1996ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15111996

 湯豆腐やいとぐち何もなかりけり

                           石原八束

うですか、湯豆腐でも。冷えてきたことでもありますし……。誘って、鍋を間にしたまでは事は首尾よく運んだのであるが、その後がどうもいけない。この人と二人きりになったら、以前から切り出そうと思っていた話題が、うまく出てこない。なんとも曖昧な会話を交わしている間に、鍋のなかはほとんどカラッぽだ。ただただ、豆腐の破片のような空しい時間が過ぎていくばかり。このとき、鍋の相手は間違いなく男だろう。湯豆腐をいっしょに食べられる女とだったら、何も話に困ることもないからである。そうですよね、みなさん。とはいっても、もしかするとこれは厄介な別れ話ということも考えられる。……と、瞬間的にいま感じた方がおられたら、隅にはおけない存在とお見受けせざるをえない。『高野谿』所収。(清水哲男)


November 14111996

 暖炉昏し壷の椿を投げ入れよ

                           三橋鷹女

炉とは縁がないままに来た。これから先もそうだろう。ホテルなどの暖炉も、いまは装飾用に切ってあるだけだ。だから、句意はわかるような気がするけれど、実感的には知らない世界だ。ちょっと謡曲の「鉢の木」を思いださせる句でもある。そんななかで、私の知っている唯一のちゃんとした暖炉は、安岡章太郎邸の客間のそれだ。燃えていると、ほろほろと実に暖かい。豪勢な気分になる。「最近は、薪がなくてねえ…」。何年かぶりに仕事で訪れた私に、作家はふんだんに火のご馳走をしてくださった。今夜あたりも、あの暖炉はあかあかと、そしてほろほろと燃えていることだろう。(清水哲男)


November 13111996

 銀杏散るまつたヾ中に法科あり

                           山口青邨

台は東大の銀杏並木。ラジオでこの句を紹介したことがあって、聞いていた友人の松本哉が「ほうか」の音を「放歌」と理解して大いに共感したのだった。ところが後に「法科」だと知り、「なあんだ、つまらない」ということになった。このことは、もはや絶版の彼との共著『今朝の一句』(河出書房新社・1989)で、口惜しそうに当人が書いている。絵葉書的にはかっちりとよくできてはいるが、「東京帝国大学万歳」のエリート意識を嫌だと思う人には、たしかに嫌な感じだろう。ラジオで話すのも大変だが、散る場所によっては銀杏もなかなか大変である。(清水哲男)




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