1996年9月24日の句(前日までの二句を含む)

September 2491996

 虫の土手電池片手に駆けおりる

                           酒井弘司

のとき、作者は高校生。何のために必要な電池だったのか。とにかくすぐに必要だったので、そう近くはない電器店まで買いに行き、近道をしながら戻ってくる光景。川の土手ではいまを盛りと秋の虫が鳴いているのだが、そんなことよりも、はやくこの電池を使って何かを動かしたいという気持ちのほうがはやっている。作者と同世代の私には、この興奮ぶりがよくわかる。文字通りに豊かだった「自然」よりも、反自然的「人工」に憧れていた少年の心。この電池は、間違いなく単一型乾電池だ。いまでも懐中電灯に入れて使う大型だから、手に握っていれば、土手を駆けおりるスピードも早い、早い。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)


September 2391996

 ひらきたる秋の扇の花鳥かな

                           後藤夜半

鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


September 2291996

 このひととすることもなき秋の暮

                           加藤郁乎

乎の句は油断がならない。なにしろ江戸俳諧の教養がぎっしりと詰まっていて、正対すると足をすくわれる危険性が大だからである。この句にも、芭蕉の有名な「道」の句が見え隠れしている。ところで、「このひと」とはどんな人なのか。女か、男か。なんだかよくわからないけれど、読み捨てにはできない魅力がある。男の読者は「女」と読み、女の読者は逆に読めば、それぞれに物語的興味がわくのではあるまいか。といっても、私は「このひと」を「男」と読んだ。「このひと」はたぶん気難しい年長者、おまけに下戸ときているので、酒好きの作者がもてあましている図。「することもない」のは当たり前だ。情緒もへったくれもない秋の夕暮。『秋の暮』所収。(清水哲男)




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