季語が帰り花の句

January 0811997

 薄日とは美しきもの帰り花

                           後藤夜半

でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)


November 21111998

 帰り花鶴折るうちに折り殺す

                           赤尾兜子

聞やテレビで、今年はしきりに「帰り花」が報道される。「帰り花」は「狂ひ花」とも言われて、異常気象のために、冬に咲くはずもない桜や桃や梨の花が咲くことを指す。いわゆる「小春日和」がながくつづいたりすることで、花たちも咲く季節を間違えてしまうというわけだ。この句には、平井照敏の解説がある。「『鶴折るうちに折り殺す』という表現から、われわれは、折り紙で鶴を折っているうちに、指先のこまかい動きに堪えきれなくなって、紙をまるめてしまうか、あるいは無器用に首を引き出すところでつい力を入れすぎて引き裂いてしまうかするところを想像するのだが、それを『鶴折るうちに折り殺す』ということばで表現するところに、兜子のいらだつ神経、あるいは残酷にまでたかぶる心理を感ずるのである。……」(『鑑賞現代俳句全集』第十巻・1981)。私もそうだが、たいていの人は「帰り花」に首をかしげながらも、どちらかというと明るい心持ちになるのが普通だろう。しかし、兜子は「狂ひ花」の季節に完全に苛立っている。このような鋭敏な感覚を指して、世間はしばしば「狂ひ花」のように見立てたりする。でも、この場合、狂っているのは、少なくとも兜子のほうではないのである。『歳華集』(1975)所収。(清水哲男)


November 29112002

 原点に戻らぬ企業返り花

                           的野 雄

語は「返り花(帰り花)」で冬。小春日和の暖かい日がつづくうちに、どういう加減からか季節外れの桜や桃の花が咲くことがある。新聞の地方版に、写真入りで載ったりする。そんな花を見かけて、すぐさま「企業」のありように思いが飛んだところが哀しい。会社が倒産かそれに近い状態に陥り、三度も痛い目にあった私には、あながち突飛な連想とも思えない。しごく真っ当な飛躍と写る。もっとも、ここで作者は自分の属している企業のことを言っているのか、それとも企業一般のことを指しているのかはわからない。が、どちらでもよいだろう。企業は生き物だから、それ自体で刻々と変化していく。「原点」の構築に携わったのはまぎれもない人間だけれど、そうした人間の初発の精神とは関わりなく、法人格としての企業は人間を置き去りにしてまでも、みずからの延命に執心する。もっと言えば、企業は資本の論理以外の何ものも栄養にすることはできないので、そうならざるを得ない。いつまでも原点などにこだわっていては、身が持たないのである。そうした企業のたまさかの繁栄を、人間である作者は狂い咲きの花のようだと言っている。さらには、どんな人間の力をもってしても「原点に戻らぬ企業」の強圧に、なお唯々諾々と従っているおのれを哀しみ、自嘲してもいる。しかし、この不況の世の中。束の間であれ「返り花」が見られる企業は、まだよしとしなければ……。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


November 07112003

 成り行きに任す暮しの返り花

                           鯨井孝一

語は「返り花・帰り花」で初冬。かえり咲きの花。暖かい小春日和がつづくと、梅や桜、桃の花が咲くことがある。狂い花とも。岡本敬三の小説『根府川へ』(筑摩書房)を読んだあとだけに、この句には身につまされる。会社にリストラされ、妻には別れられ、「成り行きに任す暮し」を余儀なくされている初老の男の物語だ。彼は一年中、寒い季節に生きているようなものなのだ。しかし、そんな彼にも、たまにはポッと返り花が咲く。目立たないささやかな花ではあるけれど、社会的にも経済的にも零落した者でなければ見られない花が咲くのである。その花は、羨ましくなるくらいに美しく味わい深い。何かをあきらめた人間には、あきらめた分だけ、それまでには気づかなかったきれいなものが見えるのだろう。句の作者は零落者ではないだろうが、そういうことを言っている。小説に戻れば、こんな場面がある。久しぶりに静岡の根府川から上京した高齢の叔父と、主人公は神田で酒を呑む。彼のポケットには全財産の1500円しかない。飲んでいるうちに、叔父も1000円しか持っていないことがわかる。どんどん注文する叔父にはらはらしながら、さて、どうしたものか……。叔父の機転でその店からは無事に脱出、つまり飲み逃げをするわけだが、お茶の水駅での別れ際に、叔父は「うっかりしていた」と白い封筒をさしだした。生きていくことはほんのちょっとしたペテンだ、と言い添えながら……。開けてみると、その薄い封筒には指の切れそうな一万円札が五枚入っていた。あわてて彼はさきほどの店に取って返し、勘定を払おうとするが、女将はもう済んでいるという。たとえば、これが成り行き任せの暮しに咲いた返り花。そして、この金を返しに主人公が叔父を訪ねて根府川へ行くのも、またもう一つの返り花だ。著者の岡本敬三君は、実は私の若い友人です。読んでやってください。面白いこと受け合い、ペーソス溢れるいぶし銀のような都会小説です。『現代俳句年鑑』(2003・現代俳句協会)所載。(清水哲男)


November 14112009

 三つといふほど良き間合帰り花

                           杉阪大和

り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。「遠蛙」(2009)所収。(今井肖子)


November 17112009

 ここよりは獣道とや帰り花

                           稲畑廣太郎

り花は、小春日和のあたたかさに、春咲く花がほころびることをいう。「狂い咲き」という表現もあるが、これを「帰ってきた花」と見るのは、俳句特有の趣きだろう。先日奥多摩の切り通しを歩いたときに、車道とはずいぶん違うルートをたどることに気づいた。尾根伝いに切り開かれた道は、どこも身幅ほどで険しく、人間が足だけを使って往来していた時代には、獣たちも共用していたと思わせる小暗さと荒々しさがあった。そして山道は車道で唐突に分断され、道路には「動物とびだし注意」の一方的な警告がやけに目についた。掲句では、この先の小径は獣道なのだろうとつぶやいた言葉に、ほつと咲く季節はずれの花が、人と獣の結界をより鮮やかに、心優しくイメージさせる。思いがけない花の姿は、冬の足音をあらためて感じさせ、獣道を通う生きものたちの息づかいがこの奥にあることを予感させる。そしてまた獣の方も、この花を目印に人出没注意、と心得ているようにも思えてくるのだ。同句集には〈小六月猫に欠伸をうつされし〉もあり、こちらは思いきり人間界にくつろぐ獣の姿。これもまた小春日が似合うもののひとつである。『八分の六』(2009)所収。(土肥あき子)




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