1997ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1011997

 冬の朝道々こぼす手桶の水

                           杉田久女

道の普及していなかった時代には、よほどの旧家でも、庭の井戸から水を汲んできて、台所のカメに溜めてから炊事などに使っていた。もちろん井戸のない家もたくさんあり、そうした家では他家の井戸水をもらってくるか、近所の湧き水を利用するか、いずれにしても水は毎日外から家に運びこんでくるものだった。とりわけて寒さの厳しい冬の朝、貴重な水を道々にこぼしてしまうのは、身を切られるようにつらく感じられたにちがいない。「手桶」は「おけ」と読ませる。この句は大正六年「ホトトギス」誌上の「台所雑詠」欄に載った久女のデビュー作だ。久女その後の数奇な運命(「ホトトギス」からの除名など)を思うとき、句の一所懸命さが、いっそうの哀れを誘う。(清水哲男)


January 0911997

 一月や裸身に竹の匂ひして

                           和田耕三郎

性の裸身ではない。「一月」に「竹」とくれば、もうどう考えたって(考えなくとも)男の裸体に決まっている。たとえば、真新しいふんどしをきりりと締め上げた「竹を割ったような」気性の男気が連想されよう。その裸身から竹のような匂いが立つというのだから、他人の裸体ではなく、自分自身の裸だ。おのれの若い肉体の勢いに、半ばうっとりしているのである。俗にいうナルシシズムを、きわめて抑制したかたちで表現したところに、この句の華がある。女性の読者にとっても、少なくとも気持ち悪くはないはずである。『水瓶座』所収。(清水哲男)


January 0811997

 薄日とは美しきもの帰り花

                           後藤夜半

でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます