1997ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1911997

 にんげんの重さ失せゆく日向ぼこ

                           小倉涌史

供のころ、遊びに行くと、友人の祖母はいつも縁側の同じ場所に坐って日向ぼこをしていた。何も言わず、無表情に遠くを見ているだけだった。その決まりきった姿は、ほとんど彫塑さながらだったが、そういえば、この句のように体重というものが感じられなかった。拙詩「チャーリー・ブラウン」に出てくる老婆「羽月野かめ」は、彼女がモデルになっている。後年、彼女の死を伝えられたとき、いつもの縁側からふわりと天上に浮き上がる姿を、とっさに連想した。作者が暗示しているように、日向ぼこの世界は天上のそれに近いものがあるようだ。日の下で気持ちがよいとは、つまり、死の気配に近しいということ……。『落紅』所収。(清水哲男)


January 1811997

 行きずりの銃身の艶猟夫の眼

                           鷲谷七菜子

舎の友人には、冬場(農閑期)の猟を楽しみとしている者が多い。猟犬を連れて山に入り、野兎などを撃つ。今では行なわれていないだろうが、私が子供だったころには、学校全体で兎狩をやったものだ。そういう土地柄だ。小さいときから、猟銃には慣れている。そして、ひとたび鉄砲を肩にすると、男たちは人格が変わる。浮世のあれこれなどは、いっさい考えない。ひたすらに、見えない獲物を求めつづけるだけだ。そういう「眼」になる。この句は、そういう「眼」のことを言っている。行きずりの「女」なんぞは眼中にないという「眼」。かえって、それが頼もしくも色っぽい。(清水哲男)


January 1711997

 鍋焼の火をとろくして語るかな

                           尾崎紅葉

焼といっても「鍋焼きうどん」のことではない。第一、こんなことをしていたら、うどんが溶けてしまう。本来は、土手焼きともいって、土鍋の周囲に味噌を堤形に分厚く塗り、中央の空所で牡蛎や魚や野菜を煮た田舎料理を指す。昭和三十年代の京都の三条河原町近くに、この土手焼きをメインに出す珍しい店があった。学生の身分では少々高くつく飲み屋だったが、焦げた味噌の香ばしさに包まれた魚のうまかったこと。主人は慶応大学卒と称していて、店には福沢諭吉の言葉だという軸が吊るされており、音楽はなんとクラシックだけという変わりようであった。その味が忘れられず、京都を去って十年ほど後に行ってみたら、店の代がかわっていて、もう土手焼きもクラシックもなかった。元気だったかつてのオーナーは、ある日突然、ポックリと逝ってしまったのだと聞かされた。(清水哲男)




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