December 25121996

 へろへろとワンタンすするクリスマス

                           秋元不死男

きですねえ、こういう句は……。派手やかな「日本のクリスマス」の町の片隅のラーメン屋で、俺には七面鳥料理なんて関係ないさとばかりに、少々ぬるめのワンタンを自嘲気味にすすっている図。でも、気分が完全にすねているというのでもなく、どこかでクリスマスの豪華な料理のことが気になっている。形容矛盾かもしれないが、剽軽な哀感とでもいうしかない心境を感じる。翻訳不可能な名句である。(清水哲男)


August 2181997

 ちらと笑む赤子の昼寝通り雨

                           秋元不死男

夏の陽光をいきなり遮断するように、音をたてて雨が降ってきた。通り雨だ。作者は思わず、傍らですやすやと眠っている赤ん坊が、驚きはしないかと目をやった。すると、赤ん坊がちらりと笑ったというのである。楽しい夢でも見ているのだろうか。すなわち、すべて世は事もなし。なんでもない日常のなかで味わうささやかな幸福観。このがさつな時代に、こういう句に出合うとホッとする。誰もが、もっとこういう時がもてればよいと思う。深刻ぶることだけが文学じゃない。(清水哲男)


April 1341998

 靴裏に都会は固し啄木忌

                           秋元不死男

月十三日は石川啄木の忌日。したがって「啄木忌」は春の季語。1912(明治45)年、不遇と貧困のうちに二十七歳の若さで病没した。句は、都会での成功を夢見て破れた啄木の無念を想い、都会で生きる難しさを鋪道の固さで象徴している佳句だ。ところで、このように「忌日」を季語とすることについて、かつて金子兜太が次のように反対している。「人の死んだ忌日を、季語にしてしまうやり方は、不埒千万、季語そのものさえ冒涜するものと考えている。(中略)故人の業績や人がらをしのばせるのが目的ならかまわないが、季節までこれで連想させようとするのは行き過ぎである。俳人がぜんぶ戸籍係になっても、とても季節まで記憶できるものではない」(KAPPA BOOKS『今日の俳句』1965)。その通りだと、私も思う。句集を読んでいて、いちばん困るのが「……忌」である。季節もわからないし、第一「……」の部分がわからないので解読が不可能となる。たとえば太宰治の「桜桃忌」(6月19日)には季節感があるのでまだしも、芥川龍之介の「我鬼忌」(7月24日)になると、すぐに芥川の命日だと反応し、しかも夏の季語だとわかるのは、もはや特殊な教養人に限られてしまうのではあるまいか。(清水哲男)


August 0581998

 縛されて念力光る兜虫

                           秋元不死男

虫をつかまえてくると、身体に糸を結び付けてマッチ箱などを引っ張らせて遊んだ。昔の子供にとっては夏休みの楽しみのひとつだったが、作者からすれば兜虫は「縛されて」いるのであり、文字通りに五分の魂を発揮して、こんなことでくじけてたまるかという念力の火だるまのように見えている。弱者への強い愛情の目が光っている。これだけでも鋭い句だが、ここに作者の閲歴を重ね合わせて読むと、さらに深みが増してくる。秋元不死男は、戦前に東京三(ひがし・きょうぞう)の名前で新興俳句の若手として活躍中に、治安維持法違反の疑いで投獄された過去を持つ。したがってこの句は、当時の自分自身や仲間たちの姿にも擬せられているというわけだ。戦後は有季定型に回帰して脚光を浴びたのだが、没後(1977没)の評価はなぜかパッとしない。なかには「不孝な転向者」という人もいるほどだ。そうだろうか。この句や「カチカチと義足の歩幅八・一五」などを読むかぎりでは、有季定型のなかでも社会のありようへの批評精神は健在だと読めるのだが……。『万座』所収。(清水哲男)


February 0121999

 叱られて目をつぶる猫春隣

                           久保田万太郎

月。四日は立春。そして、歳時記の分類からすれば今日から春である。北国ではまだ厳寒の季節がつづくけれど、地方によっては「二月早や熔岩に蠅とぶ麓かな」(秋元不死男)と暖かい日も訪れる。まさに「春隣(はるとなり)」だ。作者は、叱られてとぼけている猫の様子に「こいつめっ」と苦笑しているが、苦笑の源には春が近いという喜びがある。ぎすぎすした感情が、隣の春に溶け出しているのだ。晩秋の「冬隣」だと、こうは丸くおさまらないだろう。「春隣」とは、いつごろ誰が言いだした言葉なのか。「春待つ」などとは違って、客観的な物言いになっており、それだけに懐の深い表現だと思う。新しい歳時記では、この「春隣」を主項目から外したものも散見される。当サイトがベースにしている角川版歳時記でも、新版からは外されて「春近し」の副項目に降格された。とんでもない暴挙だ。外す側の論拠としては、現代人の「隣」感覚の希薄さが考えられなくもないが、だからこそ、なおのこと、このゆかしき季語は防衛されなければならないのである。(清水哲男)


March 0131999

 三月やモナリザを賣る石畳

                           秋元不死男

月は寒暖の交代期。レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画「モナリザ」の謎めいた微笑のように、季節をはっきりと捉えがたい月だ。しかも句の「モナリザ」は、大道で売られている粗悪な複製品である。ますます、捉えがたい。最近では、あまり「モナリザ」などの名画の複製を売る人の姿を見かけなくなったが、あれはいったいどういう人が買っていたのだろうか。昔の「純喫茶」などによく飾ってあったところから考えると、そうした商売の人が顧客だったのかもしれない。似たような複製絵画は、子供だったころの音楽の教室に掲げてあった。モーツアルトが魔笛を構想する図だとか、ベートーベンのしかめっ面だとかと、あんな絵があったおかげで、みんながクラシック嫌いになってしまった(笑)。複製画を売る人も少なくなったが、句のような石畳も、なかなか見られなくなった。かつての安保闘争や大学紛争のときに、剥がして投げれば凶器になるという理由から、東京などでは「当局」が撤去してしまったせいもある。「坂の長崎石畳、南京広場の夜は更けて……」云々という戦後すぐの流行歌があった。あの時代にこそ、この句はよく似合う。(清水哲男)


March 2631999

 蝿生れ早や遁走の翅使ふ

                           秋元不死男

近はとんとお目にかからなくなったが、どこの家庭にも「蝿叩き」があったころの句。越冬した大人の蝿はもちろん、春に生まれる子供の蝿も、容赦なく打たれる。不衛生の権化ないしは象徴として、昔から蝿は打たれつづけてきた。あまりにも可哀相だと、一茶が例の有名な句を作ったほどだ。したがって、生まれたばかりの赤ちゃん蝿も、句のようにはやくも遁走の翅(はね)を使いはじめているという見立てである。作者の弁。「一茶にしろ、鬼城にしろ、どちらも貧乏で……好んで小動物を詠んだのは、何か貧乏とかかわりがあるのかも知れない。わけて一茶には蝿の句が多い。私も子供のころ貧乏な生活の中で育った。蝿の多い路地もあったろうし、従って家の中まで飛びまわる蝿もめずらしくなく、敵視する気持もそれほど強くなかった」。句は、生まれてすぐに人間から「敵視」される運命と定まった赤ちゃん蝿に、同情もし、哀れとも感じている。戦前の「俳句事件」で二年間の獄中生活を送った作者の心情が、子供時代の貧乏生活にプラスされて、いわれなき敵視を受けておびえる蝿の仕草に寄り添っている。『瘤』(1950)所収。(清水哲男)


July 0771999

 七夕やまだ指折つて句をつくる

                           秋元不死男

を言うと、今日七夕の句を掲げるのには心理的な抵抗がある。本来は旧暦の七月七日(1999年では8月17日)の節句であるし、梅雨も盛りの頃とて、ろくに星空ものぞめないからだ。でも、東京あたりでは保育園や幼稚園をはじめとして、強引に今日を七夕として行っているので、こんなことで流れに逆らうのもはばかられ、しぶしぶの選句とはあいなった。句意は簡明だ。「指折つて句をつく」っているのは、日頃から俳句の心得がない人というわけで、この場合は子供だろう。七夕の当日になっても、なお短冊に書く句を作りあぐねている。少しは苛々もするが、一所懸命に指を折っている様子が可愛らしい。私が子供だった頃には、短冊に俳句などを書きつける意味を「文字の上達を祈るため」と教えられた。女の子は「裁縫の上達」のためだったらしい。そのために朝早く起き、里芋の葉にたまっている露を茶碗に集めてきて、硯(すずり)の墨をすった。戦前じゃないですよ、戦後の話ですよ。何を書いたかはすっかり忘れてしまったけれど、いっこうに字がうまくならなかったことからすると、心からの真剣な願いを書かなかったからにちがいない。どうも、私には上手に行事にノレない性格があるようだ。(清水哲男)


September 1991999

 火だるまの秋刀魚を妻が食はせけり

                           秋元不死男

焦げの秋刀魚(さんま)。商売人が焼くようには、うまく焼けないのが秋刀魚である。でも、うまく焼けなくても、うまいのも秋刀魚だ。火だるまの秋刀魚も、また良し。炭化寸前の部分に、案外なうまみがあったりする。第一、火だるまのほうが景気がいいや…。と、結局のところで、妻の焼き方の下手さ加減を嘆じつつも、作者は彼女を慰めていると読んだ。ただし、これは秋刀魚だから句になるのであって、たとえば鰯(いわし)などでは話にならない。さて、秋刀魚に詩的情趣を与えたのは、御存じ・佐藤春夫の「秋刀魚の歌」(『わが一九二二年』所収)である。「あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝へてよ/……男ありて/今日の夕餉に ひとり/さんまを食(くら)ひて/思ひにふける と。」にはじまる詩の哀調は、さながら秋刀魚に添えられる大根おろしのように、この魚の存在を引き立ててきた。ところで 今年の秋刀魚は、昨年につづいて不漁だという。平年だと一尾100円のものが、150円ほどはしている。そこで橋本夢道に、この一句あり。「さんま食いたしされどさんまは空を泳ぐ」。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)


February 0922002

 借財や干鱈を焙る日に三度

                           秋元不死男

語は「干鱈(ひだら)」で春。助宗鱈(スケソウダラ、スケトウダラとも)をひらき、薄く振り塩をして干したもの。軽く焙(あぶ)って裂き、醤油をつけて食べる。草間時彦に「塩の香のまず立つて干鱈あぶりをり」の句があって、いかにも美味そうだ。酒の肴にするのだろう。が、掲句はそんなに粋な情景ではない。酒肴というものは、だいたいが一寸ずつつまむから美味いのであって、掲句のように三度三度の食卓に乗せるとなると、誰だって辟易してしまうだろう。スケソウダラは、昔はマイワシと同じくらいに大量に獲れたので、安い魚の代表格だった。敗戦直後のニュース映画で、女性代議士が「毎週スケソウダラの配給ばかりでは、庶民はたまったものではない」と政府に詰め寄っているシーンがあったのを覚えている。一方のマイワシについては、穫れすぎて、北海道では道路の補修工事に使っていたほどだったという。そんな背景があっての掲句である。「借財」の重さを思いながら、三度三度干鱈を焙る男の姿は、やけに哀しく切ない。しかし、その干鱈さえ満足に口にできなかった人々もたくさんいた。我が家だけではなかった。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 3172002

 吸殻を炎天の影の手が拾ふ

                           秋元不死男

をきれいにするために、奇特な人が吸殻を拾っているのではない。戦争中から敗戦直後の時期にかけては、煙草は品不足で貴重品だった。戦争中は配給制だったし、戦後一年目に売りだされた「ピース」(一箱7円)などは、日曜祭日にしか販売されなかった。私の父は煙草を喫わないので、配給の煙草を近所にわけて感謝されていたようだが、煙草好きには大変な時代だったろう。投げ捨てられた吸殻を拾い集め(モク拾い)て、一本ずつにまき直して売る商売まで登場したほど。大学の売店では、一箱など高くて買えない学生が多かったので、専売法違反を承知でばら売りまでやっていたという。そんな時代を背景にした句だ。作者が煙草を好んだかどうかは知らないが、好まなくても、道に落ちている吸殻にはひとりでに目がいっただろう。「あ、落ちている」と思った瞬間に、さっと拾った人がいた。商売の人ではなく、普通の人だ。商売の人ならステッキ状の棒の先に針をつけた道具を持っていたので、区別がつくわけだ。いくら煙草が喫いたくても、昼日中に落ちているものを拾うという行為には、屈辱感が伴う。逆に目撃した作者の側から言えば、見てはいけないものを見てしまったという後ろめたさが走る。そこで、その人の手が拾ったのではなく「影の手」が拾ったのだとおさめた。実際には炎天下だから、影はくっきりと濃かっただろうし、影が素早く拾ったように見えたのかもしれない。が、このおさめ方に、私は作者の優しさが投影されていると読んでおきたい。『万座』(1967)所収。(清水哲男)


October 09102002

 鳥渡るこきこきこきと罐切れば

                           秋元不死男

わゆる「新興俳句事件」に連座して、作者は戦争中に二年ほど拘留されていた。その体験に取材した句も多いが、掲句は自由の身になった戦後の位置から、拘留のことを思いつつ作句されている。拘留時の作者は、おそらく自由に空を飛ぶ鳥たちに、羨望の念を禁じえなかっただろう。鳥たちは、あんなに自由なのに……。古来、捕らわれ人の書いたものには、そうした思いが散見される。だが、ようやく自由の身を得た作者には、必ずしも「渡り鳥」の自由が待っていたわけではない。冷たい世間の目もあっただろうし、なによりも猛烈な食料難が待っていた。あの頃を知る人ならば、作者が切っている缶詰が、どんなに貴重品だったかはおわかりだろう。その貴重品を食べることにして、ていねいに「こきこきこき」と切る気持ちには、複雑なものがある。「こきこきこき」の音が、名状しがたい気持ちをあらわしていて、切なくも悲しい。身の自由が、すべて楽しさにつながるわけじゃない。こきこきこき、そして、きこきこきこ、……。この「罐」を切る音が、いつまでも心の耳に響いて離れない。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


February 0122003

 明日ありやあり外套のボロちぎる

                           秋元不死男

語は「外套(がいとう)」で冬。敗戦後二年目の句だ。詩歌に「明日」が頻繁に登場したのは、戦後十数年までだろう。壊滅したこの国の人々は、とにかく「今日」よりも「明日」に希望をつないで生きるしかなかった。あのころ、澎湃(ほうはい)として沸き起こった労働争議を支える歌にも、無数の「明日」が刻み込まれている。だから、一口に「明日」と言っても、その内実、込められた思いは千差万別だった。ある人の「明日」には明るさがあり、ある人のそれには暗さしかなかった。こんなにも「明日」という言葉に、多面的な意味や情感が託された時代は、他になかったのではなかろうか。「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」(寺山修司)。掲句の作者はボロ外套を着て、街頭を歩いている。失意落胆、暗澹たる思いを打ち消すことができない。本当に、明るい「明日」はくるのだろうか。わからない。来ないかもしれない。そんな忸怩たる思いのなかで、作者はこれではならじと気を取り直した。「明日」は必ず「ある」のだ。と、外套のボロを引きちぎった。自分で自分を激励したのである。ボロを引きちぎる指先の力の込めように、激励の度合いが照応している。三段に切れた珍しい句だが、ぶつぶつと切れているからこそ、作者の心情がよく伝わってくる。『万座』(1967)所収。(清水哲男)


August 0182003

 礁打つ浪に八月傷むかな

                           秋元不死男

語「八月」は初旬に立秋がある(今年は8日)ので、秋季に分類される。夏から秋にかわる月だ。暑い日が多いとはいえ、中旬ころになると、朝夕にはそこはかとなく秋の気配が感じられるようになる。海の変化はもっと明瞭で、太平洋岸の土用波は言うまでもなく、だんだんと立つ波も荒くなり、海水浴客もめっきりと減ってしまう。作者は岩礁に打ち寄せるそんな荒い「浪」を見ながら、季節が衰微していく気配を色濃く感じている。その気配を「八月傷(いた)む」と言い止めたところが見事だ。季節の活力がピークに達して、それが徐々に傷んでいく宿命は自然全般のものであり、もとより我ら人間とても例外ではありえない。この句を読んだときに、去り行く青春への挽歌と感じた読者も少なくないだろう。詠まれている情景自体は荒々しいが、「八月傷む」と情景が転位され抽象化されたときに、ふっと読者の胸をよぎるのは優しくも甘酸っぱい感傷のはずだからである。ところで、句の「礁」はどう発音すればよいのだろうか。辞書通りに素直に「しょう」と音読みしておいてもよいのだろうが、句としてのリズム感がよろしくない。私としては「巖根(いわね)」か「巖(いわお)」と発音したいところだ。ただ「巖根」や「巖」の文字面だと山を連想させるので、作者はあえて海を意識させる「礁」の漢字を当てたのではないかと、勝手に想像してのことである。平井照敏編『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ ありがとうございます ] 数人の読者から「礁」は「いくり」と読むのではないかとのメールをいただきました。意味は、石。海中の岩。暗礁。古事記下「由良の門(と)の門中(となか)のいくりに」[広辞苑第五版]。古語ですか、どうなんでしょうか、うーむ。


April 0142004

 白飯に女髪かくれて四月馬鹿

                           秋元不死男

語は「四月馬鹿」だが、さあ、わからない。わかるのは「白飯」とあるから、白い米の飯に乏しかった戦中戦後の食料難の時代の作句だという程度のことである。そこで、ああでもないこうでもないと散々考えた末に、勝手にこう読むことに決めた。したがって、これから書くことは大嘘かもしれません(笑)。まず漢字の読みだが、「白飯」は往時の流行語で「ギンシャリ」を当て、「女髪」は「メガミ」と読んでみた。「メガミ」は「女神」に通じていて、しかし作者の眼前にいる女性をそう呼ぶのは照れ臭いので、少し引いて「女髪」とし、髪の美しさだけを象徴的に匂わせたという(珍)解釈だ。ただし、古来「女の髪の毛には大象も繋がる」と言うから、まんざら的外れでもないかもしれない。こう読んでしまうと句意はおのずから明らかとなる。すなわち、色気よりも食い気先行ということ。久しぶりの「ギンシャリ」にありついて、その誘惑の力の前には「女神」も「女髪」もあらばこそ、「白飯」の魅力に色気はどこかにすっ飛んでしまったと言うのである。すなわち自嘲的「四月馬鹿」の句であり、可笑しくも物悲しい味のする句だ。おそらく同時代の作句と思われる句に、原田種茅の「四月馬鹿ホームのこぼれ米を踏む」がある。闇屋がこぼしていった米粒だろう。気づかずに踏んでしまってから、「痛いっ」と感じている。人目がなければそっとかき寄せて、拾って帰りたいほどの「米」を踏んでしまった「馬鹿」。半世紀前には、こんな現実があったのだ。それにつけても、昔から「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、しかし、足りすぎると今度は現今の我が国のようなテイタラクとはあいなってしまう。そういえば、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とも言うんだっけ。まことに中庸の道を行くとは難しいものである。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


August 3182004

 ひらひらと猫が乳呑む厄日かな

                           秋元不死男

句で「厄日(やくび)」といえば「二百十日」のこと、秋の季語。今年は閏年なので、今日にあたる。ちょうど稲の開花期のため、農民が激しい風雨を恐れて「厄日」としたものだ。その恐れが農家以外の人々にもストレートに伝わっていたのだから、この国の生活がいかに農業に密着していたかがよくわかる。今年は台風の当たり年。折しも大型の台風が九州を抜け日本海側を通過中で、それらの地方では暦通りの厄日となってしまった。掲句に風雨のことは一切出てこないけれど、そんな台風圏のなかでの作句だろう。表は強い風と雨にさらされていて、薄暗い家の中に籠っているのは作者と猫だけだ。猫もさすがに少しおびえたふうで、ミルク(乳)を与えると大人しく呑んでいる。こういうときには、生き物同士としての親密感が湧くものだ。そして、か弱いものを守ってやろうという保護者意識も……。だから、普段は気にすることもない猫の食事を、作者はじっと眺めている。「ひらひらと」は猫が乳を舐める舌の様子でもあり、自然の猛威の中ではなんとも頼りない猫の存在と、そして作者自身の心理状態でもあるだろう。ひらひらと吹けば飛ぶよな猫と我、と昔の人なら言ったところだ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 21112004

 亡き友は男ばかりや霜柱

                           秋元不死男

語は「霜柱(しもばしら)」で冬。言われてみれば、私の場合もそうだ。「友」の範囲をそんなに親しくなかった同級生や同世代の知り合いにまで広げてみても、やはり「男ばかり」である。女性は長生きという定説が、私などの狭い交友範囲でも実証されている恰好だ。句の「霜柱」は、自分より早く死んで行った男友達の(散乱した)墓標に擬しているのだろうか。寒い朝にじゃりっと立っている彼らも、日が昇ってきてしばらくすると、あたりをべとべとにして溶けてゆく。すなわち、霜柱の消え方は決して潔くはない。この世に大いに未練を残して、いやいや消えて行くように思える。ここまで読む必要はない句なのだろうが、少なくともあのじゃりじゃりと凍った感じは、人の心をいわば毛羽立たせる。したがって、作者のような感慨も自然に浮かんできたのだろう。子供のころは、ときに長靴の買えなかった冬もあって、霜柱の道をゴム草履に素足で登校したこともある。私だけじゃない。そんな子は、たくさんいた。当時を振り返れば、しかし貧しかったことを嘆くよりも、元気だったなあと思う気持ちのほうが、いまは強い。「子供は風の子」というけれど、本当だ。子供の生命力は凄いんだ。そんなゴム草履仲間も、もう子供とは言えなくなった大人へのトバグチで、何人かが霜柱が溶けるように死んでいった。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2252005

 煌々と夏場所終りまた老ゆる

                           秋元不死男

語は「夏場所(五月場所)」。いまは六場所制だが、五月場所は初場所と並んで歴史が古い。作者は、毎年この場所を楽しみにしていたのだろう。千秋楽、館内「煌々(こうこう)」たるうちに優勝力士の表彰式も終わり、立ち上がって帰る前に、あらためて場内を見回して余韻を噛みしめている。充実した場所に大いに満足はしているのだが、それだけにもう来年まで見られないのかと思うと、一抹の寂寥感がわいてくる。そんな感情にかられるのもまた相撲見物の楽しみの一つではあるものの、一年に一度の夏場所ゆえ、ふっと我が身の年齢に思いが及んだりする。また一つ、年を取った……。あと何度くらい、ここで夏場所を楽しめるだろうか。若いうちには思いもしなかった「老い」の意識が、遮りようもなく脳裡をかすめたというのだ。まだ大相撲人気が沸騰していたころの句だから、この寂寥感は無理なく当時の読者の共感を呼んだにちがいない。比べると、昨今の相撲にはこうした感情が入りにくくなったような気がする。それは何も朝青龍などの外国人力士が強いからというのではなく、相撲そのものの内容が、昔とはすっかり変わってしまったせいではないのかと愚考する。いちばん変わったのは、勝負に至るスピードだろう。行司がついていけないほどのスピーデイな相撲は、よほどの玄人でないかぎり、見ていてもよくわからない。わからなくては、感情移入の隙もない。格段の技術の進歩が、かえって人気を落としてしまったというのが、ド素人の私の解釈である。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0912006

 道にはずむ成人の日の紙コップ

                           秋元不死男

語は「成人の日」で新年。いろいろな情景が想像できるが、あまりディテールを思い描かないほうがよいだろう。道を歩いていたら、どこからか「紙コップ」が跳ねながら転がってきた。それだけで十分だ。誰がどんな状況で投げ捨てたのかなどは、とりあえず句意には関係がない。作者が言いたいのは、この跳ねている紙コップに若さの一側面を見たということだけだからだ。すなわち、若さとはこのコップのように真っ白で何でも入れることができ、しかし他方ではいくらでも投げ捨てることもできる二面性を持っている。多くの可能性と、同時に多くの消費性とを併せ持つところが、若さという容器なのである。しかも、投げ捨てられてもなお跳ねているところが、遠く青春を去った作者にとっては、とても眩しく思われるのでもある。若さのただ中にあってはわからなかったことが、いまこうして捨てられた紙コップからでさえも、容易にわかってしまう切なさよ。と、作者はおのれの来し方をもちらりと想起して、あらためて紙コップを見つめ直しているのだ。ところで「成人の日」の制定時には一月十五日と決まっていたが、現在は第二月曜日へと動くようになった。年ごとに違う日付になるのはしっくりこない気がするが、2000年1月14日に急逝した辻征夫の場合は、変更になったおかげでお嬢さんの成人式に立ち会うことができたのだった。没後、親娘で撮った晴れ晴れとした記念写真を見せてもらったことがある。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 2822006

 瀬の岩へ跳んで錢鳴る二月盡

                           秋元不死男

語は「二月盡(二月尽・にがつじん)」で春。二月も今日でお終いだ。頭では短い月とわかっていても、実際にお終いとなると、あらためてその短さが実感される。月のはじめには立春があり、だんだんと日照時間も伸びてきて、梅の開花もあるから、本格的な春ももう間近と心が弾む月末でもある。掲句の作者も、そんな気分だったのではあるまいか。おそらくは一人で、心地良い風に誘われて川辺を散策していたのだろう。あまりに気分が良いので、ほんのちょっぴり羽目を外すようにして、近くの「瀬の岩」にぴょんと跳び移ってみたのである。むろん難なく跳べたのだったが、跳んだはずみでズボンのポケットに入っていた小銭がちゃりちゃりっと鳴った。そういうことは普段でもよくあることだが、早春の良い気分のなかだと、いささか不似合いである。小銭には、小市民的な生活臭が染みついているからだ。ちゃりちゃりっと小さな音にしても、せっかくの浮き立った気分が、現実生活のことを持ち出されたようで台無しになってしまう。その少々水をさされた気分が、作者には「二月盡」の思いにぴったりと重なったというわけだ。春への途上の月ということで、終りまでなんとなく中途半端な感じのする二月にぴったりだと、苦笑しつつの句作であったにちがいない。ズボンのポケットに、バラの小銭を入れている男ならではの発想である。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


語は「二月盡(二月尽・にがつじん)」で春。二月も今日でお終いだ。頭では短い月とわかっていても、実際にお終いとなると、あらためてその短さが実感される。月のはじめには立春があり、だんだんと日照時間も伸びてきて、梅の開花もあるから、本格的な春ももう間近と心が弾む月末でもある。掲句の作者も、そんな気分だったのではあるまいか。おそらくは一人で、心地良い風に誘われて川辺を散策していたのだろう。あまりに気分が良いので、ほんのちょっぴり羽目を外すようにして、近くの「瀬の岩」にぴょんと跳び移ってみたのである。むろん難なく跳べたのだったが、跳んだはずみでズボンのポケットに入っていた小銭がちゃりちゃりっと鳴った。そういうことは普段でもよくあることだが、早春の良い気分のなかだと、いささか不似合いである。小銭には、小市民的な生活臭が染みついているからだ。ちゃりちゃりっと小さな音にしても、せっかくの浮き立った気分が、現実生活のことを持ち出されたようで台無しになってしまう。その少々水をさされた気分が、作者には「二月盡」の思いにぴったりと重なったというわけだ。春への途上の月ということで、終りまでなんとなく中途半端な感じのする二月にぴったりだと、苦笑しつつの句作であったにちがいない。ズボンのポケットに、バラの小銭を入れている男ならではの発想である。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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