中村草田男の句

August 0381996

 蚰蜒といふ字は覚えおく気なし

                           北野平八

蜒を、さて何と読むか。原句には振り仮名がついている。そりゃ、そうだ。漢字コンクールのトップクラスでも、読めるかどうか。答えは「げじげじ」。字も覚えたくないが、本体ともあまりお近づきにはなりたくない。夏の嫌われ者でも有名虫(?)だけあって、昔からけっこう蚰蜒の句は多い。「蚰蜒に寝に戻りたる灯をともす」(中村草田男)「げじげじや風雨の夜の白襖」(日野草城)など。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


August 0581996

 木の根に晝寝餓ゑに酔ひたる如かりき

                           中村草田男

戦直後、昭和21年の作品。前書きに「ある人の打語れる話、自ら句になりて」とある。みんなが餓えていた時代。空腹もはるかに通り越すと、たしかに酔ったような心持ちになる。このまま、とろとろとあの世へ行ってしまっても構うものかという気分……。(清水哲男)


August 1581996

 烈日の光と涙降りそゝぐ

                           中村草田男

戦の日の句。この句の情感に、いまでも心底から参加できるのは、六十代も後半以上の人々だろう。あの日の東京はよく晴れていた。七歳だった私にも、それくらいの記憶だけはある。しかし、正直に言って、この句の涙の本質は理解できない。ただ、作者の世代の辛酸の日々を思うのみ。人間には、安易にわかったふりをしてはいけないこともある。『中村草田男句集』(角川文庫・絶版)所収。(清水哲男)


November 30111996

 あたゝかき十一月もすみにけり

                           中村草田男

版の角川書店編『俳句歳時記』には、この句と並んで細見綾子の「峠見ゆ十一月のむなしさに」が載っている。長年親しんできた歳時記だから、毎年この時期になると、二つの句をセットで思いだすことになる。並んでいるのは偶然だが、いずれもが、十一月という中途半端で地味な月に見事な輪郭を与えていて、忘れられないのだ。忙中閑あり。……ならぬ、年の瀬をひかえて「忙前閑あり」といえば当たり前だが、両句ともそんな当たり前をすらりと表現していて、しかもよい味を出している。ただ草田男句の場合は、どちらかといえば玄人受けのする作品かもしれない。(清水哲男)


May 1251997

 薔薇熟れて空は茜の濃かりけり

                           山口誓子

薇の花が開ききった夕暮れ時、折りからの空はあかね色に濃く染まってきた。どちらの色彩もが、お互いに充実しきった一瞬をとらえている。しかし、この充実の時は長くはない。中村草田男に「咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも」があるが、いずれも普通の観賞句より、一歩も二歩も踏み込んで詠んでいる。誓子句のほうがよほど抒情的だけれど、こちらのほうが大方の日本人の好みには合うだろう。蛇足ながら、薔薇の句に名句は少ない。花が西洋的で豪奢すぎるせいだろうか。(清水哲男)


May 1651997

 万緑の中や吾子の歯生えそむる

                           中村草田男

んな歳時記にも載っている句だ。それもそのはずで、「万緑」という季語の創始者は他ならぬ草田男その人だからである。「万緑」の項目を立てる以上、この句を逸するわけにはいかないのだ。草田男自身は、ヒントを王安石の詩「万緑叢中紅一点」から得たのだという。見渡すかぎりの緑のなかで、赤ん坊に生えてきたちっちゃな白い歯がまぶしいという構図。人生の希望に満ちた親心。この親心のほうが、読者には微笑ましくもまぶしく感じられるところだ。私は読んでいないが、この句のモデルになったお嬢さんが、最近、家庭人としての草田男像を書いた本を上梓され評判になっている。もうひとつの草田男の名句になぞらえていうならば、だんだん「昭和も遠くなり」つつあるということか。(清水哲男)


June 0161997

 六月の氷菓一盞の別れかな

                           中村草田男

菓(ひょうか)にもいろいろあるが、この場合はアイスクリーム。あわただしい別れなのだろう。普通であれば酒でも飲んで別れたいところだが、その時間もない。そこで氷菓「一盞(いっさん)」の別れとなった。「盞」は「さかずき」。男同士がアイスクリームを舐めている図なんぞは滑稽だろうが、当人同士は至極真剣。「盞」に重きを置いているからであり、盛夏ではない「六月の氷菓」というところに、いささかの洒落れっ気を楽しんでいるからでもある。「いっさん」という凛とした発音もいい。男同士の別れは、かくありたいものだ。実現させたことはないけれど、一度は真似をしてみたい。そう思いながら、軽く三十年ほどが経過してしまった。(清水哲男)


June 1361997

 寫眞の中四五間奥に薔薇と乙女

                           中村草田男

い前書きがある。すなわち自句自解となっている。「佐藤春夫氏に『淡月梨花の歌』なる詩作品あり。想ふ人の幼き頃の寫眞を眺めて、『かゝる頃のかゝる姿を見し人ぞうらやまし』との意味を詠へりと記憶す。我も亦、家妻十九歳、初めての演奏會を終へしまゝの姿にて庭隅に佇ちて撮せる寫眞一葉、そを取出でゝ眺めつゝ人の世の時の經過の餘りにも早きを歎ずることあり」。敗戦後一年目の夏の句。空襲のない平和の味を噛みしめているような句だ。そして、同時期のこの句もまた微笑ましい。「童話書くセルの父をばよじのぼる」。セルは薄い和服地。オランダ語のsergeを「セル地」と読んで「セル」になったという。『来し方行方』所収。(清水哲男)


July 2071997

 紅蜀葵肱まだとがり乙女達

                           中村草田男

蜀葵(もみじあおい)は、立葵の仲間で大輪の花をつける。すなわち、作者は「乙女達」をこのつつましやかな花に見立てているわけで、そのこと自体は技法的にも珍しくないが、とがった肱(ひじ)に着目しているところが素晴らしい。若い彼女らの肱は、まだ少年のそれと同じようにとがっている。が、やがてその肱が丸みをおびてくる頃には、女としてのそれぞれの人生がはじまるのである。戦いのキナ臭さが漂いはじめた時代。彼女たちの前途には、何が待ち受けているのだろうか。今がいちばん良いときかもしれない……。作者はふと、彼女らの清楚な明るさに人生の哀れを思うのだ。第二句集『火の島』(1939)に収められた句。この作品の前に「炎天に妻言へり女老い易きを」が布石のようにぴしりと置かれている。時に草田男三十九歳。(清水哲男)


August 1981997

 松葉牡丹玄関勉強腹這ひに

                           中村草田男

房設備などなかった時代には、どこの家庭でも戸口や窓を開けっぱなしにして、夏をしのいだ。そんな家の中でも、涼しい穴場は板張りの廊下と玄関だった。しかし、さすがに大人は廊下や玄関で寝そべるわけにはいかない。勉強部屋もない子供が、ここぞとばかりに句のように腹這いになって本を読んだり宿題をやったりしたものである。勉強に飽きて玄関の軒下に目をやれば、埃まみれの松葉牡丹が暑くるしげに燃えている。そこで子供は、チビた鉛筆をほうり投げ、しばしまどろみの時に入るというのが定番であった。漢字を多用した句が、夏の午後の暑苦しさを的確に表現している。(清水哲男)


October 31101997

 蛇の髯の實の瑠璃なるへ旅の尿

                           中村草田男

書に「京都に於ける文部省主催『芸術学会』に出席、旧友伊丹萬作の家に宿りたる頃」とある。昭和17年秋。伊丹は病臥していた。「蛇(じゃ)の髯(ひげ)」(実は「竜の玉」とも)庭の片隅や垣根などに植えられるので、立小便には格好の場所に生えている。したがってこの句のような運命に見舞われがちだ。しかし、作者は故意にねらったわけではないだろう。時すでに遅しだったのだ。恥もかきすてなら、旅でのちょっとした失策もかきすてか……と、濡れていく鮮やかな瑠璃色の球を見下ろしながらの苦笑の図。底冷えのする京都の冬も間近い。「尿」は「いばり」。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


December 10121997

 足はつめたき畳に立ちて妻泣けり

                           中村草田男

和十五年(1940)の作。草田男四十歳の冬である。帰宅すると、妻が立ったまま泣いていた。手放しに近い号泣だ。どんなに悲しい出来事が、妻の身に訪れたのだろうか。問いの言葉もままならず、しゃくりあげる妻の姿を呆然と見ているうちに、人間とは妙なもので、逆にずいぶんと冷静になってしまうことがある。泣いている妻は冷たさなど感じてはいないはずなのだけれど、作者はつい冷たい畳に思いがいってしまっている。この後、たぶん妻の姿はすうっと小さくなり、故知れぬいとしさのようなものが沸き上がってきたということなのだろう。私にも(もしかすると、あなたにも)似たような思い出はあるが、このような場でヒトサマに発表するようなことではない。それにしても、俳句はいいなア。なんだかわからないけれど、部分を書くだけで全体をなんだかわかるような様子に仕立てあげられるのだもの……。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


February 1721998

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

                           中村草田男

吹きはじめた木々の道に早い春を楽しみながら歩いていると、向こうから犬がやってきた。なにやら真剣な顔つきで、作者には目もくれずに急ぎ足のまますれちがって行ってしまった。それだけのことだが、余程の事情がありそうな犬だと思わせているところがユニークで面白い。そういえば、昔は犬が単独で歩いていた。大きな犬がやってくると、たじろいだりしたものだ。目を合わせないようにして、平気な振りをしてすれちがうのがコツで、決して元来た道を走って逃げたりしてはいけない。そう、親たちから教えられていた。いまの犬はみな飼い主と一緒だから、怖そうな犬でも飼い主の制御力を信頼して平気ですれちがえる。犬なりの事情や感情を読み取らなくてもよくなってしまった。安心になった。それにきっと犬の側にも、いまでは「ひた急ぐ」事情など発生しなくなってしまっているのだろう。完全に飼育されきってしまわないと、犬も生きられない時代になったということだろう。やれやれ……。『中村草田男句集』(1952)所収。(清水哲男)


March 2431998

 春の夜の汝が呱々の聲いまも新た

                           中村草田男

月は別れの季節でもある。別れていく気持ちはさまざまだが、相手の人生行路どころか、自分のそれさえ定かではないところに、感傷的にならざるをえない大きな根拠がある。「じゃあ、またね」と軽く手を振って別れ、一生会わずじまいになる人もいる。この句は「末弟の門出」連作四句のうちの最初の一句。1943年(昭和18年)、戦時中の作品だ。すなわち、句は末弟の応召に際して詠まれているのであって、今生の惜別を覚悟したものである。末弟とは、作者とは二十一歳も離れた双子の兄弟なので、当然、作者は彼らの生誕の時の様子は覚えているというわけだ。でも、逆にいえば兄弟とはいうものの、実感的には親戚の子くらいの意識だったかもしれない。いつまでも子供だと思っていた末弟たちが、もう兵隊に行く年齢になったのかという感慨が、なんだか嘘のようにも思え、かつての春の夜のおぼろな気分に溶けていく……。決して上手な句ではないけれど、なべて別れの抒情とはこのようなものだろう。それにつけても、こんな理不尽な別れがなくなった時代に、偶然にも生を得た私たちとしては、月並みな言い方だが、その幸福を思わないわけにはいかないのである。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


May 2551998

 香水やまぬがれがたく老けたまひ

                           後藤夜半

水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


July 0771998

 鳶鳴きし炎天の気の一とところ

                           中村草田男

に最も多産だった草田男らしい晴朗な一句。炎天にげんなりするのではなく、むしろ烈日を快としている。慶応義塾の応援歌ではないが、まさに「烈日の意気高らかに」ではないか。鳶の鳴き声、その「一とところ」に「気」を感じたということは、すなわち作者一人(いちにん)の気力充実ぶりを表現しているのである。体調も、すこぶるよろしい。不調だったら、とてもこうは詠む気になれないだろう。生きていることへの喜びでいっぱいだ。このとき、作者の人生は全面的に肯定されている。草田男は常々「二百年は生きるつもりだ」と語っていたというが、自然へのこうした溶け込みようを見せられると、この言説にも素直に頷けるのである。同時期に発表された「炎天や鏡の如く土に影」にしても、微塵の自虐性もない。とりわけて近代の文芸においては「自虐」の分量が芸術的な価値につながるようなところがあり、それはまた歴史的な必然ではあるのだけれど、ときにこのような文芸的発想も見直しておく必要がある。さらに一句。「妻戀し炎天の岩石もて撃ち」。いずれも、草田男壮年三十八歳の作品である。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)


July 2871998

 英雄の息女の三人白夏服

                           中村草田男

戦前年の句。三人は「みたり」と読む。当時「英雄」といえば、戦死した人と解するのが普通であった。最近戦地で父親を失った娘たちが、三人ともいつもの夏と同じように、きちんと白い夏服を着用している。悲しみを払いのけるようなその凛とした姿に、作者はうたれている。これぞ「大和撫子」の鏡だと、大いに感じ入っている。ところで、こういう句は、実にコメントしにくい。なぜなら、この句は俳句の定型という以上に「時代の定型」を背負っているからだ。英雄の定義にしてからが「時代の定型」にしたがっているのだし、作者の心持ちも「時代の定型」につつまれており、もう一歩細かい心情には踏み込めないところがある。したがって、いまとなってのこの句は、一種の風俗詩としてしか読めないと言ったほうがすっきりしそうだ。作者はべつに時流におもねっているわけではないのだけれど、戦争に対して何も言っていないことも明白で、そこが限界ということになるのだろう。では、いまさら、なぜ、このような句を引いたのか。読み返しているうちに、上述の理由とあわせて、なんだかとても切なくなってきたからである。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


January 2211999

 冬の水一枝の影も欺かず

                           中村草田男

草田男の筆跡
草田男の筆跡
田男の代表句。「一枝」は「いっし」と読ませる。池か河か、澄み切った水面が、張りだした枯れ木の枝々を、「一枝」も洩らすことなく克明に映し出している。寒いとも冷たいとも書かれてはいないが、読む者には厳寒の空気がぴりりと伝わってくる。写生に徹することにより至り得た名句。国語の答案であれば、ここまで書いておけばまずは合格点だろうけれど、友人の松本哉が「欺かず」についてさらに考察を加えたことがある。彼が発見したのは、冬の水の位置と作者の視点との関係である。作者は水に映る枯れ枝と本物の枯れ枝とを、いわば横から眺めている。ところが、本物の枯れ枝のほうは確かに横から見ているのだが、水に映ったそれは横から見ていることにはならない。なぜなら、水面は作者が仰向けになって下から枯れ枝を見る視点を提供しているからだ。すなわちここで、作者は複数の視点から一つの景色を眺めていることになるわけだ。この複数の視点があってはじめて、横から見ただけでは判然としない細かい枝々の様子を見ることができる。「欺かず」とは、そうした普通では見えない姿を教えてくれる意味なのだと、松本君はとらえた。なるほど、さすがに物理の徒ならではの鑑賞ぶりだ。脱帽。まいった。『長子』(1937)所収。(清水哲男)


February 1621999

 道ばたに旧正月の人立てる

                           中村草田男

陽暦の採用で、明治五年(1872)の12月3日が明治六年の元日となった。このときから陰暦の正月は「旧正月」となったわけだが、当時の人々は長年親しんできた陰暦正月を祝う風習を、簡単に止める気にはなれなかったろう。季節感がよほど違うので、梅も咲かない新正月などはピンとこなかったはずである。私が八歳から移り住んだ山口県の田舎では、戦後しばらくまでは「旧正月」を祝う家もあった。大人たちが集まって酒を飲んでいたような記憶があるし、「隣りより旧正月の餅くれぬ」(石橋秀野)ということもあった。祝うのは、たいていが旧家といわれる大きな家だった。作者は、そんな家の人が晴れ着を着て「道ばた」にたたずんでいる光景を目撃している。そして、今が旧正月であることを思い出したのだ。「旧正月」という季語は、非常に新しい季語でありながら、歳月とともにどんどん色褪せていったはかない季語でもある。句の「旧正月の人」とは、だから私には「旧正月」という季語を体現しているような、どこか「はかない人」のように思われてならない。(清水哲男)


May 0651999

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

                           中村草田男

ささか、体調がすぐれないのだろう。作者は毒消しを飲んでいるのだが、しかし、いよいよ夏がやってきたということで、憂鬱な心は吹っ飛んでいる。さあ、どんどん俳句を書くぞと、その気持ちが体内の毒に勝っている。実際、草田男には夏の句が多い。季節ごとに分冊された歳時記を見ても、夏の巻がいちばん分厚いから、夏は俳人一般にとっても最も創作欲がわく季節なのかもしれない。ところで、「毒消し」はその昔に富山の薬売りが置き薬としていた一種の解毒剤だ。何の毒を消すのかは定かでないままに、私も腹痛のときに飲んだことがある。薬売りは年に一度、定期的に各家を訪問して、昨年置いて帰った薬の飲まれた分だけの料金を徴収し、また新しい薬を独特の木箱に補充して去っていく商売だった。医療機関や救急医療制度が発達していなかった時代の、なかなか巧みに考えられたシステムよる商法で、覚えている読者も多いだろう。貧乏な我が家では、この毒消しをいかに痛みを我慢して飲まないですますかが、切実なテーマであったことを思い出す。(清水哲男)


June 0961999

 夜の蟻迷へるものは弧を描く

                           中村草田男

の畳の上に、どこからか迷いこんできた蟻。電灯の光の下で、おのれが置かれた異環境から逃れようと、半狂乱の様子で歩き回っている。見ていると、蟻はまさに歩き回っているだけなのであって、同じ弧を描くばかりだ。その円弧から少し外れれば、簡単に脱出できるのに……。思えば人間もまた、迷いはじめるとこの蟻のように、必死に同じところをぐるぐる回りつづけるだけなのだろう。まことに格調高く、句は「迷へるもの」の真髄を言い当てている。説教でもなく自嘲でもなく、作者は冷静に自己納得している。そして、もとより作者は、この蟻を殺さなかっただろう。数多い草田男句のなかでも、屈指の名句だ。わずかに十七文字の世界で、これだけの大容量の世界を表出できる俳人は、そうザラにいるものではない。以下、余談。この句にそってではなかったが、このような趣旨のことを、ある新聞に書いたことがある。ご覧になった作者のお嬢さんが、そのコラムを切り抜いて仏壇に上げてくださったと仄聞した。決して、自慢しているのではない。草田男の仕事の偉大を思う一人の読者として、涙が出るほどに嬉しかったので、どこかに書きつけておきたかっただけ。『来し方行方』(1957)所収。(清水哲男)


August 2681999

 晩夏光バットの函に詩をしるす

                           中村草田男

に暦の上では秋であるが、実際に「夏終わる」の感慨がわくのは、今の時期だろう。「バット」(正式には「ゴールデンバット」)は煙草の銘柄。細巻きで短く、安煙草の代表格だった。「函」とあるけれど、いわゆるボックス・タイプではなかったように思う。それとも、私の知る以前のものは堅い函に入っていたのだろうか。いずれにしても、作者はふと浮かんだ句を、忘れないようにと煙草の函に書きとめたのである。とりわけて夏場に旺盛な創作欲を示した草田男のことだから、いささか秋色を増してきた光のなかでのメモには、特別な感傷を覚えたにちがいない。そして、このときに書かれた「詩」が、すなわちこの句であったと想像すると面白い。句が先にあって、句の中身をなす行為が後からついていっているからである。「見たまま俳句」ではなく「見る前俳句」だ。はじめて読んだときに、根拠もなくそう感じたのは何故だろうか。手近にメモ用紙がないときに、よく利用されるのが箸袋だが、この場合はやはり「バット」でないと具合が悪いだろう。金色の「バット(蝙蝠)」マークが晩夏の光色に照応して、隠し味になっている。(清水哲男)


November 30111999

 あたゝかき十一月もすみにけり

                           中村草田男

から、この句が好きだ。なんということもないのだけれど、心がやすまる。実際に今年の十一月も暖かかったが、そういう事実を越えて、何か懐かしい響きを伝えてくれる句だ。意図的に使われている平仮名の、心理的な効果によるものだろう。字面は詠嘆的なのだが、詠嘆がまといがちな大袈裟な身振りを、やわらかい平仮名がくるんでしまっている。ほど良い酔い心地。そんな感じもする。そしてちょっびりと、同時に明日からの「酔いざめの師走」が暗示されていて、そこがまた読む者の琴線に微妙に触れてくるのだ。山本健吉が「腸詰俳句」と言った草田男独特の句境にはほど遠いところに位置する作品だが、草田男のもう一つの魅力が存分に発揮されている句だと思う。草田男は虚子門。やはり「ホトトギス」の子なのであった。(清水哲男)


March 2432000

 蒲公英のかたさや海の日も一輪

                           中村草田男

吠埼での連作「岩の濤、砂の濤」のうち。蒲公英(たんぽぽ)はもとより春の季語だが、他の句から推して春というよりも冬季の作品だ。一句目には「燈臺の冬ことごとく根なし雲」とある。一輪の蒲公英が、怒濤の海を真向かいに、地に張りつき身をちぢめるようにして咲いている。たしかに蒲公英は、それでなくとも「かたい」印象を受ける花であるが、寒さゆえに一層「かたく」見えている。生命力の強い花だ。そして曇天の空を見上げれば、そこにも「かたく」寒々とした太陽が、雲を透かして「一輪」咲くようにして浮かんでいる……。この天と地の花の照応が読みどころだ。読むだけで、読者の身もちぢこまってくるようではないか。この句を評して山本健吉は「古今のたんぽぽの句中の白眉である」と絶賛しているが、同感だ。常々「二百年は生きたい」と言っていた草田男ならではの、これは大きく張った自然観・人生観の所産である。かつて神田秀夫は、草田男を「天真の自然人」と言った。『火の島』(1939)所収。(清水哲男)


May 0852000

 青草の朝まだきなる日向かな

                           中村草田男

だすっかり夜の明けきらぬころ、窓を開けると、今日もいい天気。勢いよく生い茂る夏草の上には、早くも朝日が日向をつくっている。すがすがしく心地よい情景だ。胸中には、おのずから今日一日を生きるための活力がわいてくるようである。草田男は夏が好きな人で、「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」は有名。事実、夏の句を多く残した。ところで、仕事との関係からではあるが、四十代以降からの私は早起きになった。それまでは午前四時ころに寝ていたのが、百八十度回転した。だから、私にこの句の味わいがわかったのは、二十年前くらいのことだった。これからの季節、しばらくは毎朝、青草の日向が楽しめる。たまさか曇っている朝だと、なんだか大損をしたような気にすらなってしまう。「朝日影」という言葉があって、辞書的定義では「朝の光」をさすが、これは早朝の日差しがもたらす「光」と「影」のコントラストの美しさを言った言葉だと思う。昔かよった田舎の小学校の校歌に、いきなり「朝日影」と出てきた。作詞者は、その学校の教師だったと記憶している。きっと、早起きの大好きな先生だったのだろう。『長子』(1937)所収。(清水哲男)


May 2652000

 麦秋や自転車こぎて宣教師

                           永井芙美

の熟した畑が、四方にどこまでも広がっている。そのなかの道を、黒衣の宣教師が自転車でさっそうと行きすぎてゆく。薫風が肌に心地よい季節の情景を、いっそう気持ちよくとらえた句だ。ただし、読者がちょっと立ち止まるところがあるとすれば、「麦」と「宣教師」との取り合わせだろう。「一と本の青麦若し死なずんばてふ語かなし」(中村草田男)というキリスト教との関連だ。が、私はそこまでは踏み込まないでよいように思う。軽やかな宣教師の自転車姿が、麦秋の景観を引き立てている。そう、素朴に読んでおきたい。それよりも面白いのは、聖職者と乗り物との取り合わせに、なぜ私たちは着目するのかという点だろう。昔からなぜか、聖職に携わる人(この国では「教師」なども含まれる)には歩くイメージが固着している。乗る姿に違和感のないのは、聖職者が自分で運転しない自動車に乗っている時であるとか……。とにかく聖職者が自力で乗り物を動かすことに、庶民は違和感を感じてきたようだ。自分で乗り物をあやつる行為には、反聖的な軽薄さにつながるという認識でもあるのだろうか。馬車の時代の階級差への認識が、いまだに感覚として残っているのか。スクーターに乗った僧侶とすれ違うだけで、内心「ほおっ」と思ってしまうのは、私だけではないだろう。『福音歳時記』(1993・ふらんす堂)所載。(清水哲男)


June 2862000

 花合歓や凪とは横に走る瑠璃

                           中村草田男

歓(ねむ)の花を透かして、凪(な)いだ瑠璃(るり)色の海を見ている。合歓が咲いているのだから、夕景だ。刷毛ではいたような繊細な合歓の花(この部分は雄しべ)と力強く「横に走る」海との対比の妙。色彩感覚も素晴らしい。海辺で咲く合歓を見たことはないが、本当に見えるような気がする。田舎にいたころ、学校に通う道の川畔に一本だけ合歓の木があって、どちらかというと、小さな葉っぱのほうが好きだった。花よりも、もっと繊細な感じがする。暗くなると眠る神秘性にも魅かれていた。眠るのは、葉の付け根の細胞の水分が少なくなるからだそうだ。ところで合歓というと、芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」が名高い。夜に咲き昼つぽむ花に、芭蕉は非運の美女を象徴させたわけだ。しかし、この句があまりにも有名であるがために、後に合歓を詠む俳人は苦労することになった。それこそ草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、同じ季題で詠むときの邪魔(笑)になるように……。合歓句に女性を登場させたり連想を持ち込むと、もうそれだけで芭蕉の勝ちになる。ましてや「象潟(きさがた)」なる地名を詠むなどはとんでもない。だから、懸命にそこを避けて通るか、あるいは開き直って「象潟やけふの雨降る合歓の花」(細川加賀)とやっちまうか。そこで遂に業を煮やした安住敦は、怒りを込めて一句ひねった。すなわち「合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず」と。三百年前の男への面当てである。『中村草田男全集』(みすず書房)所収。(清水哲男)


July 1872000

 かはせみの一句たちまち古びけり

                           黒田杏子

校通学時、最寄り駅まで多摩川を渡ったので、「かはせみ」は親しい存在だった。美しい鳥だ。翡翠(ひすい)を思わせる色なので、漢字では一般的に「翡翠」をあて、魚を取るところから「魚狗(ぎょく)」とも言う。とにかく、素早い動きが特徴。ねらった獲物に一直線に襲いかかり、素早く元いた岸辺に戻ってくる様子は、うっかりすると目では追いきれないほどに感じる。そうやって取ってきた魚は、岩などに叩きつけて殺す。猛禽さながらの鳥なのだが、スズメよりは少し大きい程度の体長であり美しい色彩なので、残酷な印象は残さない。掲句は、そんな「かはせみ」の敏捷さと美々しさとを、暗喩的に捉えた作品だ。「かはせみ」の句をいくつか作ってはみるのだが、眼前にその姿を置いていると、句がスピーディな飛翔感についていけず、たちまちにして「古び」てしまうというのである。対象を直接描かずに詠む技法はよく使われるけれど、なかなか成功しないケースが多い。もってまわった表現になりがちだからだ。その点、この句はぴしゃりと決まっていて、好感が持てる。中村草田男には「はつきりと翡翠色にとびにけり」があって、こちらは流石にどんぴしゃりである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)


October 17102000

 牛乳屋ちらと睹し秋暁の閨正し

                           中村草田男

てと、まずは漢字の読み方から。「睹し」は「みし」で「秋暁」は「しゅうぎょう」、「閨」は「けい」と読む。「牛乳」は「ちち」と、これは作者が振り仮名をつけている。牛乳配達は、朝が早い。そろそろ寒さが身にしみはじめる秋の朝、自転車で配達する牛乳屋さんも大変だ。心なしか、夏の配達時よりもピッチが上っている。配り慣れた家々なので、手早く牛乳箱から空き瓶を取り出しては、荷台の新しい牛乳に黙々と交換していく。それでも、ちらとは「閨」に目をやり、その家に何事も起きていないことを確認しているようにも見える。秋の朝の澄んだ空気のなか、その家の「閨」はきちんとしており、「正し」い輪郭で朝を迎えている……。「秋暁」の市井の凛とした空気を伝えた句だ。さて、この「閨」であるが、本義は「門」だ。これに「圭」(瑞玉)を転がり込ませた文字だから、やんごとなきお方の家の「門」。転じて婦人の部屋の意ともなり、これは「閨房」「閨閥」などでお馴染だ。そして「睹」は「目」と「者」で、集めあわせることで、視線を一点に集中して見るの意味となる。となれば、この牛乳配達さん、ひょっとすると女性の寝所か夫婦の部屋に「ちらと」ではあるけれど、視線を集めているのかもしれない。ならば「ちち」と照応する。しかし、そこには何の動きも感じられず、清く「正し」く落ち着いている。生臭さの微塵もない「秋暁」の光景だ。つまり、これほどに難しい漢字を使ったところからして、作者の意識には、前者の解釈のなかに後者の色彩を「ちらと」混入したかったのだと読んだ。それにしても、こんなに辞書を引かされる句も、めったにあるものではない。疲れた。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


November 01112000

 猫のぼる十一月のさるすべり

                           青柳志解樹

月の特徴や風情を一息で射止める。まさに俳句の醍醐味であるが、作ろうとすると非常に難しい。陽暦での話だが、比較的イメージのわきやすい月もあって、例えば十二月や三月や五月。一月などは比較的簡単そうだが、最初の日々に新年という観念の波がかぶさり過ぎるので、一月全体を季節感として表現するとなるとなかなかに難しい。月半ば以降になると、もはや新年という観念は薄れがちになるからだ。ならば、十一月はどうだろうか。紅葉の月、落葉の月、行楽の月。そうした特長もいくらかはあるけれど、天候の変化にも乏しく、茫洋として掴みがたい。加えて、人事的にもさして動きのない月である。秋から冬へと季節が静かに動いていくだけなので、これといった決め手や殺し文句には欠けている。その決め手のなさを逆手に取ったのが、掲句だろう。この時期の「さるすべり」はもう、ほとんど裸木だ。そのつるつるした木を、猫がするするっと苦もなくのぼっていく。たぶん、小春日和の暖かい日なのだ。でも、ただそれだけ。全て世は事も無し……。これが「十一月」の風情ですねと、作者はおだやかに言い留めている。句のスタイルそのものが、そのまま「十一月」の掴みがたい風情としっくり溶け合っているように思える。「十一月」の句でよく知られているのは、中村草田男の「あたゝかき十一月もすみにけり」だ。この句もまた、茫洋の月を茫洋のままに詠んでいる。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 1322001

 アイロンは汽船のかたち鳥曇

                           角谷昌子

語は「鳥曇(とりぐもり)」で、春。雁や鴨などの渡り鳥が北方へ帰っていくころの曇り空を言う。春の曇天には人の憂いを誘うような雰囲気があり、帰る鳥たちの淋しさ、哀れさに通じていて味わい深い。「また職をさがさねばならず鳥ぐもり」(安住敦)。「鳥雲に(入る)」という季語もあって、物の本には『和漢朗詠集』の「花ハ落チテ風ニ随ヒ鳥ハ雲ニ入ル」に発すると書いてある。現代人である私たちの半ば故無き「春愁」の思いも、元はと言えば、自然とともにあった祖先の感覚につながって発現してくるのだろう。「少年の見遣るは少女鳥雲に」(中村草田男)。揚句は、そうした古くからの「鳥曇」の情緒を、現代の感覚でとらえかえした試みとして注目される。それも「アイロンは汽船のかたち」と童心をもって描くことで、遠くに帰っていく鳥たちの姿や行く手に明るさを与えている。私たちが沖を行く汽船に淋しさや哀れさを感じないように、鳥たちのいわば冒険飛行に期待と希望をこめて詠んでいる。この「鳥曇」は、実にふんわりとあたたかい感じのする曇り空だ。アイロンがけをしている作者の姿を想像すると、上機嫌で「シロイケムリヲハキナガラ、オフネハドコヘイクノデショウ……」と童謡の一節くらいは口ずさんでいるように思えてくる。『奔流』(2000)所収。(清水哲男)


August 0482001

 厚餡割ればシクと音して雲の峰

                           中村草田男

党(からとう)の読者(私もそうです)は、意表を突かれたかもしれませんね。季語は「雲の峰」で夏。もこもこと大きく盛り上がった入道雲を意識しながら、何も暑い季節に「厚餡(あつあん)」を「割る」こともあるまいに、と……。要するに、飲み助は甘いものを暑苦しいと思い込んでしまっているのです、たぶんね。でも、最近酒量の落ちてきた私にはよくわかるようなつもりになっているのですが、そんなことはないようです。薄皮の饅頭(まんじゅう)でしょうか。特に冷やしてあるわけでもないのに、手にする「厚餡」入りの菓子はどこか冷たく重く感じられます。作者が言いたいのは、この「厚餡」と「雲の峰」との質感の相似性でしょう。あの「雲の峰」も、いま手にしている饅頭と同じように、そおっと丁寧に「割ればシクと音して」割れるようだ。「シク」が眼目。「パクッ」でもなければ、ましてや「バカッ」でもない。あくまでも大切に割るのですから、無音に等しい「シク」と鳴るわけですね。日本のどこかで、今日もこんなふうに「雲の峰」を眺めている人がいるのかと思うと、それだけでも心が安らぎます。『銀河依然』(1953)所収。(清水哲男)


February 1022002

 春の闇幼きおそれふと復る

                           中村草田男

語は「春の闇」。夜の闇ではあるが、感覚的にはうるんだような、しろじろとした光りのあるような闇夜だ。どこか艶なる感じもあって、気分が安らぐ。掲句は、そんな闇のなかで眠りにつこうとしたときの、たまさかの心の揺らぎを詠んだのだろう。「幼きおそれ」の中身は、もとより知る由もない。とにかく、春の闇に身を横たえている安らぎのなかに、「ふと」幼き日のおそれが復(かえ)ってきたのである。仮に他人に話したとしても、一笑に付されてしまいそうな他愛ないおそれ……。だが、当人にとっては、なかなか眠れそうにないほどのおそれなのだ。どなたにも、多少とも覚えがあるのではなかろうか。でも、何故こういうことが起きるのだろう。心理学的解説は知らねども、人が安らぐ心持ちというものが、多くかつての幼児期の心に退行し重なり合うからだろうと、私には体験的に思われる。だから、白昼多忙時には片鱗も思い出すことのない思いが、安らぎを引き金にして、ごく自然によみがえってくることがある。幼き日のおそれが、当時と等価で戻ってきてしまうのだ。むろん私にも「幼きおそれ」はちゃんとあるけれど、やはりここに書けるようなことではない。両親や周囲の大人たちでも、絶対に助けてくれっこないような恐ろしいことが、身に迫ってくる。この怖さは、幼い心におぼろに芽生えはじめた自立心の所産だったのだろうなと、なるべくそう思うようにしてはいる。が、怖いものは怖い。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


May 3052002

 香水や優柔不断盾として

                           佐藤博美

語は「香水」で夏。身だしなみを整え、これから外出するところ。でも、心弾む外出ではない。先方では難題が待ち受けていて、何らかの態度を決めなければならないのだ。どう応接すべきか。いくら思案しても、どうしたらよいのか結論が出ない。決めかねたままに、外出の時間が迫ってきた。で、仕上げの香をしのばせながら思い決めたのが「優柔不断」……。今日のところはこれを「盾(たて)」として、結論をもう少し先延ばしにするしかないだろう、と。男であれば、さしずめネクタイを締めながら心を決める場面だ。言われてみれば、優柔不断もたしかに堅牢な盾となる。香水の句で有名なのは、中村草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」だ。この「鉄壁」の本質が、実は女性の優柔不断だったらどうだろうと思うと、草田男の生真面目さに切なさと可笑しさが同時にこみあげてくる。ところで、この句を読んであらためて気がついたのは、私は外出寸前に態度を決めることが多いということだった。難題に対してばかりではなく、気ままな遊びでのコース選びについても同様だ。目的地までのバスや電車のなかでは、なかなか考えがまとまらない。というよりも、ほとんど思考停止の状態になってしまう。変更する時間の余裕はたっぷりあっても、結局は家で決めた通りの道筋をたどることになる。すなわち、家から持ちだした盾を後生大事に抱えてしか歩けないというわけだ。なんでしょうかねえ、これって。『私』(1997)所収。(清水哲男)


June 0262002

 夏蓬ふぁうる・ふらいを兄が追い

                           中烏健二

語は「夏蓬(なつよもぎ)」。蓬餅にするころの蓬はやわらかくて可愛げがあるが、成長した蓬には荒々しい感じすら受ける。夏には丈が一メートルほどにも伸びるものがあり、引っこ抜こうにも根が頑強で始末におえない。「さながらに河原蓬は木となりぬ」(中村草田男)。となれば、句の情景は典型的な草野球だ。ここで、注目すべきは「ファウル・フライ」ではなく「ふぁうる・ふらい」の平仮名表記。夏蓬に足を取られてたどたどしく追いかける「兄」の姿を、直接的にではなく間接的に見事に表現しえている。フライそのものもひょろひょろっと上がったのだろうが、兄の様子もひょろひょろしていて心もとない。たしかに夏蓬は群生しており、兄の頼りなさも多くそのせいではあるのだが、なんだか兄のとても弱くて脆い面、見てはいけない姿を見てしまったような気分なのだ。整備されたグラウンドでは、いかにひょろひょろしようとも、平仮名表記にはならないだろう。そんな頼りない兄の姿は、まず日頃の生活ではお目にかかれない。他人であれば句にならない場面を、こうして書き留める作者には、おそらく近親憎悪の心も働いているのではあるまいか。すらっと読めばほほ笑ましいようなシーンだけれど、私にはこんなふうに思えてならない。草野球にも、さまざまな心理の綾が飛び交っている。『愛のフランケンシュタイン』(1989)所収。(清水哲男)


August 2482002

 仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身

                           中村草田男

語は「爽(さわ)やか」で秋。天高し。「仔馬」が飛び跳ねるようにして、牧場を駆け回っている。加減などせずに、全力で遊んでいる様子は、いかにも爽やかだ。見ていると、脚といい首といい胴といい、全身の筋肉という筋肉が使われているようだ。それを「力のいれ処(ど)ばかりの身」と押さえたことにより、躍動する仔馬の存在が生き生きとクローズアップされた。涼しそうな爽やかさではなく、汗を感じながらの爽快感が詠まれている。いかにも、力感のこもった草田男らしい表現と言うべきか。ところで、同じ馬の爽やかさを詠んだ句でも、山口誓子の「爽やかやたてがみを振り尾をさばき」は対照的だ。こちらは大人の馬だから、動作に落ち着きがある。もはや仔馬時代のように無駄な筋力を使うこともなく、悠々と闊歩している。競馬場のサブレッドか、乗馬用に飼育されている馬だろう。その汗一つ感じさせない洗練された動きが、ことに「尾をさばき」から伝わってくる。なるほど、爽やかな印象だ。かつての私の身近には、農耕馬しかいなかった。彼らはいつもくたびれた様子で首を垂れており、お世辞にも爽やかさを感じたことはない。でも、仔馬のときにはきっと草田男句のように元気だったのだろう。そう思うと、やりきれない気分になってくる。両句とも『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)に所載。(清水哲男)


October 04102002

 遥かに秋声父母として泣く父母の前

                           中村草田男

語は「秋声(しゅうせい)」、「秋の声」とも。秋になると物音も敏感に感じられ、雨風の音、物の音、すべてその響きはしみじみと胸に染み入る。まことに抽象的な季語で、なかなか外国の人には理解できないだろうが、私たちにはわかる。少なくとも、わかるような気はする。前書に「遺骨を携へて帰郷せし香西氏夫妻」とあり、愛弟子であった香西照雄の次男が事故死したときの句だ。逆縁の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものである。その尽くしがたさが多少ともわかるのは、やはり同じ人の子の親だからであり、悲嘆に暮れている「父母の前で」、作者夫妻も「父母として」涙をとどめえなかった……。このときに「秋声」とは、もはや「遥かに」遠くなってしまった故人の元気な声のことでもあろうし、遺骨を前にした衝撃で「遥かに」退いてしまったような現実のあれこれの音のことでもあるだろう。一読、胸の内がしいんと白くなるような絶唱である。先日、草田男・三女の弓子さんにお会いする機会を得た。その折りにいただいた御著書『わが父 草田男』(1996・みすず書房)に、掲句が引かれている。この本が出ていることは知っていたけれど、私は私の草田男像が崩れることを恐れて、今日まで手にしてこなかった。弓子さんにもこのことは率直に申し上げたが、最初の短い文章「風の又三郎」を読んだだけで、大いなる杞憂であったことを知る。わが不明に恥じ入るばかりだ。(清水哲男)


November 01112002

 謙虚なる十一月を愛すなり

                           遠藤梧逸

や、十一月だ。季語としての「十一月」は、立冬のある月なので冬に分類。暦の上では冬に入る月だが、小春日和といわれる暖かい日々もあり、トータルでは案外十月よりも暖かかったりする。「あたゝかき十一月もすみにけり」(中村草田男)という印象深い句もある。とはいえ、一方では木枯らしの吹く日もあって、季節はじんわりと確実に冬へと向かっていく。掲句を読んで真っ先に思ったことは、句のように当月を人格化したときに、なるほど「謙虚」という表現がぴったりくるのは、今月十一月しかないだろうなということだった。前に出過ぎず、しかし着実に次の月へとバトンを渡していく感じがある。そこで、お遊びを思いついた。では、他の月には、どんな人格や性格を当て嵌めればぴったりくるのだろう。拙速で私なりに並べてみると、来月十二月は「短気」だろうか。一月は「堂々」でいいだろう。そして、我が生まれ月の二月は「孤独」。三月は浮かれがちになるので異論も覚悟で「軽佻」、逆に四月は年度はじめゆえ「実直」となる。五月は文句なしに「明朗」で、六月は「陰鬱」と言うしかあるまい。七月は「蹶起」ないしは「血気」のような感じだけれど、八月は七月の惰性みたいな月だから「怠惰」でいきたい。九月にはちょっと困ったが「素朴」としておいて、十月は案外に雨の日も多いことから「曖昧」としておこう。いかがでしょうか。下手くそすぎますかね。やっぱりね。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


January 0812003

 焼跡に遺る三和土や手毬つく

                           中村草田男

語は「手毬(てまり)」で新年。どんな歳時記にでも載っている句、と言っても過言ではあるまい。「焼跡」は、むろんかつての大戦の空襲でのそれだ。以前のたたずまいなどはわからないほどに焼け落ちてしまった家の跡に、わずかに「三和土(たたき)」だけが、そのままに遺(のこ)った。三和土は、土間のこと。そこで、小さな女の子がひっそりと毬つきをしているという敗戦直後の正月風景だ。「国破れて山河あり」などと言うが、敗戦国の民のほとんどは、そんなふうに自然と向き合うだけで達観できるわけもない。明日をも知れぬ生活をおもんぱかりつつ、ふと通りがかりに見かけた女の子の毬をつく姿に、作者はどんなに慰められたことだろう。おのずから、涙が溢れてくるほどの感動を覚えたにちがいない。それを草田男は、見られるとおりに、できるだけ散文的に描写することですませている。そっけないほどに、淡々とした書きぶりだ。感動の「カ」の字も書いてはいない。何故か。実は、やはり心のうちでは泣いているからなのだ。泣いているがゆえに、必死に感情に溺れまいとして、突然の恩寵の源を客観的に書き留めようとしたのだと思う。すなわち、このときの草田男の脳裡に読者はいない。自分だけの記録、自分のためだけの光景としてしっかりと書き留め、長く手元に残しておきたかった……。涙を拭って撮った「スナップ写真」とでも言えば、多少とも当たっているだろうか。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


May 1652003

 起し絵の男をころす女かな

                           中村草田男

起し絵
語は「起し絵(おこしえ)」で夏。昨日につづいて「死季語」の登場です。極彩色の錦絵、浮世絵に鋏を入れ、芝居の舞台などを立体的に組み立てる遊びで、江戸から大正にかけて流行した。言うなれば、元祖ペーパークラフト。関西では「立版古(たてはんこ)」と呼んだ。夏の縁側などにこれを置き、蝋燭の明かりで楽しんだことから夏季に分類されてきた。句は、子供時代の回想だろう。ゆらめく灯のなかに、いままさに「男をころす女」の姿が不気味に浮き上がっている。母親や近所のおばさん、お姉さんとは違って、こういう怖い女の人もいるのかと凝視した。でも、当時は自覚しなかったけれど、ただ単に怖いというのではなく、どこかでその女の人に魅かれていたことも確かだった。いまだに起し絵の情景を鮮かに思い浮かべられるのは、そんな仄かな性の目覚めがあったからである。と、単純な句柄ながら含蓄のある句だ。ところで、起し絵そのものは昭和期以降急速に廃れていったが、系譜はのちの少年雑誌の組み立て附録として受け継がれ、現代でも紙製ではないけれど、ジオラマ風の展示物として博物館などで見ることができる。図版は、園田学園女子大学のHPより借用した。ちょっと暗くて見にくいが、近松半二作『妹背山婦女庭訓』山の段(吉野川)の組み上げ絵である。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


June 3062003

 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る

                           中村草田男

語は「蜥蜴(とかげ)」で夏。昔は、そこらへんにいくらでもいた。スルスルッという感じで走ってきては、ひょいと立ち止まり、ときに周囲を見回すような仕草をする。警戒心からなのだろうか。掲句は、この蜥蜴の様子を知らないとわかりにくい。はじめての子供の誕生の報せを受けた作者は、道を歩いている。いよいよ父親になったのかという思いで、あらかじめこの時が来ることを承知はしていても、なんとなく落ち着かない気分だ。実際、私の場合もそうだった。落ち着けと自分に言い聞かせても、意味もなくあちこちと動き回りたくなる。慌てたって仕様がないのだけれど、頭の中は混乱し、胸は動悸を打ち、やたらに「責任」だとか「自覚」だとかという言葉ばかりが浮かんでくる。果ては、まだ見ぬ我が子が成人になるときに、私は何歳だろうかなどと埒もない計算までしてしまったていたらく……。つい、昨日のことのように思い出す。このときの作者だとて、心中は同じようなものだろう。そんな作者が、とにかく意味もなくパッと止まる。と、視野にある蜥蜴もパッと止まった。そしてお互いに、周囲を見回す。夏の真昼のこの図には、作者の苦笑が含まれてはいるが、第三者である読者からすると、むしろ男という存在の根源的な寂しさのようなものが感じられるはずだ。無茶苦茶に嬉しいのだけれど、どこかで手放しには喜べない男というものの孤独の影が。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)


November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


March 1932004

 校塔に鳩多き日や卒業す

                           中村草田男

語は「卒業」。折しも卒業式シーズンである。多くの若者たちが、この春も学園を巣立ってゆく。掲句は、つとに有名な句だ。この古い青春句がいまでも人気があるのは、淡彩的なスケッチが、よく卒業式当日のしみじみとした明るさを伝えているからだろう。しかしよく読むと、さりげなげなスケッチの背後には作者の非凡な作意があることを感じる。作者も含めて、誰もふだんは「校塔」などつくづくと見上げるはずもなかったのが、いざ別れるとなると、学園のこのシンボルを見上げることになったのだ。だから、実はこの日だけ格別に「鳩」が多かったというわけではあるまい。いつもは気がつかなかっただけで、鳩は毎日のように群れていたはずなのである。それを、今日「卒業」の日だけにたくさん群れていると詠んだ。つまり、今日だけに多くの鳩を校塔に集めてしまったのは。卒業生の感傷でもあるけれど、その前に俳人として立たんとしていた草田男の並々ならぬ作句意欲だったと、私には思われる。現実に「鳩多き日」は季節的に毎日のことであり、作者が気づいたのはたまさか「卒業」の日だけのことであった。が、掲句では、この関係が逆転している。作者はいつも校塔を眺めていたのであり、いつもは鳩が少なかったと一瞬思わせるかのように、句は周到に設計されている。一見淡彩を匂わせているのだが、なかなかどうして、下地にはかなりの厚塗りが施されている。非凡な作意と言わざるを得ない所以だ。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


October 11102004

 夜長ふと見出しものに「肥後守」

                           中村草田男

語は「夜長」で秋。草田男にしては、大人しい句だ。署名がなければ、誰も草田男句だとは読めまい(思い出しますね、「第二芸術論」)。秋の夜長のつれづれに、引き出しの整理でもしていたのだろう。その昔、子供の頃に使った「肥後守(ひごのかみ)」が出てきた。何故こんなところに、こんなものが……。訝しく思いつつも、一挙に懐かしさに襲われて、刃を開いたり閉じたりしてみている。何か削るものはないかと、周辺を見回している作者の姿が想像されて、微笑ましい。「肥後守」は、明治期から昭和三十年代くらいまでにかけて使用された学童用の安価な和式ナイフである。といっても、ちゃんと刃文の出る本格的な刃物で、きちんと研いでやると相当によく切れた。ということは、錵もあったのだろう。主として鉛筆削りに使われたが、そこは子供のこと。それだけの用途ではすまされず、木や竹を削ったり果物を剥いたりと、いまで言うアウトドアでも大いに活躍した。だが、喧嘩に使われることはめったになかったと思う。そのあたりは刃物の何たるかを、肥後守を通じて知らず知らずのうちにわきまえていたのだ。危ないという理由からと、便利な鉛筆削り機が登場したことにより、学校から追放されてしまったけれど、それで良かったとは必ずしも言いがたい。刃物を持ったことがない者には、刃物の恐さがわからないからだ。ちなみに今回初めて知ったことだが、「肥後守」は「味の素」などと同様に普通名詞ではなく、れっきとした登録商標なんだそうである。『大虚鳥』(2003)所収。(清水哲男)


November 05112004

 霧の灯に所持せるものを食べをる人

                           中村草田男

語は「霧(きり)」で秋。昔は春の霞(かすみ)も霧と言ったそうだが、現在は秋のみ。霞に比べると、霧にはどこか冷たい印象がある。「霧の灯」とあるから、戸外の情景だ。街灯だろうか、霧にかすんだ灯の下で、何か食べている「人」がいる。夜間工事の人とも考えられるが、私には浮浪者のように写る。作句は昭和十九年、かつての大戦たけなわの頃だ。浮浪者といっても、だから空襲で焼けだされて帰る家を失った人なのかもしれない。食糧難時代だったので、そういう人は本当に大変だったろう。食べているのは、何だろうか。握り飯かパンか、それとも芋の類だろうか。などということは、作者の眼中にはない。何でもよいけれど、とにかく彼は大切に「所持せるもの」を肌寒い道ばたで食べているのであって、あたり気にせずのその一心不乱な様子が、すれ違ったときの印象として心に深く焼き付けられたのである。あの時代ほどに「人は食わなければ生きていけない」と、誰もが肝に銘じたことはなかっただろう。そんな頃だったから、食べ物に向かったときのおのれ自身もまた彼と同じようなものだと、作者はつくづく「人」というものの哀れに感じ入っているのだ。「霧の灯」にロマンチシズムのかけらもなかった時代が、この国の現実としてあったということを、掲句はかっちりと証言している。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


April 3042005

 妹の嫁ぎて四月永かりき

                           中村草田男

年度ということもあって、「四月」という月は活気もあるがあわただしくもある。一般的な認識として、四月は短いと感じるのが普通だろう。だがこれに個人的な事情が加わると、いつもの四月とは違って、掲句のように永く感じる人も出てくる。妹が嫁いだ。いつも側にいた人がいなくなった。めでたいことではあるけれど、予想していた以上の喪失感を覚えて、作者は少しく滅入ってしまったのだ。それに昔のことだから、これからはそう簡単に妹と会うことはできない。何かにつけて、ふっと妹を思い出し、淡い寂しさを感じる日々がつづいた。この句には、兄という立場ならではの寂寥感がある。というのも、妹の結婚準備の段階からして、両親ほどにはしてやることもない。手をこまねいているうちに、自分以外の者の手でどんどん段取りは進められ、ろくに妹と話す機会もないうちに挙式となり、気がつけば傍らから消えてしまった。そういう立場なので仕方がないとはいえ、妹の結婚に実質的には何も関与していない自分であるがゆえに、どこか取り残されたような気持ちにもなっている。永い四月だったなあと嘆息するのも、よくわかるような気がする。さて、今年の四月も今日でおしまいですね。読者諸兄姉にとっては、どうだったでしょうか。私には例年通り、やはり短く感じられた四月でありました。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2752005

 麦の秋一と度妻を経てきし金

                           中村草田男

語は「麦の秋」で夏。ちょうど今頃から梅雨入り前まで、麦刈りに忙しい農家も多いだろう。時間がなくて調べずに書いているのだが、句は作者が新婚間もない時期のものだと思われる。結婚すると独身時代とは違った生活の相に出会うことになるが、家計の管理もその一つだ。作者の場合はすべての金銭管理を妻にまかせたわけで、月々の小遣いも妻から渡してもらうことになった。自分が働いて得た金を妻経由で渡されることに、慣れない間は何か不思議なような照れくさいような感じを受けるものだ。と同時に、これが家庭を持つということ、一人前になるということなのだと、大いに納得できるのでもある。眼前には収穫期をむかえた麦が一面の金色に広がっていて、ポケットの財布のなかには妻から手渡されたばかりの金がある。作者はそのことにいい知れぬ充実感を覚え、いよいよ張り切った気持ちになってゆく自分を感じている。もっとも掲句は専業主婦が当たり前の時代のもので、いわゆる共働きが普通になってきている現代の新婚夫婦間には、こうした感慨は稀薄かもしれない。たとえどちらかがまとめて管理するとしても、お互いに所得があるのだから、金銭に関してはむしろドライな感覚が優先するのではあるまいか。作者の時代の夫婦間の金が湿っていたのに対して、現代のそれは乾いている。比喩的に言えば、そういうことになりそうだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1472005

 少年の夏シャツ右肩裂けにけり

                           中村草田男

語は「夏シャツ」。といってもいろいろだが、この場合は下着としての白いシャツだろう。昔はTシャツなんぞという洒落たものはなかったので、暑い日中はたいてい下着のシャツ一枚で遊び回っていたものだ。そんなシャツ姿の少年の右肩のところが裂けている。何かに引っ掛けた拍子に裂けたのか、喧嘩でもしてきたのか。「裂けにけり」と句は現在完了形で、いかにも作者の眼前で裂けたかのような書きぶりだが、実際にはもう既に裂けていて、あえてこうした表現にしたのは、裂け方の生々しさを強調したかったからだ。このときの少年の姿は、単なる悪ガキのイメージを越えて、子供ながらにも精悍な男の気合いを感じさせている。とにかく、カッコウがよろしいのである。いましたね、昔はこういう男の子が……。ところで下着のシャツといえば、現在の普段着であるTシャツも、元来はGI(米兵)専用の下着だったことをご存知だろうか。まだ無名だった若き日のマーロン・ブランドが、『欲望という名の電車』のリハーサルに軽い気持ちでそれを着ていったところ、エリア・カザンが大いに気に入り本番でも採用することにした。で、映画は大ヒットし、昨日までの下着が、以来外着としての市民権を得ることになったというわけである。ほぼ半世紀前、1947年のことだった。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 20112005

 冬すでに路標にまがふ墓一基

                           中村草田男

後、一瞬の戸惑いを覚える。だが、この戸惑いこそが掲句の命だろう。戸惑うのは、「冬すでに」とあるけれど、「何が『冬すでに』どうなったのか、どうなっているのか」については何も書かれてないからだ。で、いきなり「路標とまがふ墓一基」と「冬すでに」を断ち切った光景が現れる。読者には、上五の「冬すでに」がどのように下七五にかかってゆくのかという頭があるから、「あれっ」と思うわけだ。そこでもう一度、句全体を見渡すことになる。すると、この「冬すでに」の未完結性が一種の余韻となって、句全体をつつんでいることがわかってくる。もっと言えば、漠然としていてもどかしいような「冬すでに」があるから、路傍に打ち捨てられた「墓一基」の姿がより鮮明になってくるのだ。「路標」は、たとえば「江戸まで十里」といったような道しるべのこと。よく見ないとそんな路標と「まがふ」(見まがう)ほどに、一つの小さな墓が打ち捨てられている。たぶん、墓を守るべき子孫や縁者も絶えてしまったにちがいない。しかし、この墓の下に眠っている人にも、むろん人生はあった。どんな人で,どんな生涯を送った人なのか。作者はしばし、墓の前にたたずんでいる。人の世の無常を感じている。現世の季節は「冬すでに」到来しており、どのような人であれ、その運命はいずれはこの墓と同じように、寒い季節に打ち捨てられさらされるのだと、作者は思わずにはいられなかったのだ。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 2122006

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

                           中村草田男

語は「梅」で春。迂闊にも、この句が学徒出陣する教え子たちへの餞(はなむけ)として詠まれたことを知らなかった。つい最近、俳人協会の機関紙「俳句文学館」(2006年2月)に載っていた奈良比佐子の文章で知った。「地の塩」はマタイ伝山上の説教のなかで、イエスが弟子たちに、「あなたがたは地の塩である」と言っていることに由来している。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。このときに作者は「(きみたちの)勇気」こそが「地の塩」を塩たらしめると言ったわけだが、しかしこの「勇気」の中身については何も言及されていない。当時の時局を考えるならば、中身は「国のために死ぬ勇気」とも、あるいは逆に「犬死にを避ける勇気」とも、まだ他にもいろいろと解釈は可能だ。「とにかく死なずに戻って来い」などとはとても公言できない時代風潮のなかでは、新約聖書の匂いを持ち出すだけでも、それこそ大変な勇気が必要だったと思う。したがって、勇気の中身を問うのは酷に過ぎる。作者もまた曖昧さを承知で、そのあたりのことは受け手である学生たちの理解にまかせてしまっている。だから作者は、その曖昧な物言いに、せめて純白の梅の花を添えることで、死地に赴く若者たちへの祈りとしたのだろう。作者の本心は「地の塩」や「勇気」にではなく、凛冽と咲く「梅真白」にこそ込められている。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


April 2142006

 春山にかの襞は斯くありしかな

                           中村草田男

語は「春(の)山」。うっかりすると見逃してしまいそうな地味な句に見えるが、しばし故郷から遠く離れて暮らしている人にとっては、ふるいつきたくなるような句だろう。作者が、久方ぶりに郷里の松山に戻ったときに詠んだ「帰郷二十八句」の内の一句。「東野にて」の前書きがある。私にも体験があるが、故郷を訪れて最も故郷を感じるのは、昔に変わらぬ山河に対面するときだ。新しい道ができていたり建物が建っていたりするトピック的な情景には、それはそれで興味を引かれるけれど、やはり帰郷者が求めているのは子供の頃から慣れ親しんだ情景である。ああ、そうだそうだ。あの山の襞(ひだ)は昔も「斯(か)く」あったし、いまもそのまま「斯く」あることに、作者は深く感動し喜びを覚えている。変わらぬ山の姿が、過去の自分を思い出させ、若き日の自分と現在の自分とを対話させ、そしてその一切が眼前の山に吸い込まれてゆく。「父にとって『かの襞』はほとんど『春山』の人格のようなものをさえ感じさせたことであろう」。めったに色紙を書くことのなかった作者に、掲句を書いてもらったという草田男の三女・中村弓子さんの弁である(「俳句α」2006年4-5月号)。父なる山河、母なる故郷などと、昔から自然はある種の「人格」に例えられてきたが、それらは単なる言葉の上の比喩ではなく、まさに実感の上に立った比喩であることが、たとえばこの句からも読み取れるのである。『長子』(1936)所収。(清水哲男)


June 3062006

 六月の氷菓一盞の別れかな

                           中村草田男

十代の私に俳句を読むことの醍醐味を教えてくれた中村草田男の一句をもって、しばしお別れの挨拶とさせていただきます。この句は九年前(1997)の六月に一度取り上げていて、そのときの全文は次の通りでした。『氷菓(ひょうか)』にもいろいろあるが、この場合はアイスクリーム。あわただしい別れなのだろう。普通であれば酒でも飲んで別れたいところだが、その時間もない。そこで氷菓『一盞(いっさん)』の別れとなった。『盞』は『さかずき』。男同士がアイスクリームを舐めている図なんぞは滑稽だろうが、当人同士は至極真剣。「盞」に重きを置いているからであり、盛夏ではない『六月の氷菓」というところに、いささかの洒落れっ気を楽しんでいるからでもある。『いっさん』という凛とした発音もいい。男同士の別れは、かくありたいものだ。実現させたことはないけれど、一度は真似をしてみたい。そう思いながら、軽く三十年ほどが経過してしまった」。淡々たる別れの情景は、湿度も低く、こうして傍目に見ていても気持ちが良いものですね。それでは今日こそ私も真似をして、一盞のアイスクリームをちょっと掲げて「さようなら」を申し上げます。長い間のご愛読、お励ましに感謝しつつ。また、秋からの新増俳でお会いしましょう。(清水哲男)

[ 謝辞 ]末筆になりましたが、この間、技術的に当サイトを支えつづけてくれた長尾高弘さんに深甚の謝意を表します。ありがとうございました。


May 0552007

 揺れつつ海へ伸びゆく道や子供の日

                           中村草田男

月五日が子供の日として祝日になったのは、戦後間もなくの昭和二十三年のこと。子供の人格を重んじ、幸福をはかるという趣旨で端午の節句があてられたという。最近は子供が甘やかされているから年中子供の日ではないか、などと言われもするが、社会全体で子供の幸せを願おうというのは健全な発想だろう。作者は、昭和八年から三十年間余り、東京の私立成蹊学園で教鞭をとっていた。病気や大学転部などで、三十二歳とやや遅めの就職である。その翌年の句に〈入学試験幼き頸の溝深く〉などあり、子供との関わりの中で生まれた句も多いことだろう。掲句、一読して、海へ伸びゆく道、はすんなりわかる。広々とした海へ続く道。そこに、上五を七音にしてまで、揺れつつ、である。揺れているのは何なのか。道は自由の海へ続いている。しかしそこを歩いて行く時、立ち止まったり、ためらったり、時には引き返そうかと思ったりしてしまう。やはり、そんな十代のいわゆる思春期の不安定な心持ちが、揺れているのだろう。そしてそれを包みこむ、作者の慈しみの視線がある。だからこそ、伸びゆく道や、という力強い表現に、健やかなれ、という願いが感じられ、本来の子供の日の一句となっている。『草田男季寄せ』(1985・萬緑「草田男季寄せ」刊行会)所載。(今井肖子)


June 1562007

 老婆外寝奪はるべきもの何もなし

                           中村草田男

婆だから「奪はるべきもの」がない、乙女ならあるのかと読むと、そこまで言うかという気になるが、この句の狙いはそんな卑俗なところにはないことにやがて気づいた。この句は本来の裸の人間が持っている天賦の聖性について言っているのだろう。飼っている犬が食べ物をねだるとき、喜ぶとき、糞尿をするとき、ふと聖なる存在を感じるのと同じ。羞恥心も遠慮もない赤裸々な姿が、逆に我等人間のひねくれ方を映し出す。理知なるものがいかに人間の聖性を侵食したかを教えてくれるのだ。赤ん坊が大人につきつける聖性も同様。人間の原初の在り方を草田男は一貫して問うている。そういう一貫した思想を俳句の中に盛ろうとすれば表現は通常観念色、説教色に染まるものだが、草田男はそうならない。外寝という季題を配して現実的な風景のリアリティを構成する。虚子門草田男が、最後まで「写生」を肯定していた所以である。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


January 1012008

 寒星や神の算盤ただひそか

                           中村草田男

たい空気に冴え冴えと光る寒星。星と星が触れればグラスとグラスがかち合う硬質の響きをたてそうだ。だが、そんな想像とは関係なく冬の夜空は星座の配列をくっきりと際立たせている。「算盤(そろばん)」は珠(たま)枠(わく)芯(しん)で構成されている。普段の計算道具は電卓にとってかわられたけど、あの細長くコンパクトな外見からは考えられないくらい大きな桁の加減乗除をこなす。珠の動かしかたをろくに知らない私にとっては無用の長物だったけど、算盤に優れた友達を見るたび羨ましくてしかたなかった。珠を繰るその速さと正確さもそうだけど、目の前に算盤がなくとも指先を少し動かすだけであっというまに暗算をやってのけるのが格好よかった。掲句は「神の算盤」と桁外れにスケールが大きい。この「算盤」は形としては三ツ星などを想像させるが、その背後で天体の運行を支配する大いなる意志をも表現しているのだろう。算盤は軽快に珠をはじいてこその道具。それを「ひそか」と形容することで本来算盤が持っている神秘的な性格を寒星の動きに重ね合わせて連想させる。草田男の句は眼前の事象を手掛かりに遥かな時空へと読み手の心を広げてくれるようだ。『銀河依然』(1953)所収。(三宅やよい)


June 1462008

 もの言はず香水賣子手を棚に

                           池内友次郎

田男に、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける〉の句がある。ドレスアップして汗ひとつかいていない美人。まとった香水の強い香りが、彼女をさらに近寄りがたい存在にしているのだろうか。昨今は、汗の匂いの気になる夏でも、そこまで強い香水の香りに遭遇することはほとんどないが、すれ違いざまに惹かれた香りの記憶がずっと残っていたりすることはある。この句は昭和十二年作、「銀座高島屋の中を歩き回った」時詠んだと自注がある。その頃の売り子、デパートガールは、今にも増して女性の人気職業だったというから、まだ二十代の友次郎、商品よりもデパートガールについ目が行きがちであったことだろう。客が香水の名前を告げると、黙って棚のその商品に手を伸ばす彼女。どこに何が置いてあるか熟知しており、迷う様子はない。友次郎は、彼女のきりっとした横顔に見惚れていたのかもしれない。そして、後ろにある棚に伸ばした二の腕の白さに、振り向きざまに見えた少しつんとした表情に、冷房とはまた違った涼しさを感じたのだろう。香水そのものを詠んでいるわけではないけれど、棚に手を伸ばすのは、やはり香水売り子がぴたっとくる。『米壽光来』(1987)所収。(今井肖子)


February 2622009

 二人居るごとく楽器と春の人

                           中村草田男

器はどれもエロチックで美しいフォルムを持っている。掲句を読んであらためて考えてみると確かに演奏者が楽器と寄り添う姿は恋人を抱擁しているようだ。この「人」にかかる季節をいろいろ入れ替えてみたが、一番よく音楽が似合う季節はなんといっても春。暖かな春の休日に井の頭や石神井公園を散歩していると、バイオリンやフルートの音色が流れてきて心が明るくなる。夢中になって演奏している姿は実に楽しそうで、楽器と睦み、語らっているようだ。楽器は人が繰るものではなく、自分の感情を指や呼吸で伝えれば、音で答えてくれるもの。表現するのに技術を鍛えなければならないのはもちろんだけど、どんな語りかけにも良い音色で応えてくれるほど楽器は優しくない。そう思えば「二人居るごとく」と見るものに存在感を感じさせるのは恋人に対する心遣いで楽器と向き合ってこそかもしれない。『大虚鳥』(おほをそどり)(2003)所収。(三宅やよい)


August 0582009

 たつぷりとたゆたふ蚊帳の中たるみ

                           瀧井孝作

や蚊帳は懐かしい風物詩となってしまった。蚊が減ったとはいえ、いないわけではないが、蚊帳を吊るほど悩まされることはなくなった。蚊取線香やアースノーマットなるもので事足りる。よく「蚊の鳴くような声」と言うけれど、蚊の鳴く声ほど嫌なものはない。パチリと叩きつぶすと掌にべっとり血を残すものもいる。部屋の隅っこから何カ所か紐で吊るすと、蚊帳が大きいほどどうしても中ほどにたるみができる。蚊帳の裾を念入りに払って蒲団に入り、見あげるともなくたるみを気にしているうちに、いつか寝入ってしまったものである。小学生の頃には、切れた電球のなかみを抜き、その夜とった蛍を何匹も入れ、封をして蚊帳のたるみの上にころがして、明滅する蛍の灯をしばし楽しんだこともあった。「たつぷりとたゆたふ」という表現に、そこの住人の鷹揚とした性格までがダブって感じられるではないか。昔の蚊帳は厚手だった。代表作「無限抱擁」のこの作家は、柴折という俳号をもち自由律俳句もつくる俳人としても活躍した。『柴折句集』『浮寝鳥』などの句集があり、全句集もある。蚊帳と言えば、草田男に「蚊帳へくる故郷の町の薄あかり」がある。『滝井孝作全句集』(1974)所収。(八木忠栄)


September 1692009

 生きてあることのうれしき新酒哉

                           吉井 勇

米で作られた酒は新酒と呼ばれ、「今年酒」とも「新走(あらばしり)」とも呼ばれる。初ものや新しいものが好きなのは人の常。酒好きの御仁にとって新酒はとりわけたまらない。酒造元の軒先に、昔も今も新酒ができた合図に吊るされる青々とした真新しい杉玉(酒林)は、うれしくも廃れてほしくない風習である。暑さ寒さにかかわりなく年中酒杯を口に運んでいる者にとって、香りの高い新酒はまた格別の逸品である。そのうまさはまさに「生きてあることのうれし」さを、改めて実感させてくれることだろうし、今年もまた新酒を口にできることの感激を味わうことにもなる。勇が掲出句を詠んだ時代は、現在のようにやたらに酒が手に入る時代とはちがっていたはずである。それだけに新酒のうれしさは一入だったにちがいない。逆に現在は、新酒との出会いの感激はそれほどでもなくなったかもしれない。勇は短歌のほかに俳句もたくさん詠んだ。酒を愛した人らしい句に「 またしても尻長酒や雪の客 」もある。中村草田男の新酒の句に「 肘張りて新酒をかばふかに飲むよ 」があって、その様子は目に見えるようだ。10月1日は「日本酒の日」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1812010

 木葉髪馬鹿は死ななきや直らねえ

                           金子兜太

きだなあ、この句。若い頃には抜け毛など気にもかけないが、歳を重ねるうちに自然に気になるようになる。抜け毛にもだんだん若い日の勢いがなくなってくるので、まさに落ちてきた木の葉のごとしだ。見つめながら「オレもトシ取ったんだなあ」と嘆息の一つも漏れてこようというもの。しかし、この嘆息の落とし所は人さまざまである。草田男のように「木の葉髪文芸永く欺きぬ」と嘆息を深める人もいれば、掲句のようにそれを「ま、しょうがねえか」と磊落に突き放す人もいる。生来の気質の違いも大きかろうが、根底には長い間に培ってきた人生に対する態度の差のほうが大きいと思う。掲句を読んで「いかにも兜太らしいや」と微笑するのは簡単だが、その「兜太らしさ」を一般読者に認知させるまでの困難を、クリエーターならわかるはずである。嘆息の途中に、昔の子供なら誰でも知っていた廣澤虎造『石松代参』の名科白を無造作に放り込むなんてことは、やはり相当の大人でないとできることではない。この無技巧の技巧もまた、人生への向き合い方に拠っているだろう。金子兜太、九十歳。ますますの快進撃を。ああそして、久しぶりに虎造の名調子を聴きたくなってきた。例の「スシ食いねえ…」の件りである。「俳句界」(2009年1月号)所載。(清水哲男)


June 0962010

 梅雨の夜や妊るひとの鶴折れる

                           田中冬二

ろそろ梅雨の入り。梅の実が熟する時季に降る雨だから梅雨。また、栗の花が咲いて落ちる時季でもあるところから「墜栗花雨(ついりあめ)」とも呼ぶと歳時記に説明がある。雨の国日本には雨の呼称は数多くあるけれど、「黴雨」「梅霖」「荒梅雨」「走梅雨」「空梅雨」「梅雨晴れ」などなど、梅雨も多様な呼び方がされている。さて梅雨どき、昼夜を通して鬱陶しい雨がつづいている。妊った若妻であろうか、今夜も仕事で帰りの遅い夫を待ちながら、食卓で所在なく黙々と千代紙で鶴を折っている。「鶴は千年……」と言い伝えられるように、長寿の動物として鶴は古来尊ばれてきた。これから生まれてくる吾子が、健やかに成長してくれることと長寿を願いながら、一つ二つと鶴を折っているのであろう。静けさのなかに、雨の夜の無聊と、生まれてくる吾子に対する愛情と期待が雨のなかにもにじんでいる。冬二には『行人』『麦ほこり』など二冊の句集があるが、実作を通して「俳句は決して生やさしいものではない」と述懐している。相当に打ち込んだゆえの言葉であろう。筆者は生前の冬二をかつて三回ほど見かけたことがあるけれど、長身痩躯で眼鏡をかけ毅然とした表情が印象に強く残っている。冬二の句に「白南風や皿にこぼれし鱚の塩」がある。たまたま梅雨と鶴を組み合わせた句に、草田男の「梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ」がある。平井照敏編『新歳時記』夏(1990)所載。(八木忠栄)


December 10122010

 時を違へてみな逝きましぬ今日は雪

                           中村草田男

つ生まれようと生ある者は例外なく死ぬ。過去から果てしもなく生まれたら必ず死んで今日に至る。そして今日空から雪が降りてくる。限りない死者のように。草田男しか出来ない句。生と死と永遠を見ている。「人間探求派」としてよく比較される草田男と加藤楸邨の違いを考えてみると、作品の中に一貫して流れる強靭なひとつの思想が草田男には感じられるのに対して楸邨は一句一句いつも白紙から出発する。型の確立や技術の熟達を楸邨は意識的に嫌った。それはほんとうに言いたいことがなくても、ほど良い季語の斡旋や取り合わせで作品が作れてしまうことの怖さを言っているのだ。草田男はどの句も確信的思想の土台の上に置かれている。観念が土台にある場合は通常は解説的になり、啓蒙的色彩が濃くなる。草田男は季節感を日本的なものの在り処として捉えて生々しい把握をこころがけている。だから観念が浮き立つことがない。この句で言えば「今日は雪」。限りなく空から降りてくる雪片に限りない死者を重ねて見ている。この生々しい実感的把握は草田男、楸邨に共通する部分である。『大虚鳥』(2003)所収。(今井 聖)


April 0142011

 ふるさとの春暁にある厠かな

                           中村草田男

のところを三音の空欄にしたら、おそらくすべての俳人はふるさとの春暁にふさわしい情緒的な語句を入れるだろうな。厠なんて絶対出てこない。これは草田男の才能そのものだ。だいたい厠がふるさとの情感と合うわけがないと我らは思う。思う以前にそんな出会いを思いつきもしない。生まれ交わり産み死んでいく人間の原初の営みを強く肯定するからこそ厠を聖なる営みの場所として捉えられる。上句の情緒が下句で一転して「哲学」に到る。俳句はここまで言える。『長子』(1936)所収。(今井 聖)


May 0852011

 人々に四つ角ひろき薄暑かな

                           中村草田男

の句にどうして惹かれるかと言うと、つまるところ「ひろき」の一語なのかなと思います。うつむいて歩いていて、ふと目をあげた先に、思いもよらぬ広い交差点があった。それだけのことでも、ああ生きているなと感動できるわけです。そういえば勤め人をしているときには、電車に乗ることは、会社のある渋谷駅に向かうことでした。さて定年になり、もう会社に行かなくてもいいんだと思ったある日、駅のホームで電車を見たときに、身の震えるような「ひろさ」を感じました。逆方向にも電車は走っていて、乗りたいと思えば乗ってもかまわないのだと思ったのです。生きる喜びって、そんなに複雑なものではないのだなと、あらためて実感しました。鬱屈した日々の街角でも、ちょっと曲がった先には広々とした四つ角が待っているのだと、信じて生きてゆきたいと、思っているのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 1832012

 鶯のけはひ興りて鳴きにけり

                           中村草田男

の時、草田男は鶯を見ているのでしょうか。見ているならば、じっと観察しながら、鳴き始める前の「けはひ」を注視しているのでしょう。この時、草田男は、鶯を見ていないならば、静かに耳を澄まして鶯の「けはひ」にじっと耳を傾けていたのでしょう。この時、たぶん、世界で最も静かな場所である耳の中では、鶯の鳴き声を受けとめる準備がなされていました。「森の中で鳥が鳴く前には鳴き声の予感がある。」と、指揮者小澤征爾は言います。「楽器を演奏する時には、鳥が鳴く前の兆しから始めなければならない。」と、演奏者たちに指示します。鶯の鳴き声が求愛のそれならば、鳴く前のとまどい、逡巡、ためらいが「けはひ」となって、静かな耳の持ち主ならば、聴きとることができるのかも しれません。数年前、サントリーホールで聴いた小澤征爾のEroicaに、最初の30秒で涙を流しましたが、それも、演奏の前の「けはひ」から、すでに、やられていたのかもしれません。『日本大歳時記 春』(講談社版1982)所載。(小笠原高志)


April 0242012

 蒲公英のかたさや海の日も一輪

                           中村草田男

分の日を過ぎても、今年は寒い日がつづいた。この句は、そんな春は名のみの海岸での感懐だろう。暖かい陽射しのなかで咲く蒲公英(たんぽぽ)ならば、気分を高揚させてくれる感じがあるが、句のそれは曇天に「かたく」咲いているので、逆に気持ちも寒々しくなってしまう。そして沖に目をやれば、これまた雲を透かせてぼおっと太陽がにじんでいるのである。眼前の蒲公英が一輪しか咲いていないことを、「海の日も一輪」と暗示したことにより、句はスケールの大きいものとなり、しかも日常的なこまやかな感情もこぼすことなく同時にとらえていて見事だ。昔この句を読んだときに、イギリスの画家ターナーの霧にかすむ陰鬱な日の光りを連想したことがある。草田男には向日的な句が多いけれど、こうしたいわばターナー的な抒情句にも、天性としか言いようのない閃きを示したのだった。『火の島』(1941)所収。(清水哲男)


June 1762012

 手の薔薇に蜂来れば我王の如し

                           中村草田男

学に入って、初めて買った俳句の本、「季寄せ-草木花・夏(上)」で掲句に出会いました。この本、ご存知の方も多いと思いますが、見開き二頁のなかに、花の写真と植物の解説と例句がそろう親切なつくりで、よい入門書でした。写真と俳句の相性のよさが活かされた本です。掲句はたぶん実景で、草田男は庭の薔薇を切って手にしていたか、あるいは薔薇の花束を手にしていたか、そこに蜂がやって来たわけですから、庭が妥当でしょう。勤務先、成蹊高校の中庭かもしれません。薔薇を手にしているだけでも豪華ですが、そこに蜂が来れば絢爛です。このとき草田男は、「おー」と心の中で叫んだから「王の如し」なのかどうかはわかりません。ただ、このような、シェー クスピア 劇の一場面のような劇的一瞬が、われわれの日常の中にも稀にあり、草田男はそれを見逃さず、俳句のシャッターを切りました。薔薇の花びらは、一片一片が大きくややぶ厚い質感で、それらが中央から三重、四重にもなって真っ紅に開いているので、王にふさわしい姿です。蜂は、胸部は褐色の毛におおわれていて、腹部は縞模様が黒く光り、威圧感があります。その姿は、武器を隠し持つ王の傭兵のようです。薔薇も蜂も王朝風に美しく、しかし、薔薇は棘を出し、蜂は針を隠しています。これは、王家がつねに美をまとい、つねに武装に腐心するのに似ています。作者は、庭で全盛期のリア王のように絢爛豪華な気分にひたりながらも、同時に、王家には、常に刃が向けられている恐怖 をも感じたのかもしれません。薔薇も蜂も、美しく無惨な悲劇に合います。教師時代の草田男は、いつもマント姿だったようで、舞台衣装もきめてます。(小笠原高志)


December 06122012

 おはやうと言はれて言うて寒きこと

                           榎本 享

村草田男に「響爽かいただきますといふ言葉」がある。厳しい暑さが過ぎて回復してくる食欲、「いただきます」という言葉はいかにも秋の爽かな大気にふさわしい。そんな風に普段何気なく使っている挨拶言葉に似合いの季節を考えてみると、「おはよう」と声を掛け合うのは、きりっと寒い冬の戸外が似つかわしい。「冬はつとめて」と清少納言が言っているとおり、冬を感じさせる一番の時間帯は早朝なのだ。冷えきった朝の大気に息白く、「おはよう」「おはよう」と挨拶を交す。そのあとに続く「寒きこと」は、手をこすり合わせながら自分の中で呟くひとり言なのかも。冷たい空気は身を切るようだが、互いにかけあう「おはやう」の言葉の響きは暖かい。校門に立っている先生が登校してくる生徒に掛ける「おはよう」辻の角で待ち合わせた友達と交わす「おはよう」ガラガラと店を開け始めた人に近所の人が声をかける「おはよう」さまざまなシーンを想像して寒い朝に引き立つこの言葉の響きを楽しんでいる。『おはやう』(2012)所収。(三宅やよい)


April 2642013

 山桜あさくせはしく女の鍬

                           中村草田男

は俳句に何を求めるのだろうか。俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、寓意、箴言、警句等々。仮にこんな言葉で自分の句を評されてもちっともうれしくないな。草田男の句はこのどれにも嵌らない。人は何故生れたのか、何のために生きるのか、何をするべきなのか、どこへ行くのか、「私」とは何なのか、そんなことを考えさせてくれる作家だ。「あさくせはしく」が原初の性への認識を思わせる。また草田男の季語の使い方にはグローバルで普遍なるものを個別日本的なるものの上に設定しようとする意志を感じる。彼が花鳥諷詠を肯定したのもそういう理由からであったと思う。『朝日文庫・中村草田男』(1984)所収。(今井 聖)


June 0262013

 薔薇の園水面を刻む風の術

                           中村草田男

薇園の中の池の情景でしょうか。句集では、「術」に「すべ」のルビがあります。水面には薔薇の花びらが映り込んでいますが、風が吹いているので、その姿は小刻みに変化しつづけています。水面は、空の青と薔薇の赤とが溶け合うようにゆらいでいますが、けっして混ざり合うことはない、水面です。咲いている薔薇と水面の薔薇は、実像と虚像の関係にありますが、風がドローイングしているととらえる作者の眼には戯れがあります。昭和三十四年、虚子先生の告別式からしばらく経ってからの句なので、あるいは虚子先生の面影を偲んでいるのかもしれませんが、これはわかりません。むしろ、風が施した「術」は花鳥諷詠で、それを客観写生して亡師に捧げている。この方が少し近いようです。なお、Bara・kiZamu・kaZe・suBeの濁音によって、風紋が響いています。『中村草田男集』(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


November 07112013

 剃刀の刃が落ちて浮く冬の水

                           田川飛旅子

い剃刀の替刃が冬の水に浮いている。ただそれだけの様子なのだが心に残る。剃刀が落ちて浮くのは「春の水」でも「秋水」や「夏の河」ではなく「冬の水」というのがこの句の眼目なのだろう。「冬の水一枝の影も欺かず」と草田男の有名な句があるが、冬の水は澄んではいるが動きが少なく、水自体は重たい印象だ。掲句では剃刀の刃の鋭さがそのまま冬の空気の冷たさを感じさせる。そして、浮いている剃刀の単なる描写ではなく「落ちて浮く」とした動きの表現で冬の水の鈍重さも同時に伝える、相反する要素を水に浮く剃刀に集中させて詠み、蕭条とした冬そのものを具体化している。『田川飛旅子選句集』(2013)所収。(三宅やよい)


January 1012014

 鶴凍てて花のごときを糞(ま)りにけり

                           波多野爽波

鶴とは、冬の最中、鶴が片脚で立ち、凍りついたように身動きもしないさまをいう。動物園では、その姿をよく見ることができる。そんな凍鶴が少し動いたかと思うと、排泄したのである。通常ならば、汚いと感じるところだろうが、爽波は、逆に、美しさを感じて、「花のごとき」と喩えている。下五の表現は、「露の虫大いなるものをまりにけり」という阿波野青畝の句が、元になっているのだろう。一方、内容的には、中村草田男の「母が家近く便意もうれし花茶垣」という句が、少なからず影響を与えていると思う。爽波は、生前、草田男のこの句について、しばしば触れていた。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


February 0922014

 雪中梅雪中鶯も在り得たり

                           中村草田男

月になると梅が咲き始めます。暦の上では春ですが、体も暮らしもいまだ冬仕様です。冬と春のはざまですから、季節が重なっていて、季語にもそれが反映されています。草田男句集には雪中梅を詠んだ句がほかに「雪中梅この旅白くなりにけり」「雪中梅一切忘じ一切見ゆ」(昭和29)「雪中梅雪にかくれぬ首花眼前」「雪中梅闘ひつづけ争はず」(昭和42)の四句があります。雪中梅を見ることは稀な僥倖なので、句にしたくもなりましょう。中でも掲句は季語を梅と鶯で重ねたうえに造語も作っています。これは確信犯的で、下五で季重ねを「あり得たり」と断言しているところは、胸を張りつつ照れ笑いしているように思われます。なお、季重ねに関しては恩師暉峻康隆が、「季節の風物が重なっているのだから写実の立場で作句すれば、当然季語は重なり得る。芭蕉にも季重ねはある。」とおっしゃった教えに納得しています。「中村草田男集」(1984・朝日文庫)所収。(小笠原高志)


April 1242014

 蘖や涙に古き涙はなし

                           中村草田男

(ひこばえ)は、切り株や木の根元から伸びる若芽をいい、孫(ひこ)生えの意、とある。切り株が古くて固いほど、若々しい新芽の緑が鮮やかな生命力を感じさせて春らしい言葉だ。涙はいつも生まれたてなのはわかっていることなのだが、こういう句は、はっとさせられてあらためてなるほどなあ、と納得する。泣くことがストレスを発散させるという研究もあるとか、映画は確実に泣ける映画を泣くために観にいく、という知人もいるが、本来は思わず昂ぶった感情が形になってあふれるものだ。蘖の明るさに、作者のまなざしの優しさが垣間見える。また、下五の音を整えようとして、涙なし、とすると途端に間が抜けてしまう。何が大切なのか、あらためて考えさせられた句でもある。『銀河依然』(1949)所収。(今井肖子)


June 1762015

 万緑に入れば万緑の面構え

                           原満三寿

緑の季語は、草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句に代表されるが、草田男は王安石の「万緑叢中紅一点」によっている。「万緑」は初夏に活発に繁茂する緑を表わしていて、掲出句でも力強い表現となっていて、下五の「面構え」が万緑のパワーを受けとめているようだ。いかにも男性的な響きを生み出している。万緑に入り、万緑と真正面から正々堂々と対峙している。すっかり万緑に浸り染まったたくましい「面構え」が、頼もしいものに感じられる。どんな事情あるいは用があって、万緑に分け入ったのかは、この際どうでもいいことである。「万緑の面構え」とはどのようなものか、わかるようでわからないけれど、勝手に想像をめぐらしてみるのも一興。万緑の句と言えば、私は「万緑や死は一弾を以て足る」という上田五千石の句が好きだ。満三寿(まさじ)はもともと詩人で詩集が多いけれど、俳論『いまどきの俳句』、句集『日本塵』などがある。春の句に「春の橋やたらのけ反りはずかしき」がある。『流体めぐり』(2015)所収。(八木忠栄)


June 2062015

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる

                           中村草田男

日、自宅で飼っているというカタツムリが夜、人参を食べている映像を見た。おろし金のようなたくさんの歯を持っている蝸牛だが、かなり大きな良い音を立てていた、真夜中にどこからともなく聞こえて来たらちょっと怖い。よく見かける身近な蝸牛だが、美しい螺旋形の殻と流動的な柔らかい体を持ち、雌雄同体の謎めいた生き物だ。掲出句の、蝸牛、は、ででむし、と読んだ。殻に全身を閉じ込めて蓋をしてしまうこともあるというのでそんな姿で梅雨晴のある日、葉陰かどこかの片隅でじっとしていたのだろう。日差しが明るければ明るいほど、小さな貝殻となって動かない蝸牛の持つ闇がその螺旋に沿って果てしなく深くなっていくようでこれもちょっと怖くなる。『草田男季寄せ 夏』(1985・萬緑発行所)所載。(今井肖子)




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