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July 2671996

 あめんぼの吹き溜りにて目覚めけり

                           夏石番矢

めんぼ(う)は「みずすまし(水馬)」ともいう。飴に似たにおいがするので「あめんぼ(う)」。小川や池の水面に長い六本の脚を張って、すいすいと滑走する。しかし、じっとしている姿は、ほとんど塵芥の類に見えてしまう。そんな吹き溜りの境涯にも、人間と同様に寝覚めはある。微小な生物の目覚めを発見したところが、この句の眼目だ。『猟常記』所収。(清水哲男)


June 0761999

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

                           阿波野青畝

語は「蛇」で夏。鳳凰堂は宇治平等院の有名な伽藍である。十円玉の裏にも刻んであるので、見たことがない読者はそちらを参照してください。前池をはさんで鳳凰堂を眺めていた作者の目に、突然水のゆれる様子がうつった。目をこらすと、伽藍に向かって泳いでいく蛇の首が見えたというのである。この句の良さは、まずは出来事を伏せておいて「水」と「鳳凰堂」から伽藍の優雅なたたずまいを読者に連想させ、後に「蛇の首」と意外性を盛り込んだところにある。たとえ作者と同じ情景を見たとしても、なかなかこのように堂々たる鳳凰堂の姿を残しながら、出来事を詠むことは難しい。無技巧と見えて、実はとても技巧的な作品なのだ。同じ「水」と「鳳凰堂」の句に「水馬鳳凰堂をゆるがせる」(飴山實)がある。前池に写った鳳凰堂の影を、盛んに水馬(あめんぼう)がゆるがせている。こちらは明らかに技巧的な作品だが、少しく理に落ちていて、「蛇の首」ほどのインパクトは感じられない。『春の鳶』(1951)所収。(清水哲男)


June 0861999

 休むとは流れることねあめんぼう

                           黒田早苗

語でなければ表現できない俳句世界はあるだろうか。最近、口語俳句について考える機会があって、口語俳句にこだわっている人々の俳句や五七五にさえなっていれば後は自由という作品などを、まとめて読んでみた。はっきり言って、なかなかよい句は見当たらなかった。なぜ、口語なのか。多くの句が、そのあたりのことを漫然とやり過ごしているように思えたからである。俳句のような短い詩型にあって、たとえば文語である「切れ字」を使用しないで物を言う口語は、かえって口語を不自由に窮屈にしているようだ。そんななかで、掲句は例外的と言ってもよいほどに、口語ならではの世界の現出に成功している。同じ心持ちを文語的に詠めないことはない。古来関西では「あめんぼう(水馬)」を「みづすまし」と呼ぶから、「休むとは流るることよみづすまし」などと……。でも、これでは「人間、サボッていると時代に流されてしまうぞ」という教訓句になってしまう。掲句の作者は、そんなことは露ほども思っていない。見たまま、感じたままを「あめんぼう」に呼びかけることで、伸び伸びとした「俳味」に通じる世界を出現させている。作者の年齢は二十五歳とあった。『自由語り』(第七回伊藤園「おーいお茶」新俳句大賞入選作品集・1996)所載。(清水哲男)


July 2372003

 美しい数式になるみずすまし

                           中山美樹

句で「みずすまし」と言えば、たいがいは「水馬」と書く「あめんぼう」のことだ。水面を細長い六本の脚で滑走する。が、生物学的分類では「鼓虫」と書く「まいまい」のこと。こちらは、水面に輪を描いて動き回る小さな黒い紡錘形の甲虫だ。ややこしいが、関西では今でも水馬を「みずすまし」と呼んでいるはずである。すなわち、昔の俳句の中心は京都だったので、歳時記的にも関西での呼称が優先されて残っているというわけだ。掲句の場合も、作者が「数式」に見えるというのだから、俳句で言ってきたほうの虫のことだろう。動きによっては、ルート記号やら微積分記号やら何やらに見えそうだからだ。この虫の動きは、じいっと流れに身をゆだねているかと思うと、突然ぱぱっと活発な動きを示す。句の趣旨に添って言うと、何か咄嗟に難しい計算をしているようでもある。たしかに数学に関心のある人だったら、一連の動きが「美しい数式」を生みだすように見えるだろう。見立てとは面白いもので、見立てた結果はその人の興味や関心のありようを、逆に照らし出すことにもなる。作者の数学的関心がどの程度のものかはわからないにしても、水馬の動きに数式をイメージする感覚はユニークと言わねばならない。先日、近々単行本になる『博士の愛した数式』を書いた小川洋子さんと対談した。この小説の中心素材も、まさに美しい数式である。実生活には何の役にも立たないはずの数式が、実は現実の人の心を最も深く結びつけるツールとなる展開は見事だ。私は下手の横好きでしかないけれど、俳句にもこうして数式が出てきたことを嬉しく思う。ついでに、その小説に出てくる数式ならぬ「数」の話を一つだけ。自然数nの、nを除くすべての約数の和がnに等しいとき、そのnを「完全数」という。例えば、6(=1+2+3)のように。そして、6の次の完全数は28(=1+2+4+7+14)である。この「28」こそが、博士の愛してやまなかった阪神・江夏豊投手の背番号だったという小川さんの設定は面白い。完全数は無限にあるそうだが、28の次は何だろう。時間に余裕のある方は探してみてください。『おいで! 凩』(2003)所収。(清水哲男)


July 2872009

 噴水にもたるるところなかりけり

                           中岡毅雄

近では各地で最高気温を更新するたび、噴水で遊ぶ子どもの映像が恒例になっているようだ。夏空へ広げられた清涼感あふれる噴水は、空気や地面を冷やすことで周囲の気温を下げたり、騒音を軽減する実用的な役割りのほか、水辺に憩うという心理的な安らぎを人々に与えるという。きらきらと水の粒を散らす噴水の柱は、どんなに太くあっても、当然壁のようにもたれることはできないのだが、掲句の断定にはおかしみより不安を感じさせる。しなやかで強靭に見えていた噴水が一転して、放り出された水の心もとなさをあらわにするのだ。人工的に作られた装置によって、身をまかせている水の群れが、健気な曲芸師にも見えてくる。現在、日本を含め世界中で、このひたむきな水を思うままに操って、噴水はさまざまなかたちに演出される。ネットサーフィンしているなかで、贅を尽くしたドバイの踊る噴水(3分強/サウンド有)に息をのんだ。自在に踊る水にもっとも似ているものは、もっとも遠いはずの炎であった。火もまた、もたれることができないもののひとつである。〈水馬いのちみづみづしくあれよ〉〈生きてふるへるはなびらのことごとく〉『啓示』(2009)所収。(土肥あき子)


June 0262011

 あめんぼう吹いて五センチほど流す

                           関根誠子

の沼や水たまりの表面にふわふわと浮くように小さなあめんぼうがいる。よく見ればしっかりと足をふんばった水面にちいさな窪みなどできている。けなげな姿ではあるが、愛嬌があるので、ちょっとかまってみたくなる。ふうっと息をふきかけるとそのままの体勢でつつつつつ、と水面を後ずさりしてゆく。あめんぼうもさぞ面喰ったことだろう。「水馬水に跳ねて水鉄の如し」村上鬼城の句などは水に鋼の固さを感じさせることであめんぼうのかそけき動きを力強く描き出しているが、この句ではあめんぼうへ息を吹きかける子供っぽい仕草とあめんぼうの愛嬌ある反応が句の面白さを引き出している。今度あめんぼうを見かけたらふっと吹いてみよう。何センチ流れるかな。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


June 2962011

 すいすいとモーツアルトにみづすまし

                           江夏 豊

神、南海、広島、他のチームで活躍したあの往年の豪腕の名投手・江夏が俳句を作ったことに、まず驚かされてしまう(シツレイ!)。さらに「モーツアルト」と「みづすまし」のとんでもない取り合わせにも驚かされる。新鮮である。ここで流れているモーツアルトの名曲は何であろう? おそらく「すいすい」という軽快さを感じさせる曲であろうかと思われる。同時に、水面をすいすい走るみづすましの動きにもダブらせている。まさかみづすましがモーツアルトの曲に合わせて滑走しているわけではあるまい。並列されたモーツアルトもみづすましも、ビックリといったところであろう。さすが名投手、バッターが予測もしなかったみごとな好球を投げこんできた。みづすまし(水馬)は「あめんばう」とも呼ばれてきたけれども、学問的に正しくは「まひまひ(鼓虫)」のことをさすのだという。水面を馬が駆けるように四足で滑走するところから「水馬」。この頃は見かけなくなった……というか、当方が池や小川の水面をじっくり覗きこむことが少なくなってしまった、と言うべきか? 「打ちあけてあとの淋しき水馬」(みどり女)、「みづすまし味方といふは散り易き」(狩行)などがある。『命の一句』(2008)所載。(八木忠栄)


July 1772012

 恐竜の踊る仕草や昼寝覚め

                           合谷美智子

しかに恐竜といって思い浮かべたティラノサウルスには、大きな頭と二足歩行する立派な足、そしておぼつかない腕のようなものが付いている。国立科学博物館のHPによると、全長12メートルもあるティラノサウルの腕の長さは大人の人間のそれとほとんど変わりないという。そんな華奢なものが一体なんの役に立つのだろうか。あらためて見れば見るほど奇妙な具合で、指は2本あり、その用途はいまだはっきりしていない。強面の巨体の胸についた腕をぱたぱたと動かす姿を想像すればなにやら滑稽で、掲句の通りまるで盆踊りでも踊っているように見えるのではないか。恐竜にはまだまだ謎が多く、皮膚が残っていないことからその色彩もはっきりしない。もしかしたら黄色と赤のストライプという鮮やかな配色の可能性もあったかもしれない。昼寝の覚め際には、もぞもぞと寝返りを打ちながら夢の記憶をまさぐるような時間がある。目の前を原色の恐竜がひた走り、激しい咆哮を聞き、草原の強い風のなかから抜け出してしまうのは、なんとも惜しい。〈あめんぼに四角き影のありにけり〉〈父のゐて母美しや夕端居〉『一角獣』(2012)所収。(土肥あき子)


June 0862016

 あめんぼをのせたる水のしなひけり

                           高橋順子

書きに「六義園」とあるから、駒込の同園の池であめんぼを見つけて詠んだものと思われる。あめんぼ(う)は「水馬」と書く。関西で「みずすまし」のことを呼んでいたのだそうだが、「みずすまし」は「まいまい」のことであって別物とされる。あめの匂いがするところから、古来「あめんぼ(う)」と呼ばれてきた。古い文献に「長き四足あつて、身は水につかず、水上を駆くること馬の如し。よりて水馬と名づく」とある。水上を駆ける馬、とはみごとな着目と命名ではないか。重量のないようなあめんぼをのせて「水のしなひけり」という見立ては、細やかで唸らせる観察である。順子の俳号は泣魚。掲出句は夫君・故車谷長吉との“反時代的生活”を書いたエッセイ集『博奕好き』(1998)に「泣魚集」として俳句が78句収録されているなかの一句。他に「しらうおは海のいろして生まれけり」がある。泣魚は長吉らと連句もさかんに巻き、呼吸の合ったところを見せていた。例えばーー。(八木忠栄)

雨の中森吉山へ秋立つ日/長吉  花野の熊にひびかせよ鈴/泣魚




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