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July 3171996

 なつかしき炎天に頭をあげてゆく

                           原 裕

さしぶりに訪れた故郷の地。見るもの聞くもの、すべて懐しい。耐えがたい暑さなど、いつの間にか忘れたように、頭(づ)をあげて歩いていく。そろそろ、帰省のシーズン。この夏も、こんな気分でなつかしさを噛みしめる人はたくさんいるだろう。ちなみに、原裕(はら・ゆたか)は茨城県の出身。『風土』所収。(清水哲男)


August 0481996

 炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島

                           森 澄雄

の僧はもちろん禅僧であろう。黒の僧服と涼しげな青い頭。乗り物はもちろん新幹線の「こだま」。取り合わせの意表を突いた面白さが、発表当時評判となった。(井川博年)


August 1281996

 炎天の老婆に無事を祝福され

                           瀧 春一

の暑いのに、よくまあご無事でここまでおいでなすってのう、と農道で顔見知りの老婆に声を掛けられる。やれやれ、この暑さでは外出も命懸け。いや待て、これはひょっとすると戦後の夏の復員兵の話ではなかったか。まもなく八月十五日。(井川博年)


August 1581996

 烈日の光と涙降りそゝぐ

                           中村草田男

戦の日の句。この句の情感に、いまでも心底から参加できるのは、六十代も後半以上の人々だろう。あの日の東京はよく晴れていた。七歳だった私にも、それくらいの記憶だけはある。しかし、正直に言って、この句の涙の本質は理解できない。ただ、作者の世代の辛酸の日々を思うのみ。人間には、安易にわかったふりをしてはいけないこともある。『中村草田男句集』(角川文庫・絶版)所収。(清水哲男)


July 2071997

 紅蜀葵肱まだとがり乙女達

                           中村草田男

蜀葵(もみじあおい)は、立葵の仲間で大輪の花をつける。すなわち、作者は「乙女達」をこのつつましやかな花に見立てているわけで、そのこと自体は技法的にも珍しくないが、とがった肱(ひじ)に着目しているところが素晴らしい。若い彼女らの肱は、まだ少年のそれと同じようにとがっている。が、やがてその肱が丸みをおびてくる頃には、女としてのそれぞれの人生がはじまるのである。戦いのキナ臭さが漂いはじめた時代。彼女たちの前途には、何が待ち受けているのだろうか。今がいちばん良いときかもしれない……。作者はふと、彼女らの清楚な明るさに人生の哀れを思うのだ。第二句集『火の島』(1939)に収められた句。この作品の前に「炎天に妻言へり女老い易きを」が布石のようにぴしりと置かれている。時に草田男三十九歳。(清水哲男)


July 0771998

 鳶鳴きし炎天の気の一とところ

                           中村草田男

に最も多産だった草田男らしい晴朗な一句。炎天にげんなりするのではなく、むしろ烈日を快としている。慶応義塾の応援歌ではないが、まさに「烈日の意気高らかに」ではないか。鳶の鳴き声、その「一とところ」に「気」を感じたということは、すなわち作者一人(いちにん)の気力充実ぶりを表現しているのである。体調も、すこぶるよろしい。不調だったら、とてもこうは詠む気になれないだろう。生きていることへの喜びでいっぱいだ。このとき、作者の人生は全面的に肯定されている。草田男は常々「二百年は生きるつもりだ」と語っていたというが、自然へのこうした溶け込みようを見せられると、この言説にも素直に頷けるのである。同時期に発表された「炎天や鏡の如く土に影」にしても、微塵の自虐性もない。とりわけて近代の文芸においては「自虐」の分量が芸術的な価値につながるようなところがあり、それはまた歴史的な必然ではあるのだけれど、ときにこのような文芸的発想も見直しておく必要がある。さらに一句。「妻戀し炎天の岩石もて撃ち」。いずれも、草田男壮年三十八歳の作品である。『火の鳥』(1939)所収。(清水哲男)


July 2271998

 あきなひ憂し日覆は頭すれすれに

                           ねじめ正也

者はこのころ、高円寺〔東京・杉並〕商店街で乾物商を営んでいた。商品に日があたらないように、夏場はぐうんと店の日覆いを下げるのである。背の高い通行人だと、少しかがむようにしなければ店内の様子が見えないほどだ。なんとも、うっとおしい感じになる。それはしかし、店内で商売をしている人にとっても同じことで〔いや、それ以上だろう〕、夏は物が売れないこともあり、うっとおしさは増すばかりだ。頭すれすれの日覆いにさえ、つい八つ当たりしたくもなろうというもの。そこで、何の用事もないのに日覆いをくぐって表へ出てみると「炎天の子供ばかりの路次に出づ」ということになるわけで、憂鬱は募るばかりである。この句は『蠅取リボン』〔1991〕から引用したが、息子さんの作家・ねじめ正一君とのご縁で、私が拙い文章を添えさせてもらった句集だ。私はこの句ができたころ〔だろう〕に高円寺北のアパートに住んでいて、ねじめ乾物店では一度買い物をした覚えがあるが、残念ながら直接作者から買ったのかどうかは定かではない。(清水哲男)


August 1581998

 帯売ると来て炎天をかなしめり

                           三橋鷹女

事句である。この句が敗戦後三年目(1948)の夏に詠まれたことを知らないと、意味不明となる。当時の流行語に「タケノコ生活」というのがあった。敗戦で現金収入の道が途絶え、さながらタケノコがおのれの皮を剥いでいくように、身につけていた衣類を売って生活することを言った。炎天下、そんな生活をしているらしい見知らぬ女性が、帯を買ってくれないかと訪ねてきたのである。しかしこのときに、たぶん作者は買わなかったのではなかろうか。なにも吝嗇からではなく、その女性が大切にしている帯だということが痛いほどにわかるので、買わなかったのではなくて、買えなかったのである。つまり作者には、買わないことが、彼女に対するせめてもの愛情表現なのであった。日常的な生活のなかで、これほど女性同士、お互いに悲しいことがあるだろうか。あの頃、私の母も娘時代からの着物や帯をすべて手放した。売った母も悲しかったろうが、買ってくださった方、くださらなかった方にも、みんなに悲しみがあったのだ。凡百の敗戦の句よりも、この句は深く敗戦国の庶民の哀れを訴えている。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


August 2281998

 炎天にテントを組むは死にたるか

                           藤田湘子

所の集会所の庭でもあろうか。炎天下、あわただしくテントが組まれている様子から察して、どうやら葬儀の準備のようだ。それだけの中身の句である。しかし、気になるのは「死にたるか」という言葉使いだ。解釈は二つに分かれる。ひとつは「とうとう亡くなったのか」という意味で、町内の顔見知り程度の長患いの人の死を指している場合。もうひとつは素朴に疑問符的に使われていて、誰かが「亡くなったのだろうか」という意味の場合。いずれであるかは作者にしかわからないことだが、いずれであるにせよ、この「死にたるか」という言葉はずいぶんと直截な物言いだ。ストレートに過ぎる。あるいは、死者を必要以上に突き放した言い方だ。なぜだろうか。私の読み方では、炎天下という条件が、作者にこのいささか乱暴な言葉を吐かせたのだと思う。極暑のなかのぼおっとした頭の状態で物事を判断したり表現したりする、そのぼおっとした効果を敢えてねらった句なのではないだろうか。すなわち、この句のテーマは誰かの死や葬儀にあるのではなく、炎天下での人間の判断力にあるというのが、私なりの解釈だ。まったく自信はないのだけれど。『春祭』(1982)所収。(清水哲男)


July 2972001

 炎天下おなじ家から人が出る

                           永末恵子

らぎらと灼けつくような日盛りの通りだ。人影もない。すると、とある家から「人」が出てきた。そして「おなじ家」から、また人が出てきた。ただそれだけのことなのだが、作者はなんだか不意をつかれたような気持ちになっている。ひとりだけならば、さほど何も感じなかったろう。つづいてもうひとり出てきたことで、この「炎天下」に何用かと、思わずも出てきた「人」たちにではなく、その「家」のほうに、不思議なものでも見るような視線を走らせたにちがいない。つまり、その「家」の事情に関心が動いたのだ。すなわち、いま止むを得ずに「炎天下」にいる自分の事情以上の事情があるような気がしてしまったのである。私には、句の全景が白日夢のように写る。あるいは、無声映画の露出オーバーの一シーンでも見ているような感じだ。真っ白な道のむこうに建つ真っ黒な家から、真っ黒な人影がぽろりぽろりと出てくる無音の世界……。炎天、ここに極まれり。作者の出発は自由詩だったと聞くが、自由詩では書けない世界をちゃんと知っている人ならではの「俳句」だとも思った。『留守』(1994)所収。(清水哲男)


July 3172002

 吸殻を炎天の影の手が拾ふ

                           秋元不死男

をきれいにするために、奇特な人が吸殻を拾っているのではない。戦争中から敗戦直後の時期にかけては、煙草は品不足で貴重品だった。戦争中は配給制だったし、戦後一年目に売りだされた「ピース」(一箱7円)などは、日曜祭日にしか販売されなかった。私の父は煙草を喫わないので、配給の煙草を近所にわけて感謝されていたようだが、煙草好きには大変な時代だったろう。投げ捨てられた吸殻を拾い集め(モク拾い)て、一本ずつにまき直して売る商売まで登場したほど。大学の売店では、一箱など高くて買えない学生が多かったので、専売法違反を承知でばら売りまでやっていたという。そんな時代を背景にした句だ。作者が煙草を好んだかどうかは知らないが、好まなくても、道に落ちている吸殻にはひとりでに目がいっただろう。「あ、落ちている」と思った瞬間に、さっと拾った人がいた。商売の人ではなく、普通の人だ。商売の人ならステッキ状の棒の先に針をつけた道具を持っていたので、区別がつくわけだ。いくら煙草が喫いたくても、昼日中に落ちているものを拾うという行為には、屈辱感が伴う。逆に目撃した作者の側から言えば、見てはいけないものを見てしまったという後ろめたさが走る。そこで、その人の手が拾ったのではなく「影の手」が拾ったのだとおさめた。実際には炎天下だから、影はくっきりと濃かっただろうし、影が素早く拾ったように見えたのかもしれない。が、このおさめ方に、私は作者の優しさが投影されていると読んでおきたい。『万座』(1967)所収。(清水哲男)


August 1282002

 炎天の原型として象歩む

                           奥坂まや

るところで、作者は「俳句作品は、それぞれの季語へのお供え物であると思う。もうすでに存在するような作品では季語に喜んでもらえないので、なるべく新しくかつ深いものを捧げたい」と述べている。となれば、掲句は季語「炎天」へのお供えものだ。「炎天」に具象的な「原型」があるはずだという見方は、深いかどうかの判断は置くとして、たしかに新鮮だと思った。夏をつかさどる神の意味の「炎帝」という季語は「もうすでに存在する」が、具象的ではない。そして、その原型は猛暑などはへっちゃらの「象」だと言うのである。しからば、この象はどこを「歩む」象なのだろうか。と、気にかかる。動物園なのか、アフリカやアジアの自然の中なのか、それともインドやミャンマーなどの労働の場なのか。どこでもよいようなものだけれど、私には飼育されて働いている象の姿が浮かんでくる。つまり、動物園の象とは違い、文字通りに人間と共存しているからこそ、酷暑に強い象のたくましさが引き立ち、まるで炎天の原型みたいに思えてくるのも自然な成り行きと感じられるからだ。少年時代に雑誌で読んだ巽聖歌の詩の書き出しに「象の子はどしりどしりよ、日盛りのまちを行ったと」(表記不明)とあった。子象のたくましくも愛らしい姿を描いた詩で、止めは「赤カンナ盛りだったと」と抒情的だが、その健気さに打たれてしまった。掲句を知ってすぐに思い出したのがこの詩で、そういうこともあるので、どうしても人とともに働いている象のイメージにとらわれてしまうのかもしれない。『列柱』(1994)所収。(清水哲男)


August 1182003

 炎天下亡き友の母歩み来る

                           大串 章

省時の句だ。句集では、この句の前に「母の辺にあり青き嶺も沼も見ゆ」が置かれている。久しぶりの故郷では、山の嶺も沼も昔と変わらぬ風景が広がっていて、母も健在。なんだか子供のころに戻ったようなくつろいだ気持ちが、「母の辺にあり」からうかがえる。暑い真昼時、作者は縁側にでもいるのだろう。懐しく表を見ていると、遠くから人影がぽつんと近づいてきた。「炎天下」を、昔と変わらぬ足取りでゆっくりと歩いてくる。すぐに「亡き友の母」だとわかった。田舎では、めったに住む人の移動はないから、はるかに遠方からでもどこの誰かは判別できるのだ。このときに、作者の心は一瞬複雑に揺れたであろう。歩いてくるのは、友人が生きているのなら、こちらのほうから近寄っていって挨拶をすべき人である。だが、それをしていいものか、どうか……。自分の元気な姿は、かえってその人に亡き息子のことを思い出させて哀しませることになるのではないか。結局、作者はどうしたのだろう。私にも経験があるが、むろんきちんと挨拶はした。が、なるべく元気に映らないように、小さな声で、ほとんど会釈に近い挨拶しかできなかった。その人のまぶしそうな顔が、いまでも目に焼きついている。風景は少しも変わらなくても、住んでいる人の事情は徐々に様々に変化していく。掲句は、まことに静かな語り口でそのことを告げている。『山童記』(1984)所収。(清水哲男)


July 2672004

 なつかしく炎天はあり晩年に

                           的野 雄

語は「炎天」で夏。ぎらぎらと焼けるような日盛りの空である。「なつかしく」とはあるが、作者の頭上に展がっているのはあくまでも現在ただいまの炎天だ。しかしそれが懐かしく思われるのは、炎天下にあるときに、その焼けつくような暑さが、同じ状態下の過去の記憶をいろいろと呼び覚ますからである。そうだ、あれもこれもがこんなふうに暑い日のことだった。という具合に、子供の頃からの夏の盛りの思い出のいくつかが、脈絡もなく蘇ってくるからである。ときにそれらは思い出と言うにはふさわしくない、何かぼんやりとした記憶の断片であったり、頭ではなく身体が覚えている猛暑への感覚的な反応であったりするだろう。そうしたことどもが身体をいわば通過していく状態を、作者は「なつかしく」と表現している。そしてそれが「晩年に」と止められたことで、句は一挙に抒情の高見へと飛翔してゆく。むろん誰にしても、おのれの晩年などわかりはしない。が、現在の自分の年齢的な位置づけをあえて晩年と表現する作者のまなざしには、いつか訪れる自分の死後の、いまと同じような炎天を見つめているような感じを受ける。晩年と言う表現は、ついに当人には関わらぬ、未来からの客観的なそれであるからだ。季節は繰り返し続いてゆくが、おのれにはただ一度きりの生命が与えられているにすぎない。このときに炎天といえどもが、限りなくいとおしくもなつかしい環境に思えるのはごく自然の認識だろう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


December 19122005

 かじかみて酔を急ぐよ名もなき忌

                           土橋石楠花

語は「かじかむ(悴む)」で冬。「名もなき忌」とあるから著名な人の通夜、ないしは葬儀ではない。また、とくに親しい人のそれでもない。おそらくは同じ町内に住み、道で顔を合わせれば会釈するくらいの淡い付き合いだった人のそれだろう。いまの都会ではそういう風習は絶えてしまっているが、昔は町内で誰かが亡くなると、通知がまわってきて出かけたものである。したがって、弔問はほんの儀礼的なものだ。よく知らない人なのだから。哀しみの感情もわいてはこない。ひどく冷え込んだ日で身体は寒いばかりであり,そこで作者は浄めの酒を普段よりも多めにいただいて「酔を急」いでいるというわけだ。「酔を急ぐよ」が寒さばかりではなく、作者の個人との距離の遠さを暗示していて効果的だ。と読み流してみると、最後に据えられた「名もなき忌」を誤解する読者もいそうなので、念のために書いておくと,これは作者の死生観の一端を述べたもので、決して無名だった故人をおとしめているのではない。むしろ無名に生き無名のままに死に、そうした死後のことはかくのごとくに質素であるべしと言っている。作者の土橋石楠花は十七歳で「鹿火屋(かびや)」を主宰していた原石鼎の門を敲き、今年の夏に亡くなるまで一貫して「鹿火屋」とともに歩きつづけた。2005年7月15日没。享年八十八。句歴七十年余.それなのにこの人には句集が一冊あるだけだ。このことだけを取ってみても,いかに石楠花という俳人が名利とは無縁であったかがうかがわれる。自分の死を詠んだ句に「ぽつかりと吾死に炎帝を欺かむ」があり、まさにその通りになった。句集『鹿火屋とともに』(1999)所収(清水哲男)


July 1772008

 炎天より入り来し蝶のしづまらず

                           松村禎三

戸さえろくになかった昔、暑くなってくれば縁側のガラス戸を全開にして庭からの風を招き入れた。くらっとくる炎天の明るさに比べ、軒深く電気をつけない家の座敷は暗かった。白昼の家はひっそりと物音もせず、箪笥の向こう側や廊下の陰に誰かが潜んでいそうで、一人で留守番するのが怖かった。掲句の情景には覚えがある。蝶だけではない、スズメやカナブンなど、いろんな生き物が家の中に入ってきた。今まで自分が自由に振舞っていた世界とは明らかに異質の空間に迷い込んだことに、驚いているのは迷い込んだ生き物自身だろうが、いたずらに騒いで見当違いな場所へ身体と打ちつけるばかりで、なかなか外へ出ることが出来ない。暗い部屋に飛びこんできた蝶の動きを目で追っている作者。結核にかかり音楽家としての将来を一時断念するかたちで若くして療養所に入らなければならなかった彼は、音楽の師池内友次郎の導きで俳句をはじめた。希望にあふれた人生から一転、病臥療養の生活へ追い込まれた自身の焦燥感を行き場を失った蝶に重ねているのか、いつまでも静まらない蝶の羽ばたきを凝視している作者の視線を感じる。『松村禎三句集』(1977)所収。(三宅やよい)


August 0482008

 まっすぐにきて炎天の鯨幕

                           大島得志

夏の葬儀は辛い。もう四十年も昔のことになるが、仕事仲間のカメラマンが交通事故で死んだ。ついその前日に、仕事の段取りを打ち合わせたばかりだった。そのときの彼はすこぶる上機嫌で、それもそのはず、長い間欲しかった車を中古ではあったが、ようやく手に入れたと言い、それに乗って撮影に行ってくからとはりきっていた。カメラマンは荷物が多いので、たしかに車はないよりもあったほうがよいだろう。そして、別れてから二十四時間経ったか経たないかのうちに訃報が入り、思わず電話をくれた相手に「ウソだろ」と問い返していた。しかし、それは現実だった。センターオーバーで他の車と衝突し、即死状態だったという。しかも運転席の彼の横に、彼はお母さんを乗せていた。親孝行も兼ねてのドライブだったのだ。幸い、母堂は一命をとりとめたということだったが、その後のことは知らない。三十歳にも満たない短い生涯だった。葬儀はめちゃくちゃに暑い日で、小さな都営住宅の自宅で行われたこともあり、私は黒い服のままほとんど炎天の道端に立ち尽くして出棺まで見送った。汗という汗はすべて出尽くしてしまい、襲ってくる眩暈に耐えての参列だった。恋人らしき若い女性が泣いていた様子以外、何も覚えていないのは、そんな猛暑のせいである。そういうこともあったので、この句は実感としてよくわかる。遠慮も逡巡もなく、葬儀の場に「まっすぐにきて鯨幕」に向かうとは、あまりの暑さに「鯨幕」の陰に救いを求めたいという心理が優先しての措辞だ。暑い日でなければ、おもむろに鯨幕の向こうに入っていくのだが、そんなに悠長に構えてはいられなかった作者の心情がよく出ている。『現代俳句歳時記・夏』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


July 1572009

 炎天や裏町通る薬売

                           寺田寅彦

句に限らない、「炎天」という文字を目にしただけでも、暑さが苦手な人はたちまち顔を歪めてしまうだろう。梅雨が明けてからの本格的な夏の、あのカンカン照りはたまったものではない。商売とはいえ暑さに負けじと行商してあるく薬売りも、さすがに炎天では、自然に足が日当りの少ない裏町のほうへ向いてしまう。そこには涼しい風が、日陰をぬって多少なりとも走っているかもしれないが、商売に適した道筋ではあるまい。炎天下では商売も二の次ぎにならざるを得ないか。寅彦らしい着眼である。行商してあるく薬売りは、江戸の中期から始まったと言われている。私などが子どものころに経験したのは、家庭に薬箱ごと預けておいて年に一回か二回やってくる富山の薬売りだった。子どもには薬よりも、おみやげにくれる紙風船のほうが楽しみだった。温暖化によって炎天は激化しているが、「裏町」も「薬売」も大きく様変わりしているご時世である。炎天と言えば橋本多佳子の句「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」も忘れがたい。『俳句と地球物理学』(1997)所収。(八木忠栄)


May 2552010

 そのあとの籐椅子海へ向きしまま

                           荒井千佐代

集のなかで「父の死後」と前書のある作品群の一句なので、「そのあと」とは父がこの世にない現在という意であることは明白なのだが、籐椅子の存在がぽっかりと口を開けたような悲しみを言うともなく引き出し、「そのあと」がどのあとであるかの含みや余韻を深くしている。密に編まれた籐椅子は、徐々に身体のかたちに馴染み、うっすらと凹凸が刻まれる。その窪みは、そこに座っていた者の等身大の輪郭である。あるじの重みをそのままかたちに残している籐椅子は、作者にとっていつまでも海を見ている父の姿そのものなのだろう。夏の季語である籐椅子は、夏の時期に涼を得るために使用されるものだが、この籐椅子はこれよりきっと通年そのままにされることだろう。そして、たまには懐かしむようにその窪みに収まり、以前父がしていたように海に目をやり、耳を傾けたり、家族がかわるがわる身体を預けることだろう。それはもう椅子というより、父の分身であるように思えてくる。〈炎天の産着は胸に取り込みぬ〉〈十字架のイエスが踏絵ふめといふ〉『祝婚歌』(2010)所収。(土肥あき子)


July 2472010

 炎天の石を叩けば鉄の音

                           吉年虹二

天、見るからに熱くて暑い言葉だ。酷暑の日中の空やその天気をいう、ということで、空を眺めてみる。連日まさに猛暑だが、あらためて見ると炎天は、その中心に太陽がぎらぎら溶け出して、全体が白い光に覆われている。外に出て庭に敷いてある白い玉砂利にふれてみると、強い日差しを受けながらさほど熱くはないけれど、その横の金属のフェンスは焼けそうだ。この句は、実際石を叩いたのかどうか定かではないが、本来どこかひんやりしたイメージのある石も、炎天下で叩くと、鉄のような決して澄んで美しいとはいえない金属音がしたのだろうか。鉄の重さや、いつか見た溶鉱炉のどろどろとした炎色が思われて、ますます暑くなってくる。『狐火』(2007)所収。(今井肖子)


August 0182010

 炎天へ打つて出るべく茶漬飯

                           川崎展宏

れだけ暑い日が続くと、自然と水分をとる機会も多くなり、徐々に胃の働きも弱ってきます。今日の夕飯はいったい何なら口に入るだろうといった具合に、消去法で献立が決まるようになります。そうめんとか冷やし中華なら入るな、と思いつつも、でも昨日もそうだったわけだし、たまにはお米を食べなければ、という思いから頭に浮かぶのは、手の込んだ料理ではなく、たいていおにぎりとかお茶漬け。日本人たるもの、おにぎりやお茶漬けだけは、よっぽどのことがない限りいつだって食べられるのです。本日の句では、暑い盛りの外へ出かける前に、力をつけるために茶碗に口をつけてお茶漬けをかきこんでいる様子を描いています。おそらく汗をだらだらたらしながらの食事と見受けられます。「打って出る」という言葉が、どこか喧嘩か討ち入りにでも出かけるようで、たすきがけでもして食事をしているようなおかしさを、感じさせてくれます。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 0472011

 炎天の段差に落ちてなほ歩む

                           眉村 卓

にだって、段差を踏み外した経験はあるだろう。でも、足腰の柔軟な若い頃には、踏み外してもさして気にもならない。すぐに立ち直れる。それを句では「段差に落ちて」と表現しているから、かなり足腰への衝撃があったものと読める。つまり、高齢者の実感が詠まれている。ましてや、それでなくとも暑くて歩きづらい炎天下だ。「しまった」と思ったときには、もう遅い。膝や腰に受けた衝撃でよろめき、辛うじて転倒は免れたものの、しばらくは体勢を立て直すべくその場にじっとしている羽目になる。その程度のことでは誰も手を貸してはくれないし、みんなすいすいと追い抜いてゆく。つくづく若さが羨しいのはこういうときで、作者はおそらく目ばかりカッと前方を見つめたまま、またそろりそろりと歩きはじめたのだ。こうなるともう、当人にはただ歩くことだけが自己目的となり、出かけてきた目的などは意識の外になってしまう。「なほ歩む」の五音が、そのことを雄弁に物語っている。作者はSF作家。『金子兜太の俳句塾』(2011)所載。(清水哲男)


July 2872012

 炎天のふり返りたる子どもかな

                           藤本美和子

天の句でありながら不思議と、ぎらぎらと暑くてどうしようもないという感覚よりも、ふり返ったその子の背景にいつか見た青空と雲の峰が広がってくるような、なつかしさ感じさせる。切り取られた一瞬から遠い風景が思い起こされるのは、炎天の、の軽い切れのためか、ふり返る、という言葉のためか、夏という季節そのもののせいなのか。同じ作者に〈炎天のかげりきたれる辻回し〉という祇園祭を詠んだ句もあり、こちらはまさに酷熱の日中の空、昨年訪れた祇園祭の熱気と活気を思い出させる。いずれの句にも、確かな視線から生まれた饒舌でない投げかけが、余韻となってじんわりと広がってくるのを感じる。『藤本美和子句集』(2012)所収。(今井肖子)


August 1582012

 胃カメラをのんで炎天しかと生く

                           吉村 昭

日は敗戦記念日。「8.15以後」という言葉・認識を日本人は永久に忘れてはならない。さらに、今や「3.11以後」も風化させてはなるまい。くり返される人間の歴史の愚かさを見つめながら、生き残った者たちは「しかと生」きなければならない。昭は五十歳の頃から俳句を本格的に作りはじめた。結核の闘病中でも俳句を読んで、尾崎放哉に深く感動していたという。掲句は検査か軽い病いの際に詠んだ句のようだが、炎天の真夏、どこかしら不安をかかえてのぞむ胃カメラ検査。それでも「しかと生く」と力強く、炎天にも不安にも負けまいとする並々ならぬ意志が表現されている。四回も芥川賞候補になりながら受賞できなかった小説家だが、そこいらの若造受賞作家などには太刀打ちできない、実力派のしっかりとした意志が、この句にはこめられているように思われる。胃カメラ検査は近年、咽喉からでなく鼻腔からの検査が可能になり、とてもラクになった。昭には他に「はかなきを番(つがひ)となりし赤蜻蛉」があり、死後に句集『炎天』(2009)がまとめられた。(八木忠栄)


July 2772014

 古書店を出でて青葉に染まりたり

                           波多野完治

者は、御茶ノ水女子大で学長を務めた心理学者。俳句を始めたのは八十歳を過ぎてからで、あとがきには、「生涯教育の時代は、生徒が先生を選べる時代である。だから、ゆっくりさがせば、自分に合った先生は必ず見つかる」と、自身の経験を語っています。一高では小林秀雄と同級だっただけあり、掲句もふくめて句集には、教養主義の香りが所々に立ちこめています。例えば、「青嵐ツァラトゥストラの現れむ」「明け易し老いて読み継ぐ三銃士」「雹(ひさめ)ふりページ小暗き山居かな」「短夜やメルロー・ポンティ終了す」。掲句は作者にとって、学生時代から老齢に至るまで変わらない夏の出来事だったのでしょう。場所はたぶん、神田神保町。旧制高校を経験した世代にとって古書店は、未来の自我に出会える場です。だから、いったん店内に入ったら、書棚の隅から隅まで目を配り、貪欲な嗅覚を発揮して店内を渉猟します。やがて、知的欲求と懐具合とを勘案して、数冊を抱えて店内を出ます。その時、古書店という観念の森に繁る言の葉に置いていた作者の身は、現実の青葉に染まり始めて、夏の最中へと還俗していきました。他に、「草田男の初版に出会ひ炎天下」。『老いのうぶ声』(1997)所収。(小笠原高志)




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