集が、この杉本零(ぜろ)氏の『零』だった。昭和六十三年に、五十五歳で亡くなった氏の遺句集である。この句は「慶大俳句」時代の一句。〈よく笑ふ停學の友ソーダ水〉〈見廻して卒業式の上の空〉など学生らしい句の中に混ざり、ふっとあった。子供の頃、といってもこの時まだ二十代、そう遠い昔ではないはずだが、そこに戦争をはさんでいることを思うと、長い時間の隔たりがあるような気持になったのかもしれない。兼題句ではないだろうか、「天瓜粉」の言葉から、心に浮かんだ風景があったのだろう。風呂上がりにつかまえられてはたかれる昔の天瓜粉には、黄烏瓜の独特の匂いがあった。日が落ちかけて涼しい風が吹くともなく吹いてくる夏の夕方、天瓜粉の匂いとともに、縁側に置かれた蚊取り線香の匂い、さっとやんだ夕立あとの土の匂い、記憶の底にある夏の匂いがよみがえってくる。同じ頃の句に〈草紅葉愉しき時はもの言はず〉〈寒燈やホームの端に来てしまひ〉『零』(1989)所収。(今井肖子)


March 1532008

 卒業歌ぴたりと止みて後は風

                           岩田由美

代は、中高の卒業式に歌われる歌もさまざま。オリジナル曲を歌う学校もあるというが、私の時代はまず「仰げば尊し」であった。中学三年の時、国語の授業で先生が「お前達今、歌の練習してるだろう。あおげばとおとし、の最後、いまこそわかれめ、って歌詞があるね。わかれめって、分かれ目(と板書)こうだと思ってないか?」え、ちがうの。少なくとも私はそう思っていた。「文法でやったな、係り結び。こそ(係助詞)+め(意志の助動詞、む、の已然形)。今こそ別れよう、いざさらば」という説明を聞きながら、妙に感動した記憶がある。そして三十年近く、仰がれることはなくても卒業式に出席し続けて現在に至る。たいてい式も終盤、ピアノ伴奏に合わせて広い講堂にゆっくりと響く卒業歌。生の音は、空気にふれるとすっと溶ける。歌が終わって少しの間(ま)、そして卒業生退場。その後ろ姿を拍手で見送る時、心の中にあるのは、喜びや悲しみをこえた静けさのようなものである。そして今年もこの季節がめぐってきた。別れて忘れて、また新しい出会いがある。後は風、たった五音が深い余韻となって響く。『俳句歳時記・春』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


March 2832009

 不可能を辞書に加へて卒業す

                           佐藤郁良

業シーズンが終わり、三月が終わる。このところの寒の戻りで、東京の桜の見頃も予想より遅れそうだが、温暖化の影響で満開にならない桜もあるらしいと聞くと、いろいろなものが少しずつひずんできているのだと改めて。それでも、最近の中高生に教えるのは大変でしょう、と聞かれると、まあそう変わりません、というのが正直なところだ。今も昔も、中学から高校にかけての年頃は、本人もまわりも大変といえば大変だし、その成長ぶりは常に想像を超えてめざましい。この句の卒業は高校である。不可能が辞書に加わった理由は、大学入試の失敗か失恋かそれとも。どう読むかで、思い描かれる十八歳の人間像がだいぶ違うのも面白い。いずれにしろ、お互いの人生の一時期を共有できたことに感謝しつつ、彼等の未知の可能性を信じて送り出す教師のまなざしがある。〈卒業や証書の中に光る沖〉『海図』(2007)所収。(今井肖子)


March 2732012

 街に出てなほ卒業の群解かず

                           福島 胖

業という言葉には、これまでの生き方をまるごと認めて送り出す賞賛の拍手が込められている。叱られてばかりの学生生活でも、締めくくりはかくもおだやかな祝福に包まれる。神妙に揃えていた手足も、頬を伝った涙も、格式張った会場から出ればいつも通りに仲間と軽口を叩き、笑い合うことができる。青春のエネルギーはときとして辟易することもあるが、小鳥のさえずりや、雨上がりの芽吹きのように清々しく頼もしいものだ。このところテレビから繰り返し流れる「友よ、思い出より輝いてる明日を信じよう」(『GIVE ME FIVE!』歌:AKB48/作詞:秋本康)の歌詞の通り、若者は変化する環境に次々と順応できる。歌は「卒業とは出口じゃなく入口」と続く。卒業生たちは、来月にはあらためて新入生、新社員へと名を変える。出口に続く入口の直前まで仲間と群れている様子は、水にインクを落した直後、均一な濃度として溶け込むまでのわずかの間のふるえるような色合いに似る。おおかたの大人は、この無邪気な喜びののちに待つさまざまな苦労や、かつて自分にもあったこんな日を重ね、まぶしいような、切ないような複雑な気持ちになるものだ。そんな視線などものともせず、卒業式を終えた一群は元気に街へと繰り出していく。明日へ向かう躊躇のない一歩に心からのエールを。おめでとう!〈恋をしにゆく老猫を励ましぬ〉〈一人だけ口とがらせて入学す〉『源は富士』(1984)所収。(土肥あき子)


November 30112012

 寒雀瓦斯の火ひとつひとつ點きぬ

                           能村登四郎

四郎31歳の時の句。大学を卒業後昭和14年28歳で「馬酔木」に投句。それから三年後の作品で「寒雷」にも投句していたことがわかる。「寒雷集」二句欄、もう一句は「卒業期もつとも遠き雲の朱」。両方とも若き教師としての生活がうかがわれる作品である。同じ二句欄に森澄雄の名前もある。澄雄の方は「寒天の松暮れてより夕焼くる」「かんがふる頬杖の手のかぢかみて」。ふたりともすでに生涯の傾向の萌芽が明らか。太平洋戦争開戦から三ヶ月。緒戦の勝った勝ったの熱狂の中でこのような素朴な生活感に眼を遣った句が詠まれていたことに瞠目する。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


March 1632013

 合作の壁画振り向き卒業す

                           花田いつ枝

年もこの季節がやって来た。自分自身の卒業の思い出はあまりに遠く、ほとんど記憶にないが、最初に卒業生を送り出した時のことはさまざまな場面と共に記憶に刻まれている。初めての袴が意外と楽だったことから、読み上げる時唯一つっかかってしまった生徒の名前まで、おそらく一生忘れないが、〈卒業の涙はすぐに乾きけり〉(今橋眞理子)の明るさが、卒業という別れの本質だろう。掲出句、見送っている教師として読んでも、一緒に校門を出ようとしている家族として読んでも、合作の壁画は、つと振り向いたその子をはじめとする一人一人を育てた、悲喜こもごもの月日を象徴している。最後に振り向いて、あとはただ前を向いて進んでほしい、と願うのみ。『海亀』(2012)所収。(今井肖子)


December 16122014

 冬帽子試してどれも似合はざる

                           井出野浩貴

ね着するより帽子をかぶるほうがあたたかいと知ってから、冬場に帽子は欠かせないものになった。しかし、ニットや頭にフィットする素材が多い冬帽子は、輪郭と一体化するため、顔のかたちが強調される。掲句では、ショップであれこれ試してみてもどうもしっくりしないし、店員さんの言葉も素直も信用できなくなってくる。それでもいくつも被ってみて、いらないと出て行くのも悪い。さらに、店内の照明のなかで汗ばんた頭に被るのさえつらくなってきている状態と推察する。似合うか、似合わないかより、実は見慣れていないことにも原因はあるようだ。つば付きのものだと意外と違和感がないというので、初挑戦の方はぜひお試しあれ。〈不合格しづかに踵かへしけり〉〈卒業す翼持たざる者として〉『驢馬つれて』(2014)所収。(土肥あき子)


March 0732015

 卒業の涙はすぐに乾きけり

                           今橋眞理子

年、三月第一週でその年度の授業が終わる。一年間、ほぼ毎日顔を合わせているので卒業式のみならず、どの学年を担当していてもそれなりに一抹の淋しさがあるのだが、この時期になると掲出句が思い出される。作句の年代から見て自らの卒業の印象であり、あんなに泣いたのに、という素直な実感が句となっていていろいろ言う必要もないのだが、こう言い切れる涙はなかなか他にはない。そして送り出す側は、そのまま二度と振り向くことなく思い出すことなく進んで行ってほしい、と願うのだ。あらためて、二十代から確かな感性を磨き続けてきた作者なのだと感じる。『風薫る』(2014)所収。(今井肖子)


March 1232016

 卒業の前夜に流す涙かな

                           宮田珠子

わずはっとさせられた。明日は卒業式という夜、その胸に去来するものは何だったのだろう。卒業式の涙とは違う涙、多感な十代の姿がありありと感じられるのは、目の前の景がそのまま句となったからだろう。作者は当時四十代、涙をこぼしているのは作者の小学六年生のお嬢さんである。以前にも書いたことがあるが、作者の宮田珠子さんは二人のお嬢さんを残して平成二十五年の秋に五十歳で亡くなられた。〈雛にだけ話したきことあるらしく〉〈子供の日子供だらけてをりにけり〉〈裸子の気になつてゐる臍の穴〉など、独特の愛情あふれる目線で作られた吾子句はいずれも個性が光っている。句会報を整理していて掲出句を見つけたが、あらためてその早逝が惜しまれる。(今井肖子)




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