水原秋桜子の句

December 19121996

 隅田川見て刻待てり年わすれ

                           水原秋桜子

年会がはじまる時刻までには、まだ間がある。ひさしぶりに会場近くの隅田川を眺めながら、時間をつぶしている図。ゆったりとした川の流れが今年一年の時の流れへの思いと重なって、歳末の情感がしみじみと胸にわいてくる……。今宵は、静かな席での良い酒になりそうだ。秋桜子の代表句といってよいだろう。(清水哲男)


February 0721997

 赤椿咲きし真下へ落ちにけり

                           加藤暁台

台は十八世紀の俳人。もと尾張藩士。椿の花は、桜のようには散らずに、ぽとりと落ちる。桜の散る様子は武士のようにいさぎよいとされてきたが、椿の落ちる様は武士道とは無縁だ。花を失うという意味では、むしろ椿のほうが鮮烈だというのに、なぜだろうか。おそらくは、花そのものの風情に関わる問題だろう。椿の花はぽってりとした女性的な風情だから、武士の手本に見立てるのには抵抗があったのだと思う。それにしても、こんなに花の死に様ばかりが詠まれてきた植物も珍しい。「赤い椿白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)、「狐来てあそべるあとか落椿」(水原秋桜子)など。(清水哲男)


September 0591998

 朝雲の故なくかなし百日紅

                           水原秋桜子

秋くらいまでは盛んに咲きつづける百日紅(さるすべり)。生命力に溢れたその姿は意気軒昂という感じで圧倒されもするが、だからこそ逆に、ときに見る者の心の弱さを暴き出すようにも働く。朝の雲を「故なくかなし」と見つめることになったりする。この句は、辻井喬『故なくかなし』(新潮社・1996)で知った。この本の帯に「俳句小説」と書かれているように、辻井さんが諸家の俳句作品に触発されて書いた十八の短編が収められている。秋桜子のこの句にヒントを得た作品は、表題作に掲げられているだけあって、なかなかに味わい深い。小説については直接本を読んでほしいが、もう一度ここで掲句を眺めてみると、なるほど、どこかに物語を発生させる装置が仕込まれているような気がしてくる。形式的にはまぎれもない俳句なのだけれど、むしろ短歌の世界を思わせる作品だ。秋桜子には、かなりこうした劇的句とでも言える句が多い。句のなかで何かを言い切るのではなく、多く感情的な筋道を示すことで、後の成り行きは読者にゆだねるという方法だ。正直に言って私はこの方法に賛同できないのだが、いまの若い人の俳句につづいている方法としては、現役バリバリのそれである。(清水哲男)


March 2632000

 葛飾や桃の籬も水田べり

                           水原秋桜子

は「まがき」で、垣根のこと。現代の東京都葛飾(かつしか)区というと、私などには工場のたくさんある地帯というイメージが強い。が、句の葛飾は、江戸期以来の隅田川より東の地域全般の地を指している。近代に入ってから、東京、千葉、埼玉に三分割された。昔の東京の小中学校からは遠足の地として絶好だったらしく、少年時の作者も何度か遠足で訪れた土地だという。そのときから作者は葛飾の風景に魅かれ、吟行でも再三訪れており、この地に材をとった句をたくさん作っている。なかでもこの句は、さながら絵に画いたように美しさだ。いや、こうなるともう俳句ではなくて、一枚の風景画だと言ったほうがふさわしい気すらしてくる。葛飾句についての秋桜子のコメントが残っている。「私のつくる葛飾の句で、現在の景に即したものは半数に足らぬと言ってもよい。私は昔の葛飾の景を記憶の中からとり出し、それに美を感じて句を作ることが多いのである」。胸の内で長い間あたためられてきた葛飾のイメージは、夾雑物がすべて削がれて、かくのごとく桃の花のように見事に開いたのであった。『葛飾』(1930)所収。(清水哲男)


January 1412002

 成人の日の大鯛は虹の如し

                           水原秋桜子

語は「成人の日」で、新年に分類する。大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日。戦後にできた祝日だ。一月十五日と定めた(2000年から第二月曜日になった)理由は、おそらくは次の日が昔の奉公人の休日だった「薮入り」と関係しているのだろう。「薮入り」で父母のもとに帰ってくる若者たちは、いちだんと成長して大人びてくる。物の本によれば、この日を鹿児島地方では「親見参(おやげんぞ)」と呼び、離れて暮らす子供らが親を見舞う日になっていたそうだ。「成人の日」が法制化された敗戦直後の工場や商家などには、こうした風習がきちんと残っていただろうから、その前日を祝日にしたのは「大人になった自覚」云々の趣旨よりも、むしろハードに働く若者たちに連休を与えてやろうという「民主主義国家」としての「親心」が働いていたのではあるまいか。いわば「隠し連休」というわけで、粋なはからいだったのだと思いたい。掲句に解説の必要はなかろうが、子供の成人を「大鯛」でことほぐことが、決して大袈裟でも何でもない時代があったことが知れ、興味深く読める。それほどに、当人も親たちも「成人」のめでたさを実感できる社会の仕組みのなかで生きていたのだ。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)などに所載。(清水哲男)


January 2612007

 蓮枯れて大いなる鯉どに入りぬ

                           水原秋桜子

原秋桜子が、定期的に粕壁(現春日部)に足を運んだのは昭和五年からの三年間。知己である医師の依頼を受けて月二回出張診療に行くことになる。当時粕壁中学(現春日部高校)教員仲間で句会をやっていた加藤楸邨たちは「ホトトギス」に出ていた秋桜子のエッセイでこのことを知り、秋桜子の診療日に押しかけて指導を頼んだ。以後、診療が終わると秋桜子のグループは粕壁の古利根川や庄内古川を吟行して句会を行ったのである。秋桜子の「ホトトギス」離脱が同六年七月。その三ヶ月後の「馬酔木」十月号に、昭和俳句史上最大の「事件」となった反「ホトトギス」の論文「『自然の真』と『文芸上の真』」が載る。秋桜子著『高濱虚子』に、「革命」前夜の動きが詳細に書かれている。診療後の庄内古川を吟行したあと、鰻屋に向う途中で楸邨に尋ねられた秋桜子は「僕は近いうちに『ホトトギス』をやめるかもしれない」と打ち明ける。楸邨は「一度決意された以上はしっかりなさらなければならない」と応ずる。どは竹を編んで筒状にした川魚を取る仕掛け。川底に沈めて魚を誘い込む。古利根川や庄内古川でよく見られた風景であり、楸邨も当時の句に多く詠んでいる。昭和七年のこの作、どに生け捕られた大きな鯉は「ホトトギス」だったのかもしれぬ。『新樹』(1933)所収。(今井 聖)


April 2242007

 朝寝して鏡中落花ひかり過ぐ

                           水原秋桜子

くもこれだけ短い言葉の中で、このようなきらびやかな世界を作ったものだと思います。詩歌の楽しみ方にはいろいろありますが、わたしの場合、とにかく美しく描かれた作品が、理屈ぬきで好きです。読んですぐに目に付くのは、中七の4つの漢字です。これが現代詩なら、めったに「鏡中」だとか「落花」などとは書きません。「鏡のなか」とか、「おちる花」といったほうが、やさしく読者に伝わります。句であるがための工夫が、創作過程で作者によってどれだけなされたかが、想像されます。もちろん読者としてのわたしは、自然に言葉を解きなおし(溶きなおし)、鑑賞しているのです。春が進むにつれて、日々、太陽の射し始める時刻は早まってきます。じりじりと部屋に侵入してくる明るい陽射しでさえも、ふとんの中の心地よい眠りを妨げるものではありません。まして目覚め間際の眠りほど、そのありがたさを実感させてくれるものはありません。けだるい体のままに目を開けると、いきなり飛び込んできたのは、世界そのものではなく、きれいな平面で世界を映した鏡でした。鏡という別世界の中を陽射しが入り込み、さらに光の表面をすべるように花びらが落ちてゆきます。なんだか、目覚めたあとも眠りの中のあたたかな美しさに取り巻かれているようです。潔くも、それだけの句です。『鑑賞俳句歳時記』(1970・文藝春秋社)所収。(松下育男)


January 0412008

 雪の岳空を真青き玻璃とする

                           水原秋桜子

年の加藤楸邨先生をドライブで一の倉沢にお連れしたのは確か十四年前の晩秋だった。足腰が弱られていたために車を降りてからは車椅子。岩場を縫っての「吟行」になった。この前後の頃に何度先生をさまざまなところへお連れしたことだろう。「歩行的感動」という言葉を出して句作の機微を説明されたほど、実際にものに触れてつくることを旨とされていたので、外に出ることがかなわぬようになると、句が固定的な観念に頼り痩せてくることを避けようとされていたのだった。一の倉沢のてっぺんは雪を被っていたような気がする。覆いかぶさるように上空を囲った岩場の絶巓から木の葉がはらはらと落ちてきた。先生は句帖を開いて太字の鉛筆を持ち、ときおり何かを書き付けておられた。車椅子を押していた僕は上から覗き込んで手帖の中を見た。そこには上句として一の倉沢。行を変えて一の倉沢。次もまた。一の倉沢が三行並んでいた。この「一の倉沢」を、先生はその後推敲して句にされ発表されたような記憶があるが、どんな句だったか覚えていない。没後編まれた句集『望岳』には載っていない。秋桜子のこの句も谷川岳で詠まれた。おそらく一の倉沢だろう。ガラスのような青空から降ってきた木の葉を忘れられない。河出文庫『俳枕(東日本)』(1991)所載。(今井 聖)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 1382010

 懸巣飛び老いし伊昔紅踊るなり

                           水原秋桜子

昔紅(いせきこう)は「馬酔木」の俳人で「雁坂」主宰。兜太の父。京都府立医専出の医師で独協中学では秋桜子と同級。地元秩父で廃れかけていた秩父音頭を埼玉を代表する民謡として再生復活させたのも伊昔紅の功績である。この俳人のエッセー『雁坂随想』が長男兜太や二男千侍(せんじ)らの手によって刊行されているが、これがものすごい代物。あまりの破天荒に抱腹絶倒というより唖然として空いた口がふさがらない。例えば「芳草記」と題した文章は、野糞について自分の体験談が延々と語られる。「有名な《夏草やつはものどもが夢のあと》の夏草の代りに《夏クソ》を置き換へてみても結構筋が通る。》」この調子である。他にエロ話も随所に出てくる。それらきわどい話が混然として、全体としては秩父の風土と人間に対する愛情に満ちた一巻となっている。まさに兜太の原型を見る思い。この句、秋桜子の同級生をみつめる眼が温かい。秩父山中を飛ぶ鳥や秩父音頭も何気なく盛られている。こういうのを本物の挨拶句というのだろう。『雁坂随想』(1994)所収。(今井 聖)


April 1542012

 山桜雪嶺天に声もなし

                           水原秋桜子

の故郷、釧路の花見は六月です。南北に長く、高低差のある日本列島の春は、ゆっくりやってきます。北国、雪国、寒冷地の春はこれからです。掲句は、はるか遠景に雪嶺を望む盆地の山桜に、声も出ないほど見入ってしまっている実景の句でしょう。句の視線は、山桜から雪嶺へ、雪嶺から天へと高度を上げ、それは、花から雪へ、雪から天へと純度を上げていくことでもありながら、急転直下、声もなしと作者のところにストンと落ちてきています。清澄な気持ちは天まで昇りつめ、一転、地上の自身に帰ってくる。作者は、声を出せないことで、天まで昇った純度を俗に陥ることなく保ちました。たとえば、信州で野良仕事をしているお百姓さんが、ふと手を休めて山桜を 見上げたとき、「山桜雪嶺天」の漢語が連なっているように、花と雪嶺と天が一体となった風景を見て、声が出ない、言葉をのみ込む、しかし、その時、風景そのものをのみ込んでしまっている、それゆえお百姓さんは寡黙なのでしょう。作者・秋桜子も、この土地の人が、この土地の「山桜雪嶺天」を見るようにこの風景をのみ込んでしまって声もなし、だったのではないでしょうか。以前、舞踏の土方巽さんが、弟子をとるときは、納豆を食わせる、とおっしゃっていました。「うまい」と言ったら不合格。黙ってズルズル食い切る奴を弟子にすると。にぎわう花見は天地人の人。声が出ない花見は天地人の天。どちらも好きです。『日本大歳時記・春』(1983・講談社)所載。(小笠原高志)


December 10122012

 風呂吹や曾て練馬に雪の不二

                           水原秋桜子

うもこの作者は、一句を美々しい絵のように仕立てるのが趣味のようだ。それが悪いというのではないが、私の口にはあまりあわない。この句の勝負どころは、風呂吹(大根)から大根の産地として有名な練馬を連想するところまでは通俗的でどうということはないけれど、後半に何を配するかにかかってくる。私なら通俗ついでに「恋ひとつ」とでもやりたいところだが、秋桜子は大根の白さを「不二(富士)」にまで押し通したつもりか、曾て(かつて)は見えていた雪化粧の富士山を据えている。ここで私には富士山よりも、作者の「どうだ」といわんばかりの顔までが見えるようで鼻白んでしまう。駄句とまでは言わないが、これではせっかくの風呂吹にまつわる人間臭さが飛んでしまっている。つまり、せっかくの風呂吹の味がどこかに失せているのだ。美々しい絵はそれなりに嫌いではないけれど、私は人間臭さの出ている絵のほうが、どうもよほど好きなようである。蟇目良雨『平成 食の歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


February 2422013

 暮雪飛び風鳴りやがて春の月

                           水原秋桜子

書に、「八王子は天候の急変すること多し」とあります。作者は、昭和二十年の東京空襲で自宅・病院・学校を焼失し、八王子市中野に転居。掲句は、昭和二十四年の作です。八王子は、東京から内陸へ約40km、奥多摩山地のふもとで、東側は平地、西側は盆地のような地形ですから、都心とは気温・気候は違って、冬は3℃くらい低く、夏は3℃くらい暑い内陸型の気候で、前書のとおり、たしかに天候が急変することの多い土地です。関東地方は、立春を過ぎてから一度まとまった雪が降って、それからようやく春を迎えることが多く、これはたぶん、西風から東風に切り変わる時の現象でしょう。ですから掲句は、春一番ならぬ春を告げる暴風雪。暮れ時から夜にかけて、街の色彩がモノクロの闇へと移り変わる中、雪の白が斜めにドローイングしているようです。また、「ボセツ・トビ・カゼ」と濁音が連なり、吹雪を音標化しています。五七五は、動・動・静へと納まって、春の月は澄み、清らかです。昭和二十四年の心持ちとして読むのは方向違いでしょうが、叙景そのものから、人と時代の背景を推測する寄り道も、俳句には許されているように思われます。以下蛇足。森進一さんに歌っていただきたい句です。森進一さんの声は、吹雪、風鳴り、しぶきの声です。森進一さんの声を聴くとき、その濁音は、じかに鼓膜をふるわせます。尺八のむら息もそうですが、日本の耳は、噪音を求めているところがあります。「水原秋桜子集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


April 2042013

 蟇ないて唐招提寺春いづこ

                           水原秋桜子

いづこ、について秋桜子自身が「感傷があらわに出すぎていけないと思っている」と、その著書『俳句になる風景』(1948)で述べている掲出句、水原春郎著『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)の四月二十日の一句である。ただ、作者は日記の類は嫌いだったということなので、この日に作られたとはかぎらない。蟇は夏季だが、鳴き始めるのは春であり、前出の自著の自解に「山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現わし得ているつもり」とあるので、春を惜しんでいるのだろう。唐招提寺春いづこ、強い固有名詞と詠嘆、ふつうなら上五はさらりと添えるような言葉にするところ、蟇ないて、とこれも主張している。一見ばらばらなようでいて、上五中七の具体性が、感傷をこえた深い心情を感じさせる。(今井肖子)


June 2362013

 梅雨雲の裂けたる空に岳赭き

                           水原秋桜子

和十四年、『蘆刈』所収。磐梯山と檜原湖を詠んだ連作の一つです。山岳雑誌『山と渓谷』に見る山岳写真のように、構図が決まった句です。作者は、梅雨雲のむこうに岳赭き(やまあかき)を置いて、遠近法の構図におさめています。同時に、不安定な梅雨の雲行きの中に、一瞬の裂け目からその赭き威容を現わにする磐梯山に出会う。それは、動中静在りの邂逅でしょう。句中に描かれている要素は、水・空気・光・土の非生命です。灰色に湿った視界の中に一瞬垣間見えた磐梯山の「赭」は、それらの要素に火山の火を加え、色彩が強調されています。また、下五を「赭し」ではなく「赭き」と体言止めにしたところも、磐梯山の「赭」は形容ではなく、土質そのものの物質性を示しているように読みます。(小笠原高志)


August 0482013

 たぬき寝の負ナイターを聞けるらし

                           水原秋桜子

本で初めてプロ野球のナイター試合が行われたのが昭和23年。秋桜子は、一高野球部の三塁手だったのでナイターを詠んだ句も多く、手元の『水原秋桜子集』(1984・朝日文庫)には16句所収されています。ナイター俳句の初出は、「ナイターの負癖月も出渋るか」で昭和34年。各球場にナイター設備ができ始め、それと歩調を合わせてTVナイター中継も始まり、電化の力によってプロ野球は一気に大衆化していきます。子どもも大人も野球ファンは、シーズン開幕と同時に一喜一憂の生活が始まり、秋桜子も、「ナイターのいみじき奇蹟現じたり」と喜んだり、「ナイターや論議つきねど運尽きて」とへこんだり。どちらかというと負け試合の句が多く、敗北の屈託が句作に向かわせるのでしょう。さて、掲句。ラジオで試合開始から聞き始めているわけですが、試合展開はジリ貧で勝ち目がない。そのまま不貞寝してしまっている態を家人は「たぬき寝」とみてるだろうな、と自嘲してみせる、敗者の屈託。(小笠原高志)


October 12102013

 わがいのち菊にむかひてしづかなる

                           水原秋桜子

の菊、と題された連作五句のうちの一句。五句のちょうど真ん中、三句目である。菊の美しさを描こうと、朝夕菊をじっと眺めて作ったという。昭和八年の作というから、四十一歳になったばかりというところか。のちにこの連作について「力をこめたものであるが、菊の美しさを描き出すにはまだまだ腕の足らぬことが嘆かれた句」と自解している。しかし、一句だけをすっと読むと、どうすればこの菊の美しさを表現できるだろうか、という言わば雑念のようなものが消えて、菊の耀きと向き合うことによって作者の心が言葉となって自然にこぼれでているように感じられる。以前も一句を引いた『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)、俳句と共にその人となりが味わえて興味深い。(今井肖子)


January 1112014

 ぬるるもの冬田になかり雨きたる

                           水原秋桜子

やかな年末年始だったが、寒の入りの5日あたりからぐっと冷えこんでいる。そんなからからの東京に雨の予報、十二日ぶりだというが、この句の冬田も枯れ色に乾ききっていたのだろう。作者はかなりの時間、冬田を前に佇んでいたにちがいない、そこに雨。あ、雨、と気づくのは一瞬のことであり、それからあらためて冬田が雨に包まれていくのをじっと見ている作者である。景の広がりと共に時間の経過がこの短い一句の中に感じられるのは、冬田と雨、以外何もないからだろう。その省略が、寂寞とした冬田に自然の美しさを与えている。『秋苑』(1935)所収。(今井肖子)


February 1622014

 飛ぶ雲の浮べる雲となりて木瓜

                           水原秋桜子

月の初旬から、毎日空を眺めて仕事をしています。現在、紀伊半島の鎮守の森と祭を撮影移動中で、風の吹き具合によって被写体の姿が変わります。熊野本宮大社の旧本殿跡地には、高さ30m程の大鳥居があって、それを真下からしばらくの間見上げていると、鳥居が徐々に動き始めたのです。立ちくらみかと思いましたが、鳥居のはるか上空を走る雲が見せた錯覚でした。春先の雲は、時に鳥よりも速く飛びます。掲句はそんな、疾風のごとく飛ぶ雲を眺めていますが、遠ざかるにつれて動きはゆるやかになり、「浮べる雲」になっていきました。句は上五から順に、速い動き、ゆるやかな動き、そして木瓜(ぼけ)の動かないたたずまいへと移行して、視点も空から地上へとゆっくり落ちています。雲の動と木瓜の静。しかし、木瓜の花びらが落ちていく動きの余韻を残しています。「水原秋桜子集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


June 1462014

 梅雨の花林にしろく野にしろし

                           水原秋桜子

日、梅雨時の日差は白いですね、と言われなるほどと思った。曇っていても、本来は強い夏の太陽の存在が梅雨雲の向こう側に感じられる。そして、山法師、梔子、など木に咲く花から、群れて明るい十薬や雨に重たげな蛍袋など、白い花も目につく。自然の白は豊かで優しく、掲出句もそんな花の色の句のはずが、しろく、しろし、とひらがなで重ねると強く、どこか穏やかかならざりしの感があるなと思いながらいろいろ見ていると『秋櫻子俳句365日』(1990)に載っていた。六月の項の著者有働亨氏は、掲出句の前にある<人ふたりへだつ林や梅雨の蝶 >の前書「石田波郷君は東京療養所に、山田文男君は清瀬病院にあり」を引いて「(この重複した表現は)病弟子二人を思う秋櫻子の晴れやらぬ心の韻律」と述べている。そういう背景を思いながら読み返すと、作者の後姿とその目の前で無垢な白が濡れているのが見えてくる。句集『霜林』(1950)所収。(今井肖子)


December 06122014

 蓮枯れて水に立つたる矢の如し

                           水原秋桜子

池の夏から冬への変貌は甚だしく、枯蓮の池は広ければ広いほど無残な光景がどこまでも続く。そんな一面の枯蓮のさまを目の前にして戦を想像し、折れた矢を連想することはあるだろう。しかし作者は、枯蓮が折れているところよりまっすぐなところを見ている。水に立つ、という表現には、危うさとその奥の強さが共存し、よりくっきりと折れた茎の鋭角を思わせる。この句が作られたのは、屋島の射落畠(いおちばた)。源平合戦の激戦地として知られ、源氏の佐藤継信が義経の身代わりとなって命を落とした地であるという。昭和三十年代当時は蓮池に囲まれていたようだが今はその池も無くなっている。水原春郎編著『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)所載。(今井肖子)


January 1012015

 寒苺われにいくばくの齢のこる

                           水原秋桜子

苺は本来、冬苺とも呼ばれる野生の実で、これが冬苺ですよ、と言われ丸くぷちぷちとしたそれを口にした時のすっぱさと共に記憶にある。しかしこの句の寒苺は、寒中に出回っていた温室栽培の冬の苺。というのも、売っていたものを買い求め、そのつややかな色を描こうとして見つめている時に作られた句であるからだ。確かに、思わず自らの老いを自覚してしまう感覚は、大粒でみずみずしい真紅の苺の輝きがなくては生まれない。しかし、寒苺の句として読んでも、冬枯れの野に小さく実をつけた冬苺の赤を愛おしむようなやさしさがにじんで、自らの老いはとうに自覚している、というまた違った趣の一句となる。ただ、われにいくばくの、とあえて字余りのひらがな表記の中八には前者の方がぴたっとくるだろう。六日の寒の入から月も欠け始めいよいよ寒さもこれからである。『霜林』(1950)所収。(今井肖子)


July 2672015

 汗ぬぐふ捕手のマスクの汗見ずや

                           水原秋桜子

瞬の動作です。捕手は、半袖のユニフォームの袖口で、額の汗をぬぐいます。しかし、キャッチャーマスクにべとついている汗を拭くことはせず、すぐさまマスクを被ります。たぶん、高校野球でしょう。今年もプロ野球を一度、高校野球の予選を一度観戦しましたが、両者の大きな違いの一つに、試合時間の長さがあります。プロ野球の平均試合時間は3時間を超えますが、高校野球は2時間程度です。これは、一球場で一日3試合を消化しなければならないからですが、試合中は主審がタイムキーパーとなり、球児たちは貴重な時間を無駄にしないように機敏に動きます。かつては、バッターアウトのたびに内野がボールを回してからピッチャーに返球していましたが、げんざい、それは行われていません。先日、都予選を府中球場で観たかぎりでは、捕手がマスクを外す回数も非常に少なく、守備中に一度もマスクを外さない捕手もいました。さて、掲句の捕手の場合はどうだったのでしょうか。捕手がマスクを外すのは、ランナーに出られたつかの間です。暑さから出る汗と、焦りの汗が吹き出ることもあるでしょう。その汗を袖口でぬぐうけれど、マスクについている汗は拭き取らない。地味にかっこいい。一高野球部の三塁手だった作者は、ここを見逃さなかった。なお、掲句は「浮葉抄」(昭和12)所収なので、戦前の句ですが、今と変わらない捕手のひたむきな姿を伝えています。「水原秋桜子全句集」(1980)所収。(小笠原高志)




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