夏石番矢の句

July 2671996

 あめんぼの吹き溜りにて目覚めけり

                           夏石番矢

めんぼ(う)は「みずすまし(水馬)」ともいう。飴に似たにおいがするので「あめんぼ(う)」。小川や池の水面に長い六本の脚を張って、すいすいと滑走する。しかし、じっとしている姿は、ほとんど塵芥の類に見えてしまう。そんな吹き溜りの境涯にも、人間と同様に寝覚めはある。微小な生物の目覚めを発見したところが、この句の眼目だ。『猟常記』所収。(清水哲男)


January 2611998

 天地無用のビルにて蟹が茹で上がる

                           夏石番矢

物の外箱などに書いてある「天地無用」という言葉は、苦手だ。どうも解せない。「上下をひっくり返さないように」という意味なのだが、つい反射的に逆の意味に取ってしまう。「無用」というのだから、その「必要がない」、つまり「どっちでもよい」と思ってしまうのだ。しかし、この場合は「落書き無用」などと同じように、「どっちでもよくはない」ということである。そりゃ、そうだ。ビルを逆様にされたら、たまったものじゃない。でも、ビルなんぞというものは荷物と同じで、逆様にしてもどうってことはない形状をしている。なべて人工の極は、引力を問題にしないような不遜な姿として現出してくるようだ。そんなビルの小料理屋で、いましも真っ赤にこれまた「天地無用」の姿の蟹が茹で上がった。何やってんだろうねえ、俺たちは、……という苦笑の図。苦笑の根元には、向けどころのない怒りもある。俳句で「蟹」は夏の季語だが、当サイトでは「蟹茹でる」という冬の季語を発明しておく。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


March 1031998

 橋姫やありのとわたりのひるさがり

                           夏石番矢

説によると「橋姫」は橋を守る女神であり、非常に嫉妬深いと伝えられている。そして、蟻が一列の細い筋になって進むことを「ありのとわたり」と言うが、転じて会陰部を指すこともある。……というわけで、この句はいろいろに解釈でき、それはそれで構わないというのが作者の意図だろう。有季定型句に慣らされた目には、これが「俳句」なのかと写るはずだが、好き嫌いは別にして、これも「俳句」なのだと私は思う。正岡子規が俳諧連句から冒頭の「発句」だけを独立させて「俳句」にしようと言い出したとき、べつに子規路線はこのような句の登場を禁じてはいなかった。いや、子規の思惑がどうであれ、吉本隆明が「俳句は日本文学の家庭内暴力みたいだ」と言ったように、俳句は和歌と違って、いまだに言語的な荒々しさ(冒険性)をそなえた表現様式だと思う。何でもありの混沌のなかにあるのだから、作者は当然のことに苦しいだろうが、読み手としてはこんなに楽しくてスリリングなジャンルが他にあるとは思えないほどだ。『人体オペラ』(1990)所収。(清水哲男)


October 05101999

 ひんがしに霧の巨人がよこたわる

                           夏石番矢

ういう句は、丸呑みにしたい。「ひんがし(東)に」とあるから朝霧だと思うが、そんな詮索もせずに丸呑みにしてみて、消化できるかどうかを、しばらく待ってみる。消化できなかったら、吐き出せばよい。句は深い霧に対する作者の印象をストレートに述べているので、なかにはイメージに違和感を覚えて承服しがたい読者がいても当然のことだろう。私は承服したけれど、同様の発想は、童話の世界などではありふれたものである。ただし「ひんがし」と文語的に踏み出したことで、この巨人が日本神話のなかにでも「よこたわる」かのようなイメージを獲得している点に注目しておきたい。番矢のオリジナリティは「ひんがし」の「ん」一文字に発揮されているというわけだ。すなわち「ん」一文字によって、この巨人が西欧の人物ではなく、この国の巨人となった。アア、読売巨人にも、これくらいの摩訶不思議さがあったらなあ(笑)。自分で自分のことを「ミラクル」なんて言ってるようではねえ。『神々のフーガ』(1990)所収。(清水哲男)


May 2352001

 蒼き胸乳へ蒼き唇麦の秋

                           夏石番矢

ガとポジの対比の構図が印象深い。画家の色彩で言えば、ピカソの青(蒼)とゴッホの黄が一枚の絵に塗られている感じだ。「蒼き胸乳(むなぢ)へ蒼き唇」とは、男女相愛の図か、それとも授乳のそれだろうか。どちらに読むかは読者の想像力にゆだねられているが、前者とすれば、いわば「頽廃と健全」との対比となろうし、後者ならば「貧富」の差を象徴的に浮き上がらせた句と読める。私は、初見では前者と読んだ。しかし考え直して、あえて後者と読んでみると、貧しさゆえに満足に母乳の出ない乳首に、本能的に「唇」を寄せる赤子の姿が痛々しい。と同時に、蒼き「口」ではなく「唇」としたところに、なおさら本能の生々しさを感じさせられる。窓外一面に熟れて波打つ麦は、この母子には無縁の作物なのである。いずれにしても、テーマは動物としての人間の哀しみだろう。明暗を対比させた句は珍しくないが、単に明暗の対比に終わることなく、一歩進めて本能を繰り出すことにより、人間存在のありようを確かに言い止めている。これからの梅雨を控えて、農家は忙しくなる時期だ。麦は「百日の蒔き期に三日の刈り旬」と言う。麦畑が光彩を放つ季節だけに、掲句の「蒼」の鈍い光が、いよいよ重く胸に沁み入る。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


April 1942002

 家ぬちを濡羽の燕暴れけり

                           夏石番矢

語は「燕(つばめ)」で春。実景だとすれば、慄然とさせられる。「家ぬち」は家の「内」。雨に濡れた燕が、突然すうっと家の中に飛び込んできた。燕にしてみれば、我が身に何が起きたのかわからない。わからないから、必死に自由な空間を求めて、暴れまくるのみ。燕も驚いたろうが、家ぬちの人間だって仰天する。どうやって逃がしてやろうか。そんなことを思案するいとまもなく、暴れる燕におろおろするばかりだ。「暴れけり」と言うのだから、なんとか騒動に「けり」はついたのだろうが、思い出すだに恐い句だ。しかし、実景ではなかった。吉本隆明との対談のなかで、作者が次のように述べている。「私としては、一つは家庭内暴力性みたいなものが書けてるんじゃないか、直感で書いた句なんですが、その照応関係を意外に思ってるんです。『濡羽』の『濡(ぬれ)』はおそらく母親、それこそ母体からの水、もしくは、母親とのパトス的な繋がりや齟齬なんかもひょっとしてあったのかなと……」。吉本さんが「俳句ってのは家庭内暴力ですから」と言った流れのなかでの発言だ。とくに難解な現代俳句を指して、その難解性の在所を示すのに、「家庭内暴力」という視点は面白いと思う。ただ理不尽に難解に見える句にも、その根には暴力を振るう当人にもよくわからないような直感が働いているということであり、作句の根拠があるということだ。掲句は、そうした自身のわけのわからぬ内なる暴力性を、有季定型の手法で直感的に造形してみると、こうなったということだろう。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


June 2662002

 浦島太郎目覚めの床にあまがえる

                           夏石番矢

語は「あまがえる(雨蛙)」で夏。玉手箱を開けてしまった後の「浦島太郎」落魄の景と読んだ。竜宮城での遊びに飽きて、故郷に戻ってみれば我が家もなければ知る人もいない。三年ほどの滞在のつもりが、実は三百年も(七百年説も)経っていたというお話。やっとの思いで一夜の宿を得て、目覚めると同じ「床」に「あまがえる」がきょとんとした顔で坐っていた。人も風景もみんな変わってしまったなかで、この雨蛙だけは昔と同じ姿かたちをしている。迎えてくれたのは、お前だけか。何故こんなところに雨蛙がいるのかなどの疑問よりも先に、太郎の心は懐かしさでいっぱいになっている。いるはずもない床に雨蛙を配したことで、太郎の孤独がいっそう深まっている。浦島伝説の解釈には諸説あるが、私は地域共同体を外れた者に対するいましめのための話だと思う。伝説の原型は古く『日本書紀』にあって、ある男が海上で出会った絶世の美女とどこか遠い国に行ってしまい、ついに戻ってこなかったという。どうやら、異民族との結婚話らしい。当時の人々には、おそらくまだ共同体防衛の意識などなかったろうから、憧憬譚めいたニュアンスがある。ところが今に伝わる話は、武家が天下を取った鎌倉室町期の脚色らしく、異民族や他所者との結婚や交流は共同体破壊につながるから、これを暗示的にいましめているというわけだ。すなわち、浦島太郎は共同体破壊者であり、そんなけしからん男が最後にはどんな目にあうかという「みせしめ」なのであった。『巨石巨木学』(1995)所収。(清水哲男)

[ありがとうございます]複数の読者の方から、掲句の「目覚めの床」は、木曽山中の「寝覚めノ床」のことではないかというご指摘をいただきました。おそらく、そうでしょうね。と言うか、意識した句だと思います。ただ、あえて作者が「目覚めの床」と言い換えたのは、踏まえていることを読者に伝えつつ、そうした景勝の地ではなくて別の場所(私の解釈では、ごくありふれた何でもない室内)に、浦島太郎を「普通の人」として置きたかったのだと思います。


October 14102007

 涙腺を真空が行き雲が行く

                           夏石番矢

画や音楽の魅力を、詩や俳句に引き移してみるという試みは、容易ではありません。たいていの場合、思うほどにはその効果を出すことができないものです。ジャンルの違いは、それほどに単純なものではないようです。せいぜいが発想のきっかけとして、利用するに留めておいた方がよいのかもしれません。掲句の「雲」から、マグリットの絵を連想した人は少なくないと思います。連想はしますが、句は、独自の表現空間を広げています。作者が、絵画を発想のきっかけにしたかどうかはともかく、言葉は、その持てる特性を見事に発揮しています。目につくのは、「涙腺」と「真空」の2語です。叙情の中心にある「涙」という語を使いながらも、あくまでもしめりけを排除しています。真空と雲が、乾いた空間にひたすらに流れてゆく姿は、日本的叙情から抜け出ようとする意気込みが感じられます。雲は、どの季節にもただよっていますが、句に満ちた大気の透明感は、つめたい秋を感じさせます。それにしても、涙腺を流れてきた真空と雲は、頬を伝ってどこへ、こぼれて行ったのでしょうか。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


March 1832013

 強風や原発の底に竹の根

                           夏石番矢

どもの頃「地震のときは竹やぶに逃げろ」と教わった。関東大震災で怖い目に遭った母親からだったかもしれない。たしかに竹やぶのある土地は、竹の根が張り巡らされているので、少々の地震くらいではびくともしないように思える。しかしそれは表面に近い土地の部分について言えることであり、地下深くの竹の地下茎が腐って水を含み地盤沈下の原因になることが多いと言われている。つまり、竹やぶは決して地震に強いとは言えないわけだ。原発周辺の竹やぶをざわざわと揺さぶっている不気味な強風のなかで、作者はこの言い伝えを思い出したのだろう。そして原発の底に触れている無数の竹の根を想像している。一見頑丈そうなその環境が、実はそうではないと知っている作者は、とくに福島原発がダメージを受けた後だけに、不安な気持ちを押し隠すことができないでいる。この句を拡大解釈しておけば、すべての世の安全対策に対する疑念ないしは皮肉を提出しているということになるだろう。『ブラックカード』(2012)所収。(清水哲男)




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