1996N123句(前日までの二句を含む)

December 03121996

 冬晴れのとある駅より印度人

                           飯田龍太

者はこの句を筑紫磐井著『飯田龍太の彼方へ』で発見(!)した。筑紫氏によれば「変な俳句」となるが、評者はこれを新種の傑作と見る。この意外性、この変なおかしみ、冬でなくてもよくて、しかし冬晴れじゃないと(なにしろ印度人だから夏じゃつまらない)おもしろくないというとり合わせの妙。龍太句のマジメな句を突き抜けている。昭和52年作。『涼夜』所収。(井川博年)


December 02121996

 手から手へあやとりの川しぐれつつ

                           澁谷 道

やとり遊びの「川」は、基本形である。いくつかのバリエーションがあって、どんな形からも簡単に「川」に戻すことができる。で、困ったときには「川」に戻して相手の出方を待つ。そうすると、相手もまた違う「川」をつくって「どうぞ」という。将棋の千日手みたいになってしまうことが、よく起きる。そのようなやりとりに、作者は時雨を感じたというのである。女の子の他愛無い遊びに過ぎないけれど、そこに俳人は女性に特有の運命を洞察しているとも読める。『素馨』所収。ちなみに「素馨(そけい)」は、ジャスミンの一種。(清水哲男)


December 01121996

 駅時計の真下にゐたり十二月

                           北野平八

段であれば、そんなところにいるはずもないのに、気がついたらそんなところにいたという図。駅舎での待ち合わせだろう。何か、追い立てられるような気持ちで人を待っている。そのうちに苛々してきて、構内をうろうろしているうちに、ふと見上げると真上に大時計。知らぬ間に駅舎の真ん中に立っていたというわけだ。せわしない師走ならではの振るまいである。さりげない光景だが、この季節、誰にでも納得できそうな句。『北野平八句集』所収。(清水哲男)




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