1997ソスN2ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0621997

 楽屋口水の江滝子ジャケツきて

                           星野立子

和九年の作品。このとき、水の江滝子十九歳。断髪、男装の麗人として、松竹レビューのトップスターだった。愛称ターキー。そんな大スターの素顔を、素早くスケッチした立子は三十一歳。ターキーの日常的スタイルを目撃できた作者は、おそらく天下を取ったような気分だったはずだが、その気分の高まりをぐっと抑制している句風が、実にいい。これ以上、余計な解説は不要だろう。昔はよかった(この言葉は、こういう句を読んだときに使うのである)。いまはスターならぬ人気タレントの素顔どころか裏の顔まで、テレビが写し出してしまう時代だ。「スター」なんて存在が成立するはずもないのである。『立子句集』所収。(清水哲男)


February 0521997

 受験期の母てふ友はみな疎し

                           山田みづえ

茶店などにいると、とくにこの季節、辺りから受験の話題が聞こえてくる。たいていが女たちの声だ。いつまでも途切れる様子もなく、話はつづいてゆく。なんという女どもだ、他に話題はないのかよ。と、言いたくなるが、まさかそうするわけにもいかない。この句は、たとえ同性であり友人であっても、受験生を持たない自分にとっては、そんな存在が疎(うと)ましいと書いている。だとすれば、異性で他人である私が疎ましく感じるのは、しごく当然ということになるわけだ。母親たちの受験の話が聞きづらいのは、たいていがお利口な子供を媒介にして、結局は自分の自慢話に終始するからだろう。(清水哲男)


February 0421997

 春立つと古き言葉の韻よし

                           後藤夜半

は「ひびき」と読ませる。昔から、立春の句や歌は数多い。それだけに、後代になるほどひねくりまわし過ぎた作品が目立つようになってきた。止むを得ないところではあるけれど、だからこそ、逆に立春という題材をどう扱うかは、俳人や歌人の腕の見せどころでもある。「芸の人」夜半としては、そこでしばらく考えた。考えた結果、立春のあれやこれやの情景を捨て去って、一見すると素朴な発想のこの一句に落ち着かせることにした。さすが、である。つまり、この句には古今の名句や名歌のひびきが、すべて収まってしまっているからだ。さりげなく「他人のフンドシで相撲をとる」のも、立派な芸というべきだろう。脱帽。(清水哲男)




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