1996N1020句(前日までの二句を含む)

October 20101996

 菊の香やならには古き仏達

                           松尾芭蕉

暦九月九日(今年は今日にあたる)は、重陽(ちょうよう)。菊の節句。この句は元禄七年(1694)九月九日の作。前日八日に故郷の伊賀を出た芭蕉は、奈良に一泊。この日、奈良より大阪に向かった。いまでこそ忘れ去られている重陽の日だが、江戸期には、庶民の間でも菊酒を飲み栗飯を食べて祝った。はからずも古都にあった芭蕉の創作欲がわかないはずはない。そこでひねり出したのが、つとに有名なこの一句。仕上がりは完璧。秋の奈良の空気を、たった十七文字でつかんでみせた腕の冴え。いかによくできた絵葉書でも、ここまでは到達できないだろう。(清水哲男)


October 19101996

 日本シリーズ過ぎ行くままに命過ぐ

                           品川良夜

の句の味は、中年以降の野球ファンでないとわからないかもしれない。当たり前のことながら、日本シリーズは年に一度。テレビで試合を楽しみながらも、ふと自分はあと何回、シリーズを見ることができるのだろうと「命」の果てに思いが動いたりする。そうした思いを込めたこの句が、実は良夜の絶筆となった。品川良夜は、大脳生理学者の品川嘉也の俳号。戦後いち早く松山で刊行された俳誌「雲雀」の主宰者品川柳之を父にもった関係で俳句に親しみ、89年から「雲雀」を継承、右脳俳句を提唱した。92年10月24日没。したがって、句の日本シリーズは西武対ヤクルトである。なお、本稿の資料提供は百足(ももたり)光生さん。多謝。(清水哲男)


October 18101996

 秋の夜の君が十二の學校歌

                           清水基吉

書に「三十余年ぶりにて小学校時代の男女集ふ」とある。したがって、四十歳代の同級生交歓である。句の「君」は、誰を指しているというのでもない。強いていえば出席者全員、もちろん自分も含めての「君」であろう。「はるばると来つるものかな」の感慨が滲み出た佳句である。作者は元来小説家で、芥川賞作家でもあるが、最近は小説を発表されてないようだ。たまたま姓は同じだけれど、私と姻戚関係はない。『宿命』所収。その昔、ひょんなことから署名本をいただき、大切にしている。(清水哲男)




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