1996N114句(前日までの二句を含む)

November 04111996

 萩ひと夜乱れしあとと知られけり

                           小倉涌史

い風の吹き荒れた翌朝、普段は地味で清楚な花の姿も、さすがに乱れに乱れたままの風情である。ただ、それだけのこと。……と、この句を読み終える人は、まず、いないだろう。萩の姿を女性のそれに重ねるようにして、人間臭く読みたくなってしまう。作者の計算はともかくとしても、俳句そのものの力が、そのような方向に読者を誘惑するのである。そしてもちろん、この場合、作者はその力をよく知っている。『落紅』所収。(清水哲男)


November 03111996

 一線を越えて凍る尾觝骨

                           春海敦子

るは「こごえる」と読ませるのだろう。うーむ、丸ハダカか。「一線を越えて」という古風な言いまわしが、かえって生々しい。行為の直後のことを詠んだ句も珍しい。この人、鋭い感受性を持ってるし、素直でいい性格もしてるだろうな。でも、お友だちにはなれない気がする。この句を読むかぎりでは、まったく詩的なセンスが合わないからだ。とはいえ、かなり凄い句ですよ。ユーモラスだが、下品に落ちていないところが……。無季と読みたい。『む印俳句』所収。(清水哲男)


November 02111996

 奉公にある子を思ふ寝酒かな

                           増田龍雨

い句とは、お世辞にも言い難い。しかし、子規や虚子の句の隣りにおいても、この句はきちんと立つはずである。そこが、俳句という器の大きさであり、マジカルなところでもある。多くの子供たちが、ごく当たり前のように働いていた時代。それは大昔から、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』の頃までつづいてきた。奉公に出した子供を思う、寒い夜の親心の哀切。上手ではないからといって、作者を笑うわけにはいかないではないか。これが俳句であり、これぞ俳句なのだ。「事実の重さ」が、いまなお俳句という文芸の大黒柱なのである。昨今の俳界で、テレビを見て作句する姿勢が顰蹙をかっているのも、むべなるかな。なお、上掲の句は「俳句文芸」に連載中の西村和子「子育て春秋・第42回」(96年11月号)で紹介されていたもの。毎号、この連載は愛読している。(清水哲男)




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