1996N119句(前日までの二句を含む)

November 09111996

 大阪はしぐれてゐたり稲荷ずし

                           北野平八

ある大阪は場末の町。風采のあがらない初老の男と安キャバ勤めとおぼしき若い女とが、うらぶれた食堂に入ってくる。外は雨。男が品書きも見ずに、すっと稲荷ずしを注文すると、「なんやの。こんなさぶい時に、つめたいおイナリさんやなんて」。そこで男が毅然としていうのである。「ええか、大阪はしぐれてゐたり稲荷ずし、や。な、ごちゃごちゃ言わんとけ」。「なに、それ」。「キタノヘイハチや」。「きたの……って。聞かん名前やなぁ。……ああ、おネエちゃん、ウチはアツカンや。それとタマゴ焼きと、あとはな……」。どこまでもつづきそうな大阪の時雨の夜である。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


November 08111996

 いちまいの皮の包める熟柿かな

                           野見山朱鳥

に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)


November 07111996

 鵞鳥の列は川沿ひがちに冬の旅

                           寺山修司

山修司の句の特徴のひとつは、情景の大胆な位置づけにある。まさか鵞鳥が旅に出るわけはないが、そのよちよち歩きの行列を目にして、ひょいと「冬の旅」と位置づけてみせている。言われてみると、なるほど「冬の旅」に思えてくるから、読者としては嬉しくなってしまう。大胆な位置づけにもかかわらず、イメージの飛躍に無理がないのである。修司十代の作品。彼は、つまりはじめから演劇的な空間づくりの才に秀でていたのだった。『われに五月を』所収。(清水哲男)




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