季語が春風の句

February 2321997

 春風や恥より赤きドレスを着て

                           中烏健二

て、どんな色だろう、「恥より赤き」色とは……。などと考えてみても、もちろんわかりっこない。そもそもが「赤恥」というときの「赤」それ自体が色彩ではないからだ。これは、作者のちょっとした思いつきで書かれた句。書いてみたら、作者にはなんだかとんでもなくトンチンカンな色彩が現出してきたようで、面白い味が出たというところか。春風のおおらかな気分ともマッチしている。言葉遊びの句には飽きてしまうものが多いが、少なくとも私のなかでは、この句、けっこう長生きなのである。『愛のフランケンシュタイン』所収。(清水哲男)


March 1131997

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)


May 0151998

 春風の日本に源氏物語

                           京極杞陽

集では、もう一句の「秋風の日本に平家物語」とセットで読ませるようになっている。どこか人をクッたような中身であり構成であるが、作られた年代が1954年であることを知ると、むしろ社会の流れに抗議する悲痛な魂の叫びであることがわかる。戦後も、まだ九年。私は高校二年生だった。何でもかでも「アメリカさん」でなくては夜も日も明けないような時代で、日本の古典なんぞは、まず真面目に読む気にはなれないというのが、多くの庶民の正直な気持ちだったろう。事実、たしかに私は高校で『源氏物語』を習った記憶はあるけれど、そんなものよりも英語が大事という雰囲気が圧倒的だった。だからこそ、逆にそんな風潮を苦々しく思っていた人もいたはずである。作者は一見ノンシャラン風に詠んでみせてはいるのだが、この句に「我が意を得た」人が確実に存在したことは間違いないと思われる。「反米愛国」は、かつての日本共産党のスローガンだけではなかったということだ。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


March 0831999

 抜くは長井兵助の太刀春の風

                           夏目漱石

井兵助(ながい・ひょうすけ)とは、いったい誰なのか。どんな人物なのか。それがわからないと、句はさっぱりわからない。『彼岸過迄』に、この小説のいわば「狂言まわし役」である田川敬太郎が、浅草でアテもなく「占ない者」を求めて歩くところがあって、この人物が次のように出てくる。「彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。(中略)食物の話も大分聞かされたが、凡ての中で最も敬太郎の頭を刺激したものは、長井兵助の居合抜(いあいぬき)と、脇差をぐいぐい呑んでみせる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。……」。つまり、長井兵助は当時の有名な大道商人だった。岩波文庫版の註によると、先祖代々浅草に住み、居合抜で人寄せをして、家伝の歯磨や陣中膏蟇油を売っていた。明治中期ころには五代目が活躍していたというから、句の人物も五代目だろう。それで、句の言葉使いも大道芸よろしく講談調になっているのだ。心地好い春風に吹かれて、見物している漱石センセイの機嫌もすこぶるよろしい。作者の機嫌は、読者にもうつる。理屈抜きに楽しめる句だ。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)


April 1341999

 白脛に春風新進女教師よ

                           藤本節子

者は、たぶん教師だろう。新学期になって、赴任してきた大学を出たばかりの女教師の白脛(しらはぎ)が、春風にまぶしく感じられる。若さを素直に羨む心と、ちょっぴり嫉ましい心と……。初日から、この先生は生徒たちの人気者だったろう。私が中学一年のときの野稲先生と三年のときの福田先生は、お二人とも、句のようにまぶしくも初々しい新進女教師だった。国語を担当された。思春期の入り口にあった我等悪童どもは大いに照れながらも、しかし、何とか困らせてやろうと、毎日手ぐすねを引いていたものだ。変な質問を連発して、先生が教壇で真っ赤になって立往生したら、我々の勝利であった。一度だけ、福田先生が突然教壇で泣きはじめたことがあり、これには悪ガキのほうも真っ青になった。いま考えると、これは私たちの屈折した愛情表現であったわけだが、授業を離れるとろくに口も聞けずに、遠くから(「白脛」を)盗み見ている始末で、からきし意気地がなかった。野稲先生は若くして亡くなられ、福田先生の消息は誰も知らない。先生と私たちとの年齢が十歳とは離れていなかったことに、いま気がついた。(清水哲男)


March 0132001

 時刻きゝて帰りゆく子や春の風

                           星野立子

が子のところに遊びに来ていた子供が「おばさん、いま何時ですか」と聞きに来た。時刻を告げてやると、「もう帰らなくては……、ありがとうございました」と帰っていった。その引き上げ方が、「春の風」のように気持ちの良い余韻を残したのである。日は、まだ高い。もっと遊んでいたかっただろうに……。躾けのゆきとどいた清々しい良い子だ。昔の子供は母親から帰宅すべき時間をきつく言い含められて、遊びに出かけたものだ。無論いまでもそうだろうけれど、しかし、昔の門限はとてつもなく早かったように思う。日のあるうちに帰らないと、叱責された。親が帰宅時間を言い含めたのは、多く他家に迷惑をかけたくないからという理由からだったが、本音は外灯もろくにない暗い道を一人で帰らせるのが不安だったからではあるまいか。かなりの都会でも、夜道はとても暗かったのだ。そんな子供にとって気になるのは「時刻」であるが、現在のように子供部屋にまで時計があるわけではない。一家の茶の間に、柱時計一台きりが普通。だから、しょっちゅう「おばさん」に聞かなければならない。私も経験があるけれど、帰りたくなくて「時間よ、止まれ」くらいの思いで「おばさん」に聞いたものだった。逆に大人になってからも、表で遊んでいる見知らぬ子に「いま何時ですか」とよく聞かれたが、最近ではそういうこともなくなった。みんな腕時計くらいは持っているし、第一、表で遊ぶ子供たちが少なくなってしまったからである。ちなみに、掲句は1939年(昭和十四年)の作。『続立子句集第一』(1947)所収。(清水哲男)


April 2342003

 春風や公衆電話待つ女

                           吉岡 実

電話ボックス
まから六十数年前、昭和初期の句。このことを念頭に置かないと、句の良さはわからない。現代の句としても通用はするけれど、あまりにありふれた光景で、面白味には欠けてしまう。写真(NTT Digital Museumより転載)は、当時の公衆電話ボックス。東京市内でも、せいぜい数十ヶ所にしかなかったようだが、明治期の赤塗り六角型のボックスよりも、はるかに洗練されたモダンなデザインだ。で、この前で待っている「女」は、流行の先端を行くモガ(モダンガール)か、あるいは良家の子女だろうか。とにかく、電話をかける行為は、普及度の低かった昔にあって、庶民には羨ましい階層に属していることの証明みたいなものだった。美人が電話をかけているというだけで人だかりができた時代もあったそうだが、それは明治大正の話としても、まだそんな雰囲気は残っていた時の句である。要するに、この句はとてもハイカラな情景を詠んでいるのだ。そよ吹く「春の風」とお嬢さんとの取り合わせは、見事にモダンに決まっていたにちがいない。作者ならずとも、通りかかった人はみな、ちらりちらりと盗み見たことだろう。吉岡実は現代を代表する詩人で、十代から俳句や短歌にも親しみ、詩に力を注いだ後半生にも、夫人によれば句集を開かなかった日はほとんどなかったという(宗田安正)。『奴草』(2003・書肆山田)所収。(清水哲男)


March 1432004

 春風のどこでも死ねるからだであるく

                           種田山頭火

者には「風」の句が多い。このことに着目した穴井太は、ユニークな視点から「風になった男」という山頭火論を書いている。ユニークというのは、穴井が「風」という漢字のなかに何故「虫」がいるのかと考えるところからはじめた点だ。「そこで、虫を住まわせている風の語源を探ってみた。いわく『風の吹き方が変わると虫たちが生まれてくる』という。つまり風は季節や時間の動きと同義であった。/言いかえれば、風は自然の生成流転や生命時計の役割を荷っていることになる。だから風のなかにいる虫は、花やすべての生きものたちの代表として、生命あるものを象徴しているのではあるまいか」。ブッキッシュな考察に過ぎると言われればそれまでだが、こと山頭火の句に関しては、この虫の居所からほとんど説明が可能となるのだから面白い。つづいて穴井は「虫が好かない」「虫が好い」などの虫を使った成語を考察し、「科学的な根拠は乏しく、人間の心の感情を指している」ことに注目する。意よりも情、理よりも狂というわけだ。そして「それが生命感を発動するエネルギー源であることは間違いない」と断じ、山頭火の風の句を解釈していく。腹の虫、酒の虫から漂泊の虫、絶望の虫までを持ちだしてみると、なるほど山頭火という男が、要するにその場そのときの虫の居所によって、やたらと句を吐き出していたことがよくわかる。私に言わせれば我がまま三昧の句境であり、掲句などには悟りの虫よりも、「まだ死にたくない、死ぬはずがない」という虫の好い思いが見え隠れしていて、好きになれない。流転の身は、一見中世の隠者に似ていなくもないが、俗世との縁をむしろ結びたがっているところは醜悪にすら写る。山頭火ファンには申しわけないけれど、妻子を放擲してまで詠むような句でもないだろう。(清水哲男)


April 1642005

 野に出でよ見わたすかぎり春の風

                           辻貨物船

語は「春の風」。句意は明瞭だから、解説の必要はないだろう。気持ちのよい句だ。こういう句を読むにつけ、つくづく作者(詩人・辻征夫)は都会っ子だったのだなあと思う。幼い頃に短期間三宅島に暮らしたことはあるそうだが、まあ根っからの下町っ子と言ってよい雰囲気を持っていた。私の交遊範囲で、彼ほどの浅草好きは他には見当たらない。掲句の「野に出でよ」は「野に出て遊ぼうよ」の意だから、私のような田舎育ちには意味はわかっても、素直には口に出せないようなところがある。野に暮らして野に出るといえば、どうしても野で働くほうのイメージが勝ってしまうからだ。島崎藤村の詩「朝」のように、野はぴったりと労働に貼り付いていた。「野に出でよ 野に出でよ/稲の穂は黄に実りたり/草鞋(わらじ)とくゆえ 鎌を取れ/風にいななく 馬もやれ」と、こんな具合にだ。逆に、かつて寺山修司がアンドレ・ジッドの口まねをして「書を捨てて、街に出よう」と言ったときには、わかるなあと思った。こちらは、どう考えても田舎育ちの発想である。すさまじいまでの街への憧れを一度も抱いたことのない者には、それこそ意味は理解できるとしても、心の奥底のほうでは遂にぴったりと来ないのではなかろうか。育った環境とは、まことに雄弁なものである。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


March 0532006

 絵草紙に鎮おく店や春の風

                           高井几菫

語は「春(の)風」。江戸期の句。そのまんまの情景だ。平台と言うのだろうか。東京・両国の江戸東京博物館で見たことがあるが、絵草紙屋の店先には大きな台が置いてあり、その上にずらりと華やかな表紙の絵草紙が並べられている。いまの書店とは違い店は開けっ放しだったようから、この季節になると「春の風」とはいえ、とりわけて江戸はそよ風ばかりではなく、ときに強風も吹き込んでくる。そうなると、せっかくの売り物が台無しになる恐れもあるので、一冊一冊の上に「鎮(ちん)」、すなわち重しを置いてあるというわけだ。春や春。自然の景物ではなく、絵草紙屋の華やかな情景に春を詠み込んだところは、当時としてはとても斬新で、もしかすると奇抜に近い発想だったかもしれない。ところで、この本を置いて売るための「平台」は、現在では客がちょっと腰をかがめればよい程度の高さだが、江戸期のものはかなり低かった。江戸期どころか、私の子供のころの本屋のそれも、腰をかがめるというよりも、完全に膝を折ってしゃがまないと、本が手に取れないほどに低かった。どちらかといえば、露店に近い低さだった。おそらく、本は行儀悪くも立ったままで扱うようなものではなかったからなのだろう。書籍は、それほどに尊重されていたのだと思う。それが生活様式の変化もあって、だんだん立ったままで扱うことが普通になってきた。いまでは低い平台の店はほぼ消えてしまったけれど、我が家の近所にある小さな書店が昔ながらの低さで営業している。品揃えがよくないのであまり行かないが、たまに出かけるととても懐かしくなって、ついつい「想定外」の雑誌などを買ってしまう。(清水哲男)


March 3032006

 春風やダックアウトの千羽鶴

                           今井 聖

語は「春風」。センバツ高校野球も、いまやたけなわ。作者の奉職する横浜高校は昨日、沖縄・八重山商工の猛追撃を振り切ってベスト8に進出した。句意は明瞭、句味は爽快。何も付け加えることはないけれど、高校野球のダッグアウト(dugout。句の「ダックアウト」は誤植だろう)に「千羽鶴」が飾られるようになったのは、いつ頃からだったろうか。私の短くはない観戦体験からすると、そんなに昔のことではないと思う。おそらくは女子マネージャーが登場したころと、だいたい同じ時期だったのではあるまいか。戦時中の「千人針」をここで持ち出すのは不適切かもしれないが、あの千人針には女性の必勝祈願が込められていたのであって、千羽鶴もまた同様に女性の気持ちを込めて作られている。私が高校生だったころには、千羽鶴もなければ、野球の試合に女の子が大挙して応援に来ることもなかった。目立たないところで、そっと応援した人はいたようだけれど……。どちらが良いとは軽々には言えないけれど、昔の男ばかりのゴツゴツした雰囲気も悪くはなかったし、応援席から遠く離れた花一輪の可憐な風情にも味があった。ところで掲句とはまったく無関係だが、最近はこの千羽鶴をネツトで買えるのをご存知だろうか。「990羽セット」と「完成品セット」の二種類があり、前者は残り10羽を自分で折り、さらに自分で糸で紡ぐ作業をする。対して後者は、そのまんま渡すだけの完成品で、値段は「990羽セット」が12600円〜31500円。「完成品セット」が18900円〜37800円だという。内職で折るらしいが、一羽折っていくらくらいなのかしらん。関心のある方は、後はご自分でお調ください。俳誌「街」(第58号・2006年4月)所載。(清水哲男)


March 0532007

 なつかしき春風と会ふお茶の水

                           横坂堅二

までは中央大学の移転などにより、昔に比べると数はだいぶ減っているはずだが、それでも依然として「お茶の水」は学生の街だ。近辺には明治大学があり、少し離れてはいるが東京大学にも近い。この駅に降りるたびに、渋谷などとは違った若者たちの健康的な息吹を感じる。所用でお茶の水に降り立った作者は、かつてこの街の学生の一人だったのだ。折から心地よい春の風が吹いていて、神田川に反射している陽光もまぶしい。あたりには、大勢の学生が歩いている。そんな街の雰囲気に誘われるようにして、作者が自然に「なつかしく」思い出しているのは、当時の春の受験や入学のころのあれこれだろう。はじめての都会生活に日々緊張しながらも、大いに張り切って通学していた初心のころのことども……。地味な句だけれど、共感する人は多いはずだ。私は京都の学生だったが、京都にはお茶の水のように、いろいろな大学の学生がいつも雑多に混在しているような街はない。だから揚句の「お茶の水」を、百万遍や京都御所、あるいは荒神口だのと置き替えてみてもどこか間が抜けてしまう。やはりこの句は、街が「お茶の水」だからこそ生きているのだと思った。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


March 1032007

 古稀といふ春風にをる齢かな

                           富安風生

が子供の頃、二十一世紀は未来の代名詞だった。2003年生まれの鉄腕アトムに夢中になり、ある日ふと、その頃自分は何歳なんだろう、とそっと引き算してみると、2003−1954=49。四十九歳、親の年齢を上回る自分の姿を想像することは難しく、その遠い未来に漠然と不安を覚えた記憶がある。思えば、老いることを初めて意識した瞬間。ひたすら今を生きていた小学生の頃のことだ。「わたしの作品に“老”が出はじめたのは、長い俳歴のいつごろであったか。」雑文集『冬うらら』(富安風生著)のあとがきは、この一文で始まっている。作者は、まだ老の句を詠むには早すぎる頃から、「人間の、自分自身の、まだ遠い先の老ということに、趣味的な(といってもいいであろう)関心を抱いて」概念的な老の句を作っては、独り愉しんだり淋しがったりしていたという。「人生七十古来稀」を由来とする古稀は、最も古くからある長寿の賀である。そして、古稀を迎えてからは、それまで遊びであった老の句に実感が伴うようになり、「おのずからため息の匂いを帯びてきた。」のだと。春風にをる、の中七は、泰然自若、悠々と達観した印象を与える。しかし、老が思いの外実感となって来たことに対する、かすかな戸惑いをさらりと詠みたい、という心持ちも働いているのではないか。それは、人間的で正直な心持ちと思う。「この世に“思い残すことはない”などと語る人の言葉をきくと、何かそらぞらしく、ウソをついているなと思えてならんのです。(中略)自分自身のために、死ぬるまで、明日を待ち楽しむ気持で、一日一日の命を大事にしたいというだけの事です。」昭和五十四年、九十三歳で天寿を全うされた作者八十一歳の時の言葉である。引用も含めて『冬うらら』(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


April 0642007

 春風にこぼれて赤し歯磨粉

                           正岡子規

々の食事の内容について克明な記録を残した点から子規を健啖家として捉える評や句は多くある。子規忌の「詠み方」としてそれは一典型となっている。結核性腹膜炎で、腹に穴が開き、そこから噴出す腹水やら膿やらと、寝たきりの排泄の不自由さに思いを致して、凄まじい悪臭が身辺を覆っていたという見方もよく見かける視点である。子規が生涯独身で、母と妹が看病していたが、その妹への愛情やその裏返しとしての侮蔑についてもよく語られるところ。特異な状況下におかれた人のその特異さについてはさまざまな角度から評者は想像を膨らませていくわけである。それが子規を語る上のテーマになったりする。しかし、死に瀕した人間が特殊なことに固執したり、健常者から見れば悲惨な状況に置かれたりするのはむしろ当然のこと。そういう状況が、どうその俳人の俳句に影響を与えたのか、与えなかったのかの見方の方に僕などは興味が湧く。子規の日記に歯痛についての記述もあるから、この句から歯槽膿漏の口臭について解説する人がいたとしても不思議はないが、僕は歯磨粉という日常的素材と「赤し」の色彩について「写生」の本質を思う。そのときその瞬間の「視覚」の在り処が「生」そのものを刻印する。「見える」「感じる」ということの原点を思わせるのである。子規の「写生」は、「神社仏閣老病死」の諷詠でなかったことだけは確かである。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


April 1742008

 つばな野や兎のごとく君待つも

                           鬼頭文子

色の穂がたなびく「つばな野」でうさぎのようにじっとうずくまって、あなたを待っていますよ。と愛しい人に呼びかけている。「君」は短歌でもおもに恋の歌に用いられる人称。「待つも」ととまどいを残した切れが、帰ってくるかどうかわからない人を待つ不安を反映させている。四月末から五月にかけて白い穂をたなびかせるつばな野は春の野に季節はずれの秋が出現したようで、不思議に美しい。遠くから見ると銀色に光る穂綿がうずくまる兔の背のように見えるだろう。膝下ぐらいの高さに群生するこの草が神社でくぐる「茅の輪」になるという。鬼頭文子の夫は絵の勉強のため単身フランスへ渡っていた。愛らしい兔に投影されている女の姿は不満を漏らさず男の帰りをじっと待つ女の愛のかたちでもある。「待つわ」という歌もあったが意地悪な見方をすれば、待っている自分のけなげさに酔っているようにも思える。待つ、待たれる男女の関係は今変化しているのだろうか。「春の風あいつをひらり連れてこい」とは20代の俳人藤田亜未の句集『海鳴り』(2007)の中の恋句。このような句を読むと湿りのない現代的な恋の感覚に思えるが、もう一方で「さくらんぼ会えない時間は片想い」と、呟くところをみると、半世紀を経ても、会えない時の心細さは文子と変わらないのかもしれない。『現代俳句全集』一巻(1958)所載。(三宅やよい)


July 3072008

 酔ひふしのところはここか蓮の花

                           良 寛

の花で夏。「ところ」を「宿(やどり)」とする記録もある。良寛は酒が大好きだったから、酒を詠んだ歌が多い。俳句にも「ほろ酔の足もと軽し春の風」「山は花酒や酒やの杉はやし」などと詠んだ。酒に酔って寝てしまった場所というのは、ここだったか・・・・。傍らには蓮の花がみごとに咲き香っている。まるで浄土にいるような心地。「蓮の花」によって、この場合の「酔ひふし」がどこかしら救われて、心地良いものになっている。良寛は庵に親しい人を招いては酒を酌み、知人宅へ出かけては酒をよばれて、遠慮なくご機嫌になった。そんなときぶしつけによく揮毫を所望されて困惑した。断固断わったこともたびたびあったという。子どもにせがまれると快く応じたという。基本的に相手が誰であっても、酒はワリカンで飲むのを好んだ、というエピソードが伝えられている。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「酔臥(よひふし)の宿(やどり)はここぞ水芙蓉」があり、掲出句はどうやら父の句を踏まえていたように思われる。蓮の花の色あいの美しさ清々しさには格別な気品があり、まさに極楽浄土の象徴であると言ってもいい。上野不忍池に咲く蓮は葉も花もじつに大きくて、人の足を止めずにはおかない。きれいな月が出ていれば、用事を忘れてしゃがんでいつまでも見あげていることのあった良寛、「ここ」なる蓮の花に思わず足を止めて見入っていたのではあるまいか。今年は良寛生誕250年。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)


March 0732010

 片町にさらさ染むるや春の風

                           与謝蕪村

の風が、今にも吹いてきそうなさわやかな句です。「片町」「さらさ」「染むる」と、どの語をとっても、句のなかにしっくりと当てはまっています。「片町」というのは、道の片側だけに家が並んでいることを言います。なるほど、残りの片方が空き地であったり、野原であったりという風景は、今までにも見たことはあります。しかし、そんな風景にこれほどきれいな名前が付いているのだということを、知りませんでした。片側だけ、という状態の不安定さが、徐々にわたしたちに傾いてきて、言葉の魅力を増しているのかもしれません。「さらさ」は漢字で書けば「更紗」。ことさらひらがなで書いたのは、音の響きを強調したかったのでしょうか。さらさらと、川のように滑らかに町をなでてゆく風を、確かに連想させてくれます。風が町全体を染め上げている。そんなふうにも感じます。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


March 0932011

 足のうら足をはなれてはるのくれ

                           武田 肇

は身も心も浮き立つ季節である。日も永くなってきて、やわらかい日ざしのなかを、どこまでも歩いて行きたい心地がする。軽快に歩いているうちに、うっかりしていつのまにか、足のうらが足を離れてしまったような錯覚に陥ってしまったというのであろう。うん、わかります。夢うつつの境地での散策なのかもしれない。足跡には足を離れてしまった足のうらが、名残りのようにそっくりそのまま、ずっと春の宵の口のほうまで、ひたひたつづいているのだ、きっと。足をなくした足のうら、足のうらをなくした足――春なればこそのややこしい椿事? 春の暮ならではの奇妙な時空が、そこに刻みこまれているように思われる。「…はなれて/はるのくれ」の「ha」音の連続が心地よい。「春の暮」と「春の夕」とでは暗さの重みのニュアンスが微妙にちがう。肇は句集にこう記している。「俳句も進化すべきであり、必然的に進化するであらう。もつといへば季題に内在する普遍的な力がさうさせる筈である」。他の句に「あしのうらはどこからきたかあまのがは」「春風や引戸に掛ける手のかたち」などがある。『ダス・ゲハイムニス』(2011)所収。(八木忠栄)


June 2262011

 川面吹き青田吹き風袖にみつ

                           平塚らいてう

性解放運動家らいてう(雷鳥)は、戦時中、茨城県取手に疎開していた。慣れない農作業に明け暮れながら、日記に俳句を書きつけていたという。小貝川が利根川に流れこむ農村地帯だったというから、いずれかの川の「川面」であろう。見渡すかぎりの田園地帯を風は吹きわたり、稲は青々と育っている。いかにも男顔負けの闘士の面目躍如、といった力強い句ではないか。疎開隠棲中の身とはいえ、袖に風を満たして毅然として立つ女史の姿が見えてくる。「風袖にみつ」にらいてうの意志というか姿勢がこめられている。虚子の句「春風や闘志いだきて丘に立つ」が連想される。らいてうが掲句と同じ土地で作った句に「筑波までつづく青田の広さかな」がある。さすがにこせこせしてはいない。らいてうが姉の影響で俳句を作りはじめたのは二十三歳の頃で、「日本及日本人」の俳壇(選者:内藤鳴雪)に投句し、何句か入選していたらしい。自ら創刊した「青鞜」にも俳句を発表していたようだ。戦後は「風花」(主宰:中村汀女)の句会に参加した。他に「相模大野おほふばかりの鰯雲」という壮大な句もある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


March 1332012

 あたたかな女坐りの人魚の絵

                           河内静魚

座りとは、正座から崩した足のかたちで、片方に斜めに流す横座りや、両方に足を流したあひる座りなどを指す。人魚の絵はみな横座りである。腰から下が魚なのだから横座りしかできないのは当然なのだが、では男性の人魚はどのように座るのだろうと不思議に思って探してみると、はたして腹這いか、膝のあたりを立てた体育座りをしていた。やはりなよやかな女性を感じさせる座り方はさせられないということだろう。よく知られているコペンハーゲンの人魚姫の像が、憂いを込めて投げかける視線の先はおだやかに凪ぐ水面である。たびたび海上に浮かび、恋しい王子の住む城を眺めたのち、引きかえに失うことになる海の生活を愛おしんでいるのだろうか。人魚姫が人魚であった時代は、愛に満ち、あこがれと希望にあふれた時代だったのだと、あらためて思うのだ。〈春風といふやはらかな布に触れ〉〈風船の空にぶつかるまで昇る〉『夏風』(2012)所収。(土肥あき子)


April 2042012

 オルガンを聴く信長に春の風

                           井川博年

近俳句の勉強会で秋元不死男さんの「子規知らぬコカコーラ飲む鳴雪忌」という句を読んだ。この句の鳴雪忌が嵌っているかどうかは別にして、新しいものに関心を寄せる子規の性格から想像すると、もしコカコーラが当時出たらすぐに試しただろうという句だとの鑑賞をした。史実として信長がオルガンを聴いたかどうかは知らないが、やはり新しいものに積極的な信長のこと、こういうこともあったかと思われてくる。ドラマの一シーンにこんな場面を入れれば血なまぐさい生涯の信長という定説に奥行きが生まれること請け合いである。「OLD STATION 15 」(2012)所載。(今井 聖)


March 1032013

 春風や言葉が声になり消ゆる

                           池田澄子

集や歳時記から気に入った句を見つけると、俳句手帖に書き記すようにしています。今回、池田澄子さんの句集「拝復」(ふらんす堂・2011)を拝読しているうちに、すでに23句を書き写しています。これはまだまだ増えそうです。なぜ、池田さんの句を書き写しているのかというと、句が気持ちいいからです。池田さんの五七五には、世界を浄化する装置のようなはたらきがあり、それが気持ちよさの原因と思われます。ただし、単に清らかだということではありません。「いつか死ぬ必ず春が来るように」は、潔さがあります。「梅の宿けんけんをして靴箆(べら)へ」は、お茶目。「春眠のあぁぽかぽかという副詞」は、ぽかぽかです。これらの句の主体は、作者自身でありながら、読み手はそのまま主体の中に入れ替わることができる作りになっていて、句の中に入れます。これが、浄化作用の一因なのかもしれません。掲句についても、そのままを受け入れます。春風が吹く中で、人の言葉は意味を失って音声になり、春風という自然の中に消えていく。そういうことはありうることです。(小笠原高志)


March 2432013

 山笑ふ着きて早々みやげ買ひ

                           荻原正三

るい春の旅の句です。着いて早々、ご当地土産を買い求め、すこしはしゃいでいる姿を、葉が出始めた山も迎え入れてくれています。句集では、「春風や頬にほんのり昼の酒」と続き、読むこちら側も、おだやかな春の旅の気分をわかち合えます。ところで、句集の跋文を書かれている岬雪夫氏によると、掲句が作られる十年前、荻原さんは難病に遭い、長期にわたる闘病生活を余儀なく過ごされていたそうです。そのとき、看病の枕元で奥さまが読んでいる俳誌を覗くようになり、入院、再入院の生活の中で句作を始められたとのこと。その頃の句に「行くところ他にはなくて蝸牛(かたつむり)」があります。そういう作者の背景を知ったうえで掲句を読むと、ほんとうに、山が笑っているのだと思えてきます。掲句は「平成十八年、四国高知にて」とあり、この旅で奥さまの八重子さんは、「酒酌めば龍馬のはなし初鰹」を残しています。掲句と並べると脇にもなり、連句のように楽しさが広がります。『花篝』(2009・ふらんす堂)所収。(小笠原高志)


March 2432014

 春風の真つ赤な嘘として立てり

                           阪西敦子

者の意識には、たぶん虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」があるのだと思う。これはむろん私の推測に過ぎないが、作者は「ホトトギス」同人だから、まず間違いはないだろう。二句を見比べてみると、大正期の自己肯定的な断言に対して、平成の世の自己韜晦のなんと屈折した断定ぶりであることよ。春風のなかに立つ我の心象を、季題がもたらすはずの常識通りには受けとめられず、真っ赤な嘘としてしか捉えられない自分の心中を押しだしている様子は、いまの世のよるべなさを象徴しているかのようだ。しかしこの句の面白さは、そのように言っておきながらも、どこかで心の肩肘をはっている感じがあるあたりで、つまり虚子の寄り身をうっちゃろうとして、真っ赤な嘘を懸命に支えている作者の健気が透けて見えるところに、私は未熟よりも魅力を感じたのだった。「クプラス(ku+)」(創刊号・2014年3月)所載。(清水哲男)


November 14112014

 帰る家が見つかったかいつばめさん

                           如月はつか

に燕は遠く台湾や東南アジアより飛来し秋には帰る。「燕」が春の季語なら「帰燕」は秋の季語である。日本の各地で子を孵し育てる。夏の間市街地や村落で育った若い燕も次第に郊外の河原の葦原、海岸、湖沼などに集まる。ここに子育てのすんだ親鳥たちも合流し大群となり日本を離れてゆく。慣れ親しんだ彼らも今は帰り、街は心なしか淋しくなった。遠いお国に無事着いて安住の家が見つかっただろうか。旅のつばくろ達者で居てね。<結末の分かっている恋雪解風><ブティックのShow windowのみ春の風><独り泣くいつの間にやら虫が鳴く>など。大人に成る前の作者のつぶやきが聞こえる句集。思春期の危うくも敏感な感受性もやがて大人になって錆びついて鈍くなってゆくのだろう。命短し恋せよ乙女、脱線した、面目ない。『雪降る予感』(1993)所収。(藤嶋 務)


December 31122014

 なにはさてあと幾たびの晦日蕎麦

                           小沢昭一

成17年12月の作。昭一はこの年76歳で、元気そのものだった。同年6月の新宿末広亭の高座に、初めて10日間連続出演して話題になった。連日満員の盛況だった。私は23日に聴いた。演題を「随談」として、永六輔の顔がいかに長いか、そのほか愉快な談話で客を惹きつけた。最後は例によって、ふところからハーモニカを取り出しての演奏になった。笑いあふれる高座だった。ところで、「晦日蕎麦」の風習は今もつづいているようで、12月になると、蕎麦屋には「年越し蕎麦のご予約承ります」というビラが貼り出される。私も大晦日には新潟風のいろんな料理をつついて酔っぱらったあげく、いつも蕎麦を食べてから沈没するのが恒例となっている。齢を重ねれば、誰しも「あと幾たび」とふと考えることが増えるのは当たり前。なにも「晦日蕎麦」に限ったことではない。他人事ではない詠みっぷり、さすがに昭一らしい。「なにはさて」という上五がうまい。氏はその後、(計算では)亡くなる年まで七回「晦日蕎麦」を食したことになる。掲出句とならんで「黄泉路川(よみじがわ)小巣越すも越さぬも春の風」がある。『俳句で綴る変哲半世紀』(2012)所収。(八木忠栄)


March 1032015

 春風やピエロの口の中に口

                           佐々木ひさこ

辞苑によるとピエロは「白粉や紅を塗り、だぶだぶの衣装を着て襟飾りをつけ、円い帽子をかぶる」とされる。笑いを取るための衣装や化粧であるにも関わらず、その奇抜な姿かたちにぎょっとし、大げさに描かれているからこそ、その笑顔とうらはらにある真実の顔を探るように見てしまうのだ。作者は白塗りの顔のなかに大きく描かれた口の一部に、本当の口が存在することに目をとめる。もちろんそれはあるべき場所にあって当然のものだが、そこに悲しみが貼り付いているように見てしまうのだ。ピエロのメイクには必ず大粒の涙が描かれるという。春風のなかに立つピエロは一体笑ってほしいのか、一緒に泣いてほしいのか、胸を騒がせたまま通り過ぎる。『霧比叡』(2014)所収。(土肥あき子)




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