1997ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1211997

 コック出て投手の仕草松の内

                           北野平八

西では、十四日までが松の内。界隈では名の通ったレストランの裏口のほうの道だろう。年末年始にほとんど休みのなかった男が、束の間の休憩時間、コックの姿そのままに投手の仕草で身体をほぐしている。よく見かける光景ではある。そこを見逃さずにタイミングよくシャッターをきった作品だ。が、加えてこの句の場合、それだけではなくて、仕草の「草」と松の内の「松」という漢字の響きあいが実によく利いている。松の内も、そろそろ終りという雰囲気。これは作者のあずかり知らぬ効果かもしれないが、いずれにしても翻訳はできない句のひとつだろう。もちろん、それでイイのである。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


January 1111997

 雪積む家々人が居るとは限らない

                           池田澄子

景には、三好達治二十七歳のときの二行詩「雪」がある。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」という有名な詩だ。中村稔によれば「一語の無駄もないこの詩が語りかける世界は深沈たる抒情のひろがりをもっている」ということであり、ほとんどの日本人はそのように理解している。そんななかで「でもね……」と言ってみせたところが、この句の面白さだ。言われてみると「そりゃそうだ」ということになり、「深沈たる抒情」もカタナシである。といって、決して作者が意地悪を言っているとは受け取れない。そこが池田澄子の作品に共通する魅力である。俳句と詩。こうなると、どちらが古風なのか、わからなくなってきてしまう。『いつしか人に生まれて』所収。(清水哲男)


January 1011997

 冬の朝道々こぼす手桶の水

                           杉田久女

道の普及していなかった時代には、よほどの旧家でも、庭の井戸から水を汲んできて、台所のカメに溜めてから炊事などに使っていた。もちろん井戸のない家もたくさんあり、そうした家では他家の井戸水をもらってくるか、近所の湧き水を利用するか、いずれにしても水は毎日外から家に運びこんでくるものだった。とりわけて寒さの厳しい冬の朝、貴重な水を道々にこぼしてしまうのは、身を切られるようにつらく感じられたにちがいない。「手桶」は「おけ」と読ませる。この句は大正六年「ホトトギス」誌上の「台所雑詠」欄に載った久女のデビュー作だ。久女その後の数奇な運命(「ホトトギス」からの除名など)を思うとき、句の一所懸命さが、いっそうの哀れを誘う。(清水哲男)




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