1996ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15121996

 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ

                           日野草城

女であろうが「おっさん」であろうが、蜜柑を食べたあとにはその香りが残るものだが、「おっさん」ではなかなか句にならない。この句は、あげて乙女の賛歌として構成されている。賛歌のほどは、微妙な字配りとして現れていて、「乙女」はやわらかく「をとめ」と表現され、「食べし」も「たべし」と、情景を抒情的に再現している。したがって、よまれているのは単に蜜柑を食べたあとの女の香りだけではない。若い女の精気がかもしだす自然な色気に、たまさかの蜜柑の香りに託したかたちで、俳人は目を細めているのである。ふっと、淡い欲情のようなものを覚えた瞬間のスケッチ。(清水哲男)


December 14121996

 寒夜や棚にこたゆる臼の音

                           探 志

夜(かんや)は「さむきよ」と読ませたいところ。柴田宵曲著『古句を観る』(岩波文庫)で見つけた。芭蕉と同時代の「有名でない俳人のできるだけ有名でない句ばかり集めた」という珍本である。この句については、次のように書いてある。「隣が搗屋(つきや)でその臼の響がこたえるのだとすれば、小言幸兵衛そっくりだが、そう限定する必要はない。臼はどこの臼で、何を搗くのでも構わぬ。ただずしりずしりという響が棚にこたえて、棚の上に置いてあるものがその振動を感ずる。もしこれが『壁をへだつる臼の音』とでもあったら、臼の所在は明になるけれども、句そのものの働きは単純になって来る。臼の音を臼の音で終らしめず、棚にこたえる点に着眼したのがこの句の特色である」……と。もうひとつ、私などには元禄期庶民の住宅環境がわかって、そちらの証言としても興味深いものがある。とはいえ、いまどきの西洋長屋の室内で餅を搗いたとしたら、もっとひどいことになるでしょうけれど。(清水哲男)


December 13121996

 クリスマスカード消印までも讀む

                           後藤夜半

半、晩年の句。外国にいる知人から届いたカードだろう。クリスマスカード自体も珍しかったころだから、感に入って、消印までを読んでしまったのだ。しかし夜半ならずとも、またクリスマスのメッセージならずとも、誰しもがたまさかの外国からの便りに接すると、消印までを読みたくなるのではなかろうか。消印の日付などから、出してくれた相手の心配りのありがたさを読み取るのである。『底紅』所収。(清水哲男)




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