1996ソスN9ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2091996

 酒も少しは飲む父なるぞ秋の夜は

                           大串 章

書に「故郷より吾子誕生の報至る。即ち一と言」とある。つまり、この句は、まだ見ぬ生まれたばかりの我が子に宛てたメッセージだ。母子ともに元気。こうした場合、その程度の知らせが一般的で、あとは新米の父親たるもの、とりあえずは自分で自分に祝杯をあげるくらいしか能がない。そこで、なんだか嬉しいような困ったような、妙な気分で独り言でもいうくらいのことしかできないのである。私自身もそうだったから、時も秋だったから、この作品は実感的によくわかる。ところで、この句を某居酒屋チェーンの銀座店が、作者には無断で宣伝用の栞(?)に刷り込んで使っているそうな。なるほど、前書をとっぱらってしまえば、勤めがえりの「ちょっと一杯」の気分にも通じなくはない。はしこいですねエ、商売人というものは。見習わなければね、とくに詩人は。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


September 1991996

 反故焚いてをり今生の秋の暮

                           中村苑子

年の秋ではなく「今生の秋」。いま歩いている街の風景を、これがやがて私がいなくなる世界だと思いながら眺めはじめたのはいつからだったろう。街をそうした視点をもつ壮年が歩いている一方で、庭の片隅でひっそりと反故(ほご)を焚いているひとがいる。秋の夕暮。『吟遊』(1993)所収。(辻征夫)


September 1891996

 りんご掌にこの情念を如何せむ

                           桂 信子

の句は難しいといわれている。短い詩型だから、想いのすべてを盛りきれないからだ。その点、短歌はほとんど恋歌のための詩型だろう。そんななかで、桂信子のこの一句は希有な成功例だと思う。その秘密は「情念」という抽象語を生々しく使ってみせた技術にある。じいっと句を眺めていると、むしろ「りんご」のほうが抽象的に見えてきてしまう不思議。戦前の女性句に、こんな新しさがあったとは。作者は大正三年秋、大阪生まれ。『月光抄』所収。(清水哲男)




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