August 161996
酌婦来る灯取虫より汚きが
高浜虚子
昭和九年の作。虚子に、こんな句があるとは知らなかった。先日、仁平勝さんにいただいた近著『俳句が文学になるとき』(五柳書院)を読んでいて、出くわした作品だ。仁平さんも書いているように、いまどき「こんな句を発表すれば、……袋叩きにされかね」ない。「べつに読む者を感動させはしないが、作者の不快さはじつにリアルに伝わってくる」とも……。自分の不愉快をあからさまに作品化するところなど、やはり人間の器が違うのかなという感じはするけれど、しかし私はといえば、少なくともこういう人と「お友達」にはなりたくない。なお「酌婦」は「料理屋などで酒の酌をする女」、そして「灯取虫」は「夏、灯火に集まるガの類を言う」と、『現代国語例解辞典』(小学館)にあります。念のため。(清水哲男)
August 151996
烈日の光と涙降りそゝぐ
中村草田男
敗戦の日の句。この句の情感に、いまでも心底から参加できるのは、六十代も後半以上の人々だろう。あの日の東京はよく晴れていた。七歳だった私にも、それくらいの記憶だけはある。しかし、正直に言って、この句の涙の本質は理解できない。ただ、作者の世代の辛酸の日々を思うのみ。人間には、安易にわかったふりをしてはいけないこともある。『中村草田男句集』(角川文庫・絶版)所収。(清水哲男)
August 141996
夏草に汽罐車の車輪来て止る
山口誓子
満鉄の給料(父親の)で食わせてもらったせいか、引込線などに一輛だけとまっている蒸気機関車のことを思うと胸がとどろきます。中学生のとき出会ったと思われるこの句は、機関車のヒロイックな迫力を静かな状態で示してくれているようで、印象の深いものがあります。鉄サビや油や燃え尽きた石炭の匂いがなまなましい。ボクだとコドモの背丈で見上げているのです。(三木卓)
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