矢島渚男の句

August 1881996

 涼風をいひ秋風をいふ頃ぞ

                           矢島渚男

にしたがえば、いまごろの風は秋風。しかし、実感的にはまだ夏だから涼風(夏の季語)というほうが似つかわしい。さあ、どちらにしようか。この時季の俳人は困るのでしょうね。そんな心中をそのまま句にしてしまったというところでしょうか。話は変わりますが、何年か前に、春の選抜高校野球でマスコミが「さわやか甲子園」というのは間違いだと、本気で怒っていた俳人がいました。なぜなら「さわやか」は秋の季語だからというのですが……。どんなものですかねえ。『木蘭』所収。(清水哲男)


December 26121996

 数へ日のこころのはしを人通る

                           矢島渚男

ういくつねるとお正月……。こんな子供の歌のように、新しい年まであと何日と数えるから「数え日」。いよいよ押し詰まってきたと実感するころのことをいう。あれこれと年内にすませておきたい用事があり、残された日々との競争で、何から手を付けようかと思案中。そんな心のはしを、会っておかなければならぬ人の姿がひとり、またひとりと通り過ぎていく。そんなわけで、ますます焦燥感にかられることになる。『木蘭』所収。(清水哲男)


April 1241997

 花吹雪うねりて尾根を越えゆけり

                           矢島渚男

んなにも力動感に溢れた桜の句は、はじめてだ。写生句だろうか。だとすれば、どこの山の情景だろうか。「うねりて」が凄い。豪華絢爛、贅沢三昧。それでいて、花の終りの哀切感も滲み出ている。なんだか、今夜の夢にでも出てきそうな気がする。渚男は、長野県小県郡在住の俳人。彼の地の花吹雪までには、まだ少し間があるだろう。『船のやうに』所収。(清水哲男)


July 2771997

 花火師か真昼の磧歩きをり

                           矢島渚男

は「かわら(河原)」。今夜花火大会の行なわれる炎熱の河原で立ち働く男たち。花火師を詠んだ句は珍しい。中学三年のとき、父が花火屋に就職し、私たち一家は花火屋の寮に住むことになった。だから、花火や花火師についての多少の知識はある。指の一本や二本欠けていなければ花火師じゃない。そんな気風が残っていた時代だった。工場で事故が起きるたびに、必ずといっていいほど誰かが死んだ。花火大会の朝は、みんな三時起きだった。今でも打ち上げ花火を見ると、下で働く男たちのことが、まず気になってしまう。(清水哲男)


October 21101997

 遠くまで行く秋風とすこし行く

                           矢島渚男

然のなかに溶け込んでいる人間の姿。吹く風に同道するという発見がユニークだ。「すこし行く」という小味なペーソスも利いている。同じ風でも、都会のビル風ではこうはいかない。逃げたい風と一緒に歩きたい風と……。作者は小諸の人。秋風とともに歩く至福は、しかし束の間で、風ははや秘かながらも厳しい冬の到来を予告しているのである。同じ作者に「渡り鳥人住み荒らす平野見え」がある。出来栄えはともかくとして、都会から距離を置いて生きることにこだわりつづける意志は、ここに明確だ。『船のやうに』所収。(清水哲男)


February 2821998

 残雪や黒き仔牛に黒き母

                           矢島渚男

州あたりの田園風景だろうか。空はあくまでも青く、山々に残る雪はあくまでも白い。そんな風景のなかで、まっ黒な耕牛の親子がのんびりと草を食んでいる。色彩のコントラストが鮮やかな一句だ。農繁期を間近に控えた田園地帯でよく見かけた光景だが、機械化の進んだ現代では、もう見られないだろう。こんなのどかな季節は、しかし一瞬で、間もなく牛も人も泥と汗にまみれる日々がやってくるのである。だからなおのこと、牛の親子の姿が牧歌的に写るのだ。それに、仔牛はまだ鼻輪をつけられていない。実際、鼻輪のない耕牛を見ているとどこか頼りないが、他方でとてつもない自由な雰囲気を感じさせられる。とても気持ちがすっきりしてくる。作者もおそらくそんな心境で、しばらく微笑しながら黒い親子を眺めていたのだろう。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


April 2341998

 蜂に蜜我等にむすび林檎咲く

                           矢島渚男

檎の花を見たことがない。正確に言えば、見たはずなのだが記憶にない。敗戦後、林檎がまだ貴重品だったころ、山口県で百姓をはじめた父が、京都の「タキイ種苗」あたりから取り寄せたのだろう。庭に、林檎の種を何粒か蒔いた。一本だけが小学生の背丈ほどにひょろひょろっと生長し、小さな実を一つだけつけた。だから、当然花は咲いたのであり、私が見なかったはずはない。秋になって、一つの林檎を家族四人で分けて食べた。ひどく固くて酸っぱかった記憶のほうはある。後年、林檎の研究家にこの話をしたら、当時としては林檎生産の南限記録だろうと言われた。新聞社に知らせれば、絶対に記事になったはずだとも……。作者は信州の人。この春もまた、可憐な林檎の花盛りを堪能されていることだろう。(清水哲男)


June 1461998

 太初より昼と夜あり蛍狩

                           矢島渚男

者の夫人・矢島昭子さんに『山国の季節の中で』(紅書房・1998)という瀟洒なエッセイ集がある。信州での季節感に富んだ生活を折りに触れて綴ったもので、それぞれの文末には渚男の句が一句ずつ添えられている。この句は「蛍の頃」という文章に記されたものだ。「蛍火はどこかに忘れて来てしまった大切なものを思い出させてくれるような神秘の色だ。自分が生まれる前に出会ったような、夭折の天才たちが漂っているような、さまざまなことが湧いてくる」。ここで、文章と句がしっくりと照応している。ところで昭子夫人の子供の頃の蛍狩の思い出として「家の裏の葱畑から太そうな葱を一本折ってきて、それが蛍籠になる」とあるけれど、葱が蛍籠になるとは初耳だった。私の山口の田舎では、麦藁を編んで作るのが一般的だったが、工作の得意な友人は竹製のゴージャスな蛍篭を作ったりした。蛍狩にまつわるエピソードは多い。わが弟、小学生の昶が夢中になったあまりに、肥だめに転落した事件はいまだに語り草となっている。(清水哲男)


November 06111998

 ゐなくなるぞゐなくなるぞと残る虫

                           矢島渚男

の千草も虫の音も、枯れて淋しくなりにけり……。これはこれで素敵な詩だ。が、句のように枯れ果てる一歩手前の虫の音を、このようにとらえた作品は珍しくもあり見事でもある。ここで作者は、わずかに残った虫どもに「ゐなくなるぞ」と、いわば脅迫されている。この句を知ってからというものは、私も「今夜で消えるのか、明日までもつのか」などと、消えていく虫の声が気になって仕方がなくなってしまった。でも、ミもフタもない話をしておけば、虫の音が枯れてくるのは物理的な理由による。一つは、数が減ってくること。これは当たり前。もう一つは、虫の音は周知のようにハネをこすりあわせることで「声」のように聞こえるのだが、初秋のころには元気だったハネも、こすっているうちにだんだんと摩滅してくるからだ。で、晩秋ともなると擦り切れてしまい、哀れをもよおすような音しか出なくなってしまう。決して、虫が感傷的に鳴いているのではない。だが、その物理的な理由による消え入るような細い声を、このように聞いている人もいる。そう思うだけで、残った虫たちには失礼なことながら、逆に心温まる気持ちがしてくる。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


December 16121998

 船のやうに年逝く人をこぼしつつ

                           矢島渚男

れていく年。誰にもそれぞれの感慨があるから、昔から季語「年逝く」や「行く年」の句はとてもたくさんある。が、ほとんどはトリビアルな身辺事情を詠んだ小振りの抒情句で、この句のように骨格の太い作品は珍しい。「船のやうに」という比喩も俳句では珍しいが、なるほど年月はいつでも水の上をすべるがごとく、容赦なく逝ってしまうのである。つづく「人をこぼしつつ」が、まことに見事な展開だ。これには、おそらく二つの意味が込められている。一つは、人の事情などお構いなしに過ぎていく容赦のない時間の流れを象徴しており、もう一つには、今年も「時の船」からこぼれ落ちて不在となった多くの死者を追悼する気持ちが込められている。「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」と、芭蕉は『おくのほそ道』に書きつけた。この情景を年の暮れに遠望すれば、かくのごとき世界が見えてくるというわけである。蛇足ながら「舟」ではなくて「船」であるところが、やはり現代ならではの作品だ。蛇足ついでの連想だが、いわゆる「一蓮托生」の「蓮」も、現実的にはずいぶんと巨大になってきているのだと思う。『船のやうに』所収。(清水哲男)


January 2611999

 離鴛鴦流れてゆきぬ鴛鴦の間

                           矢島渚男

鴦(おしどり)は留鳥だから、山間の湖や公園の池などで一年中見ることができるが、俳句では冬の鳥としている。周囲の枯れ色に比して、雄の色彩が鮮やかで目立つことからだろう。習性としては、常に「つがい」で行動する。まさに「おしどり夫婦」なのである。ところが、作者は、いかなる事情によるものか、離鴛鴦(はなれをし)となった一羽の鳥を見つけた。見ていると、その鴛鴦は水面をすうっと滑るようにして、他のつがいの間を流れていったというのである。情景としては、それだけのことにすぎない。が、雌雄どちらかが単体になると、残されたほうが焦がれ死にするとまで言われている鳥だから、作者は大いに気にして詠んでいる。そしてこの離鴛鴦に感情移入をしていないところが、逆に句の情感を深く印象づけている。私がたまに出かける井の頭公園の池には鴛鴦が多数生息していたが、この冬はめっきり数が減ってしまった。日本野鳥の会の人に聞いてみたら、環境の変化のせいだと教えてくれた。鴛鴦が好む雑木や雑草の影が、伐採によってなくなってしまったからだという。そんなわけで、いまどきの井の頭公園池はどこか侘びしい。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


March 0931999

 土筆生ふ夢果たさざる男等に

                           矢島渚男

いぶんと作者も、つらいことを言うなア。生えてきた土筆は若い希望の象徴であり、土筆を発見して野にある男等はみな、既に若さとは遠く離れた中年である。右肩上がりの勢いと、その反対と……。構成の妙とはいえ、ある程度の年輪を重ねた読者のほとんどには、つらい句としか読めないだろう。むろん、私にも。卒業歌『仰げば尊し』の「身を立て名を上げ、やよ励めよ……」も実につらい文句だが、若さのなかで歌うから、この句よりも切実感はない。句集の成立年代から推定すると、作者は四十代だ。男等それぞれの夢が何かは知らないが、四十の坂を越えれば到達不可能な夢だとは知れる。そんなことは頭でわかっていても、なお夢を生きたい人が多いなかで、作者は「もう駄目なのだよ」と言い切っている。そこが、つらい。叙情句であるから、なおのこと心にしみる。ただし、この句には同時に別の効用もあって、それは否応なく読者に若き日の夢を想起させてくれる点だ。つらいだけではなく、懐しく過去の我が身を思い出すことには、多少の快感もある。かくいう私の十代早々の夢は、銀行員になることだった。そのことを作文に書いたら、若くて美人の野稲先生(山口県高俣中学国語担当教諭・故人)にぴしりと反対されてショックを受けた。この句のおかげで、鮮明に思い出したことの一つである。『木蘭』所収。(清水哲男)


May 0551999

 力ある風出てきたり鯉幟

                           矢島渚男

田峠の初期に「寄らで過ぐ港々の鯉のぼり」があって、これらの鯉幟は海風を受けているので、へんぽんと翻っている様子がよくうかがえる。が、内陸部の鯉幟は、なかなかこうはいかない。地方差もあるが、春の強風が途絶える時期が、ちょうど鯉幟をあげる時期だからだ。たいていの時間は、だらりとだらしなくぶら下がっていることが多い。そこで、あげた家ではいまかいまかと「力ある風」を期待することになる。その期待の風がようやく出てきたぞと、作者の気持ちが沸き立ったところだろう。シンプルにして、「力」強い仕上がりだ。鯉幟といえば、「甍の波と雲の波、重なる波の中空に」ではじまる子供の歌を思いだす。いきなり「甍(いらか)」と子供には難しい言葉があって、大人になるまで「いらか」ではなく「いなか」だと思っていた人も少なくない。「我が身に似よや男子(おのこご)と、高く泳ぐや鯉のぼり」と、歌は終わる。封建制との関連云々は別にしても、なんというシーチョー(おお、懐しい流行語よ)な文句だろう。ほとんどの時間は、ダラーンとしているくせに……。ひるがえって、鯉幟の俳句を見てもシーチョーな光景がほとんどで、掲句のように静から動への期待を描いた作品は珍しいのだ。俳句の鯉幟は今日も、みんな強気に高く泳いでいる。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


October 03101999

 黒塗りの昭和史があり鉦叩

                           矢島渚男

ぶん、私の解釈は間違っている。「黒塗りの昭和史」とは暗黒の歴史そのもの、ないしは黒い装釘の歴史の本か、いずれかを指すのだろう。が、私は変なことを考えた。俗に「黒塗り」といえば、高級な乗用車のことだ。皇族や政財界の大物が乗り、宗教家やヤクザの親分などが乗り回す。「黒塗り」をそのように受け取ると、表裏の社会の権力者の一つの象徴ということになる。そんな「黒塗り族」が形成した昭和史を一方に見据え、他方に、権力者にとってはあまりにもか細い「鉦叩(かねたたき)」の声を庶民の声の象徴として配置した。か細いというよりも、「黒塗り」の中からは、鉦叩の声など聞こえやしない。むろん作者は鉦叩の側にいるから、どこかでかすかにチンチンと鳴いている声が、さながら昭和史への葬送の鉦のように聞こえている……。このとき「黒塗り」は、いつの間にか霊柩車に化しているというわけだ。体長、わずかに一センチの鉦叩。「五ミリの魂」と粋がることもできないほどに、「黒塗り」の暴走ぶりは凄まじかった。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


December 15121999

 山国に来て牡蠣の口かたしかたし

                           矢島渚男

のまま解釈すれば、海のものである牡蠣(かき)がはるばると山国にやって来て、いざ貝殻をこじ開けようとしても、固くてなかなか開かないということだ。そして、この事実の上に、作者は山国の人の口の重さを乗せている。俗に「牡蠣のように押し黙る」という。ちょっとした宴席ででもあろうか。旅人としての作者が、何を尋ねても、誰もが寡黙なのである。よそ者には山国の人間として対するのではなく、あたかも海の者のようにしか応対しないという構図。皮肉たっぷりの句だ。山国育ちだから、私にはこの応接ぶりがよくわかる。そのあたりを象徴しているのが、旅館の食事メニューだろう。どんなに草深い田舎の旅館に泊まっても、ちゃんと海のものである刺し身と海老フライなんかが出てくる。もとより新鮮ではありえないから、食べて美味いものではない。旅の身としては、よほど地元の川魚や山菜のほうが食べたいのに、そうは応接してくれないから厄介だ。「ご馳走」ではなくて「見栄」を食わされているのだと、いつも思ってしまう。作者は長野県丸子町の在。旅人としてではなく、地元への愛憎半ばした一句と読むこともできるが……。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)


September 1792000

 栗飯に間に合はざりし栗一つ

                           矢島渚男

ヤリ。語意の二重性から、ぽろりと滑稽味が転がり出てくる句。普通に読めば、栗飯(くりめし)に炊き込むには、虫食いか何かで適当でない(間に合わない)栗が、ぽつねんと一つ寂しく残されてあるということだ。おそらく、作者の発想はそこから出ているのだろう。が、栗の役立たずを言うときに「間に合はざりし」と、故意に「時間に間に合わない」とも読める言葉を使用することで、栗の様子がかなり変化した。栗飯の支度に間に合うよう一所懸命に走ってきたのに、「遅かりし、ユラノスケ……」と言われてしまった(笑)。きっと「サルカニ合戦」の栗のように、口を「への字」一文字に曲げているのだ。そんな隠し味が仕込まれている。そうすると、眼前の「栗一つ」が、健気にも可愛いくも見え、いっそう哀れにも見えてくる。存在感が拡大されている。私はあまり擬人化が好きではないが、この程度の諧謔的な範囲での使用ならば許容できる。栗といえば、同じ作者に「栗に栗虫人間に人間虫」がある。こちらは、なかなかにキツい。身にコタえる。ああ、「クリゴハン」が食べたくなってきた、作るのは面倒だけど。吉祥寺「近鉄」の地下で売ってるのは、知ってるけど。商品の栗飯は美味いといえば美味いけど、まったく失敗の味がしないので、好きじゃない。一般的な「正義」の味でしかない。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


March 1432001

 桃咲くやゴトンガタンと納屋に人

                           矢島渚男

や春。農家の庭先だろう。陽光のなか、見事な桃の花が咲いている。思わず立ち止まって見惚れていると、納屋の中から「ゴトンガタン」と音が聞こえてきた。なかに、誰かがいる様子だ。桃の花には、どこかぼおっと浮き世を忘れさせるような趣がある。万葉の昔から、そのあたりの感覚はよく歌われてきた。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」など。けれど、揚句はそこに生活の音を配したところがミソである。「ゴトンガタン」は、何か大きな物を動かしている物音だ。小さな物ならば、音も「ゴトガタ」とせわしないはずだ。おそらくは農作業に使う道具だろうが、もちろん作者には見えない。見えないが、植物だけではなく、人間世界でもいよいよ本格的な春の営みのはじまる気配が感じられ、心豊かな気持ちになっている。「ゴトンガタン」のおおらかな物音は桃の花のぼおっとした雰囲気によく溶け込んでおり、人が季節とともに生きていることの素晴らしさを伝えて秀逸だ。余談めくが、この句で作者がいちばん苦労したのは「ゴトンガタン」の表現だろう。「ガタンゴトン」では昔の汽車の走る音になってしまうし、かといって、なかなか他に適切な擬音語も思いつかず……。いろいろと試みてみて、結局「ゴトンガタン」に落ち着いた(落ち着かせた)ときの作者の気持ちがわかるような気がする。さらっとできたような顔つきの句に見えるが、私には苦吟の果ての「さらっ」に思われた。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


October 08102001

 子を走らす運動会後の線の上

                           矢島渚男

ちんと調べたわけではないが、現代の外国には全校生徒が一同に会して行う「運動会」はないようだ。日本では明治七年(1874年)に、海軍兵学寮、札幌農学校、東京帝国大学などの高等教育機関で、外国人教師の指導ではじめられたというから、原形はヨーロッパの学校にあったのかもしれない。作者は、まだ学齢以前の我が子と運動会を見に行き、終わった後で「線の上」を走らせている。よく目にする光景だ。この子もこの学校の校庭のこの「線の上」を、やがて走る日が来るんだという親の思いが伝わってくる。どうかしっかり走ってくれるようにと、無邪気に走る我が子を見つめている。近い将来に備えての予行演習をさせている気持ちも、なくはない。運動会を運動会らしく演出する方法はいろいろあるが、この白い「線」もその一つだ。何本かの白線が、校庭の日常性を非日常性へと変換する。地面に引かれた単なる白線が、空間全体をも違った雰囲気に染め換えてしまうのである。この白線がスタート地点とゴール地点、そしてその間の道筋を明示するものだからだろう。こんな白線は、日常的には存在できない。同じような句に、平畑静塔の「運動会跡を島の子かけまはる」があるけれど、「跡」よりも「線」に着目した作者の感覚のほうが鋭いと思った。さて、蛇足。私が子供だったころの運動会は、村祭みたいなものだった。男たちは、酒盛りをしながら見物してたっけ。それが日常だと思ってたのは主役の我ら子供だけで、農繁期を過ぎた男たちには非日常を楽しむ絶好の場だったというわけだ。娯楽に乏しい時代だった。『采微』(1973)所収。(清水哲男)


November 10112001

 猟銃が俳人の中通りけり

                           矢島渚男

語は「猟銃」から「狩」につなげて冬。地方や狩る動物の種類によって解禁日は異なるが、十一月が多いと聞く。私の田舎でも、農閑期に入ったこれからが猟期である。あちこちの山から、発射音が聞こえてくる。さて掲句は、吟行で訪れた山道で猟銃を背負った男とすれ違った光景を詠んでいる。場所は、作者の暮らす信州だろう。同じ山道を歩いてはいても、俳人の目的と猟人のそれとでは大いに異なる。作者はそのことを斟酌して、猟師とすれ違ったとは言わずに、「猟銃」が俳人仲間の中をぬうっと通っていったと言っている。こういうときには、お互いに違和感を感じるものだ。作者を除けば、多くは他所者の「俳人」たちからすると、土地の猟師が通っていくのだから、自然にぬうっと見えるのも道理だけれど、一方で土地の男にしてみると、そんな気持ちではあるまい。いつもの山道に見知らぬ都会モンが群れているだけで、その間をすり抜けるのは照れ臭い気がする。だから下うつむくようにして、鉄砲をことさらに肩に揺すり上げ、足早に通り過ぎようとした。大げさに言えば、この場面は互いの文化の衝突なのだ。作者は若き日を東京で暮らし、故郷信州に戻って長く住む人ゆえに、このあたりの両者の心理的な機微は心得ている。その片方から見れば、この句のようになるけれど……。というわけだが、わざわざ仲間を突き放すようにして「俳人」と詠んだのは、すれ違ったときに、非常に親しいはずの「俳人」よりも、そして自分も「俳人」なのに、見知らぬ地元の猟師のほうに、ふっと親近感を覚えてしまったからに違いない。地元の人間同士の気持ちは、たとえ顔見知りではなくとも、このように微妙に通いあうものである。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


January 0612002

 ワインロゼほのかに残り姫始

                           斉藤すず子

語は「姫始(ひめはじめ)」で新年。不思議な季語だ。一般的には、たとえば矢島渚男の「姫始闇美しといひにけり」のように、新年最初の男女の交わりを指す季語と受け取られてきたようだ。「姫」という以上は、もちろん男からの発想である。だからだろう、ほとんどの歳時記には載せられていない。ならば、掲句はどうだろうか。ほのかなるエロティシズムが漂ってくるようでもあるけれど、しかし、作者は女性だ。女性が無頓着に男本位の季語を使うはずはあるまいと、この句が載っている歳時記の季語解説を読んでみて、やっと本意に近い解釈を得ることができたと思った。柴田奈美の解説を転記しておく。「正月二日。由来は諸説があるが、一説に『飛馬始』の意で、乗馬始の日とする。別説では火や水を使い始める『火水始』であるとする。また男女交合の始めとする説もある。妥当な説としては、『■■始』(清水註・肝心の「■■」の文字はJISコード外なので、パソコンの機種によっては表記されない。いずれも「米」に「扁」と「索」で「ひめ」と読む)つまり釜で炊いた柔らかい飯である姫飯(ひめいい)を食べ始める日とする説が挙げられる。強飯(こわめし)を食する祭りの期間が終わって、日常の食事に復するのが姫飯始、略して『姫始』となったと考えられる」。すなわち掲句は、お節料理から開放され、久しぶりにワインで洋食を味わった喜びを詠んでいるというわけだ。さして上手な句ではないが、「姫始」の本意を詠み込んでいるという意味で、貴重な現代句ではある。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 2352002

 明易き絶滅鳥類図鑑かな

                           矢島渚男

オオウミガラス
語は「明易し(あけやすし)」で夏。これから夏至にむかって、どんどん夜明けが早くなっていく。伴って、鳥たちの目覚めも早く、住宅街のわが家の周辺でも、最近では五時前くらいから鳴くようになった。カラスがいちばん早く、あとから名前も知らない鳥たちが鳴き交わすので、鳴き声に起こされることもある。作者は、長野県丸子町在住。私などのところよりも、よほど多くの鳴き声が聞こえるだろう。さて、そんな鳥たちに早起きさせられた作者は『絶滅鳥類図鑑』を見ているのだが、鳥の鳴き声を聞いたので図鑑を手にしたわけではないだろう。むしろ、昨夜寝る前にめくっていた図鑑が、そのまま机上に残されていたと解釈しておきたい。就寝前に、絶滅した鳥たちの運命に思いをめぐらした余韻がまだ残っているなかで、現実に生きている鳥たちの元気な鳴き声と出会い、複雑な感慨にとらわれているのだ。あらためて図鑑の表紙を凝視している作者には、昨夜はむしろ絶滅した鳥たちのほうが近しかった。それが寝覚めの半覚醒状態のなかで、徐々に現実に引き戻されていく過程を書いた句だと読める。引用した図は、19世紀イギリスの剥製師ジョン・グールドが描いた「オオウミガラス」。北大西洋に住んでいた海鳥だが、人間が食べ尽くして絶滅したという。『梟のうた』(1995・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


July 0572002

 緑陰に話して遠くなりし人

                           矢島渚男

語は「緑陰(りょくいん)」で夏。青葉の繁りが作る陰のこと。美しい言葉だ。最初に使ったのは、どこの誰だろう。万緑などとと同じように、やはり昔の中国の詩人の発想なのだろうか。作者に限らず、このように「遠くなりし人」を懐かしむ心は、ある程度の年齢を重ねてくれば、誰にも共通するそれである。真夏の日盛りの下で話をするとなれば、とりあえず木陰に避難する他はない。話の相手が同性か異性かはわからないけれど、私はなんとなく異性を感じるが、むろん同性だって構わないと思う。異性の場合にはウワの空での話だったかもしれないし、同性ならば激論であったかもしれない。とにかく、暑い最中にお互い熱心に戸外で話し合うことそれ自体が、濃密な時間を過ごしたことになる。それほどの関係にありながら、しかし歳月を経るうちに、いつしか「遠くなりし人」のことを、作者はそれこそ緑陰にあって、ふと思い出しているのだろう。あのときと少しも変わらぬ緑陰なれど、一緒に話した「人」とはいつしか疎遠になってしまった。どこで、どうしているのか。甘酸っぱい思いが涌いてくると同時に、もはや二度と会うこともないであろうその「人」との関係のはかなさに、人生の不思議を感じている。句の第一の手柄は、読者にそれぞれのこうした「遠くなりし人」を、極めてスゥイートに思い出させるところにある。美しい「緑陰」なる季語の、美しい使い方があってのことだ。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


August 2282002

 鶏頭やおゝと赤子の感嘆詞

                           矢島渚男

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。昔、どこにでもあった鶏頭はおおむね貧弱な印象を受けたが、最近では品種改良の結果か、「おゝ」と言いたいほどのなかなかに豪奢なものがある。そんな鶏頭を見て、赤子が「おゝ」と「感嘆詞」を発したというのだ。このときに、作者は思わず赤子の顔を覗き込んだだろう。むろん、赤子は鶏頭の見事さにうなったのではない。内心でうなったのは作者のほうであって、タイミングよくも赤子が声をあげ、作者の内心を代弁するかたちになった。そのあまりのタイミングのよさに「感嘆詞」と聞こえたわけだが、赤子と一緒にいると、ときどきこういうことが起きる。なんだか、こちらの気持ちが見通されているような不思議なことが……。思わず覗き込むと、赤ちゃんはたいてい哲学者のように難しい顔をしている。場合によっては、いささか薄気味悪かったりもする。無邪気な者は、大人のように意味の世界を生きていないからだ。またまた脱線するが、江戸期まで、鶏頭は食用にもされていたらしい。貝原益軒が『菜譜』(1704)に「若葉をゆでて、しょうゆにひたして食べると、ヒユよりうまいが、和(あ)え物としてはヒユに劣る」と述べている。鶏頭の元祖であるヒユ(ナ)はいまでも夏野菜として一部で栽培されており、バター炒めにするとクセがなくて美味だそうだが、食したことなし。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


June 1062004

 幾たりか我を過ぎゆき亦も夏

                           矢島渚男

分と一緒に並んで歩いていたか、あるいは少し後ろから来ていたか。気がつくと、そのうちの「幾たりか」は「我を過ぎゆく」ようにして、遠いところへ行ってしまっていた。同世代や年下の友人知己に死なれるのは、ことのほか辛い。年齢を重ねていくほどに、無情にもそういうことが起きてくる。万物の生命の炎が燃え盛る夏。作者は火が消えるように過ぎて行った人たちのことを思い出して、半ば茫然としつつ「亦(また)も夏」とつぶやいている。ここにあるのは、激情的な悲嘆でもなければ詠嘆でもない。いわば静謐な悲しみが、真っ赤な太陽の下を透明な水のように流れ過ぎてゆく。私にも、そうした「幾たりか」がある。そのうちの一人のことをふと思い出すことがあると、脈絡もなく他の何人かのことも思い出されてくる。知り合った場所も年代も違うのに、彼ら「幾たりか」は不思議なことにいつも共通の背景の前にいるかのようだ。そんなことはないのに、彼らがみな互いに友人であったかのようにも思えてくる。故人を思い出すとは、夢を見ることに似ているのだろうか。「半ば茫然」と作者の気持ちを解したのは、そういう気持ちからだ。そして、「亦も夏」。ここに他のどんな季節を置くよりも、生き残った者の悲しみが真っすぐに読者に近づいてくる。俳誌「梟」(第157号・2004年6月刊)所載。(清水哲男)


January 2912005

 遊び降りにたちまち力山の雪

                           矢島渚男

語はもちろん「雪」であるが、「遊び降り」という言い方にははじめて接した。作者は長野の人だから、信州あたりでは普通に使われている言葉なのだろう。はじめての言葉だが、だいたい察しはついたつもりだ。ちらりちらりと降るともなく降ってくる雪。その様子が、いかにも悪戯っぽく「遊び」めかしたような降り方に思えることからの言い方だと思う。味のある言葉だ。しかし遊び降りだからといって、「山の雪」をあなどってはいけない。東京あたりだと、ちらちらはちらちらのままに終わってしまうことが多いけれど、雪国の山中ではまさに句にあるごとく、ちらちらに「力」を得たかのように「たちまち」視界を遮るほどの本降りに変わっていく。雪国とまでは言えなくとも、我が故郷での少年時代には何度も同じような降り方を体験した。下校時にちらちらっと来たら、一里の道を一目散に家をめがけたものだ。掲句にそんなことも思い出したが、この「力」の使い方が実に巧みだ。なんでもないようだけれど、この「力」は情景的な雪のそれにとどまらず、句全体を引き締める力としても働いている。妙な言い方になるが、句のいわばフンドシとして機能している。であるがゆえに、読む側にもキリリとした力が渡されるというわけだ。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


November 11112005

 ほのぼのと秋や草びら椀の中

                           矢島渚男

て古語だろうが、「花びら」ならぬ「草びら」とは何だろう。早速、辞書を引いてみた。「くさ‐びら【草片・茸】1あおもの。野菜。東大寺諷誦文稿『渋き菓くだもの苦き菜クサビラを採つみて』 2きのこ。たけ。宇津保物語国譲下『くち木に生ひたる―ども』 3(斎宮の忌詞) 獣の肉」[広辞苑第五版]とある。掲句に当てはめるとすると、野菜でも茸(きのこ)でもよいとは思うが、やはり「秋」だから、ここは茸と読んでおきたい。それはそれとして、なかなかに含蓄のある言葉ですね。この句、何と言っても「ほのぼのと」が良い。普通「ほのぼのと」と言うと、陽気的には春あたりの暖かさを連想させるが、それを「秋」に使ったところだ。読者はここで、一様に「えっ」と思うだろう。何故、「秋」が「ほのぼの」なのかと……。で、読み下してみると、この「ほのぼのと」が、実は「椀(わん)の中」の世界であることを知るわけだ。つまり、秋の大気は身のひきしまるようであるが、眼前の熱い椀の中には旬の茸が入っていることもあり、見ているだけで「ほのぼのと」してくるというわけだ。すなわち、一椀から「ほのぼのと」立ち上ってくる秋ならではの至福感が詠まれている。余談だが,最初に読んだときに、私は「ほろほろと」と誤読してしまった。目が良くないせいだけれど、しかし自分で言うのも変なものだが、いささかセンチメンタルな「ほろほろと」でも悪くはないような気がしている。この場合の椀の中味は、高価な松茸を薄く小さく切った二、三片でなければならないが(笑)。俳誌「梟」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


January 0312011

 子規うさぎ虚子いぬ年や年巡る

                           矢島渚男

を折って数えてみると、ということは、子規と虚子とは七歳違いだ。二人の干支など思ったこともないけれど、こうして並べられてみると面白い。子規の柔軟さはたしかに「うさぎ」を思わせ、虚子の狷介さは「いぬ」に通じるところがあるような気がする。で、子規が年男ならば、今年は何巡目になるのだろうと、誰もがつい数えてみたくなる。これまた、俳句の妙味というものだろう。それぞれの人には干支があり、今年もまたそれぞれに年が巡ってきた。どんな年になるのだろうか。私が小学一年生くらいで干支を覚えたてのころ、家族や知人にそれぞれの干支を聞きまくったことがあった。自分は「とら」、父は「ねずみ」、母は「たつ」と、みな違っていた。で、遊びにきた叔父に聞いてみたら、「哲ちゃんと同じだよ。とらだよ」と答えた。私は覚えていないのだが、そのときとっさに口をとんがらせたらしい。「そんなことないよ。だって、おじさんはもう大人じゃないか。おんなじトシじゃないじゃないか」。後年、よく母が笑いながら話してくれたものだ。「俳句」(2011年1月号)所載。(清水哲男)


June 2462013

 沢蟹が廊下に居りぬ梅雨深し

                           矢島渚男

の句には、既視感を覚える。いつかどこかで、同じような光景を見たことがあるような……。しかし考えてみれば、そんなはずは、ほとんどない。廊下に沢蟹がいることなど、通常ではまずありえないからである。にもかかわらず、親しい光景のような感じは拭いきれない。なぜだろうか。それはたぶん「廊下」のせいだろうなと思う。それも自宅など住居の廊下ではなく、学校や公民館などの公共的な建物のそれである。これが自宅の廊下であれば、きっと作者は驚いたり、訝しく思うはずだ。いったい、どうやって侵入してきたのだろう。いつ誰が持ち込んだのか、という方向に意識が動くはずである。ところが作者は、少しも驚いたり訝しく思ったりはしていない。そこに沢蟹がいるのはごく自然の成り行きと見ており、意識はあくまでも梅雨の鬱陶しさにとらわれている。公共の建物の廊下は、家庭のそれとは違って道路に近い存在なので、見知らぬ人間はもとより、沢蟹のような小さな生き物がいたとしても、あまり違和感を覚えることはない。降りつづく雨の湿気が充満しているなかに、沢蟹が這う乾いた音を認めれば、作者ならずとも微笑して通り過ぎていくだろう。そしてまた、意識は梅雨の暗さに戻るのだ。と思って句を読み返すと、見たこともないはずの情景が一層親しく感じられてくる。『延年』(2002)(清水哲男)


July 0172013

 木苺やある晴れた日の記憶満ち

                           矢島渚男

う木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


July 0872013

 雲の峰過去深まつてゆくばかり

                           矢島渚男

そり立つ入道雲。同じ雄渾な雲を仰ぐにしても、若いころとはずいぶん違う感慨を覚えるようになった自分に気がつく。若いころには、別に根拠があるわけではないが、真っ白な雲の峰に、あるいは雲の向こうに、なにか希望のようなものの存在が感じられて、気分が高揚したものだった。それがいつの間にか、そういう気分がなくなってきて、希望的心情は消え果て、ただ意味もなく「ああ」とつぶやくだけのことで終わってしまうのがせいぜいである。自然の摂理で仕方はないけれど、老人になってくると、自然にものの見方は変化してくる。そのことに作者はもう一歩踏み込んで、希望を覚えないかわりに、つまり未来を思わないかわりに、「過去」が深まってゆくのだと言い放つ。その「過去」が豊潤なものであるかないかは別にして、老いはどんどんとおのれの「過去」を深めてゆくばかりなのである。しかも、その気分は悲しいとか哀れだとかという感情とは無関係に、わいてくる。ただ「ああ」というつぶやきとなって、自然にわいてくるのだ。そういう意味で、この句は老いることの内実を、そのありようを淡々と描いていて秀逸だ。刻々と深まりゆく過去を覚えつつ、老いた人はなお生きてゆく。何事の不思議なけれど、老いた身には、そういうことが起きてくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


July 1572013

 山に石積んでかへりぬ夏休

                           矢島渚男

い返してみれば、夏休みは、それがあること自体が重荷であった。戦争の余韻がまだ生活のなかに染みついていた時代であり、夏休みといっても、手放しの解放感が味わえるわけではなかった。ましてや暮していたのが本屋もないような山奥の農村とあっては、およそ娯楽に通じる施設があるはずもなく、学校が休みになった時間だけ、家での手伝い仕事が増える勘定だった。だが、それだけを重荷というのではない。いちばんの重荷は、夏休みを夏休みらしく過ごせないことが、あらかじめ定められていたことだった。学校からはいっちょまえに宿題や自由研究の課題が示されていたし、教師たちは口をそろえて、夏休みらしい成果をあげるようにと私たちを激励したものだった。が、そんな成果へのいとぐちさえ見いだせないというのが、子供たちの生活実態であり、それが高じて焦りや劣等感にもつながっていき、長期休暇の成果達成は慢性的な強迫観念のようにのしかかっていたのだった。いまこの句を読んで、そんなことを思う。この積まれた石は、子どもの成果達成への憧れを見事に象徴している。夏休みらしいことが何ひとつできずにいる子どもの焦燥感が、この空しい石の集積である。子どもは、大人よりもよほどおのれの悲しみのありかを知っている。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


August 2682013

 鳥渡とは鳥渡る間や昼の酒

                           矢島渚男

句には「鳥渡」に「ちよつと」と振り仮名がつけてある。「鳥渡」も、いまや難読漢字なのだろう。私の世代くらいまでなら、むしろこの字を読める人のほうが多いかもしれない。というのも「鳥渡」は昔の時代小説や講談本に頻出していたからである。「鳥渡、顔貸してくんねえか」、「鳥渡、そこまで」等々。「鳥」(ちょう)と「渡」(と)で「ちょっと」に当てた文字だ。同じく「一寸」も当て字だけれど、「鳥渡」はニュアンス的には古い口語の「ちょいと」に近い感じがする。それはともかく、この当て字を逆手にとって、作者はその意味を「鳥渡る間のこと」として、「ちょっと」をずいぶん長い時間に解釈してみせた。むろん冗談みたいなものなのだが、なかなかに風流で面白い。何かの会合の流れだろうか。まだ日は高いのだが、何人かで「ちょっと一杯」ということになった。酒好きの方ならおわかりだろうが、こ「ちょっと」が実に曲者なのだ。最初はほんの少しだけと思い決めて飲み始めるのだけれど、そのうちに「ちょっと」がちつとも「ちょっと」ではなくなってくる。そんなときだったろう。作者は誰に言うとなく、「いや、『鳥渡』は鳥渡る間のことなんだから、これでいいのさ」と当意即妙な解釈を披露してみせたのである。長い昼酒の言い訳にはぴったりだ。これは使える(笑)。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


September 0992013

 熊笹に濁流の跡いわし雲

                           矢島渚男

雲の代表格である「いわし雲」は、気象学的には絹積雲(けんせきうん)と言うそうだ。美しいネーミングである。句は、台風一過の情景だろうか。地上では風雨になぎ倒された熊笹の姿がいたいたしいが、目を上げると、真っ青な空にいわし雲がたなびくようにして浮かんでいる。私も山の子なので、この情景は何度も目にしている。目に沁みるような美しさだ。なんでない表現のようだが、作者は雲の表し方をよく心得ている。雲を描くときの基本は、まさにこうでなければならない。すなわち、この句の「いわし雲」のありようを裏づけているのは、泥にまみれた「熊笹」だ。この両者の存在があってはじめて「いわし雲」の美しさはリアリティを獲得できている。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


September 1692013

 老人の暇おそろしや鷦鷯

                           矢島渚男

景としては、老人がのんびりとした風情で日向ぼこでもしている図だろう。付近では「鷦鷯(みそさざい)」が、小さな体に似合わぬ大きな声でなにやら啼きつづけている。静かな老人とは好対照だ。ここまではよいとして、では「暇おそろしや」とは何だろう。作者には、何がおそろしいのだろうか。作句時の作者は五十代。そろそろ老いを意識しはじめる年代だ。みずからの老いに思いがゆきはじめると、自然の成り行きで周辺の老人に目がとまるようになる。詳細に観察するわけでもないけれど、一見暇をもて余しているように見える老人が、実は案外そうでもないらしいとわかってくる。老人がたまさか見せる微細な表情の変化に、彼がときにはまったくの好々爺であったり、逆に憤怒の塊であったりと、さまざまな感情が渦巻いている存在であることに気づくのである。老人の動作はのろいけれど、神経は忙しく働いているのだ。そんな趣旨の詩を晩年の伊東信吉は書き残したが、若者には伺い知れない老人の胸のうちを、作者は「おそろしや」と詠んだのだと思う。その「おそろしさ」の根元にあるのは、むろん「明日は我が身」というこの世の定めである。冬の句だが、敬老の日にちなんで……。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


October 14102013

 ざわざわと蝗の袋盛上る

                           矢島渚男

作農家にとって、「蝗」は一大天敵だ。長い間そう思ってきたけれど、日本の水田に生息するほとんどの蝗は、瞬く間に稲などを食い尽くしてしまういわゆる「蝗害」とは無縁なのだそうである。悪さをするのは「飛蝗」という種類の虫で、その猛烈な悪行は映像などでよく知られている。しかし、子供の頃にはよく蝗捕りをさせられた。稲が食い尽くされないまでも、何か悪さはしていたからだろう。殺虫剤が使われていなかった時代で、稲の実った田んぼに入ると、蝗たちが盛大に跳ね回っていた。あえて捕ろうとしなくても、向こうからこちらの身体にいくらでもぶつかってきた。顔面に体当たりされると、けっこう痛い。そんなふうだから、大きな紙袋の口を開けておいて前進すると、面白いように飛び込んできた。とは言っても、適当なところで口を閉めないと逃げられてしまう。句の状態はそこから先のことで、今度は手で一匹ずつ捕まえては袋に入れていく。そしてだんだん「ざわざわ」と音を立てながら袋が盛り上ってくると、蝗捕りが快感につながってくる。こうなってくると、袋のようにまさに心もざわめいてきて、どんどん弾んでくる。充実してくる。この句を読んで、長らく忘れていたあの頃の充実感を思い出し、田舎の秋の生命の活力感に思いを馳せたのであった。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


October 28102013

 霜柱土の中まで日が射して

                           矢島渚男

を読んで、すぐに田舎の小学校に通ったころのことを思い出した。渚男句を読む楽しみの一つは、多くの句が山村の自然に結びついているために、このようにふっと懐かしい光景の中に連れていってくれるところだ。カーンと晴れ上がった冬の早朝、霜柱で盛り上がった土を踏む、あの感触。ザリザリともザクザクとも形容できるが、靴などは手に入らなかった時代だったから、そんな音を立てながら下駄ばきで通った、あの冷たい記憶がよみがえってくる。ただ、子供は観照の態度とはほとんど無縁だから、よく晴れてはいても、句のように日射しの行く手まで見ることはしない。見たとしても、それをこのように感性的に定着することはできない。ここに子供と大人の目の働きの違いがある。だからこの句に接して、私などははじめて、そう言われればまぶしい朝日の光が、鋭く土の中にまで届いている感じがしたっけなあと、気がつくのである。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


November 11112013

 大部分宇宙暗黒石蕗の花

                           矢島渚男

蕗の花は、よく日本旅館の庭の片隅などに咲いている。黄色い花だが、春の花々の黄色とは違って、沸き立つような色ではない。ひっそりとしたたたずまいで、見方によっては陰気な印象を覚える花だ。それでも旅館に植えられているのは、冬に咲くからだろう。この季節には他にこれというめぼしい花もないので、せめてもの「にぎやかし」にといった配慮が感じられる。そんな花だけれど、それは地球上のほんの欠片のような日本の、そのまた小さな庭などという狭い場所で眺めるからなのであって、大部分が暗黒世界である宇宙的視座からすれば、おのずから石蕗の花の評価も変わってくるはずだ。この句は、そういうことを言っているのだと思う。大暗黒の片隅の片隅に、ほのかに見えるか見えないかくらいの微小で地味な黄色い花も、とてもけなげに咲いているという印象に変化してくるだろう。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


February 0322014

 わが里の春めく言葉たあくらたあ

                           矢島渚男

あ、わからない。「たあくらたあ」とは、何だろう。作者が在住する信州の方言であることは句から知れるが、発音も意味もまったくわからない。そこをむりやり解読して、私は最初「食った食った、たらふく食った」の意味にとってしまった。「くらた」を「喰らった」と読んだのである。ところが調べてみると、大間違い。柳田国男に「たくらた考」なる一文があり、「田藏田」とも書いて、「麝香(ジャコウ)といふ鹿と形のよく似た獣だったといふ(中略)田藏田には香りがないので捕っても捨ててしまふ。だから無益に事件のまん中に出て来て殺されてしまふ者」とある。信州では「馬鹿者」とか 「オッチョコチョイ」「ショウガネエヤツ」「ノンキモノ」などを、いささかの愛情を込めて「コノ、たあくらたあ」などと言うそうだ。「たらふく食った」などと頓珍漢な解釈をした私のほうが、それこそ「たあくらたあ」だったというわけである。句の「春めく言葉」というのは、「たあくらたあ」と言う相手にこちらが愛情を感じている言葉だからだ。その暖かさを良しとして、「春めく」と言っている。そしてこの句からわかるのは、そうした句意だけのことではない。いちばん好感が持てるのは、この句を詠んだときの作者がきわめて上機嫌なことがうかがえる点である。春は、もうそこまで来ている。「梟」(2011年3月号)所載。(清水哲男)


February 1022014

 薺咲き堰かれゐし時どつと過ぐ

                           矢島渚男

の訪れは、花や鳥が告げてくれる。ちなみに「春告鳥」といえば「ウグイス」のことであり、「春告草」は「ウメ」のことだ。しかし春を告げるといっても、ウグイスやウメは動植物のなかで先頭をきって告げてくれるわけじゃない。どちらかといえば、ゆったりと春の到来を確認したり念押ししたりするように感じられる。人間の春待つ心は、多く悠長ではない。とりわけて北国の人たちは、長く停滞する冬のプレッシャーのなかにあって、少しでも早く春の兆しをつかもうと待ちかまえているので、ウグイスやウメよりも、他の鳥や花の動静に敏感だ。そんななかで、薺の花はウメよりもかなり早い時期に咲きはじめるので、多くの人たちはむしろこちらの開花を待ち望んでいる。そして、早春のある日。庭や路傍に点々と咲きはじめる白くて小さい花々。目を凝らせば、あちらにもこちらにも白い花が咲いているではないか。と、認識した瞬間に、いままで澱んでいたような冬の時間のかたまりが、まるで堰を切ったように流れ出して、目の前を「どつと」過ぎていき、胸のつかえがとれたように晴れやかな気分になってゆく。地味な花の開花によって、「どつと」流れ出す大量の冬の時間。この句構成は、春待つ心の切実さを的確にとらえていて見事だ。『采微』所収。(清水哲男)


February 2422014

 麗らかに捨てたるものを惜しみけり

                           矢島渚男

乏性と言うのだろう。なかなか物を捨てることができない。押し入れを開けると、たとえばオーディオ機器のコードの類いがぎっしりと詰まったビニール袋があったりする。さすがに壊れてしまった本体は処分してあるのだが、コードなどはまたいつか使うこともあろうかと、大事にとってあるのだ。が、ときどき袋のなかから適当に拾い出して見てみると、もはやどういう機器に使うためのコードなのかがさっぱり分からなくなっている。それでもやはり、断線しているわけではないはずだからと、とにかくまた袋に戻しておくことになってしまう。そんな私でも、この句が分かるような気がするのは不思議だ。いや、そんな私だからこそ分かるのかもしれない。作者が何を捨てたのかは知らないが、それを惜しむにあたって、「麗らかに」という気分になっている。これは一種の論理矛盾であって、惜しむのだったら捨てなければよいところだ。でも、思い切って捨てたのだ。そうしたら、なにか心地よい麗らかな気分がわいてきた。あたかも時は春である。この気分は、人間の所有欲などをはるかに越えて、作者の存在を大きく包み込んでいる。つまり、この句は人間の我欲を離れたところに存在できた素晴らしさを詠んでいる。捨てたことに一抹の寂しさを残しながらも、自分をとりまく自然界に溶けてゆくような一体感を得た愉しさ。これに勝るものは無しという境地……。『船のやうに』所収。(清水哲男)


March 1732014

 曇り日のはてのぬか雨猫柳

                           矢島渚男

まにも降り出しそうな空の下、気にしながら作者は外出したのだろう。そしてとうとう夕刻に近くなってから、細かい雨が降り出した。気象用語的にいえば「小雨」が降ってきたわけだが、このような細かくて、しかもやわらかく降る雨のことを、昔から誰言うとなく「ぬか雨」あるいは「小ぬか雨」と言いならわしてきた。むろん、米ぬかからの連想である。細かくて、しかもやわらかい雨。戦後すぐに流行した歌謡曲に、渡辺はま子の歌った「雨のオランダ坂」がある。「小ぬか雨降る 港の町の 青いガス灯の オランダ坂で 泣いて別れた マドロスさんは……」。作詞は菊田一夫だ。小学生だった私は、この歌で「小ぬか雨」を覚えた。歌の意味はわからなかったけれど、子供心にも「小ぬか雨って、なんて巧い言い方なんだろう」と感心した覚えがある。農家の子だったので、米ぬかをよく知っていたせいもあるだろう。オランダ坂ならぬ河畔に立っていた作者は、猫柳に降る雨を迷いなく「ぬか雨」と表現している。それほどに、この雨がやわらかく作者の心をも濡らしたということである。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


March 3132014

 日陰雪待伏せのごと残りをり

                           矢島渚男

の陽光が降り注ぐ道を気持ちよく歩いているうちに、その辺の角を曲がると、いきなり日陰に消え残った雪にぶち当たったりする。たいていは薄汚れている。そんなときの気持ちは人さまざまであろうが、私はなんだか腹立たしくなる。子供のときからだ。消え残った雪に何の責任もないとはわかっていても、むかっとくる。せっかくの春の気分が台無しになるような気がするからだ。このときに「待伏せのごと」という措辞は、私の気持ちを代弁してくれている。「待伏せ」という行為は、まず何を目論むにせよ、人の気持ちの裏をかき意表をつくことに主眼がある。しかも執念深く、春の陽気とは裏腹の陰険なふるまいである。だから、待伏せをされた側ははっとする。はっとして、それまでの気分をかき乱される。いやな気分に落しこまれる。「日陰雪」ごときで何を大げさなと言われるかもしれないが、句の「待伏せ」は、そんな大げさをも十分に許容する力を持っている。説得力がある。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


April 0742014

 沢蟹に花ひとひらの花衣

                           矢島渚男

蟹は、別名「シミズガニ」と言われる。水がきれいな渓流や小川に棲息しているからだ。子どものころは近所に清水の湧き出る流れがあって、井戸のない我が家は、そこから飲料水や風呂の水などを汲んできて使っていた。当然のごとく、そこには沢蟹が棲んでいて、句の情景も日常的に親しいものだった。むろん子どものことだから「花衣」にまでは連想が及ばなかったけれど……。この句は一挙に、私を子供時代の春の水辺に連れていってくれる。何があんなに私の好奇心を誘ったのだろうか。この沢蟹をはじめとして川エビやメダカなどの小さな魚たち、あるいはタニシやおたまじゃくし、そして剽軽なドジョウの動きなどを、学校帰りに道草をして、飽かず眺めたものだった。忘れもしない、小学校の卒業式からの帰り、小川を夢中でのぞき込んでいるうちに、いちじんの風が傍らに置いておいた卒業証書をあっという間に下流にまでさらっていったことを。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


May 1252014

 田を植ゑてゐるうれしさの信濃空

                           矢島渚男

濃川流域に広がる田園風景をはじめて見たときには、心底衝撃を受けた。旅の途中の列車の窓からだったが、どこまでもつづく広大な田圃に、故郷山口のそれとは比較にならないスケールに圧倒されたのだった。私が子どもの頃に慣れ親しんだ田圃は、信州のそれに比べれば、ほんの水たまりみたいなものだった。千枚田とまではいかないが、山の斜面に張りついた小さな田圃になじんだ目からすると、その広がりに眩暈を覚えるほどであった。と同時にすぐに湧いてきた思いは、農家の子の悲しき性で、この広い田圃の田植や収穫の労働は大変だろうなということでもあった。そんなわけで、この句を前にした私の気分は少し複雑だ。「植ゑてゐる」のは自分ではあるまい。作者は、広大な田圃ではじまった田植を遠望している。反対に、私の田舎の田植は遠望できない。植えている人に声をかければ、届く距離だ。したがって、田植を見る目には、空が意識されることはない。目の前は、いつも山の壁なのである。私には句の「うれしさ」を満々と反映している信濃の空のありようは想像できるけれど、想像すると少し寂しくなる。腰を折り曲げての辛い労働に、すかっと抜ける空があるのとないのとでは大違いだなあ。そんなことを思ってしまうからである。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


May 1952014

 若竹のつういつういと伊那月夜

                           矢島渚男

来「つういつうい」は、ツバメや舟などが勢いよく滑るように、水平に移動する様子を指しているが、この句では若い竹の生長するさまについて用いられている。水平ではなく垂直への動きだ。なるほど、竹の生長の勢いからすると、たしかに「つういつうい」とは至言である。元気いっぱい、伸びやかな若竹の姿が彷彿としてくる。しかも、時は夜である。月の雫を吸いながらどこまでも伸びていく竹林の図は、まことに幻想的ですらあって、読者はある種の恍惚境へと誘われていく。そして舞台は伊那の月夜だ。これまた絶好の地の月夜なのであって、伊那という地名は動かせない。しかも動かせない理由は、作者が実際に伊那での情景を詠んだかどうかにはさして関係がないのである。何故なのか。かつての戦時中の映画に『伊那節仁義』という股旅物があり、主題歌の「勘太郎月夜唄」を小畑實が歌って、大ヒットした。「影かやなぎか 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 棄てて別れた 故郷の月に しのぶ今宵の ほととぎす」(佐伯孝夫作詞)この映画と歌で、伊那の地名は全国的に有名になり、伊那と言えば、誰もが月を思い浮かべるほどになった。句は、この映画と歌を踏まえており、いまやそうしたことも忘れられつつある伊那の地で、なお昔日のように月夜に生長する若竹の姿に、過ぎていった時を哀惜しているのである。『木蘭』(1984)所収。(清水哲男)


May 2652014

 谷の奥妻の木苺熟るるころ

                           矢島渚男

苺には園芸用もあるが、私が子供の頃に接したのは野生種だった。まさに「谷の奥」に自生していた。おやつなど考えられない食料難時代の山の子には、自然が与えてくれた極上のおやつであったから、学校からの帰途、空の弁当箱にいっぱい獲るのが初夏の楽しみなのだった。欲張ってぎゅうぎゅうに詰め過ぎて、実がつぶれたものは不味かったが、とにかくこのころに食べた木苺の味は、いまでも図鑑の写真を見ただけでも思い出すことができる。句の「妻の木苺」で思い出したのは、子供仲間の間には、それぞれが(勝手に)所有しているつもりの木があって、子供なりの仁義で他人の木苺に手を出さないという暗黙の了解があったのだった。「妻の木苺」にはそれほどの切実な意味はないのだろうが、遠い日に二人で出かけた地の「谷の奥」で妻が見つけて、分け合って食べた木苺の甘酸っぱい味がよみがえってくるような措辞である。初夏の木漏れ日も、きっと目にまぶしかっただろう。そんな日の木苺の様子を思い出し、同時にその当時の生活のあれこれを、いま作者は微笑とともに思い返しているのだ。もはやあの日がかえってくることはないけれど、もしかすると「幸福」とは、あのときのような状態を指すのかもしれない。と、これは読者としての私が、この句につけた甘酸っぱい味である。『百済野』(1997)所収。(清水哲男)


June 2362014

 満月の大きすぎたる螢かな

                           矢島渚男

月といっても、その時々で見える大きさや明るさは異なる。月と地球との距離が、その都度ちがうからである。正式な天文用語ではないようだが、月と地球が最接近したときの満月を「スーパームーン」と呼び、今年は8月11日夜に見られる。米航空宇宙局(NASA)によると、「スーパームーン」は通常の満月に比べ、大きさが14%、明るさが30%増して見える。掲句の月が「スーパームーン」かどうかは知らないが、通常よりもかなり大きく見える満月である。そんな満月の夜に、螢が飛んで出てきた。実際に月光のなかで螢が明滅するところを見たことがないので、あくまでも想像ではあるが、このようなシチュエーションでは螢の光はほとんど見えないのではあるまいか。螢の身になってみれば、せっかく張りきって「舞台」に上ったのに……、がっくりといったところだろう。螢の句で滑稽味のある句は珍しい。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


July 1372014

 秘湯なり纏はる虻と戦つて

                           矢島渚男

の十年くらいで日帰り温泉が増えました。かつての健康ランドが格上げされた感じで、気軽に温泉気分を味わえるので重宝しています。しかし、掲句の秘湯はそんなたやすいものではありません。鉄道の駅からも、高速のインターからも相当時間のかかる奥地です。時間をかけて、知る人ぞ知る秘湯に辿り着いた感慨を「なり」で言い切っています。また、山あいの秘湯なら、樹木が放つ芳香につつまれながら湯を肌にしみ込ませる幸福な時を過ごしており、その感慨もあります。けれども、天然自然は、そうやすやすと人を安楽にはさせません。自らも生まれたままの姿になって自然に包まれるということは、自然の脅威におびやかされるということでもあります。ここからは、ヒトvsアブの戦いです。吸血昆虫の虻からすれば、人肌は一生に一度のごちそうです。本能の赴くまま右から左から、前から後ろから、戦闘機のように攻撃をしかけてきます。作者はそれを手で払い、湯をかけたりして応戦しているわけですが、のんびりゆっくり秘湯にくつろぐどころではありません。しかし、それを嫌悪しているのではなく、これもふくめて「秘湯なり」と言い切ります。秘湯で虻と戦う自身の滑稽を笑い、しかし、この野趣こそが秘湯であるという宣言です。なお、虻は春の季語ですが、句集の配列をみると前に「崖登る蛇や蛇腹をざらつかせ」、後に「蟻の列食糧の蟻担ひゆく」とあり、「蛇」「蟻」は夏なので、夏の季題として読みました。『百済野』(2007)所収。(小笠原高志)


July 2872014

 皆遠し相撲取草を結ばずに

                           矢島渚男

いていの人は「相撲取草」の名前も知らないし、知ろうともしないと思うが、この草は茎が強靭なので、昔の子供たちはこの茎を輪のように結んでお互いに引っ張り合い、勝負を競ったものだ。ある程度の年齢以上の人たちにとっては、そぞろ郷愁を誘われる雑草である。いまではすっかりこの遊びもすたれてしまい、もう子供ではない作者も、この草を結ばなくなってから久しい。炎天下に逞しく生えている相撲取草を眺めるともなく眺めていると、小さかったころいっしょに相撲取草で遊んだともがらや、往時のあれこれの出来事などが思い出されて、茫々の感にとらわれてゆく。何もかもが遠くなってしまった……。この一種のセンチメンタリズムは、私などには好もしい。それはおそらく、夏という季節の持ついわば「滅びの予感」から来るのだと思う。四季のなかでもっとも活性的な夏はまた、同時に滅びへの予感に満ちている。盛夏と言ったりするが、盛夏にはもはや明日はない。盛りの一瞬一瞬は、滅びへの道程だけだ。そしてこの道筋は、私たちの人生のそれにも重なってくる。『船のやうに』(1994)所収。(清水哲男)


August 1182014

 島の子のみんな出てゐる夜店かな

                           矢島渚男

の「島」を「村」に替えれば、そのまま私の子供時代の光景になる。バスも通わぬ村だったから、陸の孤島という比喩があるように、村はすなわち島のようなものだった。むろん映画館もなければ、本屋すらなかった。そんな環境だったので、娯楽といえば年に一度の村祭くらいしかなく、わずかな小遣いを握りしめて、夜店をのぞいてまわるのが楽しみだった。夜店で毎年買いたいと思ったのは、ゴム袋に水を入れる様式のヨーヨーだったけれど、買えるほどの小遣いはもらえなかった。どんなにそれが欲しかったか。大人になってから、ヨーヨー欲しさだけで町内の侘びしい祭に出かけていったほどである。いまは知らないけれど、そのころ夜店を出していたのは旅回りの香具師たちだった。なにしろ日ごろは、村人以外の人を見かけるとすれば総選挙のときくらいだったから、点々と店を張っている香具師たちの姿は、ともかくも新鮮だった。夜店は決して大げさではなく、年に一度の異文化との交流の場だったのである。ヨーヨーばかりではなく飴玉一個煎餅一枚にしても、西洋からの輸入品のように輝いて見えていたのだった。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


August 1882014

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

リラ豪雨というそうだが、この夏も各地が激しい雨に見舞われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。それにつけても、故郷の水害跡はどうなっているだろうか。農作物への被害は甚大だったろうが、せめていつもの秋のように、風景だけでも平凡なそれに戻っていてほしい。あの道々やあの低い丘の辺に、いつものようにいつもの「赤のまま」が、いつもの風に吹かれていてほしいと、切に願う。『延年』(2003)所収。(清水哲男)


September 0892014

 しとしては水足す秋のからだかな

                           矢島渚男

の句を読んで思い出した句がある。「人間は管より成れる日短」(川崎展宏)。人間の「からだ」の構造を単純化してしまえば、たしかに「管(くだ)」の集積体と言える。記憶に間違いがなければ、もっと単純化して「人間は一本の管である」と言ったフランスの詩人もいた。つまり、人間をせんじ詰めれば、口から肛門までの一本の管に過ぎないではないかというわけだ。そんな人間同士が恋をしたり喧嘩をしたりしていると思えば、どこか滑稽でもあり物悲しくもある。飲む水は、身体の管を降りてゆく。夏の暑さのなかでは実感されないが、涼しい秋ともなれば、降りてゆく水の冷たさがはっきりと自覚される。飲む目的も夏のように強引に渇きを癒すためではなく、たとえば薬を飲むときだとか、何か他の目的のためだから、ますます補給の観念が伴ってくる。だからこの句の着想は、秋の水を飲んでいるときに咄嗟に得たものだろう。一見理屈のかった句のように見えるけれど、実際は飲み下す水の冷たさの実感から成った句だと読んだ。実感だからこその、理屈をこえた説得力がある。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)




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