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September 2191996

 蟲鳴きて海は暮るるにいとまあり

                           鷲谷七菜子

が国は海に取り巻かれている。したがって、海の句も多いわけだ。だが、この句の叙情性が日本人の誰にでもわかるかというと、そうはいかない気がする。この国は、一方で山の国でもあるからだ。山しか知らない人には、海の句はわからない。かくいう私も山の子だから、正直にいって、この作品の叙情の芯はわかりかねる。優れた句だと感じるのはまた別の理由からなので、この句を実感的にとらえられない自分がくやしい。いつの日か、秋の海辺を訪れることがあったら、この句を思いだすだろう。そしてそのときに、はじめてこの句に丸ごと出会えることになるのだろう。『黄炎』所収。(清水哲男)


January 1811997

 行きずりの銃身の艶猟夫の眼

                           鷲谷七菜子

舎の友人には、冬場(農閑期)の猟を楽しみとしている者が多い。猟犬を連れて山に入り、野兎などを撃つ。今では行なわれていないだろうが、私が子供だったころには、学校全体で兎狩をやったものだ。そういう土地柄だ。小さいときから、猟銃には慣れている。そして、ひとたび鉄砲を肩にすると、男たちは人格が変わる。浮世のあれこれなどは、いっさい考えない。ひたすらに、見えない獲物を求めつづけるだけだ。そういう「眼」になる。この句は、そういう「眼」のことを言っている。行きずりの「女」なんぞは眼中にないという「眼」。かえって、それが頼もしくも色っぽい。(清水哲男)


July 2571997

 百日紅この叔父死せば来ん家か

                           大野林火

起でもない話だが、この家が代替わりすれば、こうやって毎夏訪れることもなくなるのだろう。叔父も老齢だ。何事もなかったように、庭の百日紅(さるすべり)だけは咲きつづけるのだろうけれど……。百日紅の花は勢いがよく花期も長いだけに、しばしば逆に死のイメージと結びつけられてきた。独特の花の赤い色が、そうした連想をさらに助長するのかもしれない。鷲谷七菜子に「葬終へし箒の音や百日紅」がある。(清水哲男)


August 2481997

 ひぐらしや静臥の胸に水奏で

                           鷲谷七菜子

臥(せいが)は、静かに横になっている状態。たぶん、このとき作者は病気なのである。夕刻、静かにやすんでいる耳に、遠くからひぐらしの声が聞こえてきた。病身の胸には、それがまるで漣(さざなみ)のようにやさしく響いてくる。熱も下がってきたようだし、明日あたりは起きられそうだ。ひぐらしの声を水の音にひきつけていて、少しも無理がない。『黄炎』所収。(清水哲男)


March 1332002

 斑雪照り山家一戸に来るはがき

                           鷲谷七菜子

語は「斑雪(はだれ)」で春。北陸では春にほろほろと降る雪を指す地方もあるようだが、一般的には、点々と斑(まだら)に残っている春の雪を言う。よく晴れた日には、雪の部分が目にまぶしい。そのまぶしさに、本格的な春の訪れが間近いという喜びがある。句は、そんな日の山腹に家が点在する集落の一情景を詠んでいる。赤い自転車を引っ張って山道を登ってきた郵便配達夫が、とある山家(やまが)に一枚の「はがき」をもたらした。私の田舎でもそうだったけれど、戸数わずかに十数戸くらいの集落では、毎日郵便配達があるわけではない。年賀状の季節を除けば、めったに郵便物など来ないからである。したがつて、集落には郵便受けを備えている家もなかったし、投函する赤い郵便ポストもなかった。配達は手渡しか、留守のときには勝手に戸を開けて放り込んでいく。句では、手渡しだろう。作者のところへ来たのではなくて、その情景を目にとめたのだと思う。もとより文面などはわからないが、受け取った人が発信人を確かめて、すぐにその場で立ったまま読みはじめている情景が目に浮かぶようだ。作者は、この情景全体を「春のたより」としたのである。たった一枚のはがきに、よく物を言わせている。『花寂び』所収。(清水哲男)




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