季語が凩の句

November 19111996

 木枯や二十四文の遊女小屋

                           小林一茶

井蒼風著『俳諧寺一茶の芸術』に、こうある。「江戸時代、もっとも下等な遊女小屋である。一茶もまた貧苦。孤情の鴉で、木枯の夜、二十四文の遊女小屋に、冬の夜の哀れを味わったのかも知れない。木枯、二十四文の語が、とくに侘びしい場末の淪落の女を感じさせて、一人に哀れである」。荒涼たる性。その果てのさらなる荒涼たる心象風景。文政十年(1827)十一月十九日、小林一茶没。この人は農家に生まれながら、ついに生産的な農耕の仕事とは無縁であった。享年六十五歳。翌年四月、後妻やを女の娘やた誕生。(清水哲男)


December 14121997

 木がらしや目刺にのこる海のいろ

                           芥川龍之介

句には違いない。木枯らしの音と目刺しの青い色とが響きあう。巧みなものである。ただ、生活臭はまったく感じられない。このことは、実は作者が最も気にしているところで、平仮名の神経質な用い方にそれがうかがえる。句の光景に、なんとか人間の匂いを入れようと苦心している。ちなみに「凩や目刺に残る海の色」と漢字を多用してみると、そのことがよくわかるだろう。ここで芥川の最初の発想は、木枯らしと目刺しの取り合わせの妙を面白がりすぎていて、その面白がりようはモダニズムのそれに近いものだと思う。つまり、木枯らしや目刺しの本源的なありようよりも、関心は別のところにあったというわけだ。だから、これではならじと必死に本源へ引き戻している姿が、平仮名の用い方に滲み出ている。が、そのような苦闘にもかかわらず、この句は一枚のしゃれた絵なのであって、現実には届いていないと読んでおく。(清水哲男)


November 20111999

 木枯しや小学生の立ち話

                           藤堂洗火

ろそろ夕暮れに近いころの情景だろう。下校途中の小学生が、強い北風に吹かれながら立ち話をしている。通りかかった作者は「こんなに寒いのに、わざわざ立ち止まって何の話をしているのだろう」と一瞬訝りながら、傍らを通り過ぎた。ただそれだけのことなのだが、巧みなスケッチ句だ。「子どもは風の子、元気な子」と言うが、そんなふうに作者はとらえていない。むしろ寒さを我慢しながら熱心に話している様子が印象的だったからこそ、こういう句に仕上がったのだと思う。そういえば子どもだったころ、たいした話でもないのに、寒くてもよく立ち話をしたっけな。そんな大人の郷愁を誘うようなシーンでもある。ところで、立ち話をしているのは男の子だろうか、それとも女の子だろうか。私には、なんとなく髪の毛を押さえながら話している女の子同士の感じがする。「そりゃ女の子に決まってるよ。なんてったって、主婦の予備軍だもの」。誰ですか、そんな失礼なことを、今つぶやいたのは……。(清水哲男)


December 10122004

 木枯やいのちもくそと思へども

                           室生犀星

語は「木枯」で冬。67歳(1956)の日記に「ふと一句」として、この句が書かれている。知人にも手紙で書き送っているが、もとより発表を意図したものではない。それだけに、かえって犀星の心境が赤裸々に伝わってくる。ヤケのやんぱち。どうにでもなりやがれ。とは思うものの……。と、心が揺れているのは、体調がすこぶる悪く、医者通いの日々がつづいていたからだ。何種類かの薬を常飲し、注射を打ち、血圧は午前と午後に二度計っている。このころの犀星は創作意欲にみなぎっていたと思われるが、如何せん、身体がついてきてくれない。そのことからくる焦りが、「ふと」掲句を吐かせたのだった。しかし、そうした肉体的な衰微と闘いつつ、この年に『舌を噛み切った女』、翌年には『杏っ子』、そのまた翌年には『わが愛する詩人の伝記』と、矢継ぎ早に秀作を発表しつづけた。当時リアルタイムでこれらを読んでいた私には、彼が人生的幸福の絶頂にあると感じていたけれど、しかし人のありようとはわからないものだ。いかに世俗的な成功をおさめようとも、そんなものが何になる。肉体の衰えを抱いていた犀星は、きっと孤独のうちに悶々としていたにちがいない。元気がなにより。これは凡人の気休めなどではなく、永遠の真実だと、最近の私はつくづく思う。(清水哲男)


August 3082006

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

                           三橋鷹女

月に何年ぶりかで成田山新勝寺の祇園祭に出かけた。広々とした本堂前にくり出した山車を見物し、広い公園を散策したのち古い店で鰻を食べた。その帰り、にぎわう参道の傍らにポツリと立つ和服姿の女性の前でふっと足をとめた。鷹女さん――写真で見覚えのある鷹女の、気品ある等身大のブロンズ像だった。彼女は成田に生まれたし、父は新勝寺の重役を務めた。眼鏡の奥の鋭い目。とがった顎。この人が夏痩せしたら、いっそう全体にとがっただろうに。毅然として「嫌ひなものは嫌ひなり」ときっぱり言い切ったら、暑気も何も吹っ飛んでしまうだろう。ヤワではない。それは鷹女の気性であったことはもちろんだが、じつは一見柔和そうな女性が内に秘めている勁さでもあると思われる。こういう句を作った女性が果して幸せだったか否か・・・。そこいらに転がっている、いわゆる「台所俳句」などの類を顔色なからしめる世界である。「おそらく終生枉げることのできなかったであろう激しい気性や潔癖な性質を伝える句」という馬場あき子の指摘が、とりわけ初期の句を言い当てている。いや、晩年の遺作にも「千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き」「木枯山枯木を折れば骨の匂ひ」などがあり、激しさは健在だった。第一句集『向日葵』(1940)所収。(八木忠栄)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


January 2112007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

人、岡崎清一郎の句です。季語は木枯らし、冬です。語源は、「木を枯らす」からきているとも言われています。「この風が吹くと、枝の木の葉は残らず飛び散り、散り敷いた落ち葉もところ定めずさまよう」と、手元の歳時記には解説があります。垂直に立つ煙突を、木枯らしは横様に吹きすぎます。煙突を、枝のない木と発想するところから、この句は生まれました。その発想自体は、それほどめずらしいものではありません。しかし、木という言葉と、煙突という言葉の間に、「木枯らし」を吹かせたことで、空を支える三者につながりができ、その言葉の組み合わせが、物語をつむぎだす結果になりました。まるで、煙突にはもともと枝葉があって、木枯らしに吹かれたために、今のような姿になったかのようです。冬空に高くそびえ、寒さに耐える煙突の姿は、たしかにいたいたしくもあります。それはそのまま、コートのポケットに手を入れて冷たい風の中にたたずむ老いた人のようでもあります。かつて、友人や家族という枝葉に囲まれて、遮二無二生きてきた日々を、その人は路上に立って思い返している。と、そこまで読み取る必要はないのかもしれません。しかし、この句を読めば、だれしもの頭の中に、しんとした物語が始まってしまうはずです。『詩のある俳句』(1992・飯塚書店)所載。(松下育男)


December 05122007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

京では今年十一月中旬に木枯一号が記録された。暑い夏が長かったわりには、寒気は早々にやってきた。さて、煙突に枝がないのはあたりまえ――と言ってしまうのは、子供でも知っている理屈である。この句には大人ならではの発見がある。さすがに清一郎、木枯のなかで高々と突っ立っている煙突を、ハッとするような驚きをもって新たに発見している。そこに「詩」が生まれた。木枯吹きつのるなかにのそっと突っ立っている煙突、その無防備な存在感に今さらのように気づかされている。文字通り手も足も出ない。木枯の厳しさを、無防備な煙突がいっそう際立たせているではないか。突っ立っている煙突に、人間の姿そのものを重ねて見ているのかもしれない。木枯を詠んだ句がたくさんあるなかで、清一郎のこの句は私には忘れがたい。昭和十一年に創刊された詩人たち(城左門、安藤一郎、岩佐東一郎、他)による俳句誌「風流陣」に発表された。「清一郎の夫人行くなり秋桜」という洒落た句も清一郎自身が詠んでいる。ユーモアと奇想狂想の入りまじったパワフルな詩を書いた、足利市在住の忘れがたい異色詩人であった。小生が雑誌編集者時代に詩を依頼すると、返信ハガキにとても大きな字で「〆切までに送りましょうよ」と書き、いつも100行以上の長詩をきちんと送ってくださった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 03122008

 木枯やズボンの中に折れ曲がり

                           嶋岡 晨

枯を詠んだ俳句は古今、いったいどれだけの数にのぼるだろうか。それにしても、ズボンの中に木枯を呼びこんだ例は他にあるのかしらん? しかも、その木枯は「折れ曲が」っているのだから尋常ではない。いや、そもそもズボンは折れ曲がるものなのだ。ズボンの中の木枯は脛毛に戯れ、寒そうな脛の骨を容赦なくかき鳴らし、ボキボキと折れ曲がっているのかもしれない。痛々しく折れ曲がったあたりが一段と寒く感じられる。そもそもズボンの中というのは暖かいはずなのに、妙に寒々しさが感じられる場所ではないか。冬の早朝に、ズボンに脚を通す瞬間のあのひんやりとした感触は、男性諸氏ならとっくに実感済みのはず。大きいワザとユーモアとを感じさせる句である。晨(しん)は詩人で、エリュアールやアラゴンの訳詩でも知られる。句集の跋文冒頭に「昭和が平成に改まったころから、何故か意識的に俳句(のようなもの)を書きとめるようになった」とある。もともと詩の仲間でもあった平井照敏に兄事したこともある。他に「木枯に肋の骨のピチカート」という一句もある。木枯が脛の骨と肋の骨とを吹き抜けて、寒々とした厳寒を奏でているようではないか。『詩のある俳句』という著作もある。『孤食』(2006)所収。(八木忠栄)


October 21102009

 葱に住む水神をこそ断ちませい!

                           天沢退二郎

てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。「蜻蛉句帳」41号(2009)所載。(八木忠栄)


February 1722010

 冬籠或は留守といはせけり

                           会津八一

の寒さを避け温かい家のなかにこもって、冬をやり過ごすのが「冬籠」だけれど、「雪籠」とも言う。私などのように雪国に生まれ育った者には、軒下にしっかり雪囲いを張りめぐらせた家のなかで、身を縮める「雪籠」のほうにより実感がある。雪国新潟に生まれた八一も同様だったかもしれない。雪はともかく、家にこもって寒い冬をやり過ごすというこの季語は、今の時代にはとっくに死語になってしまっているようだ。けれども、とても情感のある好きな言葉ゆえつい使いたくなる。「或(あるい)は」は「どうかすると」とか「ある場合は」という意味だから、家人をして「先生は今留守です」と言わせて、居留守を使うことがあるのであろう。何をしているにせよ、していないにせよ、こもっている時の来客への応対は面倒くさい。そんな時は「留守」を許していただきたいね。居留守と言えば、私の大好きなエピソードがある。加藤郁乎が師とあおいでいた吉田一穂を、ある日自宅に訪ねた時のこと。玄関で「先生!」と来訪を告げると、家のなかから「吉田はおらん!」と本人が大声で答えた。奥様が出て来て「そんなわけですから、また出直して来てください」と頭を下げられたという。いかにも吉田一穂。今どきは勧誘の電話だって容赦なく入り込んでくるのだから、始末が悪い。八一には「凩や雲吹き落す佐渡の海」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 01122010

 凩や何処ガラスの割るる音

                           梶井基次郎

内を吹き抜けて行く凩が、家々の窓ガラスを容赦なくガタピシと揺らす。その時代のガラスは粗製でーーというか、庶民の家で使われていたガラスは、それほど上等ではなかっただろうし、窓の開け閉めの具合もあまりしっかりしていなかったから、強風に揺さぶられたら割れやすかったにちがいない。聞こえてくるガラスの割れる音が「何処(いづこ)」という一言によって、情景の広がりを生み出していて一段と寒々しい。目の前ではなく、どこぞでガラスの割れる音だけ聞こえてハッとさせられたのだ。同じ凩でも、芥川龍之介の「凩や東京の日のありどころ」とはまたちがった趣きをもつパースペクティブを感じさせる。三好達治がこんなエピソードを残している。あるとき基次郎に呼ばれて部屋へ行ったら、「美しいだろう」と言ってコップに入った赤葡萄酒をかかげて見せられた。なるほど美しかった。しかし後刻、それは今しがた基次郎が吐いたばかりの喀血だったとわかったという。「ガラスの割るる音」にも、基次郎の病的世界を読みとることができる。他に「梅咲きぬ温泉(いでゆ)は爪の伸び易き」がある。この句も繊細で基次郎らしい着眼である。三十一歳の若さで亡くなったゆえ、残された小説は代表作「檸檬」など二十編ほどで、俳句も多くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 19102011

 信濃路や澄むとにごると椀ふたつ

                           中村真一郎

に季語はない。じつは真一郎がこの句を作ったのは、学生時代の夏の終りころだったという。そのころは信州追分村の油屋旅館で夏を過ごしていた。大学三年の晩夏、旅館近くに住む堀辰雄も佐々木基一もたまたま留守で、自分ひとりになってしまった。夕食の粗末な膳に向かうと、少々の料理に澄まし汁と味噌汁がならべて出された。ふたつの椀がことさら侘しく感じられ、室生犀星あてのハガキに添えた一句だという。季語はないけれど、今の時季に掲げてもおかしくはない。追分村のシーズンオフのひっそりした旅館で、うそ寒い膳を前にした学生の姿が見えてくる。椀がふたつ出るなんてことがあるのだろうか? 料理が粗末だからせめてもと、ふたつの椀が膳にならべられたということかもしれない。食べきれないほどたくさんの料理がならべたてられる昨今のそれとは、隔世の感がある。余計なことを詠まずに「澄むとにごる」とだけした中七に、俳句の妙味が感じられる。真一郎には親友福永武彦が突然女子大生と結婚した際に詠んだ句として「木枯しや星明り踏むふたり旅」がある。『俳句のたのしみ』(1996)所載。(八木忠栄)


April 2742012

 蛇打ちし棒を杖とし世を拗ねる

                           吉田未灰

七までは思念の勝った高踏的な内容を思わしめる。たとえばモーゼのような、ツァラツストラのような、草田男作品のような。下五の「世を拗ねる」であれっと思う。なんだこりゃと思うのだ、最初は。ところが、なんだこりゃどころかこれは作者の風土詠だとやがて気づく。同著に「仁侠の地の木枯や叫ぶごと」もある。上州に生まれその地で営々と地歩を気づいてきた作者の郷土愛と言ってもいい。高倉健さんも唄っている「親の意見を承知で拗ねて曲りくねった六区の風よ」の「拗ねて」と同じ。国定忠治の地元である。フィクションだが木枯し紋次郎も上州。気づいたとたん俄然この句が面白くなった。世を拗ねる俳句なんて初めて見た。『点点』(2012)所収。(今井 聖)


November 12112012

 こがらしや子ぶたのはなもかわきけり

                           小野敏夫

い読者にはおなじみの句。十二年前の掲示板で作者探しがはじまり、この間多数の読者にご協力をいただきましが不明のままで過ぎてきました。そしてまさにいま「こがらし」の季節に、ようやく土肥あき子さんが突き止めてくれました。詳細については「ZouX」304号をご覧ください。作者が当時の群馬在住だったこともわかり、群馬といえば「上州の空っ風」で有名な土地ですから、句の「こがらし」はさぞや猛烈な勢いで吹いていたことでしょう。敗戦直後のころには、豚を飼っている農家は少なくありませんでした。だから「子ぶた」も、小学生の作者にとっては親しい存在です。登校途中ででも目撃したのでしょうか。可愛い子ぶたたちが、寒さに震えて身を寄せあっている姿が目に浮かんできます。「はなもかわきけり」とは、なかなかに鋭い観察ですね。なお、原句は「凩や小豚の鼻も乾きけり」というものでした。教科書に載せるにあたって、文部省がやさしい表記に改めたのでしょう。どちらが良いとは一概には言えませんが、作者がご健在なら、そのあたりのことも含めてご感想をお聞きしたいと、また新しい欲が湧いてきました。「少国民の友」(1946年4月号)初出。(清水哲男)


November 14112012

 障子貼る女片袖くはへつつ

                           尾崎一雄

子は冬の季語だが、「障子洗ふ」「障子貼る」になると秋の季語であることは、俳人ならば先刻ご存知のこと。たしかに「洗ふ」も「貼る」も、冬に備えての障子の準備作業である。古くなって色の変わった、あるいは破れができた障子を洗って除き、真新しい障子を貼る作業を経て、その家はいよいよ冬をむかえることになる。障子貼りは力仕事ではなくて細やかさが求められるから、たいがいは女性の仕事であった。女性が襷がけで甲斐甲斐しく立ち働いているわけだが、掲句の女性は襷をしていなかったから、作業の邪魔になる着物の袖を口にくわえている、という図であろう。「片袖くはへつつ」は日本画にありそうな姿がとてもしなやかだし、この女性のテキパキした動きも見えてくる。一雄らしい細やかな観察である。そう言えば、私は中学生のころ家でよく障子貼りをさせられた。古い障子をこの時とばかり、ブスブスでたらめに破ったうえではがすのが愉快だった。けれどもフノリを多からず少なからず桟に塗って、丸まった障子紙をきちんと貼っていく作業には神経をつかった。障子には「明かり障子」「衝立障子」「襖障子」などの種類があるという。現在の障子は「明かり障子」のこととされる。一雄には他に「木枯の橋を渡れば他国かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 0742013

 鯛よりも目刺のうまさ知らざるや

                           鈴木真砂女

のある真砂女の声が届いています。「知らざるや」という言い切りに、軽い怒り、あるいは戒めを聞き取ります。店主をつとめた銀座「卯浪」の常連客に向けた本音のようでもあります。たしかに鯛は、お造りにしてよし、握り、かぶら蒸し、鯛茶漬という贅沢もあり、晴れがましい和食の席には欠かせない食材です。しかし、それらは華美な器に盛られる料理でもあり、実よりも名が勝っているのだ、という声を聞き取ります。ちなみに、食材としてのタイ科の魚はマダイ、クロダイですが、タイの名を冠された別種魚は、ブダイ、スズメダイをはじめとして、数十種類をこえ、これは全国にある○○銀座と同じあやかり方でしょう。ところで、目刺の句といえば、芥川龍之介の「こがらしや目刺しにのこるうみのいろ」が有名です。ただし、芥川の場合は目刺を見ている句なのに対し、真砂女は目刺を食っている。九十六歳まで生きた糧です。目刺は、小イワシを塩水に漬けたあと天日で干したもの。これを頭から骨ごと尾まで食い尽くす。真砂女の気丈はここで養われ、同時に、目刺のように白日に身をさらしてきた天然の塩辛い生きざまと重なります。鯛には養殖物も多く出ていますが、目刺にそれはありません。ほかに「目刺焼くくらし可もなく不可もなく」「目刺焼く火は強からず弱からず」「目刺し焼けば消えてしまひし海の色」「目刺し焼くここ東京のド真中」「海の色連れて目刺のとどきけり」「締切りの迫る目刺を焦がしけり」。いよいよ真砂女が、目刺の化身に見えてきました。『鈴木真砂女全句集』(2010)所収(小笠原高志)


November 26112014

 凩に襟を立てれば戦後かな

                           阿部恭久

年の凩一号は、関西・関東地方とも10月27日に記録されている。日増しに寒さはつのるばかり。ワイシャツでもコートでも、襟を立てている若者がいるし、普段はオシャレでなくとも凩が強い日だと、人は思わず襟を立てたくなってしまう。あの襟にはそういう機能も果たしているのだ。思い出すのは、寺山修司は凩や寒さに関係なく、普段から意識的にコートの襟を立てていることが多かった。それがまたカッコ良かったよなあ。カッコ良くない人は、どうか気取って襟など立てませんように。襟が汚れるだけですよ。襟を立てることによって戦後がはじまったわけではない。けれども「襟を立て」るという、ちょっと気取った様子と「戦後」のうそ寒さが妙な具合に呼応して感じられ、どこかホッとさせられるような、懐かしいような……。敗戦で精神的に落ち込んでいた日本人の、やり場のない淋しさ、悔しさ、窮乏感と寒さが、凩と向き合った際、せめて襟を立てるという行為が凛と身を起こしてくるように、私には感じられる。この句に「外套は二十世紀も擦切れて」がならんでいる。「生き事」9号(2014)所載。(八木忠栄)


June 0562015

 万緑やいのちは水の匂いして

                           東金夢明

渡すかぎり緑の世界が広がっている。思えば地球は水の世界。たっぷりと水を吸って豊かに緑が育まれている。この水の中にわれらが「いのち」は生まれ、緑なす大地の風を呼吸している。時は今、新緑萌え盛り鳥は鳴き花は咲き誇っている。風の中に漂う水の匂いを感じつつ、様々な命が満々たる緑に包まれている。この地球に緑に命にそして水の匂いに乾杯!<振り向けば振り向いている雪女><喉ぼとけ持たぬ仏や秋の風><木枯の着いたところが地下酒場>など。『月下樹』(2013)所収。(藤嶋 務)




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