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February 1621997

 独活食へば胃の透きとほるものらしく

                           日置海太郎

活(うど)の天麩羅は美味。最近出会った独活づくり三十年の人が、そう言っていた。私は、味噌汁に入れるのが好きだ。句に象徴されているように、胃腸の働きにもよいらしい。ダイエット効果もあるという。いまでは年中出回っているが、本来は春が旬である。「そうですよね」と独活づくりの人に聞いたら、「そうらしいですね」ととぼけられてしまった。商売の人だからだ。どっこい、こちらは山の子だったから、そういうことはちゃんと知っている(もっとも、その人には言わなかったけれど……)。なお、俗に言う「東京うど」の発祥地は、江戸期の吉祥寺村(現在の武蔵野市)で、もともとは「吉祥寺独活」と呼ばれていた。(清水哲男)


March 2031999

 壁の貼繪は天皇一家芽独活煮る

                           松村蒼石

書に「長野に初めて風光(清水風光・俳人)を訪ふ」とあるから、自宅の景ではない。招かれた宅の壁に天皇一家の写真が貼ってあり、台所ではもてなしのための芽独活が煮られている。都会の喧騒を遠く離れた田舎家の静かなたたずまいが、好もしい。戦前の家庭の壁には、よく雑誌の付録として新年号などについてきた天皇や天皇夫妻の写真(御真影)が貼ってあったものだが、句は戦後も十数年を経た時期のものだから、「天皇誕生日」か何かのときの新聞写真の切り抜きかもしれない。作者はその写真に単に「ほお…」と思っただけで、写真を貼った主人の気持ちまでをも忖度しているわけではない。ネコにもシャクシにも、とにかく怒涛のようなアメリカ製民主主義が押し寄せていた当時にあって、たしかに壁の天皇写真は珍しくはあったろう。が、蒼石は否定もしていなければ、肯定もしていない。時代の潮流に翻弄されている都会との差を、この一枚の写真で明晰にしただけなのである。戦前から時間がとまったような地方のつつましい雰囲気を、写真という小道具で巧みに演出してみせた腕の冴え。『春霰』(1967)所収。(清水哲男)


February 1922000

 もやし独活鉄砲かつぎして戻る

                           高本時子

活(うど)は、関東武蔵野の名産。一昨日、武蔵野市で恒例の品評会と即売会が開かれ、知りあいが求めてきたもののお裾分けにあずかった。ひょろ長いので、句のように「鉄砲かつぎ」して持ち帰り(バスの中では、さすがにuprightに持たざるをえなかったけれど)、夕食時に間に合った。早春の香り。シャキシャキとした歯触りで、奥行きのある美味。生そのままで酒のサカナにしても似合うが、生産者は天麩羅にすると美味いよと言っている。それにしても「もやし独活」とは、言いえて妙だ。山野に自生する「山独活」に対してのネーミングで、特殊な栽培法により食べられる茎の部分をできるだけ長く伸ばすところから、「もやし」と言ったのである。ひょつとすると、正統山独活愛好派からの揶揄が入っている呼び名なのかもしれない。かの高村光太郎に「山うどのにほひ身にしみ病去る」がある。まさか独活を食べたせいで「病去る」となったわけではないのだが、早春の訪れを告げる「にほひ」に接して、体調よろしきはそのおかげだと感じている心情が嬉しい。よくぞ日本に生まれけり、である。(清水哲男)


February 2722006

 恵み雨深し独活の大木一夜松

                           田代松意

語は「独活(うど)」で春。作者は江戸談林派のトップ・クラスだった人だ。まあ、なんともものすごい句で、ここまで情趣もへったくれもないと、かえって清々する(かしらん)。「一夜松」は、菅原道真が亡くなった後、北野天神あたりに一晩で千本の松が生えたという故事による。とにかく、談林句を解釈するにはこういうことをよく知っていないと恥をかく。私などは「なんかイヤらしいなあ」と思ってしまうのだが、とにかくそのへんで人気があったのだから仕方がない。いまで言えば、さしずめクイズ狂みたいなところがないと、とても談林派では成功できなかっただろう。ええっと、それからなんだっけ(笑)。そうそう、「独活の大木」だ。こちらは、現代人でもわからない人のほうが少ない(と、思うけど)。図体ばかりが大きくて、役に立たない奴のことを言う。つまり掲句は、ひさしぶりに雨が降ってくれたおかげで、ありがたいことに「一夜松」のように「独活の大木」がたくさん育ったよと言っている。もちろん、大いなる皮肉だ。さすがは「恵みの雨」だよ、役立たずばっかりこさえやがって……。ったく、もう……。こんなところだろうか。恵みの雨とは言うけれど、他方では雑草だって生い茂らすし、良いことばかりじゃない。と、なかなかに理屈はまともなんだけど、道具立てが突飛というよりも大袈裟に過ぎるのだ。そこが談林の談林たるところ、絶大な人気のあった所以なのです。ま、こういう句もたまには良いかもね、春じゃもの。(清水哲男)


April 1442009

 切絵師の肩にてふてふとまりけり

                           加古宗也

絵師の技を目の当たりにしたことが二度ある。一度目は、北海道の「やまざき」というバーで、マスターに横顔をするするっと切り絵で作っていただいた。白い紙を切り抜くだけで、しかしそれはたしかに似顔絵なのだった。二度目は寄席の紙切り芸で、客席からのリクエストに即座になんでも応えていた。こちらは輪郭というより、つながり合った線が繊細な形をなして、そして切り抜かれた紙もまた反転する絵になっている見事なものだった。切り絵はなにより風を嫌うため、室内の景色であり、掲句にも蝶は通常いてはならないものだ。鋏の先から繰り出される万象は、平面でありながらその細密さに驚いたり、生々しさに魅入ったりするのだが、そこへ生というにはあまりに簡単なかたちの蝶が舞っていることは、意外な偶然というより、妙な胸騒ぎを覚えることだろう。ひらひらと切絵師にまとわりつく蝶は、切絵師が作品にうっかり命を吹き込んでしまったかのように見えたに違いない。〈朝刊でくるんでありし芽うどかな〉〈快晴といふよろこびに茶を摘める〉『花の雨』(2009)所収。(土肥あき子)




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