November 061996
ためらってまた矢のごとき蜻蛉かな
小沢信男
蜻蛉は「あきつ」と読ませる。そのほうが「矢」に照応するからである。この句、実に巧みに蜻蛉(とんぼ)の生態をとらえていて、しばし「うーむ」と唸ってしまった。こうした一瞬の蜻蛉の姿を誰それの人生になぞらえることもできそうだが、この場合には、私は素直にこのまま受け取るほうを選ぶ。小沢信男は作家にして、わが「余白句会」の宗匠的存在。俳風は軽妙洒脱、反骨精神旺盛である。俳号は「巷児」と、いかにも谷中の住人にふさわしい。(清水哲男)
November 051996
此の世に開く柩の小窓といふものよ
高柳重信
養老孟司の「死体はヒトである」という言説は、多くのことを考えさせる。他方で「死体はモノである」という人もいる。「ゴミである」という人もいる。このとき、柩の小窓は何を意味するのだろうか。なんのために、あの小窓は開けられているのだろう。「死体はヒト」なのだから、此の世との交通をなおも保つためなのか。それにしては、すぐに火をかけてしまう残酷な行為を、どう解釈すればよいのか。まだ、確実に内蔵の一部は生きているというのに。俳人とともに、私もまた小窓にたじろぐ者である。『山川蝉夫句集』所収。(清水哲男)
November 041996
萩ひと夜乱れしあとと知られけり
小倉涌史
強い風の吹き荒れた翌朝、普段は地味で清楚な花の姿も、さすがに乱れに乱れたままの風情である。ただ、それだけのこと。……と、この句を読み終える人は、まず、いないだろう。萩の姿を女性のそれに重ねるようにして、人間臭く読みたくなってしまう。作者の計算はともかくとしても、俳句そのものの力が、そのような方向に読者を誘惑するのである。そしてもちろん、この場合、作者はその力をよく知っている。『落紅』所収。(清水哲男)
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