蟄」隱槭′譏・豬縺励ョ句

February 2221997

 トンネルを出るたびに溪春浅し

                           八木林之助

この鉄道だろうか。トンネルを出るたびに、パッと視界は明るくなるが、その明るさのなかにある溪谷には雪が残っており、まだ春色は出そろってはいない。これでは、旅先の寒さが思いやられるというものだ。誰もが一度は体験したような懐しい光景。それをスナップ写真的にではなく、動きのあるムービー的にとらえたところが、作者の腕のよさである。こんな句を読むと、どこか遠くへ行ってみたくなりませんか。「溪」は「たに」。(清水哲男)


February 0821998

 春淺し止まり木と呼ぶバーの椅子

                           戸板康二

近、バーというところには行ったことがない。若いころには気取りもあってよく出かけたが、ちゃんとしたバーは神経が疲れていけない。料金も馬鹿にならない(こちらの理由が本音?!)。ほっとするためには、大衆酒場にかぎる。太宰治の写真で有名な銀座の「ルパン」には何度か入ったことがあるが、椅子はまさに「止まり木」で、座ると足が宙に浮いた。この句も、そんな高い椅子に腰掛けての発想だろう。浅いとはいえ、春は春だ。「止まり木」にとまる春鳥になったような気分も悪くはないと、作者は上機嫌である。上手な句でもなんでもないが、この気分はいまどきの呑み助けにも気持ち良く通じるだろう。はしゃいだ句も、たまにはいいものだ。作者は著名な演劇評論家であり、推理小説も書いた。1993年没。『袖机』(1989)所収。(清水哲男)


February 1622002

 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

                           日野草城

語は「春の灯(春燈)」。明るく華やいだ感じを言う。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。思うに、古今俳人は数あれど、草城ほどに女人礼賛の句を多く作った俳人も珍しいのではあるまいか。第一句集『花氷』のしょっぱなに「うつくしきひとを見かけぬ春浅き」があり、新婚初夜を即吟的に詠んだかのような連作「ミヤコ ホテル」はあまりにも有名だ。したがって、この句も偶発的にできたのではなく、常に女性美に執し続けている心から生まれたものだと思う。もとより、句の心根にあるのはお世辞でも何でもない。心底賛嘆しているがゆえの嫌みの無さから、そのことがわかる。関根弘に、奥さんが美容院に行ってきたことに気がつかず、大いに不機嫌にさせてしまったという出だしの詩があった。そこで詩人は女の自尊心に「てやんでえ」と啖呵を切るのであるが、草城が読んだら卒倒しそうな作品である。哀しいことに、気がつかないという点で、私は関根さんに近い。その意味で、草城句集を開くたびにコンプレックスを感じてしまうのだが、どうにもなるものではない。読者諸兄におかれては、如何なりや。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


February 0422007

 春浅し引戸重たき母の家

                           小川濤美子

年は暖冬ですが、暦の上では今日が立春、本日からが「春」です。掲句、季語は「春浅し」。まだまだ寒さの残る時期を指しています。「母の家」とありますが、たしかに実家といえば母親の姿が思い浮かびます。悲しいかな父親というのは、家の中では影の薄い存在です。この句を、まさにわが事のように感じる読者は多いだろうと思います。わたしの母も85歳で健在ですが、数年前までは元気に歩き回っていたものが、最近、急に足腰が弱ってきました。そういう日が来ることは当たり前であり、うろたえてはいけないとは思うものの、部屋の中での移動も難渋している様子を見るにつけ、たまらない思いを抱いてしまいます。実家は木造の、ごくありふれた作りの小さな家です。いつ行っても同じ匂いがします。何年たっても同じものが同じところに置いてあります。そのことにほっとするのです。引戸が重いのは、建付けの悪さから来ているものか、単に古くなったせいなのか。たしかに、マンションのサッシのように滑らかには動きません。がたんがたんと引戸に力を込める手は、容易に前に進もうとしません。その重さは、どこか、母の背負ってきた時間の重さのようにも感じられます。それでもやっと開け放てば、外は驚くほどの明るい日差しです。「お母さん、もうこんなに春の光ですよ」。『角川大歳時記 春』(2007・角川書店)所載。(松下育男)


February 1722008

 春浅し空また月をそだてそめ

                           久保田万太郎

こをどうひっくり返しても、わたしにはこんな発想は出てこないなと思いながら、掲句を読みました。昔、鳥がいなかったら空のことはもっと分かりにくかっただろうという詩がありました。それを読んだときにもなるほどと、うならされましたが、この句にもかなり驚きました。日々大きくなって行く月の現象を、作者はそのままには放っておきません。これは何かが育てているからその嵩(かさ)を増しているのだと考えたのです。それも、よりにもよって空が育てたとは、なんとも大胆な発想です。「そだてそめ」といっています。まだ寒さの残る春の初めの空に、いったん欠けた月は、ちょうどその折り返し点にいるようです。だれかが手で触れれば、そのままそだちはじめる。「そだてそめ」、サ行の擦り寄ってくるような音がひらがなのまま、わたしたちに静かに入ってきます。多少強引な発想ではありますが、言われてみればなるほど美しく、不自然な感じがしません。句とは、なんと心に染み込むものかと、あらためて思いました。「春浅し」、今夜はこの句を思い出しながら、月を見てしまうんだろうな。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2322009

 春浅し猫が好まぬ女客

                           川久保亮

ってきた女客を見て、部屋の隅にすっとんで逃げたのか、あるいは毛を逆立てて威嚇の挙に出たのか。猫の生態についてはよく知らないが、猫好きな人かどうかが分るのだという。子供の頃に一度だけ飼った経験から言えば、そのようなことはありそうだ。来客の折りに、この句のようにまったく寄りつこうとしないときもあるし、すぐになついてしまい、図々しくもちゃつかり客の膝の上で居眠りをはじめることもあった。猫が客に寄りつこうが寄りつくまいが、どうということでもないようだけれど、あれで案外ホスト側は神経を使うものなのだ。人見知りの赤ん坊が、客の顔を見て火がついたように泣き出すことがある。これに似た神経の負担になる。その場を取り繕うのに、いささかしどろもどろ気味の言葉を発したりしてしまう。更に作者の心情に踏み込めば、猫と同じように、どこかでこの女客に親しみを感じていないフシもうかがえる。窓から見える表の陽光はすっかり春なのではあるが、しかしまだそれは冷気を含んでいる。風も荒い。そんな春浅き日の様子に、猫の不機嫌な態度と作者の戸惑いとがぴたりと重なった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 0622010

 春浅し心の添はぬ手足かな

                           多田まさ子

にが嫌、というわけでもなく、どこか具合が悪い、というわけでもなく、今日も朝から忙しく働いて1日が過ぎる。これ以上青くはなれない二月の空、ひとあし先に春めいてきた日差しとまだまだ冷たい風。そんな季節の狭間の戸惑いに、内なる戸惑いが揺り動かされ、静かに作者の中に広がる。春の華やぎの中で感じる春愁より、季節も心持ちも茫洋としてつかみどころがない。でも風が冷たい分、その心情はすこし寂しさが強いように思う。ともかく、しなければならないことが山積みでゆっくり考えているヒマがないことが良いのか悪いのか。ただ、こうして動いている手足は自分のもので、これからはだんだん暖かくなっていくのだ、ということは確かなのである。『心の雫』(2009)所収。(今井肖子)


February 0622011

 大学レストランカレーにほはす春浅く

                           山口青邨

十年代初めに早稲田大学に通っていました。時々その頃のことを思い出します。本当は経済を学ばなければならなかったのに、高田馬場の古本屋で、詩集ばかりを立ち読みしていました。帷子耀、山口哲夫、金石稔など、当時まぶしかった詩人を、何時間も食い入るように読んでいました。友人があまりいなかったので、学食ではたいてい一人でうつむいて食べていました。40年経った今でも、あの時のうどんの値段だけは覚えています。30円、メニューの中で一番安くて、よく食べていたから。本日の句にあるように、学食に入った時に匂うのは、うどんではなくカレーのほうです。ああ食べたいなと思って、それから財布の中身を確認して、うどんにするか、あるいはたまにはカレーにするかを決めるわけです。懐かしいなと思うあの日々は、私の人生の春も、まだ春浅くでありました。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2022012

 ちぐはぐな挨拶かはし浅き春

                           藤田久美子

年はいつまでも寒い。私の住む東京三鷹の早朝の気温も、まだ氷点下の日が多い。しかし、日が昇ってきて窓を開けると、光りの具合は日に日に春めいてきている。光りを見る限りでは、もうすっかり春だと言ってもよいだろう。だから今年は、掲句のようなことが起こりがちだ。ゴミを出しに行くとたいてい誰かに会うから挨拶を交わすわけだが、私が光りの様子から「もう春ですねえ」と言うと、先方は寒さに背を丸めながら「今日も寒くなりそうで……」などと返してくる。まさに「ちぐはぐな挨拶」になってしまい、でも、どちらも嘘をついているわけではないので、ときには顔を見合わせて微笑しあったりもする。春浅き日の暮しの一コマを的確にとらえてみせた佳句である。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


February 1622015

 子の家に居ても旅びと春浅し

                           石原フサ

節は多少違うが、小津安二郎の映画「東京物語」を思い出した。尾道で暮らす老夫婦が、成人して東京に出ている子どもたちの家を訪ねていく物語だ。別に邪険にされるわけではないが、何とない居心地の悪さを感じる旅なのだった。老父である笠智衆が東京の酒場で知り合いに会い、医者になっている長男のことを「羨ましい」と褒められると、毅然としていいかえす。「医者といっても町医者じゃ。私は不満じゃ。じゃけど、子どもにそう思うたら、いけん。そう思うのは親の欲目というもんじゃ」。ここにきて、人の子である観客は誰しもがほっとするわけだが、映画は親子のギクシャクとした関係をそのままに終わっていく。まだ少し寒さの残る早春の候に、家族関係を詠みこんだ巧さに膝を打った。『現代俳句歳時記 春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 0522016

 雑貨屋の空の鳥籠春浅し

                           利普苑るな

と昔前にはどこの町や村にも雑貨屋があった。母は「よろずやさん」と呼んでいたが、何でもちょいとした生活用品が手に入った。今で言うスーパーのルーツみたいなものである。そんな日常の雑貨屋の軒先に鳥籠が覗いている。籠の鳥は紫外線の強さとか空の青さにやって来た春を感じている。早や囀りの気配すら見せている。立春を迎えたばかりの空気は人間の肌にはまだまだ寒い。しかし時は確実に進行する。これから私の近くの利根川周辺では「ケーン、ケーン」と雉が叫び始める。他に<主われを愛すと歌ふ新樹かな><失せやすき男の指輪きりぎりす><卓上の鳥類図鑑暮遅し>などあり。『舵』(2014)所収。(藤嶋 務)




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