石塚友二の句

January 3011997

 焼鳥や恋や記憶と古りにけり

                           石塚友二

鳥屋は男の世界だ。あんな煙のもうもうたる場所に、恋人を連れていく奴の気がしれない。そんな下品なことを、私は一度もしたことはない。もっとも、後で文句を言われるのが恐かったせいもあるけれど……。つまり、焼鳥屋は男がひとりで人生をちょっぴり考えさせられる空間だ。そのようにできている。すなわち、若き日には不安な「恋の行末」を、中年以降は作者のようにかつての「恋の顛末」などを。だが、どのような甘美な昔の恋も、記憶とともに十分に古びてしまったことを納得させられる。そのことに、急に何かで心を突かれたように、胸の芯が痛くなる。ヤケに煙が目にしみるのである。(清水哲男)


June 1161998

 百姓に泣けとばかりや旱梅雨

                           石塚友二

姓は差別用語だそうな。馬鹿を言っちゃあいけないと、百姓の伜であった私は腹が立つ。故郷の友人は、みな自分の職業をすらりと「百姓」と言う。誰が考えたのか「農業専従者」だなんて、アホらしくて名乗れたものじゃない。顔が赤くなる。ところで、今年の梅雨はまずはマトモで安心していられそうだが、ときに旱(ひでり)梅雨となる年がある。いわゆる空梅雨だ。百姓の仕事は、言うならば天を相手に大博打を打っているようなものだから、こいつは心底タマらない。水気の薄い青田を前にして呆然としている百姓爺の濡れた目は、一度見たら忘れられるものではない。作者には高等小学校を卒業してから三年間ほどの百姓体験があり、都会に住んでからも「百姓というものに無関心で過ごせない人間」となった。だからこその「泣けとばかりや」……。感傷ではあるのだが、百姓の仕事に結果だけを求める風向きのなかで、この感傷にはそんな風向きに抗う凛とした響きがある。梅雨期を無事に過ぎれば過ぎたで、今度は日照時間の問題、次には台風と、これからも百姓の天を睨む生活はつづいていく。が、たまに会うと、田舎の友人は必ず「清水よ、百姓は面白いぞ。最近は仕事も楽だしな」と言う。『曠日』所収。(清水哲男)


July 0371998

 俤や夢の如くに西瓜舟

                           石塚友二

まには回顧趣味満点の句もいいものだ。俤(おもかげ)は、作者少年時代の初恋の人のそれである。舞台は「水の都」と言われていた頃の新潟だ。当時の(大正期の)様子を、作者は次のように書き記している。「堀割が縦横に通っていた時分の新潟は、そこが舟の通路でもあったから、夏は西瓜を積んだ舟が通り、主婦や女中といった人達がそれを買うべく岸の柳の下に佇む風景が見られたものである。また夕刻には褄取った芸者達の柳の下を縫いながらお座敷へ行く姿もあった」。この様子からして情緒纏綿……。年経た作者(六十九歳での作句)の回顧趣味を誘いだすには、絶好の舞台装置である。なお、俤の人のその後の消息についても若干の記述があり、句そのものが触発する情緒には無関係であるが、こういうことであったようだ。「それから凡そ五十年後、ふとしたことからその人の消息を聞かされた。若くして結婚したが、良人との関係が巧く行かず、三十歳を過ぎたばかりで自殺し世を去った、と」。ちなみに「西瓜」は「南瓜」とともに秋の季語とされている。現代ではどうかと思うが、特に受験生諸君は注意するように(笑)。『自選自解・石塚友二句集』(1979)所収。(清水哲男)


January 2011999

 らあめんのひとひら肉の冬しんしん

                           石塚友二

ーメンを「らあめん」と書き、チャーシューを「ひとひら肉」と書いて、寒い日にラーメンを食べる束の間のまろやかな至福感を表現している。作者が食べているのはどんなラーメンかと想像して、たぶん日本蕎麦屋や饂飩屋などのメニューに、ついでのように載っている種類のものだろうと思った。ホウレンソウの緑が濃く、絶対に入っているのがナルトである。麺の量は少なく、メンマも多くない。蕎麦仕立て風ラーメンとでも言うべきか。いまでも、たまにお目にかかることがあるが、これがなかなか美味いのである。味が鋭くないだけに、ほんわかとした気分が楽しめる。そんな店に座っていると、元気よくガラス戸を開けて子供が学校から帰ってきたりする。これで暖房がストーブだったら申し分ないのだが、さすがに今では望むべくもないだろう。こうした店で、もう一つ美味いのがカレーライスだ。妙に黄色かったりするけれど、あの安っぽい色彩がなんとも言えないのである。ただ、不思議に思うのは、必ずスプーンがコップの水に漬けられて出てくることだ。何故なのだろうか。この水は飲んでもよいのかと、いつも戸惑いながら、結局は飲んでしまう。(清水哲男)


September 1591999

 年寄の日と関はらずわが昼寝

                           石塚友二

いていの祝日は押しつけがましいが、敬老の日は、なかでも相当にいやな感じのする日だ。理由は、書くまでもないだろう。年寄りの気持ちも考えずに、各自治体では慰安会などを開いてお茶を濁すのが「敬老の日」だ。そんなお仕着せ行事に「関はらず」昼寝を決め込んだ作者に、拍手を送りたい。だいたい弁当つきやバスによる送迎つきの慰安会など、誰が嬉しいと思うものか。思うとすれば、手間のかかる老人が、その時間だけでも不在になる家族の誰かであろう。たまたま近隣の市の市報を見ていたら、慰安会の対象は60歳以上と書いてあった。げっ。となれば1938年生まれの私も、仮にここの市民であったとすると、出かけていって手品や歌謡ショーを見る資格があるわけだ。でも、仮に出かけたとして、下手な(失礼)芸人が帽子から鳩を出したり、「憧れのハワイ航路」などを歌う中身に耐えられるとは思えない。だいたい「慰安」という発想が、安易なのだ。発想が安易だから、ついでに芸人の芸も安易になる。自治体も芸人も、ともに「おじいちゃん、おばあちゃん」とひとまとめに老人を見下して失礼とも感じない鈍感さが、今日は全国的に我が物顔にまかりとおるのだ。こんな馬鹿なことに税金を使っている場合かよ。(清水哲男)


December 25121999

 主を頌むるをさなが歌や十二月

                           石塚友二

くから、子供たちの歌う賛美歌が聞こえてくる。近くに、幼稚園か小学校があるのだろう。そういえば、毎年同じように「をさなが歌」が流れてくるなあ。歌詞の意味などわからずに「主を頌(ほ)」めている子供たちの歌声に、作者は微笑を浮かべている。これもまた、十二月の風物詩だ。私が賛美歌をいくつか覚えたのは、十歳くらいのときだった。熱心なクリスチャンが校長として赴任してこられたおかげで、習うことができた。サンタクロースのことも、そのときにはじめて知った。戦後も二三年経ったころのことだ。教室にツリーを飾ろうということになり、裏山から手ごろなモミの木を切ってきて立てた。そのツリーを囲んで覚えたての歌を歌い、終わるとサンタに扮した校長からプレゼントをいただいた。生まれてはじめて見るカラフルなチョコ・ボール。「さあ、食べてごらん」と先生はおっしゃったが、誰ひとり口にしようとする子はいなかった。誰もがとっさに、家で待っている弟妹たちと、いっしょに食べたいと思ったからだ。ちり紙に包んでポケットにしまい、すっかり日の暮れた表に出ると、雪が降っていた。いまでも私が歌える賛美歌は、このときに覚えたものだけである。(清水哲男)


January 1812000

 粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな

                           石塚友二

は「あばら」。文句なしに美味そうだ。妙に郷愁的情緒的に詠んでいないところもよい。ワイルドな味わいの句。よい映画批評は読者を映画館に誘うが、それと同じように、こういう句を読むと無性に粕汁が食べたくなる。以上で、句については何も書くことなし。これで、おしまい。さて、いつか触れたような気もするが、私は日本酒アレルギーだ。ビールならいくらでも飲めるのに、日本酒はからきし駄目。猪口一二杯で、その場はともかく、翌朝かならず頭痛に悩まされる。だから、正月の他家訪問と田舎の結婚披露宴出席とは苦手である。いずれの場合も、日本酒が出てくる。おめでたい席だから、口をつけないわけにはいかない。ビールのほうがよいなどと無礼なことも言えないので、観念して飲む。そんな私が、粕汁を食べるとどうなるか。生体実験を重ねた結果、やはり翌朝にかすかな反応が出る。風邪を引いても頭痛とは無縁の体質が、少しゆがむのだ。もっとも、奈良漬屋の前を通っただけで顔が赤くなる人もいるそうだから、まだマシではあるけれど……。困ったことに、粕汁の味は好きときている。今夜、この「禁断の味」を賞味すべきかヤメにすべきか。とんでもない句を読んぢまった。と、普段ならそうなるところだが……。(清水哲男)


March 1132000

 落第も二度目は慣れてカレーそば

                           小沢信男

語は「落第」で春。変な季語もあったものだが、学校の社会的位置づけが高かった時代の産物だ。いうところの「キャリア」を生み出すためのシステムだけに、逆に落伍者も大いに注目されたというわけである。落第した当人は、一度目はがっかりしてショボンとなるが、二度目ともなるとあきらめの境地に入り、暢気にカレーそばなんかを食っている。それでも、ザルそばなんかじゃなく、少しおごってカレーそばというあたりが、いじらしい。自分で自分を慰めているのだし、甘やかしてもいるからだ。私も、大学で二度落第した。一度目は絶対的な出席日数不足。二度目は甘く見て、田中美知太郎の「哲学概論」を落としたのが響いた。句の通りに、二度目でも確かに「慣れ」の気分になるものだ。学費を出してくれている父親の顔はちらりと思い出したが、深く落ち込むことはなかった。同病相哀れむ。同じ身空の友人たちと酒を飲みながら、「このまま駄目になっていくのかなあ」とぼんやりしていた。後に大学教授になる友人に「おまえらは怠惰なんや」と言われても、一向にコタえなかった。落第生には、優等生が逆立ちしてもわかりっこない美学のようなものが、なんとなくあるような気すらしていたのだ。石塚友二に「笛吹いて落第坊主暇あり」がある。「暇」は「いとま」。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 07112000

 二重廻し着て蕎麦啜る己が家

                           石塚友二

重廻し(にじゅうまわし)は、釣り鐘形で袖のないマント。「ともに歩くも今日限り」の『金色夜叉』間貫一が熱海の海岸で着ていたのが、このマントだ。あるいは、川端康成『伊豆の踊子』の主人公が着ていたマントである。その二重廻しを着て、蕎麦を啜っているのだから、てっきり夜鳴き蕎麦の屋台での光景かと思いきや、下五でのどんでん返しが待っている。自分の家の室内での光景だったのだ。とにかく、寒い。火鉢も炬燵もない。辛抱たまらずに、出前の蕎麦をとったのだろう。昭和十年代の句だけれど、私にも似たような体験があり、よくわかる。二重廻しではないが、コートを着たうえに毛布まで引っ被って、寒さをやり過ごそうとしていたのは、二十代も後半だった。でも、掲句は自嘲句ではないだろう。誰にも同情なんて、求めてはいない。外出着を、家の中で着て震えている姿の滑稽を言っている。べつに凍え死ぬわけじゃなし、自己憐愍など思いの外で、みずからの情け無い姿を笑っているのである。いや、笑ってしまうしかないほどに、この夜は寒かったのだろう。若さとは、こういうものだ。火鉢や炬燵を買う金があったら、もっと別な使い道がある。我慢できるのも、若さの特権である。同じころの句に「人気なく火気なき家を俄破と出づ」があって、これまたあっけらかんと詠んでいる。いいなあ、若いってことは。昔は若かった私がいま、掲句に対して感じ入っている姿のほうが、なんだか侘びしいような……。『百萬』(1940)所収。(清水哲男)


December 11122000

 鍵穴に蒲団膨るゝばかりかな

                           石塚友二

語は「蒲団」で、冬。明らかな覗き行為である。作者は鍵穴に目を押し当てて、部屋の中を覗いている。すると、部屋の主はまだ寝ているらしく、こんもりと膨らんだ蒲団が見えるだけだった。何故覗いているのかはわからないが、描かれた情景はクリアーだ。しかし、これだけだとストーカー行為みたいに思われてしまう。そこで、前書が必要となる。曰く「十二月十七日雨過山房主人を見舞ふ」。見舞いの相手は、生涯の師であった横光利一だ。後年作者は「横光利一は私の神であった」と書くことになるが、畏敬する人を見舞うに際しての細心の配慮から生まれた覗きだったのだ。推定だが、敗戦の翌年の師走のことのようである。ちなみに、横光利一の命日は1947年(昭和二十二年)12月30日。鍵穴から、人を見舞う。珍しい見舞い方のようにも思えるが、当時の鍵穴は大きかったので、ドア・チャイムの設備がなければ、案外こうしたことは一般的に行われていたのではあるまいか。そして作者には、この覗きのときをもって、師との今生の訣れとなったという。「ばかりかな」に、万感の思いがこもっている。石田波郷は、作者の根底にあるものとして「庶民道徳としての倫理観」を指摘しており、掲句のような振る舞いに、それは如実に表れているだろう。まだ「師」という存在が、文学の世界に限らず、それこそ庶民の間に具体的に自然に実感されていたころにして成り立った句でもある。『光塵』(1954)所収。(清水哲男)


January 2212002

 ストーブにビール天国疑はず

                           石塚友二

しさを開けっぴろげにした句。「ビール天国」ではなくて、「ビール」と「天国」は切れている。句意は、入浴の際に「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と言うが如し。天国ってのは、きっとこんな楽しいところなんだろうと、勝手に無邪気に納得している。作者のはしゃぎぶりがよく伝わってきて、ビール党の私には嬉しい句だ。ただし、こういう句は、句会などでの評価は低いでしょうね。「ひねり」がない。屈託がない。ついでに言えば、馬鹿みたい……と。とくに近代以降の日本の文芸社会では、こうした明るい表現には点が辛いのだ。むろん、それなりの必然性はあるわけだが、ために喜怒哀楽の「怒哀」ばかりが肥大して、人間の捉え方が異常なほどにちぢこまってしまっている。表現技術のレベルも「怒哀」に特化されて高められてきたと言っても過言ではあるまい。べつに掲句を名句だとは思わないけれど、このあたりから鬱屈した文芸表現の優位性を、少しでも切り崩せないものだろうか。もっともっと野放図に放胆に明るい句はたくさん作られるべきで、その積み重ねから「喜楽」に対する表現技術も磨かれてくるだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 1352004

 泡盛や汚れて老ゆる人の中

                           石塚友二

語は「泡盛(あわもり)」で夏。沖縄特産の焼酎(しょうちゅう)ゆえ「焼酎」に分類。ウィスキーやブランデーと同じ蒸留酒だ。泡盛の名は、粟(あわ)でつくったとする説、醸造するときに泡が盛り上がったからとする説、杯に盛り上がるからとする説、また泡盛の強さを計るのに、水を混ぜて泡のたたなくなる水量で計ったことからとする説など、いろいろある。作者は、一人で静かに飲んでいるのだろう。酒場でもよし、家庭でもよし。飲みながら、つくづくと「オレも年をとったものだ」と慨嘆している。仲間と泡盛をあおって騒いだ若き日々や、いまいずこ。思い出せば、しかしあの頃は純真だった。純情だった。それが「人の中」で揉まれ、あくせくと過ごしているうちに、いつしか心ならずも「汚れて」しまった。「老ゆる」とは、年齢を重ねるとは汚れていくことなのだ。ゆったりした酔い心地のなかで、作者はおのれの老いを噛みしめている。ひとり泣きたいようなな気分なのだが、一方では、そんな自嘲の心持ちをどこか楽しんでいるようにも写る。素面のときの自嘲ではないから、自嘲とはいっても、どこかで自分を少しだけ甘やかしている。被虐の喜びとまではいかないけれども、掲句には何かそこに通じる恰好の良さがある。私には、そう感じられた。でも、決して意地の悪い読み方だとは思わない。むしろ、好感を持つからこその解釈である。自嘲にせよ、自分の老いを言う人には、まだ「人の中」での色気を失ってはいない。心底老いた人ならば、もはや表現などはしなくなるだろう。それくらいのことが、やっとわかりかけてくる年齢に、私は差し掛かってきたようである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


December 22122005

 日は午後に冬至の空のさゝ濁り

                           石塚友二

日は「冬至」。太陽が最も北半球から遠ざかる日で、一年中でいちばん日が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」と言い習わされ、この日から冬の寒さがはじまると言われてきたが、今年はもう真冬が来てしまっている。掲句の「空」は、この時期に晴れることの多い東京あたりのそれだろう。今日も良く晴れてはいるが、午後になってきて見上げると、少し曇ってきたような……と言うのである。「さゝ濁り」は一般的には「小濁」と漢字表記し、川の水などがちょっと濁っている様子を指す。この句の場合には、「さゝ」は「小」よりも「些些」と当てるほうがぴったり来るかもしれない。「さゝ濁り」と見えるのは、むろん冬至を意識しているからだ。間もなく太陽が沈んでしまう今日の青空に、かすかに雪空めいた濁りを感じたという繊細な描写が生きている。はじめ読んだときには万太郎の句かなと思ったほどに、繊細さに加えてどこか江戸前風な粋の味わいもある。それはそれとして、冬至の時期は多くの人が多忙だから、なかなかこうした気分にはなれないのが普通だろう。それどころか、今日が冬至であることにすら気がつかない年もあったりする。私などは何日かして、あっ過ぎちゃったと気づくことのほうが多かったと思う。幸いと言おうか何と言おうか、今年の仕事は一昨日ですべて終わったので、今年の今日こそはゆったりと「さゝ濁り」を眺められそうである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 2932006

 玉萵苣の早苗に跼みバス待つ間

                           石塚友二

語は「萵苣(ちさ・ちしゃ)」で春。馴染みが無く、難しい漢字だ。本サイトでは「ちさ」として分類。萵苣には何種類かあるが、「玉萵苣」はいわゆる一般的なレタスのことである。田舎のバス停で、作者はバスを待っている。おそらくは一時間か二時間に一本しか来ないバスだから、乗り遅れないように早めに行っているのだろう。周囲は畑ばかりで、あとは何もない。所在なく見回しているうちに、近くに小さな緑の葉っぱが固まってたくさん生えている苗床が目についた。跼(かが)みこんで見ると、可愛らしい玉萵苣の「早苗」である。ときどきバスのやってくる方角に目をやりながらも、いかにも春らしい色彩の早苗を楽しんでいる図は、長閑な俳味があって好もしい。作者が跼みこんだのは、むろん相手が小さいこともあるのだが、もう一つには、玉萵苣は戦後になって洋食の普及とともに栽培されはじめた品種だから、まだかなり珍しかったことがあるのかもしれない。「おっ」という感じなのである。我が家の農家時代にも萵苣を植えていたが、残念ながら玉萵苣ではなかった。「掻(か)き萵苣」と言って、この品種は既に平安時代には栽培されていたという。その都度、下のほうの葉っぱを何枚か掻きとって食べるタイプのもので、香気はまずまずとしてもやや苦みのあるところが子供には美味を感じさせなかったけれど……。いずれの萵苣も、晩春になると黄色い花をつける。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1142006

 沖かけてものものしきぞかじめ舟

                           石塚友二

語は「かじめ(搗布)」で春。海藻の一種だが、ご存知だろうか。辞書ふうに説明すると「暖地の近海に産する大型の藻類で、直径1.5センチ〜3センチぐらいの円柱茎の上端に、細長い葉が群がっている」となる。よく似ているが「荒布(あらめ)」とは別種だ。山口県の田舎に暮らした子供のころ、海から遠い山村というのに、どういうわけか大量の干した搗布をよく見かけた。何度も触った記憶もある。昆布よりも黒みの薄い褐色で、お世辞にも見かけはよろしくない。食べられるそうだが、食べた記憶はないので、鶏や家畜の餌にでもしていたのだろうか。思い出そうとするのだが、どうしても思い出せない。そんな程度の記憶しかないのだから、もとより句のような情景は見たことがないのだけれど、作者が「ものものしきぞ」と詠んだ気持ちはわかるような気がする。素人目には、そんなに「ものものしい」感じで採りにいくものでもあるまいにと、搗布を知っている人ならそう思うのが普通だろうからだ。でも一方で作者はこの情景に接して、搗布の価値を見直してもいる。「ほお」と、心のどこかで身を乗り出している。こういうことは誰の心にもたまに起きることで、そのあたりの機微を巧く詠んだ句ということになるのだろう。それにしても、我が故郷での搗布は何に使われていたのか。思い出せないとなると、余計に気になる。『合本・俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


July 3072007

 遣り過す土用鰻といふものも

                           石塚友二

日は「土用丑の日」、鰻の受難日である。街を歩いていると、どこからともなく鰻を焼く美味しそうな匂いが漂ってくる。そういえば今日は「土用丑の日」だったと気づかされ、さてどうしようかと一瞬考えたけれど、やっぱり止めておこうと作者は思ったのである。土用鰻の風習をばかばかしいと思っているわけでもなく、べつに鰻が嫌いなわけでもない。できれば「家長われ土用鰻の折提げて」(山崎ひさを)のように折詰にしてもらって買って帰りたいところだが、手元不如意でどうにもならない。その不如意ぶりが「土用鰻『といふもの』」と突き放した言い方によく表われている。止めの「も」では、さらに土用鰻ばかりではなく、他の「もの」も遣り過して暮すしかない事情を問わず語り的に物語らせている。鰻の天然ものがまだ主流だったころの戦後の句だろう。普段でも高価なのに、丑の日ともなればおいそれと庶民の財布でどうにかなる代物ではなかったはずだ。スーパーマーケットなどで、外国の養殖ものが比較的安価で手に入るいまとは大いに違っていた。そんな作者にも、こういう丑の日もあった。掲句を知ってから読むと、なんとなくほっとさせられる。「ひと切れの鰻啖へり土用丑」。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


June 1262011

 夏服や弟といふ愚かもの

                           石塚友二

たしには4人の姉がいました。親戚の集まりがある時には「松下の家は、女はしっかりしているが、男は頼りない」と言われてきました。子供の頃はともかく、いったんそのような印象がついてしまうと、こちらが老齢になっても、ずっと同じことを言われ続けています。おそらくこの句に出てくる弟も、世間から見たら特別に愚かだというわけでもないのでしょう。ただ、兄や姉から見た弟というものは、とかく愚かに見えてしまうと解釈した方がよいようです。それでも「愚か者」の言葉に含まれた愛情は、容易に感じることができます。男の夏服と言えば、せいぜい長袖が半袖のシャツに変るくらいで、季節が変わったからといって、さしてぱっとしません。無防備に半袖から伸びた腕も、頼りなげに見えている要因のひとつなのかもしれません。兄や姉という存在の深い愛情が感じられて、それからちょっとおかしくて、こういう句、とても好きです。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


October 02102011

 原爆も種無し葡萄も人の智慧

                           石塚友二

の句を初めて目にした時には、人の浅智慧が冒した自然冒涜への抗議かと感じました。でも、それはどうも勘違いだったようで、句が表現しているのは、この世に人が加えた変更を、ただ並べて見せただけにすぎません。それにしても、種無し葡萄に並べられた原爆という言葉の存在は、重く感じられます。原発の問題がこれほど身近に迫ってきた今年だからでもあるのでしょう。繰り返すようですが、句は、「原爆」と「種無し葡萄」を並置しただけのもので、ことさら人の智慧を誉めているわけでも、批判しているわけでもありません。つまりはそこが、俳句の俳句たる所以なのでしょう。あるいは俳句に限らず、表現物というのは、おおむねそのようなものなのかもしれません。事実を平然と読者に見せることの恐さ。あとは余計な批評を加えない。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


December 31122012

 大晦日御免とばかり早寝せる

                           石塚友二

十一歳の秋に、ラジオのパーソナリティを仰せつかった。早朝番組だったので、以来三十有余年、早寝早起きの生活がつづいている。大晦日とて、例外ではない。この間、除夜の鐘も聞いたことがない。子どもの頃には、大晦日はいつまで起きていても叱られなかったから嬉しかったが、そんなことももう遠い思い出だ。作者が「御免」と言っている相手は、とくに誰かを指しているのではなく、遅くまで起きて年を守っている世間一般の人々に対してだろう。この気持ちは、なんとなくわかる。早寝しようが勝手ではあるものの、いささか世間の常識に外れているような気がして、ちと後ろめたいのである。だから一応、「御免」の気持ちで寝床にもぐり込むことになるのだ。孝子・フォン・ツェルセンという人の句に、「子の去りてすることもなし年の夜」がある。これは今宵の我が家そのもののありようである。そういうわけで、では、御免。みなさまがたには佳いお年をお迎えくださいますように。『合本・俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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