季語が秋風の句

August 0781996

 藷畑にただ秋風と潮騒と

                           山本健吉

芸評論家・山本健吉の数少ない俳句作品の一つ。「ただ秋風と潮騒と」と言ってはいるが、古典に詳しい健吉のことであるから、秋風と共に芭蕉を思い、潮騒と共に人麻呂を思っていたかも知れぬ。但し、この句は石山での作でも、石見での作でもなく、島原の乱で有名な原城址での作。長崎県出身の健吉にとって、島原の乱はことのほか興味深かったようだ。(大串章)


August 2781996

 欠伸して鳴る頬骨や秋の風

                           内田百鬼園

聊をかこつ男の顔が浮ぶ。作者は夏目漱石門下の異色、ユニークな随筆、小説で知られる。俳句は岡山六高在学中から始め、「夕焼けに馬光りゐる野分かな」など本格的な作品が多い。上掲作は「秋の風」が効果的。序でと言ってはなんだが、師漱石の秋風の句を一句、「秋風や屠られに行く牛の尻」。文豪夏目漱石が痔の手術で入院した時の作である(大串章)

[編者の弁解]ついに出ました内田ヒャッケン。編者としては、内心この日を怖れていたのです。というのも、百鬼園の「鬼園」は、本当は門構えの中に「月」と表記しなければならないのですが、悲しいかな、私のワープロEGWORD 6.0には外字作成機能がありません。で、とりあえずこの表記としました。ヒャッケンが、ひところ実際に「百鬼園」と号していたこともありましたので。


August 3081996

 しその葉に秋風にほひそめにけり

                           木下夕爾

いねいに、しみじみとした境地でつくられた句。ちょっと出来過ぎの気がしないでもないが(類似の句もありそうだが)、この季節、同じ思いの人も多いことだろう。作者は、詩人としても著名。というよりも、俳句は余技というべきか。ただ、私に言わせれば、詩も俳句もいかにも線が細い。華奢である。それを評して「空きビンの中につくられた精巧な船の模型」みたいだと、書いたことがある。1965年に五十歳の若さで亡くなった。久保田万太郎門。『菜の花集』所収。(清水哲男)


August 3181996

 秋風や酔ひざめに似し鯉の泡

                           大木あまり

夜は、つい調子にのって飲み過ぎた。重い頭で目覚めたが、連れの友人たちはまだ起きてこない。旅館の庭に出てみると、池には大きな鯉が飼われていた。のろのろと動き、ときにふうっと泡を吹いている。秋風のなかの白い光景。酔いざめのときにも、俳人は句心を忘れない。作者と面識はないが、なかなかにいける口の女性だという噂を、かつて新宿で聞いたことがある。『火のいろに』所収。(清水哲男)


October 16101996

 乳母車むかし軋みぬ秋かぜに

                           島 将五

の作者にしては、珍しく感傷的な句だ。乳母車の詩といえば、なんといっても三好達治の「母よ……/淡くかなしきもののふるなり」ではじまる作品が有名だが、この句もまた母を恋うる歌だろう。むかし母が押してくれた乳母車の軋み。それが秋風の中でふとよみがえってきた。六十代後半の男の、この手放しのセンチメンタリズムに、私は深く胸うたれる。母よ……。『萍水』所収。(清水哲男)


October 22101996

 あきかぜのふきぬけゆくや人の中

                           久保田万太郎

込みのなかの淋しさ。極めて現代的で都会風の抒情句だ。銀座あたりの人込みだろうか。平仮名を使ったやわらかい表現から、時間的には秋晴れの日の昼下がりだろう。これを「秋風の吹き抜け行くや人の中」とでもやったら、とたんにあたりは暗くて寒くなってしまう。すなわち、翻訳不可能な作品の典型ともいえる。人込みのなかの淋しさを、むしろここで作者は楽しんでいるのである。(清水哲男)


October 23101996

 秋風や鼠のこかす杖の音

                           稲津祇空

者は江戸期大阪の人。談林系から蕉門へ近づき、江戸に出て基角に師事した。「こかす」は、今でも方言として生きている地方もあるが、「たおす、ひっくりかえす」の意。私が子供だったころにも、寒い日の夜ともなれば、鼠どもが天井裏などを走り回っていた。人間が寝てしまうと、土間にも出没して、こういうこともやらかしてくれる。杖の倒れた音に作者は一瞬驚くのだが、いたずらをした犯人もまた一瞬にして見当がつく。耳をすますと、表ではひゅうひゅうと風の吹き渡る音。心ぼそい秋の夜、いたずら鼠にむしろ親愛の情すら感じてしまう。淋しかったでしょうね、大昔の秋の夜は。(清水哲男)


October 28101996

 捨てられしこうもり傘や秋の風

                           ジャック・スタム

    autumn wind
    takes over a discarded
    old black umbrella  Jack Stamm
國滋・佐藤和夫監修 ジャック・スタム俳句集『俳句のおけいこ』(河出書房新社)より。この本は日本語と英語で書かれた「世界初の俳句集」である。作者は日本語と英語の両方で句を作った。こうもり傘は「ブラック・アンブレラ」というんですね。季語はもとより秋の風。古来より幾多の名歌・名句でうたわれ、我々日本人には肌に馴染みの感覚である。しかし、この句の捨てられたこうもり傘にも新しい「もののあわれ」がある。ジャック・スタムの句は、秋の句が優れている。スタムは芭蕉より鬼貫が好きだったというが、たしかに「まことの俳諧」の神髄をつかんでいる。(井川博年)

October 21101997

 遠くまで行く秋風とすこし行く

                           矢島渚男

然のなかに溶け込んでいる人間の姿。吹く風に同道するという発見がユニークだ。「すこし行く」という小味なペーソスも利いている。同じ風でも、都会のビル風ではこうはいかない。逃げたい風と一緒に歩きたい風と……。作者は小諸の人。秋風とともに歩く至福は、しかし束の間で、風ははや秘かながらも厳しい冬の到来を予告しているのである。同じ作者に「渡り鳥人住み荒らす平野見え」がある。出来栄えはともかくとして、都会から距離を置いて生きることにこだわりつづける意志は、ここに明確だ。『船のやうに』所収。(清水哲男)


May 0151998

 春風の日本に源氏物語

                           京極杞陽

集では、もう一句の「秋風の日本に平家物語」とセットで読ませるようになっている。どこか人をクッたような中身であり構成であるが、作られた年代が1954年であることを知ると、むしろ社会の流れに抗議する悲痛な魂の叫びであることがわかる。戦後も、まだ九年。私は高校二年生だった。何でもかでも「アメリカさん」でなくては夜も日も明けないような時代で、日本の古典なんぞは、まず真面目に読む気にはなれないというのが、多くの庶民の正直な気持ちだったろう。事実、たしかに私は高校で『源氏物語』を習った記憶はあるけれど、そんなものよりも英語が大事という雰囲気が圧倒的だった。だからこそ、逆にそんな風潮を苦々しく思っていた人もいたはずである。作者は一見ノンシャラン風に詠んでみせてはいるのだが、この句に「我が意を得た」人が確実に存在したことは間違いないと思われる。「反米愛国」は、かつての日本共産党のスローガンだけではなかったということだ。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


August 2481998

 秋風に売られて茶碗括らるゝ

                           飴山 實

の箱に収められるような立派な茶碗ではない。小さな瀬戸物屋の店先で、うっすらと埃をかぶっている二束三文の安茶碗だ。それを何個も買う人がいて、店の主人が持ち帰りやすいようにと細い縄で括(くく)っている。茶碗の触れ合う音に秋の風。ちょっと侘びしげな光景である。この句から受けるセンチメンタルな気分は、茶碗が日常生活の道具だからだろう。こうして括られ売られていく茶碗は、どんな家庭のどんな食卓に乗せられるのか。作者の頭を、ちらりとそんな想像がかすめたにちがいない。生活のための道具には感覚的に生臭いところがあって、あまり想像力を働かせたくないときがある。この場合もそうであり、心地好い秋風のおかげで、作者は生臭さから免れているというわけだ。句の主語を茶碗にしぼったのも、同じ理由によるものだろう。話は飛ぶが、横山隆一の人気漫画『フクちゃん』に出てきた友達のコンちゃんやキヨちゃんの家は、たしか瀬戸物屋である。アメリカ漫画のチャーリー・ブラウンの家が小さな床屋であるように、小さな瀬戸物屋も、昔の日本ではどこにでもある格別に珍しくはない店のひとつだった。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


October 13101998

 秋風に和服なびかぬところなし

                           島津 亮

服の国に生まれながら、一度もちゃんとした和服を着たことがない。サラリーマンをやめてからは、いわゆるスーツもほとんど着ない。年中、ジーンズで通している。服の機能性を重視するというよりも、単純に面倒臭いので、ちゃんとした服を着る気にならないだけの話だ。つまり、しゃれっ気ゼロ。そんな私だが、他人が和服やスーツをきちんと着こなしている姿は好きだ。とくに中年女性の上品な和服姿には、素朴に感動する。というわけで、この句にも素直に文句なしに感動した。なるほど、和服の袖や袂や裾は自然に風になびくのであり、着ている人の心持ちからいうと、襟元などを含めたすべての部分が「なびかぬところなし」の感じになるはずである。和服にはなびく美しさを前提にしたデザイン思想があるようで、裾模様などという発想は、その典型だろう。その点、西洋の「筒袖」(明治期の洋服の一呼称)には「なびきの美学」は感じられない。西洋は風にあらがい、この国は風に従い、風を利用して審美眼を培ってきた。すなわち、俳句はこの国に特有の「なびきの美学」の文学的表現でもある。『紅葉寺境内』所収。(清水哲男)


October 26101998

 秋風や模様のちがふ皿二つ

                           原 石鼎

壇では、つとに名句として知られている。どこが名句なのか。まずは、次の長い前書が作句時(大正三年・1914)の作者の置かれた生活環境を物語る。「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去つて仮の宿りをなす」。文芸を志すとは、父母を裏切ること。そんな時代風潮のなかで、決然と文芸に身を投じた作者への喝采が一つの根拠だろう。ちなみに、石鼎は医家の生まれだ。第二の根拠は、二枚の皿だけで貧苦を表現した簡潔性である。模様の違う皿が意味するのは、同じ模様の小皿や大皿をセットで買えない貧窮生活だ。しかも、この二枚しか皿を持たないこともうかがえる。そして第三は、皿の冷たさと秋風のそれとの照応の見事さである。詠まれているのは、あくまでも現実的具体的な皿であり秋風であるのだが、この照応性において、秋風のなかの二枚の皿は、宙にでも浮かんでいるような抽象性を獲得している。すなわち、ここで長たらしい前書は消えてしまい、秋風と皿が冷たく響き合う世界だけが、読者を呑み込み魅了するのである。この句には飽きたことがない。名句と言うに間違いはない。『定本石鼎句集』(1968)所収。(清水哲男)


September 1091999

 秋風や昼餉に出でしビルの谷

                           草間時彦

フィス街の昼時である。山の谷間に秋風が吹くように、ビルの谷にも季節を感じさせる風は吹く。秋だなアと風に吹かれながら、なじみの定食屋の暖簾をくぐると、おやじさんが「今日は鯖がうまいよっ。秋はやっぱりサバだねエ」などと声をかけてくる。そこで、ひょっとすると冷凍物かもしれない格安の「秋鯖の味噌煮」なんてものを注文する羽目になったりする。九月初旬、安い秋刀魚を出す店も大いにアヤしい。定食屋の多くは、しょせん舌の肥えていない、量ばかり要求する客を相手に商売をしているのだから、それでいいのである。仕事が順調であれば、それも楽しいのだ。が、そうでないときには、少々イヤミを言って引き上げる。そんなこんなで、春夏秋冬の過ぎていくサラリーマン生活。その哀歓が、さりげなく描かれている句だ。「昼餉」時という設定が、多くのサラリーマンの共感を呼ぶだろう。勤めた人にしかわからないが、なんでもないような昼餉時に、あれで結構ドラマは起きているのだ。珍しく上司に鰻屋にでも誘われようものなら、サア大変。社に戻るまでの秋風の身にしみることったら……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


October 12101999

 赤き帆とゆく秋風の袂かな

                           原 裕

書に「土浦二句」とある。もう一句は「雁渡るひかり帆綱は鋼綱」。いずれも秋の湖辺(霞ヶ浦)の爽やかさを詠んでいて、心地よい。「赤き帆」は、彼方をゆくヨットのそれだろう。秋風を受けた帆のふくらみと袂(たもと)のふくらみとを掛けて、まるで自分がヨットにでもなったような気分。上機嫌で、湖べりの道を歩いている。読者に、すっと伝染する良質な機嫌のよさだ。遠くの帆の赤が、ひときわ鮮やかだ。恥ずかしながら私の俳号は「赤帆(せきはん)」なので、この句を見つけたときは嬉しかった。二句目と合わせて読むと、秋色と秋光のまばゆい土浦(茨城)の風土が、見事に浮かび上がってくる。作者にはこの他にも「色彩」と「光線」に鋭敏な感覚を示した佳句が多く、この季節では「紫は衣桁に昏し秋の寺」などが代表的な作品だろう。この「紫色」の重厚な深みのほどには、唸らされてしまう。作者・原裕(はら・ゆたか)は原石鼎(はら・せきてい)の後継者として長く「鹿火屋」の主宰者であったが、この十月二日に亡くなられた。享年六十七歳。今日が告別式と聞く。合掌。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


October 23101999

 秋風や射的屋で撃つキューピッド

                           大木あまり

に「秋風が吹く」というと、「秋」を「飽き」にかけて、男女の愛情が冷める意味に用いたりする。句は、そこを踏まえている。ご存じキューピッドは、ローマ神話に出てくる恋愛の神(ちなみに、ギリシャ神話では「エロス」)。ビーナスの子供で、翼のある少年だ。この少年の金の矢を心臓に受けた者は、たちまち恋に陥るという。そのキューピッドが、それこそ仕事に「飽き」ちゃったのか、こともあろうに日本の射的屋で金の矢ならぬコルクの弾丸を撃っている。ターゲットは煙草や人形の類いだから、いくら命中しても恋などは生まれっこない。いかにも所在なげな少年の表情が見えるようだ。秋風の吹くなかのうそ寒い光景であると同時に、作者自身に関わることかどうかは知らねども、背景には愛情の冷めた男女の関係が暗示されているようだ。そぞろ身にしむ秋の風。おそらくは、実景だろう。まさか翼があるわけもないが、作者は射的屋で鉄砲を撃つ外国の美少年を目撃して、とっさにキューピッドを連想したに違いない。このように「秋風」を配した句は珍しいので、みなさんにお裾分けしておきたい。『雲の塔』(1993)所収。(清水哲男)


September 1492000

 ローソンに秋風と入る測量士

                           松永典子

量士もそうだが、警官や看護婦や運転士や客室乗務員など、職場で作業着(制服)を着用して働く職業は多い。着用していると、機能的に仕事がしやすいという利点や、仕事中であることのサインを服自体が発するという利便性があり、権威に結びつくこともあるが、元来はそういう種類の衣服だ。ただ、作業着着用の人の職業が何であっても、共通しているのは、まったく日常的な生活臭を感じさせない点だ。職業に集中したデザインの服は、職業以外の何かを語ることはない。その意味で、着用している人は極度に抽象化された存在となっている。ポルノで「制服モの」に人気があるのは、抽象化された人間の具体を暴くための装置として、制服が位置づけられているからである。掲句は、抽象的な職業人の一人である「測量士」を「ローソン」に入らせたことで、瞬間的にふっと彼の生活臭を垣間見せている。弁当でも求めに入ったのだろう。この測量士の入るところが「ローソン」ではなく、たとえば事務所や公共的な建物だったら、このような生活臭は感じられない。生活のための商品をあれこれ売っている「ローソン」だからこそ、ふっと彼の生活臭がにおってくるのだ。爽やかな「秋風」に運ばれて……。作者の鋭敏な臭覚に、敬意を表する。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


October 19102000

 秋風やカレー一鍋すぐに空

                           辻 桃子

やこしい句がつづいたので、スカッとサワヤカに。「空」には「から」の振り仮名。カレーライスは、こうでなくてはいけない。いつまでも、ぐちゃぐちゃと食べるものではない。福神漬かラッキョウを添えて(ベニショウガもいいな)、一気呵成に口に放り込む。食べた後の一杯の水の、これまた美味いこと。健啖の楽しさに充ちた爽やかな句だ。この句を思い出すと、つられてカレーが食べたくなってしまう。カレーは、子供が辛いものにも美味いものがあることを知る最初の食べ物だろう。なかには父親の晩酌相手の塩辛だったという剛の者もいるけれど、たいていはカレーだ。私も、そうだった。塩辛とは辛さが違い、唐辛子のそれとも違い、なんだか不思議な辛さだなと、子供心に思ったことである。ハウス・バーモントカレーもいいけれど、専門店のカレーはやはり唸らせる。ただし、私には激辛は駄目。いつだったか、タイに住んでいたことのある人と一緒に食べたことがあるが、一口でダウンした。その人は、この程度じゃ利かないねと澄ましていた。専門店もいいが、蕎麦屋系の店が出すとろみのある和風味のカレーも好きだ。ただ、そういう店ではよく、水の入ったコップに匙を漬けて出してくる。あれは、いったい何のマジナイなのだろう。あれだけは、ご免こうむりたい。『ひるがほ』(1986)所収。(清水哲男)


August 0882001

 淋しさに飯を食ふ也秋の風

                           小林一茶

番目の妻を離別した後の文政八年(1825年)の句。男やもめの「淋しさ」だ。昔の男は自分で飯を炊いたりはしないから(炊けないから)、飯屋に行って食うのである。いまどきの定食屋みたいな店だろう。そこにあるのは、何か。もちろん飯なのだが、飯以上に期待して出かけるのは、ごく普通の人々とのさりげない交感の存在だろう。いつもの時間にいつもの人たちが寄ってきて、ただ飯を食うだけの束の間の時間が、世間並みの暮らしから外れてしまった男には安らぎのそれとなる。ホッとできる時間なのだ。晩婚だった一茶は、ごく当たり前の家庭に憧れていたろうから、やっと掴んだように思えた普通の暮らしが思うようにいかなかったことは、相当にこたえていたはずだ。だったら飯ではなくて、「酒を飲む也(なり)」が自然だろうと思うのは、まだ生活の素人である。普通の生活をしている人恋しさで出かける先が酒場だとすれば、その人はまだ若年か、よほど仕事などへの意欲があふれている人にちがいない。酒場にあるのは、どんなに静かな店であろうとも、客たちが非日常を楽しむ時空間なのだから、普通の生活のにおいなどは希薄だ。そんなことは百も承知の一茶としては、したがって飯を食いに行くしかないことになる。「秋の風」が身にしみる。男性読者諸兄よ、明日は我が身かもしれませんぞ。(清水哲男)


August 1082001

 あかあかと日は難面もあきの風

                           松尾芭蕉

陸金沢は、秋の納涼句会での一句。『おくのほそ道』に出てくる有名な句だ。「難面」は「つれなく」と読む。納涼句会だから、夕刻の句だろう。暦の上では秋に入ったけれど、日差しはまだ真夏のように「あかあかと」強烈である。それも、暦の上の約束事などには素知らぬ顔の「つれなさ」(薄情な風情)だ。しかし、こうやって真っ赤に染まった残照の景色を眺めていると、吹いてくる風にはたしかに秋の気配が漂っている。どこかに、ひんやりとした肌触りを感じる。残暑の厳しいときには、誰しもが感じる日差しと風の感覚的なギャップを巧みに捉えている。ここで思い出すのは、これまた有名な藤原敏行の和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」だ。発想の根は同じだが、芭蕉句のほうが体感的には力強くあざやかである。逆に、敏行は繊細かつ流麗だ。このあたりは、二人の資質の差の故もあるだろうが、俳句と短歌の構造的な違いから来ているようにも思われる。とまれ「日は難面も」の日々は、いましばらくつづいてゆく。東京あたりでの秋が「さやかに」見えてくるまでには、あと一ヶ月ほどの時日を要する。(清水哲男)


August 2382001

 サーバーはきっと野茨風が立つ

                           坪内稔典

ソコンを扱う当サイトの読者ならば、おそらくは全員が「きっと」ではなく「キッ」となる句だろう。私も思わず「キッ」となった。最近ではワープロを詠んだ句こそ散見するが、国際的なHAIKUの世界はいざ知らず、俳句で「サーバー(server)」が詠まれたのは初めてではあるまいか。だから「キッ」なのである。で、「なになに、サーバーがどうしたって」と辿ってみると、「きっと野茨(のいばら)」なんだと書いてある。そこで自然の成り行きとして、両者がどのあたりで似ているのかを考えることになる。野茨は初夏に白い花を咲かせ、秋には赤い実をつける。いずれも可憐な印象だ。だが、蔓状の枝には鋭い無数の棘(とげ)が……。つまり、花や実のサービスを受けるためには、この入り組んだ棘を素早く辿り、しかも刺されないように用心して通らなければならない。「きっと」そういうイメージなんだろうなと、私は読んだ。パソコンを操るとは、日々この作業の連続とも言える。のほほんと構えていると、思わぬところで棘にやられてしまう。で、そんなサーバーとのやりとりに熱中し、ふと我に返ると表には「風が立」ち、季節は確実に一つ過ぎているのだった。厳密に言えば無季句だけれど、立つ「風」の気配は秋だろう。「秋風」の項に登録しておく。「俳句四季」(2001年7月号)所載。(清水哲男)

[うへえっ]この「サーバー」は、テニスなどのそれではないかとの反響多し。むろん考えました。だとすれば、可愛い顔して棘のあるサーブを打ってくる少女のイメージか。でも「風が立つ」がつき過ぎだと思い、以上に落ち着いた次第です。パソコン狂の妄想かもしれませんが、ま、いいや。この線で突っ張っておきます。MacOs9.2.1へのアップデータが登場しましたね。


September 0692001

 秋風を映す峠の道路鏡

                           大串 章

眼の面白さ。地方に出かけるたびに今更のように感じ入ることの一つに、自家用車の普及ぶりがある。私の田舎でもそうだが、どこの家にも必ず車がある。都会地とは違って、車は文字通りの必需品なのだ。自転車でも構わないようなものだが、雨や雪の日、あるいは夜間の外出のことを考えると、やはり車に如くはなし。先日訪れた穂高でも福井でも、そのことを感じた。田舎道をテクテク歩いている人の姿は、なかなか見かけられなかった。近所の人とも、互いに車ですれ違うという印象だ。したがって、あちこちに道路標識が立ち、「峠(とうげ)」のカーブには「道路鏡(ミラー)」も立つ。作者もおそらく峠道を車で登ってきて、景色を楽しむべく車から降りて一休みしているのだろう。で、ふと近くに立っている「道路鏡」に気がついた。次から次へと車が通る場所ではないので、ミラーが映しているのは、ただそのあたりの草や木の情景だけである。このミラーは、ほとんど本来の用途である車を映すこともなく、いつまでもじっとこの場所に立っている。ミラーのその空漠たるありようを、作者は木や草を映すと言わずに、「秋風を映す」と仕留めた。峠の「道路鏡」が、鮮やかに見えてくるようだ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


October 03102001

 秋風よ菓子をくれたる飛騨の子よ

                           野見山朱鳥

弱で、人生の三分の一ほどは病床にあった作者の、まだ比較的元気だったころの句だ。どのようなシチュエーションで、「飛騨(ひだ)の子」が「菓子をくれた」のかはわからない。想像するに、この子はまだ私欲に目覚めてはいない年ごろだろう。四歳か、五歳か。「おじさん、はい」と菓子を差し出して、すっと離れていった。私にも同じ体験が何度かあるが、欲のしがらみにまみれているような大人からすると、その子供のあまりの私欲のなさに、一瞬うろたえてしまう。それがいかに粗末な駄菓子であったとしても、子供はもう食べたくないから、余ったから「くれた」のではない。むしろ美味しいから、もっと食べたいのに、差し出したのだ。そんな、いわば無私無欲の子供の心に、作者はいたくうたれている。子供の顔が、仏のように写ったかもしれない。地名の「飛騨」には、たまたまの旅先であったというしか元来の意味はない。でも、この子の出現によって、理屈ではなく情趣的な深い意味が出てきた。その詠嘆が「飛騨の子よ」となり、心地よい「秋風よ」となって、作者の胸を去来している。句の主潮は、決してセンチメンタリズムではない。このように表現した意図は、作者が子供から受けたのが「菓子」を越えて、掌にも、そして心にも重い確かな人間の美しさだったからだと、私は思う。『荊冠』(1959)所収。(清水哲男)


October 17102001

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

十数年も以前の昔の句だ。このことは、お断りしておく必要がありそうである。句は想像の産物かもしれないが、実見ないしはテレビの映像からだとすれば、空港は羽田だろう。秋の旅客の服装の色は、おおむねダーク系統である。でも、ひとり白系統のアラブ服の人が意表をつくようにタラップを降りてきた。昔も今も、アラブは遠い。どこぞの大金持ちか、はたまた政府の高官かなんぞとは、瞬間的には思わない。ましてや大いに洒落のめして、これぞ「白秋」なんぞとも……。反射的に感じたのは、この白い服装ではこれから夜になるのだし、これから冬に向かうのだし、寒いし心細いのではないかというようなことだろう。そして、彼を最後に飛行機の扉は閉められたというのである。閉められたからには、後戻りはできない。後戻りする旅客など滅多にいるわけはないけれど、作者には一瞬彼の後戻りを期待する感じがあった。そういう意識がほとんどわけもなく働いたからこそ、この句ができた。「最後」というのは、当人の意志がどうであれ、どこかに逡巡の気を含んでいるように見えるものだ。そしてひとたび扉が閉められたからには、もはや彼はその白い服のままで、この異国で寒い季節を過ごさねばならない。否応はない。かつてこの句に阿部完市が寄せたコメントに「そのひとりの人の姿は、その内側の有心を仄みせていて、確かにまた飯島晴子その人のことである」とある。ああ、こんなことは書きたくもないが、まことにその通りに「最後」に飯島さんは、みずからの「旅客機」の扉をみずからの手で「閉じ」てしまわれたのであった。『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)


August 2882002

 吹き起こる秋風鶴をあゆましむ

                           石田波郷

波郷句碑
正な句だ。元来が、「鶴」という鳥には気品が感じられる。その鶴を「吹き起こる秋風」のなかに飛ばすのではなく、地に「あゆま」せることによって、気品はいよいよ高まっている。毅然たる姿が目に浮かぶ。「鶴」は波郷の主宰誌の名前でもあり、その出立に際しての意気が詠み込まれている。自然に吹き起こる秋風のような、我らの俳句活動への熱情。やがては大空へ飛翔する鶴を、いま静かに野に放ち歩ませたのである。ところで、句の「秋風」はどう発音するのだろうか。私は、なんとはなしに「シュウフウ」と読んできた。「アキカゼ」よりも荘重な感じがするからである。しかし、さきごろ藤田湘子さんから『句帖の余白』(角川書店)を送っていただき、次の一文に触れて、波郷の本意を思いやれば「アキカゼ」と読むべきだと思った。「この句は昭和十二年作。この年『鶴』を創刊したからそのことと関連づけて観賞されている。事実、そうである。したがって新雑誌を持つ、そこを活動の場として俳句運動を展開する、という晴ればれとした気概が波郷には漲っていたにちがいない。そうした雄ごころの表現にはアキカゼの開かれた明快な韻がふさわしい。一部の人はこの年日中戦争が始まって前途への暗いおもいがあったから、荘重な調べのシュウフウのほうがいい、と言う。けれども当時はまだ戦争による逼迫感はほとんどなかった。新雑誌発行の意気込みのほうがずっとつよかったはずだ」。こう読むと、鶴の歩みはよほど軽やかに見えてくる。写真は、東京調布市の深大寺開山堂横にある句碑。碑の姿と漢字の多用(掲句は何通りかの表記で伝えられてきた)からして、製作者は「シュウフウ」と読ませたがっているようだ。『石田波郷全集』(角川書店)所収。(清水哲男)


September 0292002

 廃船のたまり場に鳴く夏鴉

                           福田甲子雄

廃船
書に「石狩川河口 三句」とある。つづく二句は「船名をとどむ廃船夕焼ける」と「友の髭北の秋風ただよはせ」だ。三句目からわかるように、作者が訪れたのは暦の上では夏であったが、北の地は既に初秋のたたずまいを見せていた。石狩川の河口には三十年間ほどにわたり、十数隻の木造船が放置されていて、一種の名所のようになっていたという(1998年に、危険との理由で撤去された)。この「たまり場」の廃船を素材にした写真や絵画も、多く残されている。かつて荒海をも乗り切ってきた船たちが、うち捨てられている光景。それだけでも十分に侘しいのに、鴉どもが夕暮れに寄ってきては、我関せず焉とばかりに鳴き立てている。しかし、その無神経とも思える鳴き声が、よけいに作者の侘しさの念を増幅するのだった。そのうちにきっと、野放図な鴉の声もまた、廃船の運命を悼んでいるようにも聞こえてきたはずである。この句の成功の要因を求めるならば、鳴いているのが「夏鴉」だからだ。「秋鴉」としても現場での実感に違和感はなかったろうが、いわゆる付き過ぎになって、かえって句柄がやせ細ってしまう。したがって、たとえばここしばらくのように、実感的に秋とも言え夏とも言える季節の変わり目で、写生句を詠むときの俳人は「苦労するのだろうな」などと、そんなことも思わせられた掲句である。写真は北海道テレビのHPより、廃船を描く最後の写生会(1998年6月)。『白根山麓』(1988・邑書林句集文庫版)所収。(清水哲男)


September 2692002

 猿の手の秋風つかむ峠かな

                           吉田汀史

ながら、よく描かれた墨絵を思わせる品格ある句だ。この「秋風」は、肌に沁み入るほどに冷たい。群れを離れた一匹の「猿」が、「峠(とうげ)」で懸命に掴もうとしているのは何だろうか。かっと目を見開いて身構える孤猿の「手」を、作者は凝視しないわけにはいかなかった。掴みたいものが何であれ、しかし何も掴めずに、風を、すなわち空(くう)を何度も掴んでいる姿には、孤独ゆえに立ち上がってきた狂気すら感じられる。そんな猿のいる峠は、したがって、容易に人間の立ち入れるような世界ではないと写る。異界である。ところで、作者自註によれば、実はこの猿は檻の中にいた。「剣山の見える峠のめし屋。錆びた鉄格子を狂ったように揺する一匹の老猿」。掴んでいるのは実体のある鉄格子だったわけだが、その鉄格子を風のように空しいものと捉えることで、作者は猿を檻の外の峠に出してやっている。出してやったところで、もはや老猿の孤独が癒されることは、死ぬまでないだろう。だが、出してやった。いや、出してみた。単純に、自然に返してやろうというような心根からではない。檻の中の一匹の猿の孤独が、実は峠全体に及んでいることを書きたいがためであった。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


September 2892003

 物言へば唇寒し秋の風

                           松尾芭蕉

まりにも有名なので、作者の名前を知らなかったり、あるいは諺だと思っている人も少なくないだろう。有名は無名に通じる。こうした例は、他のジャンルでも枚挙にいとまがない。それはともかく、掲句は教育的道徳的に過ぎて昔から評判は芳しくないようだ。ご丁寧にも座右の銘として、こんな前書までついているからだろう。「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」。虚子も、苦々しげに言っている。「沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟(シ)も舌に及ばずで,忽ち不測の害をかもすことになる,注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない」。ま、そういうことになるのだろうが、私はちょっと違う見方をしてきた。発表された当時には、かなり大胆かつ新鮮な表現で読者を驚かせたのではないのかと……。なぜなら、江戸期の人にとって、この「唇」という言葉は、文芸的にも日常的にも一般的ではなかったろうと推察されるからである。言葉自体としては、弘法大師の昔からあるにはあった。が、それは例えば「目」と言わずに「眼球」と言うが如しで、ほとんど医術用語のようにあからさまに「器官」を指す言葉だったと思われる。普通には「口」や「口元」だった。キスでも「口吸ふ」と言い、「唇吸ふ」という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて「唇」と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」と「眼球をこする」では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。(清水哲男)


September 0792004

 何がここにこの孤児を置く秋の風

                           加藤楸邨

浮浪児
のページを八年ほど書いてきて、その折々の選句を振り返ってみると、結局私の関心やこだわりは先の大戦と敗戦以降の数年間に集中していることがわかる。年代でいえば、少年時代だ。たとえ時世に無関係なような花鳥風月句でも、どこかであの時代の何かに関わっている。いつまでも拘泥していてはならじと、時にジャンプしてはみたものの、またあの頃にいつしか回帰してしまっている。偶然に生き残った者のひとりとしての私……。この意識からは、何があってももう抜け出せないだろう。昨日、話題の『華氏911』を見に行ってきたけれど、いまひとつ入りきれなかったのは、マイケル・ムーア監督の位置がブッシュ大統領と同じ超大国の地平上にあったからだ。この映画は超大国の長としてのブッシュを実に痛快に告発しているのだが、弱小国イラク民衆の「何がここに」の呟きのような疑問に応える姿勢はさして無いと言ってよい。いや、理念としてあるのは認められるが、映像的には希薄だったとするほうが正確か。敗戦国の一国民たる私は、その点にいささかの消化不良を起こしたのだった。ま、しかし、これはあくまでも「アメリカ映画」なのである。掲句は、戦後一年目くらいの東京・上野の光景だ。引用した林忠彦の同時期の写真を見れば、戦争を知らない人でもいくばくかは作者の苦しい胸の内がおわかりいただけるだろう。この二人、その後はどうしたのだろうか。いまでも元気でいるだろうか。『野哭』(1948)所収。(清水哲男)


September 2192004

 秋風やたためば小さき鯨幕

                           松崎麻美

夜か葬儀の後片付けだろう。「鯨幕(くじらまく)」は、黒と白の布を一幅おきに縦に縫い合わせ、上下に黒布を横に渡した幔幕(まんまく)のことだ。広げて吊るしてあるときには大きく見えるけれど、「たためば」意外にもずいぶん小さかったという実感句である。書いてあるのはそれだけだが、ここにはむろん人の生命のはかなさへの感懐が込められている。故人の死を悼み悲しむというよりも、あっけらかんと掻き消えてしまった生命の意外な小ささに胸を突かれたのだ。したがって吹く秋風が感傷を誘うというよりも、むしろ空虚空爆の世界へと作者を連れて行ったのではあるまいか。「鯨幕」で思い出したが、子供の頃には「鯨」のつく道具や品物がいろいろとあった。和裁で使う「鯨尺(くじらじゃく)」などはたいていの家庭にあったし、昼夜帯を意味した「鯨帯(くじらおび)」とか、「鯨身(くじらみ)」は芝居で使う刀のことを言った。本物の鯨の肉は戦後の食糧危機をある程度は救ってくれたし、それほどに鯨と日本人の関係が密だった証拠だろう。それが昨今では周知のように鯨が遠い存在になり、連れて鯨のついた物の名前も忘れられつつある。誰でも見知っている句の「鯨幕」にしても、ちゃんと名前を知っている人は、もうそんなに多くないのではなかろうか。『射手座』(2004)所収。(清水哲男)


April 2442005

 ていれぎや弘法清水湧きやまず

                           吉野義子

語は「ていれぎ」で春。ただし、ほとんどの俳句歳時記には載っていない。先日実家を訪ねた折り、母と昔話をしているうちに「もう一度『ていらぎ』が食べたいねえ」という話になった。で、何か「ていらぎ」の句はないものかと調べてみたら、この句に出会った。山口県では「ていらぎ」と呼びならわしていたが、句の「ていれぎ」と同じものだ。現在でも愛媛県松山地方では「ていれぎ」と言い、松山市指定の天然記念物になっているから、ご存知の読者もおられるだろう。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」(正岡子規)。アブラナ科の多年草で、清流に育つ美しい緑色の水草だ。正しくは大葉種付花と言うらしく、クレソンに似ているが別種である。物の本には必ず「刺身のつま」にすると書いてあるけれど、私の子供の頃には大量に穫ってきて鍋で茹で、醤油をばしゃっとかけておかずにしていた。若芽を生で噛むとほのかな辛みがあるが、茹でると抜けてしまうのか、小さい子でも食べることができた。食糧難の時代だったからか、これがまた美味いのなんのって、そこらへんの野菜の比ではなかった。まさに野趣あふれる草の味だった。そんなわけで掲句を見つけたときには、一瞬「食べたいな」と思ってしまったが、もちろん食欲とは無関係な句だ。「弘法清水」は新潟県西蒲原郡巻町竹野町にあって、弘法大師が水の乏しい良民のため地面に錫を突き立てて掘ったという伝説に基づく。行ったことはないのだが、「ていれぎ」との取り合わせでその清冽な水のありようがわかるような気がする。ああ「ていらぎ」を、もう一度。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


August 1682005

 秋かぜやことし生れの子にも吹く

                           小西来山

西の「来山を読む会」編『来山百句』(和泉書院)を送っていただいた。小西来山は西鶴や芭蕉よりも若年だが,ほぼ同時代を生きた大阪の俳人だ。「酒を愛し,人形を愛し,そして何よりも俳句を愛した」と、帯文にある。掲句は一見どうということもない句に見えるが,それは私たちがやむを得ないことながら、現代という時代のフィルターを通して読んでしまうからである。前書きに、こうある。「立秋/天地平等 人寿長短」。すなわち来山は,自分のような大人にも「ことし生れの子」にも、平等に涼しい秋風が吹いている情景を詠み,しかし天地の平等もここらまでで、人間の寿命の長短には及ばない哀しさを言外に匂わせているわけだ。このときに「ことし生れの子」とは、薄命に最も近い人間の象徴である。一茶の例を持ち出すまでもなく,近代以前の乳幼児の死亡率は現代からすれば異常に高かった。したがって往時の庶民には「ことし生れの子」は微笑の対象でもあったけれど、それ以前に大いなる不安の対象でもあったのだった。現に来山自身,長男を一歳で亡くしている。この句を読んだとき,私は現代俳人である飯田龍太の「どの子にも涼しく風の吹く日かな」を思い出していた。龍太も学齢以前の次女に死なれている。「どの子にも」の「子」には、当然次女が元気だったころの思いが含まれているであろう。が、句は「天地平等」は言っていても「人寿長短」は言っていない。「どの子にも」という現在の天地平等が、これから長く生きていくであろう「子」らの未来に及ばない哀しさを言っているのだ。類句に見えるかもしれないが,発想は大きく異なっている。俳句もまた、世に連れるのである。(清水哲男)


September 0192005

 秋風や壁のヘマムシヨ入道

                           小林一茶

ヘマムショ入道
存知でしたか、「ヘマムシヨ入道」。由緒正しいというのも変だけれど,これは江戸期の由緒正しい落書きの一つだ。現代人なら誰でも「へのへのもへじ(へへののもへじ)」の「文字絵」を知っているように,江戸時代の人にはおなじみの「絵」だったようである。「へのへのもへじ」が顔の正面をあらわしているのに対して、「ヘマムシヨ入道」は身体のついた横顔を表現している(図版参照)。そんな絵が壁に落書きされていても、べつに珍しいことではないはずなのだが、このときの作者はしばらく見入ってしまったのだろう。「秋風」に吹かれて、いささか感傷的になっていたのかもしれない。見つめているうちに、ちょっと気難しげな顔つきが気になってきて,この「入道」はいったいどんな人物なのだろうかなどと、いろいろと想像しているのではなかろうか。いずれにしても、何でもない落書きに目をとめたりするのは、四季のうちでも秋がもっとも似つかわしい。「秋思」という季語まであるくらいだ。文字絵に戻れば,「ヘマムシヨ入道」の発想はパソコン時代の顔文字やアスキー・アートに似ている。それらの元祖と言っても差し支えないだろう。だが、いつも不思議に思うのは、こういうことに西欧人はあまり関心がないらしい点だ。あちらのサイトをめぐっていても、顔文字などにはめったにお目にかかれない。何故なのだろうか。(清水哲男)


October 30102005

 ラヂオつと消され秋風残りけり

                           星野立子

語は「秋風」。「ラヂオ」という表記の時代には、携帯ラジオはなかった。したがって、作者は庭など戸外にいるのだが、聞こえているのは家の中に置いてある「ラヂオ」からの音だ。それも耳を澄まして聴いていたわけではなく、なんとなく耳に入っていたという程度だろう。そんな程度だったが、誰かに「つと消され」てみると、残ったのは「秋風」ばかりという感じで、あたりの静けさがにわかに心に沁みたというのである。静寂を言うのに、婉曲に「秋風残りけり」と余韻を持たせたところが心憎い。いかにも、俳句になっている。この句でふっと思い出したが、昔は表を歩いていても、よくラジオの音が聞こえてきたものだった。ということは、どこの家でも大きな音で聞いていたことになる。永井荷風は隣家のラジオがうるさいと癇癪を起こしているし、太宰治「十二月八日」の主婦は、やはり隣家のラジオでかつての大戦がはじまったことを知ったことになっている。なぜ大きな音で聞いていたのだろうか。と考えてみて、一つには昨今の住宅との密閉度の差異が浮かんでくるが、それもあるだろう。が、いちばんの理由は、現在のように音質がクリアーでなかったからではあるまいか。雑音が激しかった。つまり、大きな音で鳴らさないと、たとえばアナウンサーが何を言っているのかがよく聞き取れなかったせいだと思うのだが……。学校の行き帰りに、どこからともなく聞こえてきたラジオ。懐かしや。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0882006

 けさ秋の一帆生みぬ中の海

                           原 石鼎

さ秋は「今朝秋」。「今朝の秋」と同じく立秋の日をさす。所収されている句集『花影』では、代表句「秋風や模様の違ふ皿ふたつ」の隣に位置し、大正二年から四年春までの「海岸篇」とされる。海岸篇には「米子の海近きあたりをさすらへる時代の作」とあるので、鳥取県米子から眺める景色であろう。高浜虚子は『進むべき俳句の道』のなかで、石鼎を「君の風情は常に昂奮している」と評しているが、掲句では帆が「生まれる」と感じたことに石鼎の発見の昂奮があるかと思われる。それにしても思わず「一帆生みぬ海の中」と平凡に読み違えそうになる。しかし、中の海とは宍道湖が日本海へと流れ出る間をつなぐためについた吐息のような海域の名称である。目の前に広がる海が大海原ではなく、穏やかな中の海であることで荒々しい背景を排除し、海面と帆はさながら母と子のような存在で浮かび上がる。白帆を生み落とした母なる海には、厳粛な躍動と清涼が漂っている。まだまだ本格的な暑さのなかで、秋が巡ってくることなど思いもよらない毎日だが、あらためて「立秋」と宣言されれば、秋の気配を見回すのが人の常であろう。こんな時、ふと涼しさが通りすぎるような俳句を思い出すことも、秋を感じる一助となるのではないかと思う。『花影』(1937)所収。(土肥あき子)


September 1692006

 肘に来て耳に来て秋風となる

                           岩岡中正

風は髪に、夏の涼風は頬から首筋へ、正面から吹いてくる風は清々しく心地良い。今年は特に残暑が厳しかったけれど、日中はまだ暑いこともある九月、半袖で外を歩いていると、後ろからすっと風が来る。まず肘をなで、そして耳の後ろを過ぎる時、ひゅっと小さく音を立てるその風は、間違いなく秋風である。秋を告げながら、風は体を追い越してゆき、早々に落ち葉となった木の葉が、乾いた音をたててついてゆく。残暑がもっと厳しい頃、突然吹く新涼の風は、全身を一瞬ひやりと包む。しかし、秋もやや深まってからの風は静かに後ろから。これが冬の木枯しともなればまた、丸めた背中に容赦ない。体の他のどこでもなく、肘から耳と捉えて、まさに秋風となっている。句またがりの、五・五・七のリズムとリフレインも、読み下すと風の動きを感じさせ軽やかである。日々の暮らしの中にいて、見過ごしがちな小さな季節の変化を、焦点をしぼって詠むことで、実感のある一句となっている。俳誌『阿蘇』(2006年9月号)所載。(今井肖子)


October 18102006

 三井銀行の扉の秋風を衝いて出し

                           竹下しづの女

行員が詠んだ俳句はたくさんあるわけだろうが、名指しではっきりと銀行名を詠み込んだ大胆な俳句を、私は寡聞にして知らない。のっけから「三井銀行」とは、あっぱれ。いかにもしづの女(じょ)らしい。ちなみに同行は私盟会社として明治九年に創立されている。現・三井住友銀行。人は好むと好まざるとにかかわらず、さまざまな事情を抱えて銀行に出入りするわけだが、「衝いて出し」ときの秋風はさわやかで心地良かったのか、あるいは耐えられないものだったのか。しづの女のよく知られている句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」とか、他の句にある「…ぶつかり来」「…ピアノ弾け」などの強い表現に敢えてこだわって類推すると、憤然と、あるいは昂然と銀行の頑丈な扉を押し開けて外へ出て、秋風に立ち向かって行くような勢いが感じられてならない。いや「扉の秋風」ゆえ、ここでは扉そのものがもはや秋風なのであり、外なる秋風への入口そのものなのだろう。川名大は、しづの女について「姉御肌の人柄で、知性と意力と熱情の溢れた力強い母性の行動力が特色」とコメントしている。杉田久女を含めて、こういう女性も「ホトトギス」に所属していたのだ。川名大『現代俳句・上』(2001)所載。(八木忠栄)


October 19102006

 秋風や酒で殺める腹の虫

                           穴井 太

きぬける風が身にしむ頃となってきた。ビールから熱燗に切り替えた人も多いのではないか。酒好きの人ならひとりでふらりと寄れる居酒屋の一軒ぐらいはあるだろう。掲句からは馴染みの店で黙々と盃を重ねる男の姿が思い浮かぶ。「風動いて虫生ず。虫は八日にして化す」四季折々の風が吹いてその季節の虫を生じるとか。穴井太も山頭火の評論にこの風の字解を引用しており、この句にもその考えは自ずと反映されているだろう。虫が好かない。虫唾が走る。「虫の成語には科学的根拠は乏しく、人間の心の感情を指している。何か心を騒がせ、制御しきれない動きをする。」と穴井は述べる。収まりのつかない腹の虫を生じる秋風は世間の冷たい風の意を同時に含んでいるのかもしれない。四六時中世間の風に吹かれていれば殺めたい腹の虫はいくらでもわいて出てくるだろう。腹の虫を酒で殺め、腹立つ気持ちにけりを付けて家路をたどるか、虫もろとも酔いつぶれて電車のシートに沈むか。そんな男の飲み方に比べ女の場合たいていは友達連れで屈託がない。腹の虫を酒で殺めるというより、酒にもらう元気で虫を外へたたき出しているようではある。『穴井太句集』(1994)所収。(三宅やよい)


October 25102006

 秋風や子無き乳房に緊く着る

                           日野草城

性がどう威張ってみても、また地団駄踏んでみても、彼から欠落しているのが乳房。まあ、筋肉がキリリと緊まった男性の胸も、それはそれで美しい。けれども、両者の美質はおのずと別である。堀口大學は詩で、乳房を「女の肉体の月あかり」「恋人のシャボン玉」と表現した。(セクハラなどと野暮は言うなかれ)掲出句は乳房そのものや、その美を直接詠もうとしているわけではない。ポイントはむしろ「緊(かた)く着る」にある。そのためにこそ乳房が必要なのである。秋風のなかへ外出するのだから、もちろん時季にふさわしいフォーマルな着物であろう。「子無き」と言っても、未婚の娘さんではなく既婚者であろう。まして西洋人のような巨乳ではない。立ち姿が形よく引き緊まって、凛としたエロチシズムが感じられる。品位があって隙がない。乳房だけでなくしっかりと抑えられた心身の緊張感までもが、さわやかな風にのってそっと匂ってくるようでもある。草城には、女性のエロチシズムを素材にした句が多い。しかし、乳房は男性が詠んでも女性が詠むにしても、容易な素材ではない。蛇笏は「大乳房たぷたぷ垂れて…」と健康さを詠み、草城の弟子・信子は「ふところに乳房ある憂さ…」と内面を詠んだ。『花氷』(1927)所収。(八木忠栄)


November 06112006

 秋風や煙立つなる玉手箱

                           永井龍男

者は小説家、俳号は「東門居」。ついに意を決して、浦島太郎が玉手箱を開ける。なかからはパッと白い煙が立ち上り、彼は見る見るうちに白髪の老人になってしまった。おなじみのクライマックスだが、しからばこの場面の季節はいつだったろうかと、妙なことを想像したところに面白さがある。言われてみれば、なるほど、秋風の吹く浜がいちばん似合いそうだ。太郎当人にしてみれば、悲嘆限りなし。秋風が非情に感じられ、吹きつのる風の寒さが、ますます肌に刻み込まれる。しかし、このシーンを誰かが目撃していたならば、一瞬びっくりもするだろうが、相当に滑稽でもあるだろう。ひとりの若者がもうもうたる煙にむせ返ったと思うまもなく、秋の風が白煙を吹き払った後によろめいていたのは、似ても似つかぬ老人だったのだから‥‥。当今の言葉で言えば、「ウッソー」とでも叫ぶしかない。当人には深刻、他者にはびっくり、滑稽。この世には、このようなことがしばしば起きる。素人俳人ならではの、気軽にして得意満面の発想と言うべきか。こういう句が句会で披露されると、座は大いに盛り上がること必定だ。専門俳人の句もいいけれど、たまにはこうした非専門家の突飛な発想に触れてみるのも楽しい。同じ作者で、「秋是」をもう一句。「秋風や瞼二重に青蛙」。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)


September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


November 07112007

 秋風や甲羅をあます膳の蟹

                           芥川龍之介

書に「室生犀星金沢の蟹を贈る」とある。龍之介と仲良しだった犀星が越前蟹でも贈ったものと思われる。夏の蟹のおいしさも侮れないけれども、秋風が吹く向寒の季節になると、蟹の身が一段とひきしまっておいしさを増す。食膳にのった蟹は大きいから、皿からはみ出してワンザとのっている。越前蟹は脚が長いので、甲羅が大きければなおのこと大きい。蟹の姿がいかにも豪快な句である。外は秋の風が吹きつのっているのだろうが、視線は膳の上にのった蟹に注がれて釘付けになり、思わず「おお!」と感嘆の声をあげているにちがいない。北陸の秋の厳しい海のうねりが、膳の上にまで押し寄せてきているようだ。贈り主に対する感謝の思いもそこに広がっている様子が、「甲羅をあます」に見てとれる。同時に「・・・・あます」の一語によって、まだ生きているかのように蟹のイキのよさも感じられる。蟹をていねいにほじりながら、犀星のことを思ったりして、酒も静かに進む秋の夕餉であろう。私事で恐縮だが、新潟の寺泊へ出かけると、必ず蟹ラーメンを好んで食べる。ズワイガニがまたがる姿で、ワンザとのったラーメンが運ばれてくる。食べる前にしばし目を細めて堪能する一時はたまらない。龍之介の句も、まずは堪能しているのだろう。秋風といえば「秋風や秤にかゝる鯉の丈」という一句もならんでいる。いずれも、食べる前に目でじっくり味わって、「さあて、食うぞ!」という気持ちが伝わってくる。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)所収。(八木忠栄)


November 21112007

 秋風や屠られに行く牛の尻

                           夏目漱石

正元年(1912)、漱石四十五歳の時の作。四年後に胃潰瘍で亡くなるわけだが、晩年に近い作であることを考慮に入れると、味わいも格別である。屠(ほふ)られに行く牛は、現在だったらトラックに何頭も乗せられている。モーと声もあげず神妙にして、どことなく不安げな表情で尻を並べて運ばれて行くのを目撃することがある。当時もすでにトラックで運んでいたのだろうか。どうやら漱石は実景を詠んだわけではなさそうだ。その年の秋に痔の手術をした、そのことを回想したものである。もともと胃弱で、1910年から1913年頃は胃潰瘍で入退院をくり返していた。修善寺の大患もその頃である。胃弱に加えて痔疾とは、漱石先生も因果なことであった。この場合の「牛の尻」はずばり「漱石の尻」であろう。牛を見てもつい尻のほうへ目が行ってしまった。文豪であるおのれを、秋風のなかの命儚い哀れな牛になぞらえて戯画化してみせたあたり、さすがである。文豪だって痔には勝てない。哀愁と滑稽とがまじりあって、漱石ならではの妙味がただよう秀句。胃弱であるにもかかわらず、油っこい洋食を好み、暴飲暴食していたというからあっぱれ。おのれの胃弱を詠んだ句「秋風やひびの入りたる胃の袋」も「骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな」もよく知られている。いずれもおのれをきちんと対象化している。今年九月から江戸東京博物館で開催されていた「文豪・夏目漱石」展は、つい先日十一月十八日に終了した。なかなか見ごたえのある内容でにぎわった。『漱石全集』第12巻(1985)所収。(八木忠栄)


September 0492008

 一の馬二の馬三の秋の風

                           佐々木六戈

近復刻された岩波写真文庫『馬』の冒頭に「馬といえば競馬と思うほどに、都会人の常識は偏ってしまった。しかし、文化程度の低い日本では馬こそは未だに重要な生活の足である」と記述がある。収められた写真を見ればこの本が編集された1951年当時、農耕馬や荷車を引く輓馬(ばんば)が生活の中にいたことがわかる。といってもこれより数年遅く生まれた私には身近に働く馬の記憶はなく、馬と言えばこの記述にあるとおり競走馬なのだ。次々とやってくる馬はたとえば調教師にひかれてパドックを回る馬、レース前にスタート地点へ放たれる返し馬、ゴールに駆け込む馬の姿が思われる。鋼のように引き締まった馬が、一の馬、二の馬とやって来て、次はと待つところへ秋風が吹きわたってゆく。三の馬が吹き抜ける風に化身したようだし、この空白がやって来ない馬の姿をかえって強く印象づける。夏の暑さに弱い馬も涼しくなるにつれ生来の力強さが蘇る。秋の重賞レースも間近、颯爽とかける馬の姿が見たくなった。『佐々木六戈集』(2003)所収。(三宅やよい)


September 1092008

 ブラジルに珈琲植ゑむ秋の風

                           萩原朔太郎

そらく俳人はこういう俳句は作らないのだろう。「詩人の俳句」と一言で片付けられてしまうのか? ブラジルへの移民が奨励され、胡椒や珈琲の栽培にたいへんな苦労を強いられた人たちがいたことはよく知られている。1908年、第一回の移民団は八百人近くだったという。今年六月に「移民百年祭」が実施された。四十年近く前、私の友人の弟が胸を張り、「ブラジルに日の丸を立ててくる!」と言い残してブラジルへ渡った。彼はその後日本に一度も里帰りすることなく、広大な胡椒園主として成功した。ところで、珈琲は秋に植えるものなのか。朔太郎にブラジルへ移民した知人がいて、その入植のご苦労を思いやって詠んだものとも考えられる。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と詩でうたった朔太郎が、フランスよりもさらに遠いブラジルに思いを馳せているところが愉快。遠い国「ブラジル」と「珈琲」のとり合わせが、朔太郎らしいハイカラな響き生んでいる。そういえば、「珈琲店 酔月」というつらい詩が『氷島』に収められている。朔太郎の短歌四二三首を収めた自筆歌集『ソライロノハナ』が死後に発見されているが、俳句はどのくらい作ったかのか寡聞にして知らない。友人室生犀星に対して、朔太郎は「俳句は閑人や風流人の好む文学形式であって同時に老成者の愛する文学」である、と批判的に書いた。犀星は「俳句ほど若々しい文学は他にない」と反論した。朔太郎が五十歳を過ぎたときの句に「枯菊や日々にさめゆく憤り」がある。まさしく「老成者」の文学ではないか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2392008

 山裏に大鬼遊ぶ稲光

                           小島 健

年ほど雷が鳴り響く夏はなかったように思う。雷鳴は叱られているようでおそろしいが、夜空に落書きのように走る稲妻を眺めるのは嫌いではない。学生時代アルバイトからの帰り道、派手な稲妻が空を覆ったかと思った途端、街中が停電したことがあった。漆黒の闇のなか、眼を閉じても開いても、今しがた刻印されたの稲光りの残像だけがあらわれた。あれから私の雷好きは始まったように思う。掲句は、鬼がすべったり転んだりする拍子に稲光が起きているのだという。この愉快な見立ては、まるで大津絵と鳥獣戯画が一緒になったような賑やかさである。また、雷に稲妻、稲光と「稲」の文字が使用されているのは、稲の結実の時期に雷が多いことから、雷が稲を実らせると信じられていたことによる古代信仰からきているという。文字の由来を踏まえると、むくつけき大鬼がまるで気のいい仲人さんのごとく、天と地を取り持っているように見えてきて、ますます滑稽味を加えるのである。〈はじめよりふぐりは軽し秋の風〉〈秋雨や人を悼むに筆の文〉『蛍光』(2008)所収。(土肥あき子)


October 01102008

 秋風や案山子の骨の十文字

                           鈴木牧之

風と案山子で季重なりだが、案山子にウェイトが置かれているのは明らかゆえ、さほどこだわることはあるまい。「案山子」の語源は、もともと鳥獣の肉を焼き、その臭いを嗅がせて鳥を追い払ったところから「かがし」が正しいという(ところが、私のパソコンでは「かかし」でしか「案山子」に変換できない)。実った稲が刈り取られたあと、だだっ広い刈田に、間抜けな姿でまだ佇んでいる案山子の光景である。稲穂の金波のうねりに揺られるようにして立っている時期の案山子とはまるでちがって、くたびれて今やその一本足の足もとまですっかり見えてしまっている。なるほど案山子には骨のみあって肉はない。竹で組まれた腕と足を、「骨の十文字」とはお見事。寒々しく間抜けているくせに、どこかしら滑稽でさえある。昨今の日本の田園地帯では、もはや案山子の姿は見られなくなったのではないか。数年前に韓国の農村地帯で色どり豊かな案山子をいくつか見つけて驚いたことがある。それは実用というよりも、アート展示の一環だったようにも感じられた。案山子ののどかな役割はもはや終焉したと言っていいだろう。与謝蕪村は「水落ちて細脛高きかがしかな」と詠んでいて、こちらは滑稽味がさらにまさっている。牧之は越後塩沢の人で、縮(ちぢみ)の仲買いをしていて、雪国の名著『北越雪譜』『秋山記行』を著わした文雅の士であった。文政四年(1830)に自撰の『秋月庵発句集』が編まれた。「牧之」は俳号。『秋月庵発句集』(1983)所収。(八木忠栄)


October 07102008

 水澄むや水のやうなるビルの壁

                           長嶺千晶

句でまず思い浮かべたのは、表参道に並ぶハナエモリビル。立体的な外壁のガラスに街路樹や空が映る様子に「ああ、東京ってすごい」と、素直に見とれたものだった。丹下健三氏の設計によるこのビルは、映り込みを徹底的に意識して作られたものなので、ことに美しく感じたのだが、それにしても最近の高層ビルは全面がのっぺりと鏡のようになっているものが多い。高層化に伴い空が映ったり、雲が映ったりで美しいかといえば、接近しすぎの隣のビルを映しているだけだったりする。それでもビルに映し出される風景は、どこか虚像めいていて、不思議な感触を覚える。掲句も、無機質なビルの壁を見上げているが、それを「水のやう」とまことに美しく捉えている。都会の風景を瑞々しく表現するのは容易でない。しかも「水澄む」という自然界の季語を扱うことで、現代の都会にも季節が流れ、生活が存在することを実感させている。現代社会に顔をしかめるのではなく、この町のなかで、機嫌良く生きていこうとする作者の姿勢に強く共感する。〈百年の秋風を呼ぶ大樹かな〉〈良夜かな人すれ違ひすれ違ひ〉『つめた貝』(2008)所収。(土肥あき子)


September 0492009

 秋風や書かねば言葉消えやすし

                           野見山朱鳥

かれない言葉が消えやすいのは言葉が思いを正しく反映しないからだろう。もやもやした言葉になる以前の混沌をそれでも僕らは言葉にしないと表現できない。加藤楸邨には「黴の中言葉となればもう古し」がある。書かねば消えてしまう言葉だからと、書いたところでそれはもう書かれた瞬間に「もやもやした真実」とは乖離し始める。百万言を費やしたところで、僕らは思いを正確に伝えることは不可能である。不可能と知りつつ僕らは今日も言葉を発し文字を書き記す。言葉が生まれたときから自己表現とはそういうもどかしさを抱え込んでいる。『現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)


November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


January 0912010

 味噌たれてくる大根の厚みかな

                           辻 桃子

句なしに美味しそう。〈大根は一本お揚げ鶏その他〉の句と並んでいるが、いずれもとにかく美味しそうだ。この句の場合、味噌たれてくる大根、ときて、煮込んだ大根に味噌がかかっているのはわかるけれどまだそれだけで、厚みかな、としっかりした下五であらためてとろっと味噌がたれる。その絶妙の感覚が、こういう美味しそうな俳句の、写真にも文章にも真似のできない味わいだろう。じっくりこっくり煮込んだ大根に箸をゆっくり入れる。その断面にたれてくる味噌の香りと大根の匂いや湯気までが、それぞれの読み手の頭の中に映像として結ばれて、そのうちの何人かは、あ〜今日は大根煮よう、と思うのだ。この作者の、これまで増俳に登場した句には〈秋風やカレー一鍋すぐに空〉〈アジフライにじゃぶとソースや麦の秋〉などがあり、料理上手な作者が思われる。「津軽」(2009)所収。(今井肖子)


August 1182010

 秋風や拭き細りたる格子窓

                           吉屋信子

年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 2582010

 秋風やうけ心よき旅衣

                           平賀源内

夕、そろそろ秋風の涼が感じられる…… そんな時季になってほしい。特に今年のように猛暑がつづいた後には、何よりも秋風を待ちこがれていた人も多いはず。一息入れて旅衣も新調して出発する身に、秋風は今さらのようにさわやかに快く感じられるのであろう。「うけ心」とはそういう心地を意味している。「秋風」と言っても、ここでは心地よさが感じられる初秋の頃の風である。汗だくになって日陰や涼を求めて動いていた人々の夏が、ウソのように感じられてくる日々。秋も深まった頃の風だと、ニュアンスはだいぶ違ってくる。よく知られているように、十八世紀にエレキテルばかりでなく幅広いジャンルで活躍したスーパースター源内は、ハイティーンの頃から二十年余俳諧にもひたり、俳紀行『有馬紀行』を著した。俳号は李山。「詩歌は屁の如し」という有名な言葉を残しているが、源内のようなマルチな“巨人”にとって、俳句をひねることなどまさしく屁をひるようなものであったかもしれない。いや、そうではなかったとしても、「屁の如し」と言い切るところに、源内らしさが窺われるというものである。他に「湯上りや世界の夏の先走り」という源内らしい句がよく知られている。磯辺勝氏はこう書く。「源内の意識のうえでの俳諧よりも、彼の文事、ひいては生き方そのものに、彼の本当の俳諧が露呈している」。磯辺勝『巨人たちの俳句』(2010)所載。(八木忠栄)


September 0592010

 耳かきもつめたくなりぬ秋の風

                           地 角

かきを耳の中に入れる前には、当然耳かきを手で持つわけですから、ここで冷たいと感じたのは、耳かきを持った瞬間なのでしょうか。あるいは耳をかいている時に、冷え冷えとした季節の変わり目を感じたというのでしょうか。柴田宵曲もこの句について、「天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである」と解説しているように、どこからかやってきた秋は、どんなに隠れた隅っこや小さな空き地をも見逃さずに、季節をびっしりと行き渡らせるようです。江戸期の句ですから、おそらく木製の耳かきなのでしょうが、冷たくなりぬという感覚は、金属製のものに、むしろ当てはまりそうです。寒くなるからさびしくなるのではなく、寒くなっただけなぜかうれしさがこみ上げてくる。変わる季節を迎えるたびに打ち震える胸の中にも、びっしりと秋は入り込んできます。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


September 0892010

 秋風や人なき道の草の丈

                           芥川龍之介

正九年、二十八歳のときの作。詞書に「大地茫茫愁殺人」とある。「愁殺(しゅうさい)人」とは、甚だしく人を悲しませるという意味である。先々週水曜日の本欄で初秋の風の句(平賀源内)をとりあげたが、掲句の風はもっと秋色を濃厚にしている時季である。寒いくらいの秋風が吹いている道だから、人通りも無いのだろう。ただ道ばたの雑草が我がもの顔に丈高く繁って風に騒いでいるという、まさしく茫々たる景色である。どこか物悲しくもある。それはまた、やがて自死にいたる芥川のこころをその裏に潜ませていた、と早とちりしたくもなる句ではないか。(もっとも自死は七年後だった)そのように牽強付会ぬきにしても、いずれにせよ単に秋風の道のスケッチにとどまっていないのは確かであろう。八月に岩波文庫版『芥川竜之介俳句集』が刊行された。編者の加藤郁乎が解説で、「ぼくが死んだら句集を出しておくれよ」と芥川が言っていたことを紹介している。さらに、芥川が「俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。(略)この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎」と書いていた言葉を紹介している。生前、確かに俳人たちとの接点はまだ少なかったようだが、「その俳気英邁を最初に認めた俳人は飯田蛇笏であろう」と郁乎氏。芥川には秋風を詠んだ句が目につく。「秋風や秤にかかる鯉の丈」「秋風や甲羅をあます膳の蟹」など。『芥川竜之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


September 1292010

 秋風や何為さば時みたされむ

                           相馬遷子

石の小説だったと思いますが、主人公が休日の前に、今度の休みにはあれもやってこれもやってと、さまざまな予定をたてているというのがありました。しかし、いざ休みの日になってみれば、ぼーっとしているうちに朝も昼も過ぎてしまい、あっというまに夕方になってしまったというのです。たしかにこんな経験は幾度もしているなと思い、というか、わたしの場合など、ほとんどの休日は、予定していたものはいつかできるだろうと次々に先延ばしをして、だらだらと時をすごしているだけです。しかし、だからといって、予定していたものをてきぱきと片付けたとしたらどうかというと、今度はもっとゆっくり疲れを取りたかったなと、日曜日の夜にサザエさんのテーマを聴きながら、別の後悔に襲われることになるのです。本日の句、人としてこの貴重な人生の時間に、いったい何をしていれば心は満たされるかと悩んでいます。何をしたところで、その日にできなかったことが自分を責めてくるのだと、さびしい心を抱えてしまうのは、たしかに秋風の季節に似合いそうです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


September 1592010

 横町に横町のあり秋の風

                           渋沢秀雄

っとこさ秋風が感じられる季節にたどりついた。秋風は町ではまず大きな通りを吹き抜けて行く。つづいて大通りから入った横町へ走りこみ、さらに横町と横町を結ぶ小路や抜け裏へとこまやかに走りこんで行く。横町につながる横町もあって、風は町内に隈なく秋を告げてまわるだろう。あれほど暑かった夏もウソのように過ぎ去って、横町では誰もが涼しい風を受け入れて、「ようやく秋だねえ」「秋になったなあ。さて…」と今さらのように一息入れて、横町から横町へと連なるわが町内を改めて実感しているだろう。味も素っ気もない大通りではなく、横町が細かく入りくんでいる町の、人間臭い秋の風情へと想像は広がる。落語の世界ではないが、やはりご隠居さんは大通りではなく横町に住んでこそ、サマになるというものである。裏長屋から八つぁん熊さんが、風に転がるようにして飛び出してきそうでもある。秋風が横町と横町をつなぐだけでなく、そこに住む人と人をもつないで行く。秀雄は「渋亭」の俳号をもち、徳川夢声、秦豊吉らと「いとう句会」のメンバーだった。他に「北風の吹くだけ吹きし星の冴え」「うすらひに水鳥の水尾きてゆるゝ」等がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


September 2592010

 秋暑しすこやかなればめぐり合ひ

                           松本つや女

の句の前に〈夕顔に病み臥す人と物語〉〈堂縁に伏して物書く秋の風〉と続いている。いずれも、夫たかしを詠んでいるのだろう。一句目の物語、二句目の秋の風、共に過ごす時間に同じ風が吹いている。終生病弱であったたかし、病が進んでも衰えた様子を見せるのを嫌い、つや女にも、取り乱すことの無いようにと常々言っていたという。貴公子、と呼ばれたたかしだが、長く身の回りの世話をし、やがて一緒になったつや女には素顔のたかしが見えていたのだろう。残暑より少し秋の色合いの強い、秋暑し。まだ暑いながら時に秋風も立つ。この夏もなんとかのりきったなと一息つきながら、一瞬過去へ思いが巡ったのだろう。すこやか、の一語から、こめるともなくこもる思いが伝わってくる。『現代俳句全集 第一巻』(1953・創元社)所載。(今井肖子)


October 04102010

 寝ころべば鳥の腹みえ秋の風

                           大木あまり

の発見は単純だが新鮮だ。もちろん、寝ころばなくても鳥の腹は見える。いや、鳥は人間の目の位置よりも高いところを飛ぶので、いつだって私たちには鳥の腹が見えている。……というのは、しかし実は理屈なのであって、普通に立って鳥の飛ぶさまを見ているときには、私たちには鳥の腹は見えているのだが見てはいない。あらかじめ鳥の形状は知識として頭に入っているので、実際には見えていなくても、よくは見えない頭や尾や翼の形を補完して全体像を見ているような錯覚にとらわれているからだ。そういうふうに、私たちの視覚はできている。だが、寝ころんで鳥を真下から見上げてみると、さすがにいやでも腹がいちばんよく見える部分になるために、補完作業は後退してしまう。そのことをすっと書き留めたところが、作者の手柄である。爽やかな秋風の吹く野にある解放感が、この発見によってそれこそ補完されている。昨日の松下育男の言葉を借りれば、「創作というのは、多くの解説によって複雑に説明されるものがよいとも限らないのだなと、この句を読んでいると改めて認識させられ」ることになった。『星涼』(2010)所収。(清水哲男)


October 17102010

 波音は岸に集まり秋の風

                           稲田秋央

日の句を読んでいると、これだけあたりまえの言葉だけをつかっても、優れた句はできるものなのだなと、感心してしまいます。「波音」「岸」「秋」「風」という、さんざん句に詠まれてきた単語も、「集まり」という、これも珍しくはない単語によって見事に生き返っています。もしここに、「集まり」以外の単語が入ったとしたら、おそらくこれほど情感の深い句にはならなかったのではないかと思われます。文芸というのは、一語たりともおろそかにはできないものだと、改めて教えられるようです。波の、繰り返し打ち寄せてくる動きが、音さえもこちらに流れついているのだと感じることの美しさ。さらに、岸に集まったものは、静かに手で掬えそうな心持にもなってきます。秋の冷たい風に吹かれながら、てのひらいっぱいに掬った波音を見つめながら、これまでの人生に思いをはせるのは、秋という季節をおいてありえません。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


April 1942011

 うららかやカレーを積んで宇宙船

                           浅見 百

治4年に西洋料理としてお目見えしたカレーは、なにより白米に合うことが日本への定着に拍車をかけた。俳句にも〈新幹線待つ春愁のカツカレー〉吉田汀史、〈カレー喰ふ夏の眼をみひらきつ〉涌井紀夫 、〈秋風やカレー一鍋すぐに空〉辻桃子 、〈女正月印度カレーを欲しけり〉小島千架子、と四季を問わず登場する。そして今、国際宇宙ステーションにまで持ち込まれるという。JAXA(宇宙航空研究開発機構)で販売されている「宇宙食カレー」にはビーフ、ポーク、チキンと3種揃っているという。日本人の好物を調べた結果を見ると、どの世代にもラーメンとカレーが上位を占める。どちらも独自の進化をとげて日本の日常に溶け込んできた。あるときは家族に囲まれ、あるいはひとり夜中に、あらゆる人生の場面で顔を出してきた普段の食べ物が、ハレの日に食べてきた寿司や鰻を上回る票数を得て、好物としてあげられているのだ。成層圏を超えていく宇宙船に積まれているのが、普段の食事であるカレーだからこそ、思わず笑顔がこぼれるのである。『それからの私』(2011)所収。(土肥あき子)


August 1082011

 ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓

                           三島由紀夫

イシャツ、サイダー、卓がならべられた、別段むずかしい俳句ではない。意外や、この作家もかつて俳句を作っていたという事実。詩も作った。ワイシャツの白さと、溢れるサイダーの泡の白さが重ねられて、三島らしい清潔感に着目した句である。学習院の初等科に入った六歳のときから俳句を作りはじめ、中等科になって一段と熱が入ったという。同級生の波多野爽波と一緒に句会に顔を出したり、吟行に出かけたりしたらしい。掲句はその当時のものと思われる。他に「古き家の柱の色や秋の風」という句もある。しかし、間もなく爽波の俳句の才能に圧倒されて、自分は小説のほうへ移った。現在残されているいちばん古い句に「アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウエ」という可愛い句がある。俳句について、三島は後年次のように書いていた。「ただの手なぐさみの俳句では、いつまでたっても素人の遊びにすぎず……」。若くしてのどかな句会に対して疑問も感じていたようである。一九七〇年に自決したときの辞世の歌の一首に「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」がある。この歌の評価は低かったという記憶がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


September 0392011

 あきかぜのなかの周回おくれかな

                           しなだしん

という漢字は、稲の実り、太陽などを表しているという。いわゆる実りの秋ということだが、一方で、もの思う秋というイメージもある。虚子編歳時記には、春愁、はあるが、秋思、はなく、その理由は「秋にもの思うというのはあたりまえなので、取り立てて季題にすることはないと思われたのでは」とのことだ。昨年改訂された『ホトトギス新歳時記 稲畑汀子編』には、秋思、が新季題として加えられたのだが、歳時記委員会でやはり最後まで議論の対象となった。掲出句、秋風、と書くと、秋という漢字からうけるもの寂しさのようなものが、風と周回遅れの足取りを重くする。あきかぜ、と書くと、風は一気に透明になり、日差しの中に明るいグラウンドの光景が浮かんでくる。季感の固定概念に囚われやすい私のような読者の視界を広げてくれる句だな、と思う。『夜明』(2008)所収。(今井肖子)


September 0792011

 片なびくビールの泡や秋の風

                           会津八一

夏に飲むビールのうまさ・ありがたさは言うまでもない。また冬に、暖房が効いた部屋で飲む冷たいビールもうれしい。いつの間にか秋風が生まれて、ちょっと涼しくなった時季に飲むビールの味わいも捨てがたい。(もっとも呑んベえにとって、ビールは四季を通じて常にありがたいわけだが)屋外で飲もうとしているジョッキの表面を満たした泡が、秋風の加減で片方へそれとなく吹き寄せられているというのが、掲句の風情である。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども…」と古歌には詠まれているが、この歌人はビールの泡のかすかななびき方を目にして、敏感に秋を感じているのである。ビールの泡の動きと白さが、おいしい秋の到来を告げている。八一は十八歳で俳句結社に所属して句作を始め、その後「ホトトギス」「日本」などを愛読して投句し、数年ほどつづけた。一茶の研究をしたり、俳論をたくさん書いたが、奈良へ旅してのち次第に和歌のほうに傾斜して行った。他に「川ふたつわたれば伊勢の秋の風」がある。ビール党の清水哲男には「ビールも俺も電球の影生きている」の句がある。「新潟日報」2011年8月22日所載。(八木忠栄)


November 11112011

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

の句すでに十年前に清水哲男さんがこの欄で鑑賞してらして、僕はその文章を読みながら当時からこの句の風景に別のことを感じたのだった。そしてそのことをどうしても言いたくなった。アラブ服が最後に出てきてタラップを降りてゆくという清水さんの鑑賞は、登場してから視界の中にずっと見えているアラブ人の動きやら服装やらが印象としてこちら側に残って存在感があり説得力がある。それとは別にもうひとつ僕が感じた風景はアラブ服が最後に旅客機の中に消える図だ。僕はハイジャックを思ったのだった。「閉す」という語感から強い意図を感じる。この句所収の句集の刊行年1972という年もそのことを思わせた。どこからどこへのハイジャックか。日本からでないかぎり「秋風」はおかしいというご意見もあろう。しかし文化大革命然り、反イスラエル、反アメリカの闘争は国際的に見て全て劣勢に立たされてきた。「秋風」がその象徴として用いられてもいいではないか。全共闘世代の末端にいた僕の世代はまたテロ多き時代に生きた世代でもあった。この句からすぐにハイジャックを思った自分に苦笑しつつ、思った自分を否定するわけにはいかない。この句には晴子さんの自解があるらしい。僕は読んでいないし読みたくもない。自解をするのは自由だが、自解にとらわれるほど馬鹿げたことはない。清水さんの鑑賞も僕の鑑賞もこの作品にとっての真実だ。『蕨手』(1972)所収。(今井 聖)


January 1812012

 冬の海吐き出す顎のごときもの

                           高橋睦郎

つも思うことだけれど、タイもヒラメもシャケも魚はいずれも正面から見ると可愛らしさはなく、むしろ獰猛なつらがまえをしている。目もそうだが、口というか顎にも意外な厳しさが感じられる。アンコウなどはその最たるものだ。掲句の「顎」は魚の顎である。ここでは魚の種類は何でもかまわないだろうが、「冬の海」と「顎」から、私はアンコウを具体的に思い浮かべた。陸揚げされてドタリと置かれた、あの大きい顎から冬の海をドッと吐き出している。獰猛さと愛嬌も感じられる。深海から陸揚げされた魚は、気圧の関係でよく舌を口からはみ出させているが、臓物までも吐き出しそうに思えてくる。もちろんここは春や夏ではなく、「冬の海」でなければならない。「顎のごときもの」がこの句に、ユーモアと怪しさのニュアンスを加えている。睦郎本人は「大魚の顎に違いないが、はっきりそう言いたくない気持があっての曖昧表現」と自解している。原句は「冬の海顎のごときを吐き出しぬ」だったという。下五を「ごときもの」としたことで、「曖昧表現」の効果が強調されて句意が大きくなり、深遠さを増している。それにしても「ごときもの」の使い方は容易ではない、と改めて思い知らされた。睦郎には、他に「髑髏みな舌うしなへり秋の風」という傑作がある。『シリーズ自句自解Iベスト100・高橋睦郎』(2011)所収。(八木忠栄)


August 0882012

 死んだ子の年をかぞふる螢かな

                           渋沢秀雄

の頃からふわふわ飛びはじめる螢、その火は誰が見ても妖しく頼りなくて儚い。あの子が今生きていればいくつ……と、螢にかぎらず、何かにつけて想うのが親心というものだろう。殊に儚い火をともして飛ぶ螢を、無心に追いかける子どもたちを見るにつけ、子を亡くした親は「あの子が生きていれば……」としみじみと思いめぐらしてしまうに違いない。私には生まれてすぐに亡くなった姉がいたようだが、親は折々にその年を数えてみたりしていたのかもしれない。私などが子どもの頃に歌って螢を追った「ほ、ほ、螢こい、そっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ……」という文句も、どこかしら哀しく寂しい響きをもっていた。掲句は二十四歳で失った次男のことを詠んだもの。親にとっては幾つになっても子は子である。秀雄は各界の面々が寄った句会「いとう会」の古参メンバーだった。俳号は「澁亭(しぶてい)」。澁澤榮一の四男だった。秀雄の代表句には「横町に横町のあり秋の風」があり、他に「ででむしや長生きだけが芸のうち」がある。『澁澤澁亭』(1984)所収。(八木忠栄)


September 1592012

 秋風や長方形の空っぽで

                           中村十朗

日休暇を終えて東京に戻り久しぶりに街を歩いた時、なんでも四角いなあ、と思ったのを思い出した。人の手で作られたものの形の中に一番多く見られるのが長方形だ。この句の長方形、最初に浮かんだのは空き地。あれ、ここ何が建ってたっけ・・・更地になった空間を前に、記憶を手繰り寄せるが思い出せない、草の花が風に揺れているばかりだ。そう大きくはない喪失感と共に、ただぼんやり吹かれているには秋風がふさわしい。そして、空っぽの長方形はさまざまな想像をかきたてる。何も描かれていない紙、さっきまで何かのっかっていた皿、お湯をぬいてしまったバスタブの底、真っ黒な画面。取り残された長方形は、静かに満たされるのを待っている。俳誌「や」(2012・冬号)所載。(今井肖子)


October 07102012

 口あれば口の辺深し秋の暮

                           永田耕衣

田耕衣という名は、俳句に親しむより前の学生時代に、時折耳にしていました。夜の酒場で割箸の袋に耕衣の句を記されて、「これ、わかるか?」と問われたりして、わかるような、わからないような時間を、結構愉しんだおぼえがあります。なかでも、舞踏家・大野一雄氏の直筆舞踏原稿集『dessin』(小林東編/緑鯨社・1992)の中に、数回にわたって「手のひらというばけものや死の川」(「死の川」はママ、句集『闌位(らんい)』では「天の川」となっている)が、力強い黒マジックの筆跡で書かれていて、大野氏の舞踏作品の源流に耕衣の句があることが示されています。さて、掲句は昭和45年『闌位』(俳句評論社)に、「口在れば口辺に荒し秋の雨」と一緒に所収されています。「口の辺(へ)深し秋の暮」は、寡黙な人物の口の辺(へり)を鉛筆でデッサンしたような深みがあり、閉じている口の陰に奥行きを感じます。一方、「口辺に荒し秋の雨」は、饒舌な人物の口と口の周辺を映像化したような動きを感じます。夕暮には空間の静けさがあり、雨には音を伴うからでしょう。この二句は、芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」をふまえていると思います。これは、前書に「人の短(所)をいふ事なかれ。己が長(所)をとくなかれ」とあるように教訓的です。それに対して「口在れば」の二句は、口は閉じているか開いているか、静か動か、そのいずれかであることは確かなことで、教訓はなく即物的で、この三句のみの比較なら、耕衣に軍配を上げます。(小笠原高志)


August 0782013

 あくせく生きて八月われら爆死せり

                           高島 茂

和二十年の昨日、広島市に原爆が投下され、三日後の九日に長崎市に原爆が投下されたことは、改めて言うまでもない。つづく十五日は敗戦日である。二つの原爆忌と敗戦忌が日本の八月には集中している。掲句の「八月」とはそれらを意味していて、二つの「爆死」のみならず、さらに広く太平洋戦争での「戦死」もそこにこめられているだろう。二つの「原爆」の深い傷は今もって癒えることはない。三・一一以降セシウムの脅威はふくらむばかりである。それどころか、今まさに「安全よりお金を優先させる」という、愚かしい政治と企業の論理が白昼堂々とまかり通っている。「あくせく生き」た結果がこのザマなのであり、「爆死」の脅威のなかで、フクシマのみならずニッポンじゅうの市民が、闇のなかを右往左往させられている。そのことをあっさり過去形にしてしまう権利は誰にもない。戦中戦後を「あくせく生き」た市民たちにとって、死を逃がれたとはいえ「爆死」状態に近い日々だったということ。茂は新宿西口の焼鳥屋「ぼるが」の主人だった。私も若いころ足繁くかよった。ボリウムのあるうまい焼鳥だった。主人と口をきくほど親しくはなかったが、俳人であることは知っていた。壁に蔦がからんだ馴染みの古い建物そのままに営業していることを近年知って驚き、私は一句「秋風やむかしぼるがといふ酒場」と作った。かつて草田男や波郷もかよったという。文学・芸術関係の客が多く独特の雰囲気があった。茂の句は他に「ギター弾くも聴くも店員終戦日」がある。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


September 0892013

 秋風やそのつもりなくまた眠り

                           久保田万太郎

眠なら孟浩然以来の常套句ですが、秋の眠りは実情に即しています。万太郎は、昭和36年4月21日に入院。糖尿病治療の後、5月25日、胃潰瘍の開腹手術をします。その後、六月にひとまず退院。七月と八月に再三入院して、退院後、箱根で静養しているときの句で、「病後」という前書があります。冷房設備の整っていない時代、夏場を病床で過ごす実情は過酷です。暑さと寝汗で目覚める夜もあり、健康な人も、療養中の人も、寝不足を溜めて、ようやく秋を迎えられたでしょう。掲句は、そんな身体のすこやかな反応です。稲穂や草木をなでて吹く風を古語で上風(うわかぜ)といいますが、この秋風は、病身をふたたび眠りにいざなうそれだったのでしょう。『万太郎俳句評釈』(2002)所収。(小笠原高志)


September 2792013

 秋風に孤(ひと)つや妻のバスタオル

                           波多野爽波

風に妻のバスタオル、でも、寂しさは十分伝わるが、ここでは、あえて、「孤つ」と断っている。そのことによって、寂寥感は、いや増しに増す。一句に詠まれているのは、バスタオルであるが、単にバスタオルだけが描かれている句とは思えない。写生句を装いながら、作者の妻に対する日常の思いが、その背景に反映されているように思われる。そう考えれば、「孤つ」に籠められた心情も深い。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 17102013

 大学に羊生まれぬ秋の風

                           押野 裕

学になぜ羊がいるのだろう?農学部の牧場なのかドリーのように実験用の羊なのか。この句の眼目は羊が生まれた場所と季節だと思うが、普通羊は秋に交配時期が来て春に生まれる。とすると、この子羊は「大学」で何らかの処置をほどこされた親羊から生まれたのではないだろうか。そう考えると秋生まれの羊が人工的で華奢な存在に思われる。春に生まれた動物は気温も高くなり食べ物も豊富に育つが、秋生まれの子羊には厳しい生活環境がすぐやってくる。野良猫の場合も秋生まれの仔猫はほとんどが死んでしまうそうだ。これからの寒さの予感を感じさせる秋風のあわれさが子羊の存在の弱弱しさを暗示しているように思われる。『雲の座』(2011)所収。(三宅やよい)


October 19102013

 打てばひゞくわれと思ふや秋の風

                           久保よりゑ

らを、打てば響く、とはなかなか言えないだろう、自信家だったのかと最初は思った。事実、そういう側面も持っていた作者であるようだ。大正十四年、四十代初めの作だが『ホトトギス雑詠選集 秋の部』(1987・朝日文庫)の中でも『虚子編歳時記』の中でも、秋風の項にあって趣の異なる一句である。ただ、何度か読み返していると、打てば響く自分を打って欲しい、どうして打ってくれないのか、と言っているようにも思えてくる。はげしくあらく、身にしみてあはれをそふる、という秋風。その中に身を置きながら何を思っていたのだろう。(今井肖子)


September 2192014

 ちちろ鳴く壁に水位の黴の華

                           神蔵 器

和57年9月12日。台風18号の影響で、都内中野区の神田川が氾濫。作者は、この時の実景を15句の連作にしています。「秋出水螺旋階段のぼりゆく」「秋出水渦の芯より膝をぬき」都市にいて、水害に遭う恐怖は、底知れなさにあるでしょう。膝をぬくことで、一命をとりとめた安堵もあります。「鷺となる秋の出水に脛吹かれ」水中に立つ自身を鷺にたとえています。窮地を脱して少し余裕も。「炊出しのむすびの白し鳥渡る」何はともあれ、白いおむすびを食べて人心地がつきます。「しづくせる書を抱き秋の風跨(また)ぐ」家の中も浸水していて、まずは水に浸かった愛蔵書を救出。「出水引くレモンの色の秋夕日」レモンの色とは、希望の色だろうか。オレンジ色よりも始まりそうな色彩です。「畳なきくらしの十日萩の咲く」「罹災証明祭の中を来て受けぬ」。掲句は、この句の前に配置されています。「ちちろ」はコオロギのこと。「壁に水位の黴の華」というところに、俳人の意地をみます。凡人なら、「黴の跡」とするでしょう。しかし、作者は「華」として、あくまでも水害の痕跡を風雅に見立てます。水害を題材にして俳句を作るということは、体験から俳句を選び抜くことでもあるのでしょう。そこには自ずと季語も含まれていて、作者自身も季節の中の点景として、余裕をもって描かれています。『能ケ谷』(1984)所収。(小笠原高志)


June 0562015

 万緑やいのちは水の匂いして

                           東金夢明

渡すかぎり緑の世界が広がっている。思えば地球は水の世界。たっぷりと水を吸って豊かに緑が育まれている。この水の中にわれらが「いのち」は生まれ、緑なす大地の風を呼吸している。時は今、新緑萌え盛り鳥は鳴き花は咲き誇っている。風の中に漂う水の匂いを感じつつ、様々な命が満々たる緑に包まれている。この地球に緑に命にそして水の匂いに乾杯!<振り向けば振り向いている雪女><喉ぼとけ持たぬ仏や秋の風><木枯の着いたところが地下酒場>など。『月下樹』(2013)所収。(藤嶋 務)


September 1092015

 広げたる指すみずみに秋の風

                           守屋明俊

のうだるような暑さがひどかったせいか、とりわけ秋の風がありがたく感じられる。秋を知らせる初秋の風をとくに「初秋風」と言うことがあったと山本健吉解説の「大歳時記」にはある。日が衰え、秋風は次第に冷たくなり寂しさも増してくる。秋のあわれさを感じさせる中心に秋風があることは間違えないようだ。まだ暑さが完全に行き過ぎない九月はとりわけ吹き抜ける風に敏感になるころ。広げた五本の指のすみずみにひんやりとした秋の風が通ってゆく、指を吹きとおってゆく風は春風でも寒風でもなく、秋の風でなければならない。単純で当たり前なように思えるけど身体で感じる秋をなかなかこうは表現できない。『守屋明俊句集』(2014)所収。(三宅やよい)




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