1997ソスN1ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0911997

 一月や裸身に竹の匂ひして

                           和田耕三郎

性の裸身ではない。「一月」に「竹」とくれば、もうどう考えたって(考えなくとも)男の裸体に決まっている。たとえば、真新しいふんどしをきりりと締め上げた「竹を割ったような」気性の男気が連想されよう。その裸身から竹のような匂いが立つというのだから、他人の裸体ではなく、自分自身の裸だ。おのれの若い肉体の勢いに、半ばうっとりしているのである。俗にいうナルシシズムを、きわめて抑制したかたちで表現したところに、この句の華がある。女性の読者にとっても、少なくとも気持ち悪くはないはずである。『水瓶座』所収。(清水哲男)


January 0811997

 薄日とは美しきもの帰り花

                           後藤夜半

でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)


January 0711997

 松過ぎの又も光陰矢の如く

                           高浜虚子

松を立てておく期間は、関東では六日まで、関西では十四日までが慣習。門松や注連飾りが取り払われると、急に寂しくなるが、しかしまだどこかに新年の気配は残っている。とはいえ、仕事も本格的にはじまり「又も光陰矢の如く」になることに間違いはない。もう少し正月気分でいたい私などには、実をいうとあまり読みたくない句なのだが、仕方がない。虚子のいうとおりなのだから、いやいやながら掲げておく。(清水哲男)




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