今井 聖の句

January 2811997

 枯芝に置きて再びピアノ運ぶ

                           今井 聖

の情景は、家にピアノを運び入れているのか、あるいは運び出しているのか。しばし、考えた。考えているうちに、この質問は心理テストに使えるな、と思ったりした。私は「運び出している」と結論づけた。その根拠が、句の中に示されているわけじゃない。芝生のあるような大きな邸宅から、何らかの事情でピアノがなくなっていく……。枯れ芝の上に置くのは、単にピアノが重いからだけではなくて、しばし別れを惜しむという意味が含まれている。そんな没落感覚(?)が、私は好きなようである。(清水哲男)


July 0671998

 梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな

                           今井 聖

し飼いの鶏。といっても、夜は鶏舎に収容する。外敵から守るためと、卵を所定の場所で産ませるためだ。夕暮れ近くになって、あちこちにいる鶏たちを鶏舎に追い込むことを「鶏(とり)を追ふ」という。スケールは違うが、牛を集めてまわるカウボーイの仕事と同じだ。忙しい農家で「鶏を追ふ」のは、たいていが子供の仕事であった。小学生の私も毎夕追っていたが、なかには言うことを聞かないヤツもいて、暗くなっても探しまわったこともある。なにせ卵は農家の現金収入では大きな位置を占めていたので、一羽くらいいなくなってもいいやとはならないのである。梅雨が明ければ、ぬかるみに足を取られることもなく、この仕事は快適になる。地面は「梅雨明けのただちに蟻の影の道」(井沢正江)となるからだ。作者はその快適さを「鶏を追ふ」人の歩幅に象徴させている。一読して、私には納得できた句だ。作者は十代からセンスのよい俳句を書き、現在はシナリオ・ライターでもあって、映画『エイジアンブルー』(残念ながら、私は未見)の脚本などで知られている。「俳句文芸」(1998年7月号)所載。(清水哲男)


August 1282000

 いつまでも捕手号泣す蜥蜴消え

                           今井 聖

合に敗れたチームの「捕手」が、ベンチ脇の草叢に突っ伏して、声をあげて泣いている。プロテクターやレガーズをつけたままだから、「捕手」と知れる。チームメイトが肩などを叩いてやるが、いつまでも泣きやまない。高校野球の地方予選では、ときおり目にする光景だ。このときに「蜥蜴(とかげ)消え」とは、彼の夏が終わったことを暗示している。「蜥蜴」は夏の季語。でも、なぜ「蜥蜴」なのだろうか。彼が「捕手」だからだと、私は読んだ。「捕手」の目は、ナインのなかで一番地面に近い。グラウンドの片隅にある投球練習場所の近くには、たいてい草叢があるので、そこに出没する「蜥蜴」を、彼はいつも目にしてきたわけだ。他の選手は、草叢に「蜥蜴」がいることさえ知らないだろう。でも、負けてしまったので、この夏にはもう「蜥蜴」を見ることもないのである。したがって、作者は「蜥蜴消え」と押さえた。投手を詠んだ句は散見するが、素材に「捕手」を持ってくる句は少ない。地味なポジションに着目するあたり、作者はよほどの野球好きなのだろうか。「グロウブを頭に乗せて蝉時雨」と、微笑を誘われる句もあるので、相当に熱心な人のようではある。「俳句文芸」(2000年8月号)所載。(清水哲男)


September 2192000

 返球の濡れてゐたりし鰯雲

                           今井 聖

野球。カーンと打たれて、球は転々外野手のはるか彼方の草叢へ。ようやく返ってきたボールは、濡れていた。早朝野球で朝露がついたとも読めるが、濡れたのは、昨夜の雨のせいだ。そうでないと、頭上の「鰯雲(いわしぐも)」が輝かない。この雨では、明日の野球は無理かな。天気予報も雨を告げていることだし、あきらめて寝てしまい、起きてみたら何ということか、快晴ではないか。この嬉しさは、経験の無い人にはわからないだろう。その昔、仲間とチームを作っていたときに、何度か体験した。雨の夜、何回も起き出しては雨の様子をうかがったものだ。ただし、夜に入っての土砂降りは、まず絶望的。翌日晴れても、グラウンドそのものが乾かないからだ。あくまでも、しとしと雨。「しとしと」故、それだけ期待も抱けるのである。したがって掲句は、単にワンプレイを詠んだのではなく、野球が今日こうしてこの場でできている嬉しさを詠んだものだ。作者は、よほどの野球好きだと拝察する。探してみると、野球の句は案外たくさん詠まれているが、その多くは勝ち負けの感情に関わったもので、句のようにプレイ中の心情に触れたものは少ない。わずかに子規のベースボール句や歌には見えるものの、粗っぽすぎるところが難点だ。野球観そのものに、今日とは違いがあったせいもあるけれど、公平に考えて、今井聖の句の方に軍配を上げざるを得ない。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


November 13112000

 落葉降る天に木立はなけれども

                           辻貨物船

葉、しきり。といっても、作者は木立のなかを歩いているわけではない。ごく普通の道に、どこからか風に乗って次から次へと落葉が降ってくるのだ。さながら「天に木立」があるように……。詩人・辻征夫の面目躍如の美しい句である。作者のいる場所は寒そうだが、読者には暖かいものが流れ込んでくる。「なけれども」は「あるように」とも言えるけれど、やはり「なけれども」と口ごもったところで、句が生きた。なんだか、本当に「天に木立」があるような気がしてくるではないか。技巧など弄していないので、それだけ身近に詩人の魂の感じられる一句だ。ちょっと似たような句に、今井聖の「絶巓の宙に湧きくる木の葉かな」がある。「絶巓(ぜってん)」は、山の頂上のこと。切り立った山なのだろう。作者はそれを見上げていて、頂上に湧くように舞い上っている落葉を眺めている。落葉している木立は山の背後にあって、作者の位置からは見えていない。見えていると解してもよいが、見えていないほうが「湧きくる」の意外性が強まる。木立は「なけれども」、その存在は「木の葉」の様子から確認できるととったほうが面白い。切れ味のよい力感があって、素晴らしい出来栄えだ。両者の違いは、ともに木立の不在を言いながら、辻句はいわば「夢の木立」に接近し、今井句は「現実の木立」に近づいているところだ。相違は、詩人と俳人の物の見方の違いから来るのだろうか。井川博年編『貨物船句集』(2000)所収。(清水哲男)


January 2912002

 電話ボックス冬の大三角形の中

                           今井 聖

は大気が澄み、凍空の星の光は鋭く近くに見える。「冬の大三角形」は、3つの星座の明るい星を結ぶと、大きな三角形ができることから命名された。オリオン座α星ベテルギウス(0.4等)、おおいぬ座α星シリウス(−1.5等)、こいぬ座α星プロキオン(0.4等)の三つの星を結ぶ(位置を確かめたい方は、こちらで)。季語にはないので、当歳時記では「冬の星」に分類した。その「大三角形の中」に「電話ボックス」がぽつんと一つ灯っている。電話ボックス自体が、さながら宇宙空間に浮かんでいるようだ。幻想的なイメージの美しさ。宮沢賢治を思い出した。谷内六郎の絵のようでもある。ところで、この電話ボックスの中に、人はいるのだろうか。私の好みでは、無人が望ましい。誰かがいるとなると、地上的現実がいわば錘となって、宙には浮かないような気がするからだ。どうしても人を存在させたいのなら、架空の人物にしてほしい。松本零士描くところの透明感のある美女だったら、確実に宙に浮くだろう。余談だが、我が町三鷹市の国立天文台では、月に二度ほど天体観望会を催している。実施条件に「快晴の夜以外は中止」とある。掲句の空も、むろん快晴でなければならない。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


March 2132002

 鍵ひとつ握らせてゐる花の下

                           今井 聖

見でのスケッチ。「握らせてゐる」というのだから、大人同士の受け渡しではなく、親が子供に鍵をしっかりと握らせているのだろう。まだ、そんなに大きくない子だ。急に体調が悪くなったのなら、親もいっしょに引き揚げるところだが、おそらく子供は退屈しきってしまい、先に帰ると言い出したにちがいない。「握らせてゐる」という所作のなかには、無くさないようにと念を押す気持ち以外にも、このまま一人で帰してよいものかどうかなど、親の逡巡が含まれている。しっかりと握らせることで、その逡巡を立ち切ろうとしている。親の困ったような顔と「だいじょぶだよ」とうなずいている子。しかし、子供もちょっと不安気だ。そんな様子が、目に浮かぶ。家族での行楽には、わがままが顔を出しやすいので、ときどきこういうことが起きる。ましてや歩くばかりの花見ともなれば、子供には弁当を食べることくらいしか面白いこともないのだから、すぐにイヤになってしまうのだろう。しかも、まわりは大人だらけである。そういえば、シクシク泣いている子をよく見かけるのも花見の道だ。さりげないスケッチながら、掲句はそのあたりの人情の機微を的確に捉えている。東京あたりでは、今日花見に繰り出す人々が多そうだが、なかには、きっとこういう親子もいるのでしょうね。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


May 0952002

 苗代に満つ有線のビートルズ

                           今井 聖

語は「苗代(なわしろ)」で春。現在では育苗箱で育てる方式が多いので、なかなか見られなくなった。句が1993年(平成五年)に詠まれていることからすると、まだ昔ながらの方式も細々とつづいているようだ。相当に大きな苗代田だろう。生長した若い苗がぎっしりと立ち並び、山からの風にそよぐ様子は、陳腐な形容だが絵のように美しい。植田のグリーンは淡くはかなげだが、苗代田のそれは濃くたくましい。その上を有線放送でビートルズの曲が颯爽と流れているのは、いかにも現代的で面白い。一昔前なら絶対に演歌だったろうが、有線の選曲担当者の世代も代替わりしてしまい、いまや演歌には関心を示さないのだ。村の古老たちはこのビートルズを聞いて、どんな思いでいるのだろう。ちょっとそんなペーソスも含み込んで、時代の移り行きに鋭敏な佳句である。蛇足めくが、句の有線(法規上では「有線ラジオ放送」)は都市の街頭放送などと同じ原理によるが、一定区域内に音響を送信する「告知放送」と呼ばれている。1956年(昭和三十一年)に農林省の新農山漁村建設計画で補助金が出たことから、急速に全国に普及した。主たる用途は災害時の緊急警報や役場からのお知らせにあったが、そんなにいつも告知すべき事柄があるわけじゃない。したがって、多くは役場の若者の趣味的音楽番組垂れ流しのメディアと化し、うるさいのなんのって……。いまでもほとんどの自治体に有線設備はあるけれど、さすがに日頃は送信しなくなってしまった。したがって、掲句のビートルズ放送は、極めて稀なケースでもある。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


January 2312003

 水仙を接写して口尖りゆく

                           今井 聖

語は「水仙(すいせん)」で冬。「雪中花(せつちゅうか)」とも。活けてある水仙を撮影しているのではなく、戸外での花を「接写」しようとしているのだろう。風があるので、なかなかシャッター・チャンスが訪れない。風が途絶える瞬間をねらっている。三脚を使わない手持ちのカメラだとしたら、手ぶれにも気を使う。息をとめるようにして構えていると、だんだん「口」が尖(とが)ってくる。ふとそのことに気づいて、苦笑している句だ。最近の植物園などに出かけると、花にカメラを構えている人の増えたこと。定年退職後と思われる年齢の人が、圧倒的に多い。昔は絵を描いている人のほうが多かったが、近頃では完全に逆転してしまった。で、見ていると、たいていの人が「接写」に夢中になっているようだ。みなさんが掲句そっくりに、それぞれ口を尖らせていると思うと可笑しくもなるが、そんなふうに夢中になれるところが接写の醍醐味なのだろう。ただ、いささか気になるのは、昨今の花の写真というと、接写による大写しの写真が氾濫していることだ。なんだか、花の種袋を見せられているような気がしてならない。一概によろしくないとは言わないけれど、もっと距離を置いて花を楽しむ姿勢があってもよいのではなかろうか。間もなく、梅の季節がやってくる。きっと、テレビでは初咲きの花を大写しにすることだろう。私は、梅や桜の一輪を解剖して見るよりは、むしろぼおっとした遠景として眺めるほうが好きである。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)


March 1432003

 顎紐や春の鳥居を仰ぎゐる

                           今井 聖

の「鳥居」を見上げているのは、どんな人だろう。「顎紐(あごひも)」をかけているというのだから、警官か消防隊員か、それとも自衛隊員か。あるいはオートバイにまたがった若者か、それとも遠足に来た幼稚園児だろうか。いろいろ想像してしまったが、おそらくは消防関係の人ではなかろうか。春の火災予防運動か何かで、神社に演習に来ているのだ。仕事柄、とくに高いところには気を配る癖がついている。大鳥居なのだろう。仰ぎながら梯子車がくぐれるか、神社本体への放水の邪魔にならないかなど、策を練っている。たまたま通りかかった作者には、しかし彼の頭のなかは見えないから、顎紐をかけたいかめしい様子の人が、さも感心したように鳥居を仰いでいる姿と写った。春風駘蕩。鳥居は神社の顎紐みたいなものだし(失礼)、そう思うと、両者のいかめしさはそのまま軽い可笑しみに通じてくる。余談になるが、この顎紐のかけ方にも美学があって、真面目にきちんと締めるのは野暮天に見える。戦争映画などを見ていると、二枚目は紐をだらんとぶら下げていることが多い。これが本物の戦闘だったら危険極まると思うが、その方がカッコいいのだ。そういえば、最近の消防団のなかには、顎紐つきの旧軍隊のような帽子を廃止して、野球帽スタイルのものをかぶりはじめたところもある。顎紐そのものを追放してしまったわけだが、実際の消火活動の際に、あれで大丈夫なのだろうか。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


October 01102005

 出会ひの握力別れの握力秋始まる

                           今井 聖

の「秋始まる」は、暦の上の「立秋」ではなく、実質的な秋の到来を指しているのだと思う。したがって、「秋」に分類しておく。「出会ひ」と「別れ」の具体的な状況はわからないが、そのいずれの場合にも、かわす握手には自然に力がこもると言うのである。秋のひきしまった大気は、おのずからひきしまった行為につながってゆく。本格的な秋の訪れの感慨を、「握力」を通じて描き出した視点は新鮮だ。作者に、実感を伴った体験があるからだろう。絵空事では、こういう句は作れない。ところで放送生活二十年の私としては、鈴木志郎康さんの用語を借りれば「極私的」にも観賞したい句だ。放送局の十月は、まさに「秋始まる」月だからである。ラジオにもテレビにも番組改変期は春四月と秋十月にあり、それに伴って何人かのスタッフや出演者の入れ替えがあるのが普通だ。春の人事異動なら、世間一般に行われることなのでそうでもないが、秋のそれは放送局に特有なことゆえに、とくに「別れ」には寂しさがつきまとう。歓送会での握手にも、それこそ自然に力がこもるのである。在任中に、そんな握手をかわして何人の仲間を見送ってきたことだろう。なかには会社から理不尽な異動理由を突きつけられて、会社そのものから去っていった人もいる。みんな元気にしているだろうか。掲句を読んで、ふっと感傷的になった次第である。俳誌「街」(55号・2005年10月)所載。(清水哲男)


December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)


March 3032006

 春風やダックアウトの千羽鶴

                           今井 聖

語は「春風」。センバツ高校野球も、いまやたけなわ。作者の奉職する横浜高校は昨日、沖縄・八重山商工の猛追撃を振り切ってベスト8に進出した。句意は明瞭、句味は爽快。何も付け加えることはないけれど、高校野球のダッグアウト(dugout。句の「ダックアウト」は誤植だろう)に「千羽鶴」が飾られるようになったのは、いつ頃からだったろうか。私の短くはない観戦体験からすると、そんなに昔のことではないと思う。おそらくは女子マネージャーが登場したころと、だいたい同じ時期だったのではあるまいか。戦時中の「千人針」をここで持ち出すのは不適切かもしれないが、あの千人針には女性の必勝祈願が込められていたのであって、千羽鶴もまた同様に女性の気持ちを込めて作られている。私が高校生だったころには、千羽鶴もなければ、野球の試合に女の子が大挙して応援に来ることもなかった。目立たないところで、そっと応援した人はいたようだけれど……。どちらが良いとは軽々には言えないけれど、昔の男ばかりのゴツゴツした雰囲気も悪くはなかったし、応援席から遠く離れた花一輪の可憐な風情にも味があった。ところで掲句とはまったく無関係だが、最近はこの千羽鶴をネツトで買えるのをご存知だろうか。「990羽セット」と「完成品セット」の二種類があり、前者は残り10羽を自分で折り、さらに自分で糸で紡ぐ作業をする。対して後者は、そのまんま渡すだけの完成品で、値段は「990羽セット」が12600円〜31500円。「完成品セット」が18900円〜37800円だという。内職で折るらしいが、一羽折っていくらくらいなのかしらん。関心のある方は、後はご自分でお調ください。俳誌「街」(第58号・2006年4月)所載。(清水哲男)




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