山田みづえの句

February 0521997

 受験期の母てふ友はみな疎し

                           山田みづえ

茶店などにいると、とくにこの季節、辺りから受験の話題が聞こえてくる。たいていが女たちの声だ。いつまでも途切れる様子もなく、話はつづいてゆく。なんという女どもだ、他に話題はないのかよ。と、言いたくなるが、まさかそうするわけにもいかない。この句は、たとえ同性であり友人であっても、受験生を持たない自分にとっては、そんな存在が疎(うと)ましいと書いている。だとすれば、異性で他人である私が疎ましく感じるのは、しごく当然ということになるわけだ。母親たちの受験の話が聞きづらいのは、たいていがお利口な子供を媒介にして、結局は自分の自慢話に終始するからだろう。(清水哲男)


May 0551998

 草笛や子らの背丈をさだかには

                           山田みづえ

笛は高音を得意とするので、遠くからの音もよく聞こえてくる。島崎藤村の詩を引き合いに出すまでもなく、哀調を帯びた音色だ。わけあって子供たちと別れた作者は、どこからかかすかに聞こえてくる草笛の音に、幼子たちとの日々を思い出している……。が、悲しいことに、子供らの背丈をもはや知ることは適わない宿命を嘆いている。母親としての胸のつまる想いが、遠くの草笛によって誘いだされている。同じ作者に「こどもの日は悲母の一日や家を出でず」があるので、よけいにこの草笛の音色は身にしみてくる。ところで、最近では草笛を吹く人も少なくなったが、この季節の公園などに行くと、たまに吹いている年寄りがいたりする。たいていの人が得意げに吹き鳴らしているので、私は嫌いだ。吹き方ひとつで、「どんなもんだい」という心根のいやしさがわかってしまう。「アホか」と、私は聞こえなくなる風上の遠いところまで歩いていく。『忘』(1966)所収。(清水哲男)


January 0511999

 初詣一度もせずに老いにけり

                           山田みづえ

語にもなっているが、女礼者(おんなれいじゃ)という言い方がある。単に礼者といえば、年頭の挨拶を述べにくる客のことだ。が、わざわざ「女礼者」と呼んだのは、とくに昔の主婦の三が日はそれこそ礼者の応対に追われて挨拶まわりどころではないので、四日以降にはじめて外出し、祝詞を述べに行くところからであった。したがって、元日の初詣に、まず行ける主婦は少なかった。おそらく作者のように、一度も初詣に行かないままに過ごしてきた年輩の女性は、いまだに多いのではなかろうか。句の姿からは、べつにそのことを恨みに思っていたりするようなこともなく、気がついたらそういうことだったという淡々たる心境が伝わってくる。そこが良い。かくいう私は男でありながら、一度だけ明治神宮なる繁華な神社に行ったことがあるだけで、後にも先にも、その一度きり。人混みにこりたせいもあるけれど、あのイベント的大騒ぎは好きになれない。淑気も何もあったものではない。もとより私の立場と作者とは大違いだが、そんなところに作者が行けないでいて、むしろよかったのではないか。この句に接してふと思ったのは、そういうことであった。「俳句」(1999年1月号)所載。(清水哲男)


July 2771999

 ありそうでついにない仲ところてん

                           小沢信男

き氷や蜜豆くらいならばまだしも、ところてん(心太)は目掛けて食べに行くようなものではない。ちょっと休憩と店に入り、たまたま品書きで見つける程度の存在感の薄い嗜好品だ。しかも「心太ひとり食うぶるものならず」(山田みづえ)とあって、確かにひとり心太を食べる図というのも似合わない。句のように、男女の場つなぎの小道具みたいなところがある。このとき「ところてん」ではなく「かき氷」や「蜜豆」では、逆に絵にならない。あくまでも少々陰気な「ところてん」がふさわしいのだ。なんとなく、二人の仲が曰くありげに見えてくるではないか。でも、目の前の相手との曰くは「ありそうでついにない」という仲。「ありそう」だったのは昔のことで、「ついにない」まま過ぎてきた。それでいいのさ、と作者は微笑している。相手の女性も、同じ気持ちだろう。いささかの恋愛感情を含んだ大人の男女の微妙な友情が、さりげなく詠まれていて心地好い。あまり美味いとは思わないが、そんな誰かと裏町のひっそりとした店で「ところてん」を食べたくなってくる。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


December 26121999

 年の市目移りばかりして買はず

                           田口渓月

リスマスが過ぎると、誰もがにわかに昔風の日本人に変身する。「年の市」の本来の意味は、月ごとの市のうちで大年(年末)に立つ市のことだ。ちなみに、今日12月26日の市のなかでは、東京の麹町平河天神のそれが有名だったようだが、いまではどうだろう。それよりも、本来の市ではないけれど、今日あたりから押すな押すなの活況を呈する上野「アメ横」の通りのほうが、よほど年の市らしい雰囲気となる。さて、作者は正月用意のために市にやってきたのだけれど、とにかく目移りがしてしまって、結局は何も買わずに帰ってきてしまった。が、この句の裏には明らかに「もう一度、日をあらためて出直せばよい」という気持ちがある。まだ苦笑する余裕があるというわけで、読者も救われる。しかし、新年まで二三日を余すくらいだと、こうはいかない。「のぼせたる女の顔や年の市」(日野草城)ということになったり、「年の市白髪の母漂へり」(山田みづえ)となったりして、大事(おおごと)となる。加えて、今年は「2000年問題」を抱えた歳末だ。目移りしているゆとりもあらばこそ、いつもの年末とは違う買い物に忙しい人が多いはずだ。それにしても、年用意に「缶詰」やら「カンパン」やら、はたまた「水」までをも買いあさる羽目になろうとは……。こうした事態をさして、私たちの常識は「世も末だ」と言ってきたのであるが。(清水哲男)


July 0372000

 冷蔵庫西瓜もつともなまぐさし

                           山田みづえ

蔵庫をひんぱんに利用する主婦ならではの発見だ。「もつとも」と言うのだから、肉だとか魚だとかの生臭物も入っている。そのなかで、意外にも「西瓜」がいちばん生臭く見えている。もとより、西瓜にも独特の匂いはあるけれど、ために西瓜嫌いの人も結構いるけれど、作者はそういうことを言っているわけじゃない。西瓜は季節物だし、加えて場所もとるし色彩も派手だから、庫内の情景をがらりと代えてしまう。存在感が生々しく、心理的にはむうっと匂ってくるほどだということ。脱線するが、人間にも句の冷蔵庫のなかの西瓜のように、なぜか生臭く存在感の強い人がいる。季節物のごとく、初対面から注目を集め他を圧する雰囲気のある人。そういう人は、とりわけて芸能界に多い。でも、私の乏しい体験からすると、美空ひばりなどの「大物」には案外存在感はなく、むしろ大物をコントロールする役目の人に多かった感じだ。そりゃ、そうかもしれない。私がインタビューしたときの美空ひばりは舞台(冷蔵庫)から外に出ていたのだし、そのときのマネージャーは仕事の場という庫内にいたのだから。ということは、誰でもそれなりの冷蔵庫のなかにいるときには、本人の自覚とは関係なく、他者を心ならずも圧してしまうこともある理屈となるわけだ。ええっと、何の話をしてたんでしたっけ(苦笑)。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)


October 30102000

 日当りの土いきいきと龍の玉

                           山田みづえ

が群生し葉先の長い「龍の玉(りゅうのたま)」の実は、一寸かきわけないとよく見えない。虚子の句「竜の玉深く蔵すといふことを」は、この様子からの発想だ。木の下などの日蔭の植物というイメージが濃いが、掲句では日にさらされている。垣根か庭の下草として植えられたものだろうか。眼目は「龍の玉」そのものからは一度焦点が外されて、周辺の土から詠んでいるところだ。土を詠んで、もう一度「龍の玉」に目が向けられている。陰気といえば陰気な「龍の玉」が「日当り」にある姿は、たぶん生彩を失っているだろう。瑞々しさが減り、埃っぽい感じすら受ける。だから余計に、土の「いきいきと」した様子が浮き上がる。そこで「龍の玉」は、身の置き所がないように俯いている。人に例えれば、内気な人が急に晴舞台に引っぱり上げられたようなものである。作者は土の勢いに感嘆しつつも、身を縮めている風情の植物にいとおしさを感じている。この素材に、こうした着眼は珍しい。一筋縄ではいかない感性のありようを感じる。「龍の玉」の実は「はずみ玉」とも言われるように、固くて弾力があり、子供のころは地面に叩きつけて遊んだりした。もっとも、叩きつけた地面(土)の勢いなど、何も感じなかったけれど……。たぶん子供は自分の命に勢いがあるので、自然の勢いなどには無頓着なのである。『木語』(1975)所収。(清水哲男)


March 0432002

 春なれや歩け歩けと歩き神

                           山田みづえ

や春。何となく家にとどまっていられない気持ちになって、さしたる目的もないのに、外出することになる。やはり、春だからだろうか(「春なれや」)。しかも、しきりに「歩け歩け」と「歩き神」が促してくるのである。私も、そうだ。これからのほど良く暖かい季節には、休日の原稿書きの仕事がたまっていても、ついつい「歩き神」の命じるままに、少し離れた公園などに足が向いてしまう。帰宅してからしまったと思っても、もう遅い。ところで、この神様はそんなにポピュラーではないと思うが、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に出てくる。「隣の一子が祀る神は 頭の縮れ髪ます髪額髪 指の先なる拙神(てづつがみ) 足の裏なる歩き神」。隣家の娘をからかった歌と解釈されており、髪はちぢれて手先は不器用、おまけにやたらとそこらをほっつき歩くというのだから、当時の女性としてはひんしゅく者だった。しかし、それもこれもが娘に宿った神様のせいだよと歌っているところに、救いはある。すなわち「歩き神」とは、人間を無目的にほっつき歩かせる神というわけで、決して健康のためにウォーキングを奨励するような真面目な神様ではない。しかも足の裏に宿っているというのだから、取りつかれた人はたまったものではないだろう。足が、勝手に動くのだからだ。このことを踏まえて、もう一度掲句に戻れば、何もかもをこのどうしようもない神様のせいにして、「ま、いいか」と歩いている作者の楽しい心持ちがよく伝わってくる。『木語』所収。(清水哲男)


May 2452005

 自由が丘の空を載せゆく夏帽子

                           山田みづえ

京都目黒区自由が丘。洒落たショッピング街と山の手らしい閑静な住宅街とが共存する街。友人が長らく住んでいたので、二十代のころからちょくちょく出かけていた。どことなく、避暑地の軽井沢に似た雰囲気のある街だ。そんな自由が丘の坂道を、たとえば白い夏帽子をかぶった少女が歩いてゆく図だろうか。「空を載せゆく」とは、いかにも健やかでのびのびとした少女を思わせて微笑ましい。しかも、その空は「自由が丘」の空なのだ。実際に現地を知らなくても、「自由」の響きからくるおおらかさによって、作者の捉えた世界への想像はつくだろう。軽い句だが、上手いものである。自由が丘と聞いて、戦後につけられた地名と思う人もいるようだが、そうではない。「自由ヶ丘」と表記していたが、昭和の初期からの地名である。発端となったのは、自由主義を旗印に手塚岸衛がこの地に昭和二年に開校した「自由ヶ丘学園」だ。試験もなく通信簿もないというまさに自由な学園は、残念なことに昭和の大恐慌で資金繰りがうまくいかなくなり、あえなく閉校してしまったという。が、手塚の理想主義は当時の村長や在住文化人らの熱い支持を受け、地名として残され定着したのだから、以て瞑すべし。戦時中には「自由トハ、ケシカラン」と当局からにらまれたこともあったらしいが、住民たちが守り通した。そうした独特の気風が、現在でもこの街に生きているような気がする。その「空」なのだから、夏帽子もどこか誇らしげである。ちなみに「自由ヶ丘」が「自由が丘」と表記変更されたのは、昭和四十年(1965年)のことであった。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


October 20102005

 火の粉撒きつつ来るよ青年焼芋屋

                           山田みづえ

語は「焼芋(焼藷・やきいも)」で冬だが、実際の「焼芋屋」商売は季語に義理立てなんかしちゃいられない。我が家の近辺にも、かなり冷え込んだ一昨夜、颯爽と登場してまいりました。焼芋屋が「颯爽と」はちょっと違うんじゃないかと思われるかもしれないが、これが本当に「颯爽」としか言いようがないのだから仕方がない。というのも、軽トラに積んだ拡声器が流していたのは、例の売り声「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜 いしぃ〜やぁ〜きいも〜〜 やぁ〜きぃも〜」ではなくて、何とこれがベートーベンの「歓喜の歌」だったのだから……。意表を突くつもりなのか、それともクラシック好きなのか、遠くから聞こえてきたときには一瞬なんだろうと思ってしまった。掲句の焼芋屋の趣も、かなり似ている。焼芋屋というと何となく中年以上のおじさんを連想してしまうが、これがまあ、実はまだ若々しい青年なのでありました。その若さの勢いが、屋台の「火の粉撒(ま)きつつ」とよく照応していて、出会った作者は彼の元気をもらったように、明るい気持ちになっている。季語「焼芋」の醸し出す定型的な古い情趣を、元気に蹴飛ばしたような句だ。彼の売り声は、どんなだったろうか。昔ながらの「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜」も捨て難いけれど、売り声もこれからはどんどん変わっていくのだろう。でもどうひいき目に考えても、ベートーベンではとても定番にはなりそうもないけれど。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)




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