1997ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2721997

 愚図愚図と熟柿の息の春の霧

                           金子兜太

まには、こういう句と格闘する必要がある。読解力の切っ先が鈍らないように……。三十分ほどにらんでいるうちに、句意が二転三転してしまう。苦痛でもあるが、人間ならではの遊びの境地でもあるだろう。「春の霧」というからには「霞」にまでは至らない早春の大気のありようである。その清冽な大気のなかで、自分自身の息を「熟柿」のように感じるというのだから、体調がよろしくない、あるいは憂鬱な心のありさまを嘆いている。元気な人は、まず自分の息遣いなど意識することはない。以上、私なりの鑑賞ですが、いかがでしょうか。入学試験の答案だと、0点かもしれませんが。『皆之』所収。(清水哲男)


February 2621997

 春日三球ひとりとなりし朧かな

                           能村登四郎

下鉄の電車。「あれはどっから入れるんでしょうねエ」で笑いを取った漫才師の三球が、相方に死別した後の句。ひとりでテレビに出ている姿は、痛々しかった。が、作者は「それでいいのだ」と言っているように思える。運命は運命として甘受するしかないし、甘受できたときに醸成されてくる心地よさ。それを「朧」に託したということ。「人間というものはいい奴も仕方がない奴もさまざまいるが、それが又面白く魅力でもある。私は自分をふくめて人間が大好きである」という作者ならではの人間句だろう。『菊塵』所収。(清水哲男)


February 2521997

 梅やなぎさぞ若衆かな女かな

                           松尾芭蕉

まり、梅はいい男みたいで、柳はいい女みたいというわけだ。見立ての句。「立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花」などの類であるが、ひるがえって最近の美男美女は、とんと花に見立てられることがなくなってきたようだ。人間と自然との交感が薄らいできたせいだろう。「牡丹のようなお嬢さん」と言われたって、第一、誉められた当人がわからない。「隆達小唄」に、こんなのがある。「梅は匂ひよ 木立はいらぬ 人はこころよ 姿はいらぬ」。……と、うたいながらも人に姿を求めている屈折した古人の「粋」を、君知るや。このとき三十九歳の芭蕉は、単なる野暮な男でしかないのである。(清水哲男)




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