高浜虚子の句

July 1071996

 わだつみに物の命のくらげかな

                           高浜虚子

前にあるのはくらげだが、「物の命」によって原初の命そのものを私たちは見ることになる。先行するものとして、漱石明治二十四年の句に、「朝貌や咲いたばかりの命哉」があるが、虚子はいわば、くらげによって命の句の決定版を作ってしまった。(辻征夫)


July 3071996

 川を見るバナゝの皮は手より落ち

                           高浜虚子

子の「痴呆俳句」として論議を呼んだ句。精神の弛緩よりむしろ禅の無の境地ではなかろうか。俳句はこういう無思想性があるからオソロシイ。そして俳人も。(井川博年)


August 1681996

 酌婦来る灯取虫より汚きが

                           高浜虚子

和九年の作。虚子に、こんな句があるとは知らなかった。先日、仁平勝さんにいただいた近著『俳句が文学になるとき』(五柳書院)を読んでいて、出くわした作品だ。仁平さんも書いているように、いまどき「こんな句を発表すれば、……袋叩きにされかね」ない。「べつに読む者を感動させはしないが、作者の不快さはじつにリアルに伝わってくる」とも……。自分の不愉快をあからさまに作品化するところなど、やはり人間の器が違うのかなという感じはするけれど、しかし私はといえば、少なくともこういう人と「お友達」にはなりたくない。なお「酌婦」は「料理屋などで酒の酌をする女」、そして「灯取虫」は「夏、灯火に集まるガの類を言う」と、『現代国語例解辞典』(小学館)にあります。念のため。(清水哲男)


September 3091996

 鶏頭の十四五本もありぬべし

                           正岡子規

学の教室で習った。明治三十三年の作。教師は「名句」だといったが、私にはどこがよい句なのか、さっぱりわからなかった。しかし、年令を重ねるにつれて、だんだん親しみがわいてきた。この季節になると、ふと思いだす句のひとつである。作家にして歌人の長塚節がこの句を称揚し、子規の弟子である虚子が生涯この作品を黙殺しつづけたのは有名な話だ。この件について山本健吉は、意識下で師をライバル視せざるをえなかった「表面は静謐の極みのような」虚子の「内面に渦巻く激しい修羅の苦患であった」と書いている。その虚子の鶏頭の句。「鶏頭のうしろまでよく掃かれたり」。なんとなく両者の鶏頭への思いが似ていると感じるのは、私だけでしょうか。(清水哲男)


January 0711997

 松過ぎの又も光陰矢の如く

                           高浜虚子

松を立てておく期間は、関東では六日まで、関西では十四日までが慣習。門松や注連飾りが取り払われると、急に寂しくなるが、しかしまだどこかに新年の気配は残っている。とはいえ、仕事も本格的にはじまり「又も光陰矢の如く」になることに間違いはない。もう少し正月気分でいたい私などには、実をいうとあまり読みたくない句なのだが、仕方がない。虚子のいうとおりなのだから、いやいやながら掲げておく。(清水哲男)


March 1131997

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)


March 1631997

 運命は笑ひ待ちをり卒業す

                           高浜虚子

の時代、留年せずに無事卒業してもその後の困難さを思えば、少数の例外を除けば「笑う」がごとき前途洋々としたものであるとは思えない。そして、運命はあざ「笑う」かのように複雑な管理機構の中で人を翻弄し続ける。この句は昭和十四年の作である。当時の大学・高等専門学校の卒業生(そして中学を含めても)は今の時代には考えられないほどのエリートであった。しかし戦火は大陸におよび「大学は出たけれど」の暗い時代であった。運命の笑いをシニカルなものとしてとらえたい。だが、大正時代、高商生へむけ「これよりは恋や事業や水温む」という句をつくっている虚子である。卒業切符を手にいれたものへの明るい運命(未来)を祝福する句とも言える。いずれにしろ読者のメンタリティをためすリトマス試験紙のような句である。『五百五十句』所収。(佐々木敏光)


May 1751997

 富める家の光る瓦や柿若葉

                           高浜虚子

ういう句に、虚子の天才を感じる。平凡な昔の田舎の風景を詠んでいるのだが、風景のなかに見えてくるのは、単なる風景を超えた田舎の権力構造そのものである。柿の若葉はよく光りを反射してまぶしいものだが、そのなかでひときわ光っているのが瓦屋根だという着眼力。そのかみの田舎では、金持ちでなければ瓦の屋根は無理であった。知らない土地に行っても、屋根を見れば貧富の差はすぐに知れたものだ。杉皮で葺いた屋根の下に暮らしていた小学生の私は、瓦屋根の家の柿若葉の下で、窓越しにラジオを聴かせてもらっていた。野球放送のなかで、自然に流れてくる都会の雑音を聞くのも楽しみだった。船の汽笛が聞こえてきたこともある。あれは、どこの球場からの実況放送だったのだろうか。昭和二十年代。昔の話である。(清水哲男)


June 2561997

 麦笛や四十の恋の合図吹く

                           高浜虚子

品に言えば、秘めた恋。いまふうに言えば、不倫。手紙や電話で相手を呼び出すわけにはいかないので、一計を案じた句。いい年をした大人が麦笛など吹くわけはないから、その常識を逆手に取ったのである。虚子センセイも、なかなか隅に置けなかったのだなとは思うけれど、どことなく嘘っぽい。句が出来過ぎているからだろう。ところで、いまだったらこんな場合にどうするだろうか。ほとんどの男は、ポケベルを使うのでしょうな。(清水哲男)


August 1681997

 初秋や軽き病に買ひ薬

                           高浜虚子

節のかわりめには体調を崩しやすい。とくに夏から秋は急に涼しくなったりすることがあるので、寝冷えやちょっとした油断から風邪をひいてしまう。医者に診てもらうほどのことでもないから、とりあえず買い置きの薬でしのいでおこうという句意。同時に、ぽつりと作者の孤独の影も詠み込まれている。物思う秋の「軽い」はじまりである。(清水哲男)


November 27111997

 冬の日の三時になりぬ早や悲し

                           高浜虚子

句で「冬の日」は「冬の一日」のこと。冬の太陽をいうこともあるが、そちらは「冬日」ということが多い。日照時間の短い「冬の日」。この時期の東京では、午後四時半くらいには暮れてしまう。したがって、三時はもう夕方の感じが濃くなる時間であり、風景は寂寥感につつまれてくる。昔の風景であれば、なおさらであったろう。句に数詞を折り込む名人としては蕪村を思い起こすが、この句でもまた「三時」が絶妙に利いている。「二時」では早すぎるし「四時」では遅い。ところで、今日の午後三時、あなたはどこで何をしている(していた)のでしょうか。(清水哲男)


December 17121997

 ビルの間の老舗さきがけ松立つる

                           和田暖泡

の一般家庭では、二十日過ぎくらいになると門松を立てたものだ。が、商店街は別で、ずっと早かった。ところが、最近はクリスマス商戦が盛んになり、まさか門松とツリーとを一緒に立てるわけにもいかず、商店街の門松は暮もギリギリにならないと見られなくなってしまった。そんなご時世のなか、ビルの谷間に頑固に昔風を残している老舗だけは、今年も例年と同じく、いちはやく門松を立てたというのである。老舗の心意気であり、意地でもあるだろう。ジングル・ベルの流れる街の一隅に、毅然として立っている門松が清々しい気分にさせてくれる。「なにがクリスマスでぇ、ベラボウめが……」という老主人の声までが聞こえてきそうな句だ。『徒然草』に「大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ」とある。かと思うと、虚子に「門松を立てていよいよ淋しき町」の一句がある。(清水哲男)


December 29121997

 高瀬川木屋町の煤流れけり

                           高浜虚子

ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)


January 3111998

 映画出て火事のポスター見て立てり

                           高浜虚子

画館を出た後は、しばらくいま見てきたばかりの映画の余韻が残っている。と、街角に「火の用心」を呼びかけるポスターが貼ってあった。見ているうちに、作者の意識はだんだん現実に引き戻されていく。そんな状況の句だ。季語は「火事」である。この季語についての虚子自身の説明が、岩波文庫『俳句への道』に載っているので、引用しておく。「『火事』というものは季題ではあるが、他の季題に較べると季感が薄い、ということは言えますね。一体火事という季題は、我らがきめたものですし、火事はいつでもあるが、殊に冬に多いから、というので冬の季題にしたのですが、季感は従来のものよりも歴史的に薄いとはいえる。だからこれは季感のない句であるという風に解釈する人があるかも知れぬ。(中略)そういう人は季題趣味を嫌がっている人ではないですか。だが俳句は季題の文学である。……」。つまり、虚子は自分(我ら)で「火事」を冬の季題にし、そう決めたのだから、この句を無季句などとは呼ばせないと力み返っている。この自信満々が、虚子という文学者のパワーであった。(清水哲男)


May 1951998

 すき嫌ひなくて豆飯豆腐汁

                           高浜虚子

飯は蚕豆(そらまめ)や青豌豆(グリーンピース)を炊き込んだご飯で、この季節の食卓にふさわしい。虚子の句は豆づくしであるが、自分には好き嫌いがないのでこれで満足だと言うのである。素朴な季節料理でも、不平などないということで、明るい句に仕上がった。ということは、逆に言うと、豆飯が嫌いな人も昔から多かったことがわかる。私の周辺でも、グリーンピースの青臭さが嫌いで、客席などでのやむを得ないときには、実に器用に豆だけをよけて飯を食う人がいる。私のように豆好きな人間からすると不可解としか思えないが、嫌いな人にとっては必死の箸さばきなのだろう。そういう人から見ると、この句の作者は「自慢」の権化のように思えるに違いない。食文化に民主主義は通用しないのだ。(清水哲男)


October 16101998

 駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり

                           高山れおな

の夜、何の虫かはわからないが、道端などでジーと鳴いている虫がある。淋しい鳴き声だ。これを昔の人は、蚯蚓(みみず)が鳴くのだと思ったらしい。実際には螻蛄(けら)の鳴き声である。で、ここから出てきたのが「蚯蚓鳴く」という秋の季語。虚子に「三味線をひくも淋しや蚯蚓なく」という小粋な句もあり、この季語を好む俳人は昔から多いようだ。ところで掲句は、鳴くわけもない蚯蚓が駅前で鳴いていたことが、ちゃんと市史には載っていますよと報告している。そんなことが市史に載っているわけはないのだが、この二重に吹かれたホラが面白い。ホラもこんな具合に二つ重ねられると、一瞬なんだか真実のようにも思えたりするから不思議だ。関係者以外はほとんど誰も読まない市史という分厚い本に対する皮肉とも読めるけれど、そんなふうに大真面目に取らないほうがよいだろう。情緒てんめんたる季語を逆手に取って、クスクス笑いしている作者とともに大いに楽しめばよいと思う。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


December 14121998

 又例の寄せ鍋にてもいたすべし

                           高浜虚子

夜、客がある。「何にしましょうかね」と家人に相談されて、寒い折りでもあるから「又例の寄せ鍋」にしようかと答えた文句を、そのまま句にしてしまっている。こんなものが「俳句ですか」「文学なりや」と、正面から生真面目に問われても困るが、ま、虚子句の魅力の一つは、こうした天衣無縫な詠みぶりにあることだけは確かだ。このあたり、子規の句境とも共通している。ただし、虚子という大きな名前によりかかって、はじめて「俳句」と認知されるところがないとは言えないけれど……。でも、この句は「寄せ鍋」の単純な楽しさを予感させる意味では、なかなかに優れている。楽しさの正体は、たとえば「沸々と寄せ鍋のもの動き合ふ」(浅井意外)という「何でもあり」の鍋物そのものに見えている。そして「例の寄せ鍋」を喜んで食べてくれるはずの、「何でもあり」の気のおけない客を待ちかねる雰囲気も、句から十分に読み取れる。寄せ鍋は昔「たのしみ鍋」とも言ったそうだ。材料によって贅沢にも質素にもできるのが妙だが、いずれにせよ鍋物の美味い不味いは、おおむね誰とつつくかで決定される。句が暗示している客は、間違いなく歓迎されている。(清水哲男)


January 0411999

 東山静かに羽子の舞ひ落ちぬ

                           高浜虚子

都東山。空は抜けるように青く、ために逆光で山の峰々はくろぐろとしている。そんな空間のなかに高くつかれた五色の羽子(はね)が、きらきらと日を受けて舞い落ちてくる。それも、静かにしずかにと落ちてくる。息をのむような美しいショットだ。羽子つきをしているのは、書かれてはいないけれど、子供ではなくて若い女性でなければならない。地上に女性たちのはなやいだ構図があってはじめて、作者は目を細めながら空を見上げたのだから……。いかな京都でも、今ではもうこんな情景はめったに見られないだろう。古きよき時代に、京都をこよなく愛した虚子の、これはふと漏らした吐息のような京都讃歌であった。読むたびに「昔の光、いまいずこ」の感慨に襲われる。そういえば、ひさしく京都にもご無沙汰だ。新しい京都駅も見ていない。学生時代、いっしよに下宿していた友人の年賀状に「下宿のおばさんが老齢で入院中」とあった。おばさんは、長唄のお師匠さんだった。当時(1960年頃)の私たちは、階下の三味線を耳にしながら、颯爽と「現代詩」などを書いていたのである。三味線の伴奏つきで詩を書いた人は、そんなにいないだろう。(清水哲男)


February 0421999

 雨の中に立春大吉の光あり

                           高浜虚子

暦では一年三百六十日を二十四気七十二候に分け、それを暦法上の重要な規準とした。立春は二十四気の一つ。暦の上では、今日から春となる。しかし、降る雨はまだ冷たく、昨日に変わらぬ今日の寒さだ。禅寺では、この日の早朝に「立春大吉」の札を入り口に貼るので、作者はそれを見ているのだろう。寒くはあるが、真白い札の「立春大吉」の文字には、やはりどこかに春の光りが感じられるようだ。あらためて、新しい季節の到来を思うのである。実際に見てはいないとしても、今日が立春と思うだけで、心は春の光りを感受しようとする。立春は農事暦のスタート日でもあり、「八十八夜」も「二百十日」も今日を起点として数える。それから、陰暦での今日はまだ十二月十八日と、師走の最中だ。閏(うるう)月のある(今年は五月が「五月」と「閏五月」の二度あった)年の立春は、必ず年内となるわけで、これを「年内立春」と呼んだ。正月のことを「新春」「初春」と「春」をつけて呼ぶ風習は、このように立春を意識したことによる。ちなみに、今度の陰暦元日は、再来週の陽暦二月十六日だ。立春を過ぎての正月だから、文字通りの「新春」であり「初春」である。以上、誰もが昔の教室で習った(はずの)知識のおさらいでしたっ(笑)。(清水哲男)


March 1931999

 ハンドバツク寄せ集めあり春の芝

                           高浜虚子

え書きに「関西夏草会。宝塚ホテル」とあるから、ホテルの庭でのスケッチだ。萌え初めた若芝の庭園に、たくさんのハンドバッグ(虚子は「バツグ」ではなく「バツク」と表記している)が寄せ集められている。団体で宝塚見物に来ている女性客たちが、記念写真の撮影か何かのために置いたものが、一箇所に取りまとめられているのだろう。春と女性。いかにもこの季節にふさわしい心なごむ取り合わせだ。いくつかのハンドバッグが、春の光を反射して目にまぶしい。現代にも十分に通用する句景であるが、句作年月は昭和十八年(1943)の三月である。つまり、敗戦の二年前、戦争中なのだ。前年の三月には、東京で初の空襲警報が発令されてはいるが、嵐の前の静けさとでもいおうか、内地の庶民には、このようにまだまだ日本の春を楽しむ余裕のあったことがわかる。ただし、この句が作られたときの宝塚雪組公演の演目は「撃ちてし止まむ」「桃太郎」「みちのくの歌」と、戦時色の濃いものではあった(『宝塚歌劇の60年』宝塚歌劇団出版部・1974)。そして、虚子が信州小諸に疎開したのは、翌年の九月四日のこと。「風多き小諸の春は住み憂かり」などと、不意の田舎暮らしに不平を漏らしたりしている。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


May 1651999

 生きてゐるしるしに新茶おくるとか

                           高浜虚子

争中(1943)の句。句集では、この句の前に「簡単に新茶おくると便りかな」が置かれている。簡単な便りというのだから、短い文面だ。虚子が読んだのは葉書だろうか。当時の葉書は紙質も粗悪で、現在のそれよりも一回り小型だった記憶がある。簡単の上にも簡単に書かざるを得ない。「新茶」を送る理由は、ただ「生きてゐるしるし」とのみ。今の世にこの句を置いてみると、なんだかトボけた味わいの作にも読めるが、戦時中なのだから、そんなに呑気な気分では詠まれてはいない。「生きてゐるしるし」の意味が、まったく違うからだ。今だと「ご無沙汰失礼。齢はとったけど何とかやっています」くらいの意味になろうが、当時だと「戦火激しき折りながら、幸運にも生き延びています」ということになる。作者はその短い文面をくりかえして読み、「こんな時節に、無理をして新茶など送ってくれなくてもよいのに」と、贈り主の厚情に謝している。したがって「おくるとか」の「とか」は、「送ってくるとか何とか、そのようなことが書いてある」の「とか」ではあるけれど、そんな平板な用語法を感性的に越えている。感謝の念が、かえってはっきり物を言うことをためらわせているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


July 0271999

 緑蔭や人の時計をのぞき去る

                           高浜虚子

園のよく茂った緑の樹々。その蔭のベンチで憩う作者の手元に、いきなりぬうっと顔を近づけて去っていった男がいる。瞬間、作者は男が腕時計をのぞきこんだのだな、と知る。無遠慮な奴めと不愉快な気持ちもなくはないが、一方ではなんとなく男の気持ちもわかるような気がして憎めない。緑蔭にしばしの涼を求めていた彼は、きっと時間にしばられた約束事でもあったのだろう。シーンは違え、誰にでも覚えのありそうな出来事だが、見過ごさず俳句に仕立ててしまった虚子は、やはり凄い。「全身俳人」とでも言うべきか。安住敦に「緑蔭にして乞はれたる煙草の火」があり、これまた「いかにも」とうなずけるけれど、いささか付き過ぎで面白みは薄い。最近は時計もライターも普及しているので、このような場面に遭遇することも少なくなった。公園などで時間を聞いてくるのは、たいていが小学生だ。塾に行く時間を気にしながら遊んでいるのだろう。いまどきの子供はみんな、とても忙しいのである。(清水哲男)


September 0491999

 一夜明けて忽ち秋の扇かな

                           高浜虚子

語は「秋の扇(秋扇)」であるが、「秋扇」という種類の扇があるわけではない。役立たずの扇。そんな意味だ。一夜にして涼しくなった。昨日まで使っていた扇が、忽ち(たちまち)にして不必要となった。すなわち「秋扇」になってしまったということ。並べて、虚子はこんな句もつくっている。「よく見たる秋の扇のまづしき絵」。暑い間はろくに絵など気にもしないで扇いでいたのに、不必要になってよく見てみたら、なんと下手っぴいで貧相な絵なんだろう。チェッと舌打ちしたいような心持ちだ。歳時記によっては「秋扇」を「暦の上での秋になってもなお使われている扇のこと」と解説していて、それもあるだろうけれど、本意は虚子の句のように、ずばり役立たずの扇と解すべきだろう。優雅でもなんでもありゃしない、単に邪魔っけな存在なのだ。とかく「秋」を冠すると、たいていの言葉が情緒纏綿たる風情に化けるのは面白いが、「秋扇」まで道連れにしてはいけない。「秋」に騙されるな。その意味で、虚子句は「秋扇」という季語の正しい解説をしてみせてくれてもいるのである。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


October 11101999

 門の内掛稲ありて写真撮る

                           高浜虚子

のある農家だから、豪農の部類だろう。普通の屋敷に入る感覚で門をくぐると、庭には掛稲(かけいね)があった。虚をつかれた感じ。早速、写真に撮った。それだけの句だが、作られたのが1943(昭和18)年十月ということになると、ちょっと考えてしまう。写真を撮ったのは、作者本人なのだろうか。現代であれば、そうに決まっている。が、当時のカメラの普及度は低かった。しかも、ハンディなカメラは少なかった。そのころ私の父が写真に凝っていて、我が家にはドイツ製の16ミリ・スチール写真機があったけれど、よほどの好事家でないと、そういうものは持っていなかったろう。しかも、戦争中だ。カメラはあったにしても、フィルムが手に入りにくかった。簡単に、スナップ撮影というわけにはいかない情況だ。虚子がカメラ好きだったかどうかは知らないが、この場面で写真を撮ったのは、同行の誰か、たとえば新聞記者だったりした可能性のほうが高いと思う。で、虚子は掛稲とともに写真におさまった……。すなわち「写真撮る」とは、写真に「撮られる」ことだったのであり、いまでも免許証用の「写真(を)撮る」という具合に使い、この言葉のニュアンスは生きている。「撮る」とは「撮られる」こと。自分が撮ったことを明確に表現するためには、「写真撮る」ではなく「写真に(!)撮る」と言う必要がある。ああ、ややこしい。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


November 05111999

 何やらがもげて悲しき熊手かな

                           高浜虚子

日は十一月最初の酉(とり)の日で、一の酉。十一月の酉の日は、鳳(大鳥)神社を中心とした祭礼日だ。江戸中期からはじまった富貴開運のお祭りで、台東区千束の鳳神社をはじめ、各神社が大勢の人出でにぎわう。したがって、東京以外の方には馴染みがないだろう。私も、京都にいた頃は知らなかった。大阪でいえば、十日戎といったところか。境内には市が立ち、熊手、おかめの面、入り船、黄金餅などの縁起物が売られる。「熊手」は熊の手を模した福徳をかきあつめる意味の竹製のもので、小さなおかめの面や大判小判、酒桝やら七福神やらがごちゃごちゃと取り付けられており、私のようなごちゃごちゃ好きな人間にとっては、見ているだけで楽しい。虚子は、そのごちゃごちゃの何かが「もげて」しまったと言っている。一瞬もげたのはわかったのだが、なにせ押すな押すなの人込みの中だ。拾うこともかなわず、ごちゃごちゃのなかの何がもげたのかもわからない。とにかく、とても損をしたような気分になったのだ。面白い着眼であり、大の男の悲しい気持ちもよくわかる。ちなみに今年は三の酉まであって、三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられてきた。御用心。(清水哲男)


November 27111999

 鞄あけ物探がす人冬木中

                           高浜虚子

が落ちた冬の木立。少し遠くの方で、鞄をあけて一心に何かを探している人の姿が透かし見えている。見ず知らずの他人でも、物を探しているところを見かけると、こちらまで落ち着かない気分になる。あれは、なぜだろうか。実に不思議な気分だ。地面に落ちた物を探しているのなら一緒に探すこともできるが、鞄の中ではそうもいかない。この寒空の下、立ち止まって探す必要があるのだから、よほど大切な物なのだろう。これから仕事先に届ける書類かもしれないし、貯金通帳や印鑑の類かもしれない。作者は気になりつつ、その場を通りすぎていく。なんでもない句のようだけれど、さすがに虚子のスケッチは巧みだ。冬木中に鞄をあけている男の姿。この切り取りで、ぴしゃりと絵になっている。ただし、これがいまどきに作られた句だと、探し物は「携帯電話」くらいだろうと想像されるので、そんなに面白みはなくなってしまう。何を探しているのか皆目見当がつかないところに、寒い季節の味わいも出ているのである。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


February 0222000

 セーターにもぐり出られぬかもしれぬ

                           池田澄子

い当たりますね、この感じ。私の場合は不器用なせいもあり、子供のころは特にこんなふうで、セーターを着るのが億劫だった。脱ぐときも、また一騒ぎ。セーターに頭を入れると、本能的に目を閉じる。真っ暗やみのなかで、一瞬もがくことになるから、余計にストレスを感じることになるのだろう。取るに足らないストレスかもしれないが、こうやって句を目の前に突きつけられてみると、人間の哀れさと滑稽さ加減が身にしみる。そこで思い出すのが、虚子の「死神を蹶る力無き蒲団かな」だ。「蹶る(ける)」は「蹴る」より調子の高い表現。当人は風邪を引いて(虚子は実によく二月に風邪を引く人だった)高熱を発しているので、うなされている。夢に死神が出てきて、そいつを必死に蹶とばそうともがくのだけれど、蒲団が重くて足がびくとも動かない。「助けてくれーっ」と、まるで金縛り状態である。この状態にもまた、思い当たる読者は多いと思う。でも、風邪の熱はいずれ治まる。悪夢も退散する。が、セーターのなかでの一瞬の「もがき」は、ついに治まることはない。「出られぬかもしれぬ」。何の因果か。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


February 1022000

 風の日の麦踏遂にをらずなりぬ

                           高浜虚子

山の雪を背に、春の日差しを浴びながら麦を踏んでいる姿はいかにも早春らしい。たいがいの歳時記には、こんなふうに出てくる。見ているぶんには確かに牧歌的な光景であるが、踏んでいるほうは大変なのだ。ひたすらに「忍の一字」が要求される。地雷の撤去作業にも似て、細心の注意をはらっての一歩一歩が大切である。いい加減に踏んだのでは、たちまちにして根が浮き上がって株張りが悪くなり、収穫はおぼつかない。理屈としては子供にもできる仕事なのだが、いくら多忙でも、子供にまかせきるような農家はなかった。句は1932年(昭和七年)の作。添書きに「荻窪、女子大句会」とあるから、この麦畑は東京のそれだ。往時の荻窪や吉祥寺、三鷹あたりは、どこもかしこも麦畑だった。早春の関東の風は、ときに激烈をきわめる。土ぼこりのために空の色が変わる日も再三で、つい三十年ほど前までは、目を開けていられない状態におちいるのは普通のことだった。これでは、麦踏みの人も辛抱たまらずに撤退してしまうわけだ。気になって、虚子は女子大(「東京女子大」か)の窓からそんな光景を何度も見ていたのだろう。やっと引き上げていったので、ホッとしている。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


May 2452000

 バスの棚の夏帽のよく落ること

                           高浜虚子

前の男は、実によく帽子をかぶった。北原白秋の「青いソフトに降る雪は……」という小粋な詩を持ち出すまでもなく、寒い季節の「ソフト帽」はごく当たり前のことだったし、夏の「カンカン帽」や高級な「パナマ帽」など、いまの若い人にも古い写真や映画などではおなじみのはずである。句は六十年も前に、虚子が佐渡に遊んだときのスケッチだ。季節は五月。舗装などされていない島の凸凹道を走っているのだから、バスが飛び上がるたびに、網棚に置いた帽子が転がり落ちてくる。「しようがないなア」と、苦笑しつつ帽子を網棚に戻している。戻したと思ったら、また落ちてくる。で、また戻す。もちろん、他の人の帽子も。道中、この繰り返しだ。「それがどうしたの。たいした句じゃないね」。いまの読者の多くは、おそらくそう思うだろう。理由は、やはり現代人に帽子を愛用する習慣がないからである(いま若者に流行している野球帽みたいな「キャップ」とは、帽子の格が違う)。「不易流行」の「不易」も「流行」も、帽子的にはもはや喪失してしまっている。私もそんなによい句とは思わないが、あえて持ち出してみたのは、昔の句を観賞する難しさが、こんなに易しい句にもあると言いたかったので……。易しさは、おおかたの俳句の命。その命が伝わらなくなるのは悲しいことだが、しかしこのこともまた、俳句の命というものではあるまいか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


August 1582000

 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか

                           高浜虚子

句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。


October 30102000

 日当りの土いきいきと龍の玉

                           山田みづえ

が群生し葉先の長い「龍の玉(りゅうのたま)」の実は、一寸かきわけないとよく見えない。虚子の句「竜の玉深く蔵すといふことを」は、この様子からの発想だ。木の下などの日蔭の植物というイメージが濃いが、掲句では日にさらされている。垣根か庭の下草として植えられたものだろうか。眼目は「龍の玉」そのものからは一度焦点が外されて、周辺の土から詠んでいるところだ。土を詠んで、もう一度「龍の玉」に目が向けられている。陰気といえば陰気な「龍の玉」が「日当り」にある姿は、たぶん生彩を失っているだろう。瑞々しさが減り、埃っぽい感じすら受ける。だから余計に、土の「いきいきと」した様子が浮き上がる。そこで「龍の玉」は、身の置き所がないように俯いている。人に例えれば、内気な人が急に晴舞台に引っぱり上げられたようなものである。作者は土の勢いに感嘆しつつも、身を縮めている風情の植物にいとおしさを感じている。この素材に、こうした着眼は珍しい。一筋縄ではいかない感性のありようを感じる。「龍の玉」の実は「はずみ玉」とも言われるように、固くて弾力があり、子供のころは地面に叩きつけて遊んだりした。もっとも、叩きつけた地面(土)の勢いなど、何も感じなかったけれど……。たぶん子供は自分の命に勢いがあるので、自然の勢いなどには無頓着なのである。『木語』(1975)所収。(清水哲男)


December 06122000

 女を見連れの男を見て師走

                           高浜虚子

ういう句をしれっと吐くところが、虚子爺さんのクエナいところ。歳末には、たしかに夫婦同士や恋人同士での外出が多い。人込みにもまれながら歩いていると、つい頻繁に「女を見連れの男を見て」しまうことになる。それで何をどう思うというわけではないが、このまなざしの根っこにある心理は何だろうか。なんだか、ほとんど本能的な視線の移動のようにも感じられる。この一瞬の「品定め」ないしは「値踏み」の正体を、考えてみるが、よくわからない。とにかく、師走の街にはこうした視線がチラチラと無数に飛び交っているわけで、掲句を敷衍拡大すると、別次元での滑稽にもあわただしい歳末の光景が浮き上がってくる。一読とぼけているようで、たやすい作りに見えるけれど、おそらく類句はないだろう。虚子の独創というか、虚子の感覚の鋭さがそのままに出ている句だ。師走の特性を街にとらえて、実にユニーク。ユニークにして、かつ平凡なる詠み振り。でも、作ってみろと言われたら、たいていの人は作れまい。少なくとも私には、逆立ちしても無理である。最大の讃め言葉としては、「偉大なる凡句」とでも言うしかないような気がする。掲句を知ってからというものは、ときおり雑踏のなかで思い出してしまい、そのたびに苦笑することとなった。ところで、女性にも逆に「男を見連れの女を見」る視線はあるのでしょうか。あるような気はしますけど……(清水哲男)


December 18122000

 流れ行く大根の葉の早さかな

                           高浜虚子

れぞ、俳句。中学校の教室で、そう習った。習ったとき、我が家は生活用水として近所の小川を使っていたので、実感として理解はできた。が、一方ではあまりにも当たり前すぎて、句のよさはわからなかった。よさは、流れていく大根の葉だけを詠むことで、周辺の情景を彷彿させるところだろう。昭和三年(1928)の九品仏吟行で得た句というが、このような情景はどこかの地に特有なものではなく、全国的に普通に見られた。すなわち、往時の多くの日本人には、思い当たる情景だった。どのような表現でもそうだけれど、とくに短い俳句では、このように普遍性の高い生活環境や生活条件に下駄をあずけざるをえないところがある。言外の意味を、普遍性ないしは常識性に依存するのだ。そんなことを考えると、俳句の寿命は短い。世の中が変わると、昔の句は滅びてしまう。でも、私はそれでよしと思う。永遠の名作を望むよりも、束の間の命を盛んに燃やしたほうが、潔くてよろしい。おそらく、現代の若者には、この句の味は本当にはわかるまい。あまりにも、日常とは遠い世界の「大根の葉」であり、その「流れ行く早さ」であるからだ。あまりにも、当たり前の事象ではないからだ。まだ教科書に載っているかどうかは知らないが、載っていたとしても、教師には教えようがないだろう。俳句は、読み捨て。教えるとすれば、そういうことしかない。揚句に共感できる人も、みな同じ思いだろう。くどいようだが、それでよいのである。この句は、もはや「これぞ、俳句」のサンプルではなくなりかけてきたということ。(清水哲男)


December 29122000

 うらむ気は更にあらずよ冷たき手

                           高浜虚子

の生まれた年(1938・昭和十三年)に、虚子はどんな句を作っていたのだろうか。と、岩波文庫をめくってみたら、十二月の句として載っていた。和解の情景だ。積年の誤解がとけて、二人は最後に握手を交わした。相手は、男だろう。女性であれば、握手などしない。いや、その前に、男女間で問題がこじれると(必ずしも恋愛問題にかぎらないが)、このようにはなかなか修復できない気がする。こじれっぱなしで、生涯が終わる場合のほうが多いはずだ。さて「冷たき手」だが、関係が元に戻った暖かい雰囲気のなかでの握手なのに、意外にも相手の手はとても冷たかった。その冷たさに、虚子は相手の自分に対する苦しみの日々を瞬時に感じ取っている。これほどまでに苦しんでいたのか、と。だから「うらむ気は更にあらずよ」と、内なる言葉がひとりでに流れでたのだ。「冷たき手」があればこその、暖かい心の交流がこに成立している。私にも、そういう相手が一人いた。といっても、立場は虚子の相手の側に近い。小学校時代に、いま思えば些細なことで、こじれた。私のほうが、一方的に悪いことをした。そのことがずうっと引っ掛かっていて、いつかは詫びようと思いつつ、ずるずると時間ばかりが過ぎていった。四十歳を過ぎてから故郷で同級会があり、この機会を逃したら永遠に和解できないような気がして、ほぼそれだけを目的に出かけていった。どんなに罵倒されようとも、許してくれなくとも謝ろう。思い決めて、出かけていった会に、ついに彼は姿を現さなかった。当然だ。亡くなっていたのだった。揚句に、そんな私は虚子と相手の幸福を思う。20世紀の終わりに、読者諸兄姉はどんなことを思われているのだろうか。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


January 1212001

 マスクして我と汝でありしかな

                           高浜虚子

拶句だ。前書に「青邨(せいそん)送別を兼ね在京同人会。向島弘福寺」とある。調べてはいないが、山口青邨が転勤で東京を離れることになったのだろう。1937年(昭和十二年)一月の作。国内での転勤とはいえ、当時の交通事情では、これからはなかなか気軽に会うこともできない。そこで送別の会を開き、このような餞(はなむけ)の一句を呈した。お互いがいま同じようなマスクをしているように、同じように俳句を作ってきたので、外見的には似た道を歩んできたと言える。だが、振り返ってみれば「我」と「汝」はそれぞれの異なった境地を目指してきたことがわかる。これからも「汝」は「汝」の道を行くのであろうし、「我」は「我」の道を行く。どうか、元気でがんばってくれたまえ。大意はこういうことであろうが、目を引くのは句における「我」と「汝」の位置関係だ。青邨は虚子の弟子だったから、第三者が詠むのであればこの順序が自然だ。ところが、虚子はみずからの句に自分を最初に据えている。餞なのだから、こういうときには先生といえども、多少ともへりくだるのが人の常だろう。しかし、虚子はそれをしていない。「我」があって、はじめて「汝」があるのだと言っている。「我」を「汝」と対等視したところまでが先生の精いっぱいの気持ちで、それ以上は譲れなかった。いや、譲らなかった。大虚子の昂然たる気概が、甘い感傷を許さなかったのだ。マスクに覆われた口元は、への字に結ばれていたにちがいない。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


April 0942001

 垣破れ繕はず人笑ひ住み

                           上野 泰

ば隠れているが、季語は「垣繕ふ(かき・つくろう)」で春。元来は北国の情景に用いられ、冬季の風雪にいたんだ垣根を春に修理することである。が、たとえば虚子に「古竹に添へて青竹垣繕ふ」とあるように、とくに北国に限定して使わなくてもよさそうだ。暖かい日差しのなかで庭仕事をしている人を見かけると、春到来の喜びが感じられる。掲句の家は「人」とあるから、自宅ではなく近所の家だろう。他人の家ながら、通りかかるたびに垣根が気になるほどいたんでいる。しかし、住む人たちはそういうことに無頓着らしく、修繕しようとする気配も感じられない。毎春のことである。家の中からはいつも誰かの笑い声が聞こえてきて、無精だが明るい家庭なのだ。こうした暮らし方もいいなあと、作者はほのぼのと明るい気持ちになっている。おそらく、作者は逆に几帳面な人だったに違いない。几帳面だからこそ、無頓着に憧憬の念を覚えている。無精者が破れ垣を見ても、句にしようなどとは思いつきもしないだろう。上野泰の魅力は、捉えたディテールを一瞬のうちに苦もなく拡大してみせる芸にある。それも、ほがらかな芸だ。見られるように、「破れ垣」と「笑い声」を取りあわせただけで、住む「人」の暮らしぶりの全体を浮き上がらせてしまう。上手な句ではないにしても「春雨の積木豪華な家作り」などを見ると、この「豪華」なる言葉遣いに芸の秘密を垣間見る思いがする。かくも素早くあっけらかんと「豪華」を繰り出せる豪華な感性。感性の地肩が、めっぽう強いのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


May 1252001

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


June 1362001

 牛も馬も人も橋下に野の夕立

                           高浜虚子

里離れた「野」で夕立に見舞われたら、まず逃げようがない。どうしたものかと辺りを見回すと、土地の人たちが道を外れて河原に下り、橋の下に駆け込んでいくのが見えた。これしかない。作者も急いで駆け込んでみたら、人ばかりか「牛も馬も」が雨宿りをしていた。「牛も馬も」で、夕立の激しさが知れる。そこで「牛も馬も人も」が、所在なくもしばしいっしょに空を見上げて、雨の通り過ぎていくのを待つのである。この橋は、木橋だろう。だとすれば、橋を打つ雨の音もすさまじい。実景を想像すると、なんとなく滑稽でもあり牧歌的にも思えてくるのは、「野の夕立」の「野」の効果だ。上五中七で、ここが「野」であることは誰にでもわかる。にもかかわらず、虚子はあえて「野」を付け加えた。何故か。「野」を付け加えることで、句全体の情景が客観的になるからである。かりに「夕立かな」などで止めると、句の焦点は橋の下に集まり、生臭い味は出るが小さくまとまりすぎる。あえて「野」と張ったことにより、橋の下からカメラはさあっとロングに引かれ、橋下に降りこめられた「牛も馬も人も」が遠望されることになった。大いなる自然のなか、粗末な木の橋の下に肩寄せ合うしかない生きものたちの小ささがより強調されて、哀れなような情けないような可笑しさがにじみ出てきた。だが、もう一つの読み方もできる。虚子は最初から、橋の下なんぞにはいなかった。それこそ、彼方に河原が見える料理屋かなんかにいて、この景色を見ていただけ……。となれば、句の魅力はかなり褪せてしまう。この場合にこそ「野」は不可欠だけれど、どっちかなア。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


October 14102001

 爛々と昼の星見え菌生え

                           高浜虚子

後二年目(1947)の今日、十月十四日に小諸で詠まれた句。一読、萩原朔太郎の「竹」という詩を思い出した。「光る地面に竹が生え、……」。この詩で朔太郎は「まつしぐらに」勢いよく生えた竹の地下の根に、そして根の先に生えている繊毛に思いが行き、それらが「かすかにふるえ」ているイメージから、自分にとって「すべては青きほのほの幻影のみ」と内向している。勢いあるものに衰亡の影を、否応なく見てしまう朔太郎という人の感覚を代表する作品だ。対照的に、虚子は「菌(きのこ)」を生やしている。松茸でも椎茸でもない、名も無き雑茸だ。毒茸かもしれない。いずれにしても、この「菌」そのものがじめじめと陰気で、竹のように「まつしぐら」なイメージはない。朔太郎はいざ知らず、多くの人が内向する素材だろうが、ここで内向せずに面を上げて昂然と天をにらんだところが、いかにも虚子らしい。陰気な地を睥睨するかのように、天には昼間でも「星」が「爛々(らんらん)と」輝いているではないか。もとより「昼の星」が見えるというのは、朔太郎の「繊毛」と同様に幻想である。このときに「爛々と」輝いているのは、実は「昼の星」ではなくて、作者自身の眼光なのである。敗戦直後「菌」のように陰気で疲弊した社会にあって、何に対してというのでもないが「負けてたまるか」の気概がこめられている。以下、雑談。かつて山本健吉は、この星を「火星」だと言った。幻想だからどんな星でも構わないわけだが、正木ゆう子が天文に明るい知人に調べてもらった(参照「俳句研究」2001年10月号)ところでは、虚子に当日見える可能性のあった星としては土星しか考えられないそうである。「昼の星」は「視力がよければ見えることはあるし、そうでなくても井戸の底からとかジャングルの中からとか、つまり視界を限れば見えるだろうという返事」とも。『六百五十句』(1955)所収。(清水哲男)


November 11112001

 贈り来し写真見てをる炬燵かな

                           高浜虚子

語は「炬燵(こたつ)」で、もちろん冬。こういう句に接すると、つくづく虚子は「俳人だなあ」と思う。なんだ、こりゃ。作者が、ただ炬燵で写真見てるだけジャンか。どこが面白いのか。凡庸にして陳腐なり。と、反発する読者もおられるだろう。かつての私もそう思っていたが、最近になって「待てよ」ということになった。というのも、たしかに名句ではないだろうけれど、この場面を自分が実際に句に仕立てるとなると、このように詠めるだろうかという疑問がわいてきたからだ。たぶん、私には無理である。(再び……)というのも、炬燵にあたっているゆったりとした時間のなかで、何枚かの「写真」を眺めていれば、おのずからいろいろな思いが触発されるわけで、どうしてもそれらを同時に表現したくなってしまうからだ。たとえば、このときは愉快だったとか、疲れてた、などと。だが、虚子はそれらの思いをばっさり切り捨てて、ただ「見てをる」と言った。なんでもないようだが、ここに俳人の俳人たる所以が潜んでいるのだと思う。これが「俳句」なんだよと、問わず語りのように知らんぷりをして、掲句は主張しているように写る。そう考えると、ここで「見てをる」の「をる」と「贈り来し」の「贈」は見事に響きあう。つまり作者は、写真から触発されたさまざまな思いをばっさりと切り捨てることによって、「贈り来し」人への挨拶を際立たせているのだ。ていねいに一枚ずつ拝見していますよ。「をる」とは、そういう措辞である。すなわち、読者一般には「どんな写真なのか」と思わせながら、その想像にかかっているはずの梯子をひょいと外して、実は写真を贈ってくれた特定の人に深い謝辞を述べているのだ。といって、私は作者が虚子だからそう思うのではない。「俳句」だから、そう思わざるを得ないのだ。『七百五十句』(1964)所収。(清水哲男)


December 13122001

 美しく耕しありぬ冬菜畑

                           高浜虚子

語は「冬菜(ふゆな)」で、むろん冬季。初秋に種を蒔き、冬に収穫する白菜、小松菜、水菜など菜類の総称だ。仕事やら浮世の義理やらなにやらで、とかく人事雑用に追いまくられる定めの師走である。今日も用事を抱えてせかせか歩いているうちに、住宅街の外れの畑地に出た。「ほお」と、思わずも足が止まった。満目枯れ果てたなかに、そこだけ緑鮮やかな「冬菜」が展開している。この光景だけでも十分に美しいが、それを虚子は一歩進めて「美しく耕しありぬ」と、耕した人への思いを述べた。見知らぬその人の日頃の丹精ぶりに、敬意をこめた挨拶を送っている。人の仕事とはかくあるべきで、比べれば、歳末の雑事多忙などの大半は刹那的な処理の対象でしかない。そんな思いも、作者の脳裏をかすめただろう。我が家の近所にも、昔ながらの畑地がある。四季を問わず、ときどき見に行く。行くといつでも、深呼吸をしたくなる。かつての農家の子供のころには、ごく当たり前でしかなかった平凡な光景が、いまでは何かとても尊い感じに受け取れるようになった。掲句を読んで、それが畑地と関わる人の日常的な営為への心持ちであることが、はっきりとわかった。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


January 0112002

 花火もて割印とせむ去年今年

                           和湖長六

語は「去年今年(こぞことし)」で新年。午前零時を過ぎれば大晦日も去年であり、いまは今年だ。掲句は、おそらくカウントダウン・ショーで打ち上げられる「花火」を見ての即吟だろう。華やかに開きすぐに消えていく「花火」を「割印(わりいん)」に見立てたところが機知に富んでいるし、味わい深い。「割印」といえば、互いに連続していることを証するために、印鑑を二枚の書面にまたがるようにして捺すことである。何ページかにまたがる重要書類などに捺す。それを掲句では、去年と今年の時の繋ぎ目に「花火」でもって捺印しようというのだから、まことに気宇壮大である。と同時に、捺しても捺しても、捺すはしから消えていくはかなさが、時の移ろいのそれに、よく照応している。高浜虚子の有名な句に「去年今年貫く棒の如きもの」がある。このときに虚子は「棒の如きもの」と漠然とはしていても、時を「貫く」力強い自負の心を抱いていた。ひるがえって掲句の作者には、そうした確固たる自恃の心は持ちようもないというわけだ。精いっぱい気宇を壮大にしてはみるものの、気持ちにはどこかはかなさがつきまとう。多くの現代人に共通する感覚ではあるまいか。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


January 0512002

 やり羽子や油のやうな京言葉

                           高浜虚子

語は「やり羽子(遣羽子・やりばね)」で新年。「追羽子(おいばね)」「掲羽子(あげばね)」とも言い、羽子つきのこと。男の子の凧揚げは公園や河川敷などでまだ健在だが、女の子が羽子をつく光景はなかなか見られなくなった。娘たちが小さかったころに、ぺなぺなの羽子板を買ってきて一緒についたことも、もはや遠い思い出だ。掲句は昔から気にはなっているのだが、いまひとつよく理解できないでいる。むろん「油のやうな」の比喩にひっかかっての話だ。京都に六年間暮らしたが、彼の地の言葉が「油のやうな」とは、どのあたりの言い回しを指しているのだろうか。「油のやうな京言葉」と言うのだから、すべすべしているけれど粘っこく聞こえているのだと思う。そんなふうに思い当たる言葉が私にあるとすれば、たとえば女の子たちがよく使う「行きよしィ」「止めときよしィ」などと、語尾をわずかに微妙に引っ張る言い方だ。語尾は頻発されるので、地の者でない人の耳には「油のやうに」粘りつくのだろう。同時に、羽子をつく歯切れのよい音が混ざるのだからなおさらだ。と、そういうことなのかもしれない。いずれにしても、聴覚で正月の光景をとらえているところは面白い。作者は戸外にいるのではなく、宿の部屋でくつろいでいるのかもしれない。『虚子五句集』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


January 1312002

 麦の芽にぢかに灯を当て探しもの

                           波多野爽波

語は「麦の芽」で冬。冬枯れのなかに並ぶ若芽は、けなげな感じもあって印象深い。そのあたりを如何に詠むかが、俳人諸氏の腕の見せどころだ。たとえば虚子は「麦の芽の丘の起伏も美まし国」と、まことに美々しく詠んでいる。「美まし」は「うまし」。洒落るわけではないが「巧(うま)し」句ではある。類句とは言わなくとも、同じような情景の切り取り方をした句はゴマンとある。そんななかで、掲句は異色だ。麦畑を通りながら、不覚にも何か大切な物を落としてしまった。……と、帰宅してから気がついたのだろう。どう考えても、あのときにあのあたりで落としたようだ。もう日が暮れているので、懐中電灯を持って慌てて取って返す。で、たしかこの辺だったかなと見当をつけて懐中電灯のスイッチを入れた。その瞬間の情景をつかまえた句である。光の輪のなかに、とつぜん鮮やかに浮かび上がってきたのは当然ではあるが「麦の芽」だった。さて、読者諸兄姉よ。この瞬間に作者の目に写った「麦の芽」の生々しさを思うべし。こんなにも間近に、こんなにも「ぢかに」鮮やかに「麦の芽」を見ることなどは、作者にしても無論はじめてなのだ。「探しもの」が見つかったかどうかは別にして、この生々しさを句にとどめ得た爽波という人は、やはり只者ではない俳人だとうなずかれることだろう。晩年の作。1991年に、六十八歳で亡くなられた。もっともっと長生きしてほしい才能だった。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)


February 1122002

 春の空人仰ぎゐる我も見る

                           高浜虚子

のない青空でも、「春の空」は靄(もや)がかかっていて、白くうるんでいるようだ。そんな空を、誰かが立ち止まって振り仰いでいる。何を熱心に見ているのだろう。鳥か、飛行機か、それとも何か珍しい現象でも……。人の心理とは面白いもので、つい一緒になって仰いでしまう。その人の目線に見当をつけて、何かわからぬものを求めて一心に目を凝らす。透明な空ではないので、同じ方角のあたりをあちこち探し回ることになる。いいトシの大人が、好奇心いっぱいで空を仰いでいる図はユーモラスだ。春ならではののどかさが、じわりと伝わってくる。掲句には実はオチがあって、「春の空人仰ぎゐる何も無し」ということだった。なあんだ。でも、この「なあんだ」も如何にも春の心持ちにフィットする。無内容と言えば無内容。しかし、こういうことが表現できる文芸ジャンルは、俳句以外には考えられない。このあたりが、俳句様式のしたたかなところだろう。無内容を面白がる心は西洋にもあるけれど、俳句のそれとはかなり異なるようである。無内容を自己目的化して表現するのが西洋的ナンセンス詩だとすれば、目的化せずに表現した結果の無内容を楽しむのが俳句ということになろうか。『七百五十句』(1964・講談社「日本現代文学全集」)所収。(清水哲男)


March 0832002

 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり

                           皆川盤水

語は「桜餅」で春。餅を包んだ塩漬けの桜の葉の芳香が楽しい。さて、気になる句だ。桜餅を三つ食べたくらいで、何故「無頼」めいた気持ちになったりするのだろうか。現に虚子には「三つ食へば葉三片や桜餅」があり、センセイすこぶるご機嫌である。無頼などというすさんだ心持ちは、どこにも感じられない。しかし、掲句の作者はいささか無法なことをしでかしたようだと言っているのだから、信じないわけにはいかない。うーむ。そこで両句をつらつら眺めてみるに、共通する言葉は「三つ」である。これをキーに、解けないだろうかと次のように考えてみた。一般にお茶うけとして客に和菓子を出すときには、三つとか五つとか奇数個を添えるのが作法とされる。したがって、作者の前にも三個の桜餅が出されたのだろう。一つ食べたらとても美味だったので、たてつづけに残りの二個もぺろりとたいらげてしまった。おそらく、この「ぺろり」がいけなかったようだ。他の客や主人の皿には、まだ残っている。作者のそれには虚子の場合と同じように、三片(葉を二枚用いる製法もあるから、六片かも)の葉があるだけだ。このときに、残された葉は狼藉の跡である。と、作者には思えたのだろう。だから、美味につられてつつましさを忘れてしまった自分に「無頼」を感じざるを得なかったのだ。女性とは違って、たいていの男は甘党ではない。日頃甘いものを食べる習慣がないので、ゆっくりと味わいながら食べる作法もコツも知らない。しかるがゆえの悲劇(!?)なのではなかろうか。『随處』(1994)所収。(清水哲男)


March 2232002

 斯く翳す春雨傘か昔人

                           高浜虚子

語は「春雨」。服部土芳の『三冊子』では、陰暦正月から二月初めに降る雨を「春の雨」とし、二月末から三月にかけての雨を「春雨」として区別している。今ごろから、しばらくの間の季節の雨……。暖かさが増してきてからの艶な感じを「春雨」に見ているわけだ。句の傘は洋傘ではなく、和傘だろう。しっとりとした雨のなかを歩いているうちに、ふと思いついて、粋な「昔人(むかしびと)」はどんなふうに傘をさしていたのだろうかと、いろいろとやってみた。芝居や映画の二枚目を思い出しながら、「斯(か)く翳(かざ)」したのだろうかなどと……。当人が真剣であるだけに、可笑しみを誘われる。その可笑しみを当人も自覚しているところが、なおさらに可笑しい。小道具が傘でなくとも、誰にでもこうした経験の一つや二つはあるだろう。男だったら、たとえば煙草の喫い方や酒の飲み方など、はじめのころにはたいてい誰かの真似をするものだ。私が煙草をやりだしたのは石原裕次郎が人気絶頂のころで、カッコいいなと思って当然のように真似をした。でも、これが何とも難しいのだ。煙草を銜えっぱなしにして、唇の左右にひっきりなしに動かさねばならない。当時はフィルターなしの両切り煙草だから、下手くそなうちは吸い口が唾液でぐしょぐしょになった。それでも、真似しつづけて何とかマスターできたころに登場してきたのが、フィルター付き国産第一号の「ハイライト」で、これだと実に容易にあっけなく唇で煙草を操れた。なあんだ、つまらねえ。と、その時点で真似は中止。おお、懐かしくも愚かなりし日々よ。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


April 0342002

 手の切れるやうな紙幣あり種物屋

                           大木あまり

語は「種物(たねもの)」ないしは「種物屋」で春。種物は、稲を除く穀類、野菜、草花の種子のこと。四季を通じて種子はあるのだけれど、季題で言う種物は、とくに春蒔きの種子を指している。明るい季節の到来を喜ぶ気持ちからだろう。ところで、一般的に種物屋といえば、薄暗くて小さな店というイメージがある。最近ではビルの中の片隅などに明るいショップも登場しているが、メインが花屋であったりと、種物専門店ではない。専門店だったら、たとえば虚子の「狭き町の両側に在り種物屋」のような店のほうがお馴染みだ。作者がいるのも、そんな小商いの店である。あれこれと物色しているうちに、なんとなく店主の座に目がいった。現代的なレジスターなどはなく、売上金が無造作に箱の中に放り込まれている。と、そこに新品の「手の切れるやうな紙幣(さつ)」があったというのだ。なにか、店の雰囲気にそぐわない。瞬間、そう感じたのである。いろいろな客が来て買い物をするのだから、あって不思議はないのだけれど、とても不思議な気分になった。古くて小さな店には、皺くちゃの古い紙幣がよく似合う。そういった作者の先入観が、あっけなく砕かれた面白さ。老舗の旅館の帳場に、でんとパソコンが置かれているのを見たことがある。やはり一瞬あれっと思った気分は、この句に似ている。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


April 1542002

 春の潮先帝祭も近づきぬ

                           高浜虚子

語は「春の潮(はるのしお・春潮)」。海の潮の様子は、季節の変化をよくあらわす。春には、しだいに冬の藍色が薄くなり、明るい色に変わってくる。それだけでも心が弾んでくるが、ああ今年も祭りが近づいてきたと思えばなおさらだ。そんな弾む心を潮に反射させた虚子の腕前は、さすがだと思う。どこがどうというわけでもないのだけれど、人と自然との親和的な関係がよく描出されている。「先帝祭(せんていさい)」は、山口県は下関市赤間神宮のお祭りだ。5月2〜4日。一度だけだが、学生時代に見物したことがある。竹馬の友が菓子メーカーに住み込みで働いていて、彼を訪ねたところ、それが偶然にも祭りの当日だった。平家滅亡のとき、壇ノ浦で入水した安徳天皇は阿弥陀寺(明治以降は赤間神宮)に葬られたが、後鳥羽天皇が先帝のため命日の旧暦三月二十四日に法要を営み、先帝会と称したことに始まるという。女官が菩提を弔うため遊女に姿を変えて参拝したという伝えによって、女官装束で行列して参拝する「じょうろう道中」が、祭りのクライマックスだ。沿道に立っていても、眠くなるようなよい日和だった。写真が残っているはずだが、どこに紛れているのか。小学校の修学旅行は下関と小倉だったが、貧しくて行けなかった。だから、このときの「先帝祭」こそが私の下関の大切な思い出だ。その後、下関に行くたびに必ず小倉にも足をのばすことになった。掲句に惹かれたのには、そんな個人的な事情もからんでいる。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1672002

 女涼し窓に腰かけ落ちもせず

                           高浜虚子

語は「涼し」で夏。なんとなく可笑しい句だ。笑えてくる。「女」が「腰かけ」ているのは、二階あたりの「窓」だろう。女性が窓に腰かけるとすれば、解放感にひたれる旅館か別荘である。少なくとも、自宅ではない。涼を取るために開け放った窓の枠にひょいと腰かけて、たぶん室内にいる人と談笑しているのだろう。柱に掴まるでもなく、両手を大きく広げたり、のけ反り気味に笑ったりしている。作者には下から見えているわけだが、いささかはらはらさせられると同時に、女性の屈託の無い軽やかさが「涼し」と感じられた。この「涼し」は「涼しい顔」などと言うときの「涼し」にも通じていると思われる。「落ちもせず」が、そのことを感じさせる。それにしても「落ちもせず」というぶっきらぼうな押さえ方は愉快だ。でも、逆に虚子は少々不愉快だったから、ぶっきらぼうに詠んだのかもしれない。お転婆女性は好きじゃなかったと想像すると、「涼し」の濃度は「涼しい顔」への「涼し」にぐんと近づく理屈だ。だとすれば、「落ちもせず」は「ふん」と鼻白んだ気分から出たことになるが、いずれにしても可笑しい句であることに変わりはない。別にたいしたことを言っているわけじゃないのに、こういう句のほうが記憶に残る。さすれば、これはやっぱり、たいしたことなのではあるまいか。遺句集『七百五十句』(1964)所収。(清水哲男)


November 13112002

 枯菊と言い捨てんには情あり

                           松本たかし

語は「枯菊(かれぎく)」で冬。アイルランド民謡に「The Last Rose of Summer」があり、日本では「埴生の宿」の作詞者でもある里見義が翻案して「庭の千草」とした。千草も虫の音も絶えてしまった寂しい庭に、ひとり遅れて咲いた白菊の花を感傷した歌だ。一番ほどには知られていないが、里見が書きたかったのはむしろ二番のほうだろう。「露にたわむや 菊の花/しもに おごるや 菊の花/ああ あわれ あわれ/ああ 白菊/人のみさおも かくてこそ」。この「ああ あわれ あわれ」が、季語「枯菊」の本意に込められた情感である。里見はこの情感を「人のみさお」のありように敷衍しているが、いささか説教くさい。対するに掲句の作者は、あくまでも枯れてもなおそこにある菊の美しさ(美の余韻)のみを言うにとどめている。そこに「あわれ」の情に溺れぬ潔さがある。ここで「情(なさけ)」とは、風情の意味だ。……と、私は読んだのだけれど、むろん俳句の読みに唯一無二の正解はない。あるいは「庭の千草」のように「人間も同じこと」と解釈する人がいても、間違いとは言えないし不思議ではない。虚子の「枯菊に尚或物をとどめずや」が、掲句の影響で詠まれたと指摘したのは山本健吉だが、虚子句は掲句よりもぐんと「庭の千草」寄りのような気がする。つまり、虚子は掲句を解釈する際に、枯菊そのものに宿る美の外に「或物」の存在を感じていたことになるからだ。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 2012003

 大寒の堆肥よく寝てゐることよ

                           松井松花

日は「大寒(だいかん)」。一年中で、最も寒い日と言われる。大寒の句でよく知られているのは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」あたりだろう。いずれも厳しい寒さを、心の寒さに転化している。引き比べて、掲句は心の暖かさにつなげているところがユニークだ。「堆肥(たいひ)」は、わら、落葉、塵芥、草などを積み、自然発酵させて作る肥料のこと。寒さのなかで、じわりじわりとみずからの熱の力で発酵している様子は、まさに「よく寝ていることよ」の措辞がふさわしく、作者の微笑が伝わってくる。一部の歳時記には「大寒」の異称に「寒がはり」があげられているが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味だろう。実際、この頃から、梅や椿、沈丁花なども咲きはじめる。寒さに強い花から咲いていき、春がそれこそじわりじわりと近づいてくる。そういうことを思うと、大寒の季語に託して心の寒さが多く詠みこまれるようになったのは、近代以降のことなのかもしれない。昔の人は、大寒に、まず「春遠からじ」を感じたのではないだろうか。一茶の『七番日記』に「大寒の大々とした月よかな」がある。情景としては寒いのだが、「大々(だいだい)とした月」に、掲句の作者に共通する心の暖かさが現れている。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1292003

 鬼の子に虚子一行の立ちどまる

                           岩永佐保

語は「鬼の子」で秋。蓑虫(みのむし)のこと。むろん、想像句だ。吟行だろうか。何でもよろしいが、道ばたで鬼の子を見つけた虚子が「ほお……」と立ちどまると、従っていた弟子たちも同じように立ちどまり、みんなでしばし眺め入っている図である。大の大人の何人もが、いかにも感に堪えたように、ぶら下がったちっぽけな虫を見ながら同じ顔つきをしているのかと想像すると、可笑しさが込み上げてくる。虚子やその一門に対する皮肉か、あるいは諧謔か。表面的に読めばそういうことにもなろうが、私はこれを一つの虚子論であると読んでおきたい。読んだとたんに「あっ」と思った。この「一行」こそが虚子その人なのだと、勝手に合点していた。こう言われてみれば、虚子という俳人はもちろん一人の人間でしかないのだけれど、俳人格としてはいつだって個人ではなく「虚子一行」だったような気がする。初期の句はともかく、大結社「ホトトギス」を率いた彼の句の署名に「虚子」とはあっても、ほとんどが「虚子一行」の「一行」が省略されていると読むべきではあるまいか、と。すなわち、虚子の発想がいつもどこかで個的な衝迫力に欠けているのは、逆に言えばいつもどこかで幾分おおらかであるのは、虚子の個がいつもどこかで「一行」だったからなのではあるまいか。「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」は虚子の名句として知られるが、主観性の濃い句にもかかわらず、虚子自身の内面性は希薄だ。つまり「一行」としての発想がそうさせているのではないのか。揚句の作者には、たぶんこの句のことが念頭にあっただろう。虚子が虚子たる所以は、実はこのように常に「一行」的な存在にあったと言いたいのではあるまいか。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


September 1592003

 月光写真まずたましいの感光せり

                           折笠美秋

季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)


October 21102003

 舌噛むなど夜食はつねにかなしくて

                           佐野まもる

語は「夜食」で秋。なぜ「かなし」なのかといえば、夜食は本来夜の労働と結びついおり、夜遊びの合間に食べるというものではないからである。夜遅くまで働かないと生活が成り立たない、できればこんな境遇から逃げ出したい。そんな暮しのなかにあっての夜食は、おのれの惨めさを味わうことでもあった。ましてや「舌噛むなど」したら、なおさらに切ない。虚子にも、夜食の本意に添った「面やつれしてがつがつと夜食かな」がある。現代では早朝から夜遅くまで働きづめの人は少なくなったので、本意からはかなり外れた意味で使われるようになった。したがって、楽しい夜食もあるわけだ。京都での学生時代に、銀閣寺から百万遍あたりを流していた屋台のラーメン屋がいた。深夜零時過ぎころから姿を現わす。学生なんて人種は、勉強にせよ麻雀などの遊び事にせよ、宵っ張りが多いので、ずいぶんと繁盛していた。カップラーメンもなかった時代、むろんコンビニもないから、腹の減った連中が切れ目無く食べに来るという人気だった。いや、そのラーメンの美味かったこと。食べ盛りの食欲を割り引いても、そんじょそこらのラーメン屋では味わえない美味だったと思う。醤油ラーメン一本だったが、その後もあんな味に出会ったことはない。いま行くと、百万遍の交差点のところにちょっとした中華料理店がある。そこの社長が、実はあのときの屋台のおじさんだという噂を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは明らかではない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 19122003

 年の市何しに出たと人のいふ

                           小林一茶

語は「年の市」で冬。本来は毎月立つ市であるが、正月用品を扱う年末の市は格別に繁盛した。その賑わいの渦の中にいると、いやが上にも押し詰まってきた感じを受けたことだろう。年の市では、どんなものが売られていたのか。平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によれば、『日次紀事』に次のようにあるという。「この月、市中、神仏に供ふるの器皿、同じく神折敷台、ならびに片木・袴・肩衣・頭巾・綿帽子・裙帯・扇子・踏皮、同じく襪線・雪踏・草履・寒臙脂皿・櫛・髪結紙、および常器椀・木皿・塗折敷・飯櫃・太箸・茶碗・鉢・皿・真那板・膳組・若水桶・柄杓・加伊計・浴桶・盥盤、ならびに毬および毬杖・部里部里・羽古義板、そのほか鰤魚・鯛魚・鱈魚・章魚・海鰕・煎海鼠・串石決明・数子・田作の類、蜜柑・柑子・橙・柚・榧・搗栗・串柿・海藻・野老・梅干・山椒粉・胡椒・糊・牛蒡・大根・昆布・熨斗・諸般の物ことごとくこれを売る。これみな、来年春初に用ふるところなり」。ふうっ、漢字を打ち込むのがしんどいくらいに品数豊富だ。さぞや目移りしたことだろう。ただこれらの多くは所帯には必要でも、一茶のような一所不在の流れ者には必要がない。のこのこ出かけていったら、怪訝そうに「何しに出た」と言われたのも当然だ。しかし、何も買わないでも、行きたくなる気持ちはわかる。普通の人並みに、彼もまた年末気分を味わいたかったのである。したがって、「何しに出た」とは無風流な。苦笑いしつつも、一茶は大いに賑わいを楽しんだことだろう。虚子に「うつくしき羽子板市や買はで過ぐ」がある。冷やかして、通りすぎただけ。一茶と同じような気分なのだ。(清水哲男)


February 1722004

 春水に歩みより頭をおさへたる

                           高浜虚子

語は「春水(春の水)」。春は降雨や雪解け水などで、河川はたっぷりと水を湛える。明るい日差しのなかで、せせらぎの音も心地よく、ちょっと足を止めてのぞきこんでみたくなる。水中の植物や小さな魚たちを見ていると、心も春の色に染まってくるようだ。小学生のころから、私は春の川を見るのが好きだった。だから、こういう何でもないような句にも魅かれるのだろう。実際、この句は何でもない。水の様子をのぞこうとして川に近づき、思わずも半ば本能的に「頭(ず)おさへた」というだけのことにすぎない。「おさへた」のは、頭に帽子が乗っていたからだ。春先は、風の強い日が多い。したがって、飛ばされないようにおさえたのだろうと読む人は、失礼ながら読みの素人である。そうではなくて、このときに風は吹いていなかった。ちっとも吹いていないのに、そしてほんの少し頭を傾けるだけなのに、無意識のうちに防御の姿勢があらわれてしまった。そのことに、作者は照れ笑い、ないしは微苦笑しているのだ。帽子をかぶる習慣のある人には、どなたにも同じような覚えがあるだろう。この笑いのなかに、春色がぼおっと滲んでいる。このような無意識のうちの防御の姿勢は、程度の差はあれ、日常生活のなかで頻繁にあらわれる。転びそうになって両手を前に出したり、ぶつかりそうになって飛び退いたり……。しかし、結果的には過剰防衛だったりすることもしばしばだ。私などはすぐに忘れてしまうが、作者は忘れなかった。句作の上において、この差は大きいのかもしれない。『虚子五句集・上』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


April 2142004

 山国の蝶を荒しと思はずや

                           高浜虚子

語は「蝶」で春。作者は「思はずや」と問いかけてはいるが、べつだん読者にむかって「思う」か「思わない」かの答えを求めているわけではない。この質問のなかに、既に作者の答えは含まれている。「山国の蝶を荒し」と感じたからこそ、問いかけの形で自分の確信に念を押してみせたのだ。「きっと誰もがもそう思うはずだ」と言わんばかりに……。優美にして華麗、あるいは繊細にして可憐。詩歌や絵画に出てくる蝶は多くこのように類型的であり、実際に蝶を見るときの私たちの感覚もそんなところだろう。ところが「山国の蝶」は違うぞと、掲句は興奮気味に言っている。山国育ちの蝶は優美可憐とはほど遠く逞しい感じで、しかも気性(蝶にそんなものがあるとして)は激しいのだと。そしてここで注目すべきは、、蝶の荒々しさになぞらえるかのように、この句の表現方法もまた荒々しい点だ。そこが、作者いちばんの眼目だと、私には思われる。すなわち、作者の得意は、蝶に意外な荒々しさを見出した発見よりも、むしろかく表現しえた方法の自覚にあったのではなかろうか。仮に内容は同じだとしても、問いかけ方式でない場合の句を想像してみると、掲句の持つ方法的パワーが、より一層強く感じられてくるようだ。まことに、物も言いようなのである。これは決して、作者をからかって言うわけじゃない。物も言いようだからこそ、短い文芸としての俳句は面白くもあり難しくもあるのだから。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


May 2152004

 子供地をしかと指しをり蚯蚓這ひ

                           高浜虚子

語は「蚯蚓(みみず)」で夏。「子供」とあるが、まだ物心がついたかつかないかくらいの幼児だろう。値を這う蚯蚓を見つけて、真剣な表情で指差している。不思議そうにしたり、気持ち悪がったりしているのではない。かといって、発見を誰かに告げようとしているのでもない。ただひたすらに「しかと」、地に動く物を指差している。強いて言えば、自分の発見を自分で「しかと」確認しているのだ。幼児はしばしばこういう所作をして、大人を微笑させたり苦笑させる。何を真剣に見つめているのかと思えば、大人の分別ではとるに足らぬものだったりする。幼児には、池の鯉も地の蚯蚓やトカゲも等価なのだから。そこがまた、なんとも可愛らしく思えるところだ。こういう句は、想像では詠めない。しかし、実際に目撃したとしても、なかなか詠めるものではないだろう。そこはさすがに虚子だけのことはあり、幼児の幼児たる所以の根っ子のところを見事に写生してみせている。しかもこの写生は、絵画的なスケッチやスナップ写真などでは写せないところまでを写し込んでいて、舌を巻く。絵画や写真では、どうやっても「しかと」の感じが出せそうもないからだ。幼児なりの「しかと」の気合いは、外面的な様子には現れにくい。その場にいて、ようやくわかる態のものである。それを虚子は、それこそしっかりと「しかと」の措辞に託した。いや、なんとも上手いものである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 1772004

 昼寝する我と逆さに蝿叩

                           高浜虚子

の夏の生活用品で、今では使わなくなったものは多い。「蝿叩(はえたたき)」もその一つだが、句は1957年(昭和三十二年)の作だから、当時はまだ必需品であったことが知れる。これからゆっくり昼寝をしようとして、横になった途端に、傍らに置いた蝿叩きの向きが逆になっていることに気がついた。つまり、蝿叩きの持ち手の方が自分の足の方に向いていたということで、これでは蝿が飛んできたときに咄嗟に持つことができない。そこで虚子は「やれやれ」と正しい方向に置き直したのかどうかは知らないが、せっかく昼寝を楽しもうとしていたのに、そのための準備が一つ欠けていたいまいましさがよく出ている。日常生活の些事中の些事でしかないけれど、こういう場面を詠ませると実に上手いものだと思う。虚子の句集を見ると、蝿叩きの句がけっこう多い。ということは、べつに虚子邸に蝿がたくさんいたということではなくて、家のあちこちに蝿叩きを置いておかないと気の済まぬ性分だったのだろう。それかあらぬか、娘の星野立子にも次の句がある。「蝿叩き突かへてゐて此処開かぬ」。引き戸の溝に蝿叩が収まってしまったのか、どうにも開かなくなった。なんとかせねばと、立子がガタガタやっている様子が浮かんできて可笑しい。いやその前に、父娘して蝿叩きの句を大真面目に詠んでいるのが微笑ましくも可笑しくなってくる。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


September 0992004

 一足の石の高きに登りけり

                           高浜虚子

暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2392004

 をさな子はさびしさ知らね椎拾ふ

                           瀧 春一

語は「椎(の実)」で秋。ドングリの一種と言ってよいと思うけれど、椎は生でも食べられる。でもとにかく色合いが地味なので、それだけに淋しい感じのつきまとう実である。椎の木の生えている場所自体、陰気な感じのするところが多かった。そこらあたりの雰囲気を巧みに捉えたのが、虚子の「膝ついて椎の実拾ふ子守かな」だ。秋も日暮れに近いのだろう。けなげな「子守」の淋しくも哀れな様子が、目に浮かぶようだ。掲句もまた、椎の実にまつわる寂寥感を詠んでいるのだが、しかし虚子のように直球を投げてはいない。かなりの変化球だ。「さびしさ」を知らない「をさな子」が一心に椎の実を拾っている。しかしそれが単純に微笑ましい図かというと、そうではなくて、作者はどこかに淋しさ哀れさを感じてしまうと言うのだ。「知らね」は「知らねども」の略として良いと思うが、純粋無垢の幼児のひたむきな行為を見ていると、身につまされるときがある。かつての自分もこうであったはずだが、やがて物心がつき自我に目覚め、人生の喜怒哀楽を知り始めると、とても純粋ではいられなくなる道程を知っているからだ。無心の幼児。このころが結局いちばん良い時期かもしれないなあと思うと、涙ぐましくなってくる。その感情を、幼児の拾う椎の実の淋しさが増幅するのである。センチメンタリズムを詠ませると、この作者はいつも格別な才気を発揮した。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1422005

 虎造と寝るイヤホーン春の風邪

                           小沢昭一

語は「春の風邪」。寒かったかと思うと暖かくなったりで、早春には風邪を引きやすい。俳句で単に「風邪」といえば冬のそれを指し、暗い感じで詠まれることが多いが、対して「春の風邪」はそんなにきびしくなく、どこかゆったりとした風流味をもって詠まれるケースが大半だ。虚子に言わせれば「病にも色あらば黄や春の風邪」ということになる。が、もちろん油断は大敵だ。軽い風邪とはいっても集中力は衰えるから、難しい本を読んだりするのは鬱陶しい。作者はおそらくいつもより早めに床について、「イヤホーン」でラジオを聞きながらうとうとしているのだろう。こういうときにはラジオでも刺激的な番組は避けて、なるべく何も考えないでもすむような内容のものを選ぶに限る。「次郎長伝」か「国定忠治」か、もう何度も聞いて中味をよく知っている広沢虎造の浪曲などは、だから格好の番組なのだ。ストーリーを追う必要はなく、ただその名調子に身をゆだねていれば、そのうちに眠りに落ちていくのである。そのゆだねようを指して、「虎造と寝る」と詠んだわけだ。病いの身ではあるけれど、なんとなくゆったりとハッピーな時間が流れている感じがよく出ている。それにつけても、最近めっきり浪曲番組が減ってしまったのは残念だ。レギュラーでは、わずかにNHKラジオが木曜日の夜(9.30〜9.55)に放送している「浪曲十八番」くらいのものだろう。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 1432005

 鎌倉を驚かしたる余寒あり

                           高浜虚子

語は「余寒(よかん)」で春。本格的な春も間近というときになって、突然寒波が襲ってきた。それも選りに選って温暖な湘南の地である「鎌倉」をねらったかのように、である。居住している作者自身が驚かされたのはむろんだが、それを鎌倉全体が驚かされたと大きくスケールを広げたところに、この句の新鮮な衝撃力がある。他の鎌倉の住人も驚いたろうが,鎌倉の土地そのものも、そしてさらには鎌倉の長い歴史までもが驚いたと読めるところが面白い。この句について、山本健吉は「淡々と叙して欲のない句」と言っている。「鎌倉の位置、小じんまりとまとまった大きさ,その三方に山を背負った地形,住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する」(『現代俳句』・角川新書)とも……。私はこれに加えて、というよりも、いちばん奉仕しているのは鎌倉という地名が内包している「歴史」なのだと思う。鎌倉幕府の昔より歴史的に濾過されてきたイメージが、読者にぴんと来るからこそ、句は生きてくるのだ。これを鎌倉の代わりに、たとえばすぐ近くの「東京」としたのでは、地形が漠としすぎることもあるけれど、何と言っても歴史が浅すぎて、鎌倉ほどに強いイメージが喚起されることはないだろう。すなわち掲句は、一見「淡々と叙して」いるようでいて、実は地名の及ぼすあれこれの効果をきちんと(瞬時にせよ)計った上で詠めたのだろうと思った。「無欲」という言い方は、ちょっと違うのではなかろうか。『五百句』(1937)所収。(清水哲男)


July 2972005

 蝿叩手に持ち我に大志なし

                           高浜虚子

語は「蝿叩(はえたたき)」で夏。いまの子供のほとんどは、もう蝿叩は知らないだろう。1956年(昭和三十一年)七月の句。この当時は、どこの家庭にも蝿叩は必ずあった。「五月蝿い」という言葉があるように、夏場は蝿に悩まされたものだ。そんな必需品が無くなったということは、住環境の衛生状態が良くなったことを示しているのだが、あんなに沢山いた蝿がいなくなるほどに生物界の生態系が崩れてきているとも言えるのではなかろうか。一概に喜んでいてよいものかどうか、素人の私には判断しかねるけれど……。それにしてもまた、虚子には蝿叩の句が多い。呆れるほどだ。ことに晩年に近づいてくるほど数は多く、夏の楽しみは避暑と蝿叩くらいしかなかったのかしらんと思えてしまうくらいである。「大志」もへったくれもあるものか。我は蝿叩を持ちて、日がな一日、憎っくき蝿を追い回すをもって生き甲斐とせむ。ってな、感じである。だから「用ゐねば己れ長物蝿叩」なのであって、常時蝿叩を手にしていた様子が彷佛としてくる。こういうのもある、「蝿叩にはじまり蝿叩に終る」。こうなるともう、蝿叩愛好家、蝿叩マニアの感があり、手にしていないと落ち着けなかったのにちがいない。武士が刀を手元に置いておかないと、なんとなく落ち着かなかったであろう、そんなような虚子にとっての蝿叩なのだった。もう一句、「新しく全き棕櫚の蝿叩」。「棕櫚」は「しゅろ」、嬉しそうだなア。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 3072005

 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀

                           高浜虚子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。虚子の句日記を見ると、晩年に至るまで実にたくさん各地での句会に出ている。才能の問題は置くとして、私だったら、まず体力が持たないほどの多さだ。このことは、虚子の句を読むうえで忘れてはならないポイントである。すなわち、虚子の句のほとんどは、そうした会合で、つまり人との交流のなかで詠まれ披露(披講)されてきたものだった。詩人や小説家のように、ひとり物言わず下俯いて書いたものではない。したがって、句はおのずから詠む環境からの影響を受け、あるいはその場所への挨拶や配慮などをも含むことになるわけだ。さらには、その場に集っている人々の職業や趣味志向などとも、微妙にからみあってくる。すなわち、詠み手はあくまで虚子ではあっても、俳句は詩や小説の筆者のような独立した個我の産物とは言えないわけだ。だから、そのあたりの事情を完全に見落としていた桑原武夫に文句をつけられたりしたのだけれども、極端に言うと俳句はその場の人々と環境との合作であると言ってもよいだろう。掲句は、寺に泊まり込んでの「稽古会」での作品だ。寺だから、それでなくとも朝は早くて一層の「明易や」なのであり、「南無阿弥陀」の念仏はつきものである。そのなかに、自分が頑強に主張してきた「花鳥諷詠」を放り込んでみると、面白いことになった。生真面目に取れば花鳥諷詠は崇高な念仏と同等になり、「なんまいだー」とおどけてみれば花鳥諷詠もしょぼんと気が抜けてしまう。披講の際に、この「南無阿弥陀」はどう発音されたのだろうか。常識的には後者であり、みんなはどっと笑ったにちがいない。その笑いで詠み手は大いに満足し、そこで俳句というものはいったん終わるのである。これが俳諧の妙なのであるからして、この欄での私のように、単にテキストだけを読んで句を云々することは、俳諧的にはさして意味があることではないと言えよう。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 3172005

 力無きあくび連発日の盛り

                           高浜虚子

語は「日の盛り(日盛)」で、もちろん夏。さて、本日で虚子三連発。句のあまりのくだらなさに、当方も「あくび連発」。作者もまた、良い句などとは露思っていなかったろう。思っていないのに、何故こういう句を作って人前に出す気持ちになったのだろうか。駄句として一蹴してしまうのは容易いし、私もそうしかけたのだが、しかし名句よりも駄句のほうに、その人の本質がよく見えるということはあるだろう。掲句に限らず、初心者でも作らないような駄目な句を、虚子はあちこちで平気で詠んでいる。これは、はじめから意図的なのですね。確信犯です。子規亡き後、碧梧桐の「新傾向」でなければ夜も日も明けなかった俳壇のなかにあって、虚子が碧梧桐を批判した有名な文章がある。その一節に、曰く。「尚碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」。このときに、虚子はまだ二十代。碧梧桐の才気を認めないわけではなかったが、それだけでは駄目だと言い放っている。人間、才気だけで生きているわけじゃない。誰にだって、ヌーボーとした側面はあるのだから、そのあたりを捉えることなしにすますようなことでは、何のための表現なのかわからない。掲句は晩年の作だが、若き日の初心を貫いているという意味では、珍重に値する一句と言ってもよいのではなかろうか。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


February 0722006

 玻璃窓に来て大きさや春の雪

                           高浜虚子

語は「春(の)雪」。北国の雪ではなく、この季節に関東以西に降る雪のこと。春雨になるはずの水滴が、気温が少し低いために雪になるのだ。淡く、溶けやすい。また湿り気があるので結晶がくっつきやすく、いわゆる「牡丹雪(ぼたんゆき)」になることもある。掲句の読みどころは、何と言っても「大きさや」の言い止め方にある。作者は室内から「玻璃(はり)窓」を通して降る雪を見ているわけだが、雪片がガラス窓に近づいてくると、その「大きさ」がよくわかると言うのだ。それこそ牡丹雪だろうか。窓から離れて降っていても、普通の雪とは違う大きさには見えているが、こうして窓に「来て」みれば、ちょっと想像を越えた大きさだった。が、この「大きさ」がどれほどのものかは書いてない。それどころか、厳密に読むと、雪片が「大きい」とも書いてない。あくまでも「大きさや」なのであり、つまり「表面積や」と書くのと同じことなのであって、その後のことは読者の想像にゆだねてしまっている。読者の側にしてみれば、「大きさ」をなんとなく「大きい」と読んでしまいがちだけれど、作者はおそらくそのことも計算に入れて、あえて「大きさ」と詠んだのだろう。つまり窓に来る雪片の大きさには、大きいことは大きくても、それなりに大小いろいろあって、そのいろいろを全てひっくるめての「大きさや」という感慨なのだ。単に春の雪片は「大きいなあ」と表現するよりも、いろいろあって見飽きないという気分がよく伝わってくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0452006

 生えずともよき朝顔を蒔きにけり

                           高浜虚子

語は「朝顔蒔く」で春、「花種蒔く」に分類。朝顔は、八十八夜の頃が播種に最適とされる。ちょうど今頃だ。昨年は蒔くのを忘れたので、今日あたり蒔こうかと思っている。といっても、土を選んで買ってきたりするのは面倒なので、垣根のわきに適当に蒔くだけだ。べつに品評会にでも出すわけじゃないから、その後の世話もほとんどしないはずである。まさに掲句のごとく「生えずともよき朝顔」というわけだ。虚子の気持ちは、一応は蒔いておくけれど、生えなければそれでもよし、生えてくれれば儲けものといったところだろう。まことにいい加減ではあるが、期待しないその分だけ、生えてきて花が咲いてくれたときには、とても嬉しい。内心では、ちゃんと生えてほしいのだ。でも、はじめから期待が高過ぎると、うまく育たなかったときの落胆度は大きいので、こういう気持ちでの蒔き方になったということだろう。うがった見方をしておけば、種蒔きだけではなく、このような気持ちでの物事への処し方は、虚子という人の処世術全般に通じていたのではないかと思う。断固貫徹などの完璧主義を排して、何事につけても、いわば融通無碍に、あるいは臨機応変に対応しながら生きてゆく。桑原武夫の第二芸術論が出て来たときに、「ほお、俳句もとうとう『芸術』になりましたか」とやり過ごした態度にしても、その一つのあらわれだったと見てよさそうだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0992006

 月一輪星無數空緑なり

                           正岡子規

の句を、と『子規全集』を読む。この本、大正十四年発行とありちょっとした辞書ほどの大きさで天金が施されているが、とても軽くて扱いやすい、和紙は偉大だ。そしてこの句は第三巻に、明治三十年の作。満月に近いのだろう、月の光が星を遠ざけ、空の真ん中にまさに一輪輝いている。さらにその月を囲むように星がまたたく。濃い藍色の空に星々の光が微妙な色合いを与えていたとしても、月夜の空、そうか、緑か。時々、自分が感じている色と他人が感じている色は微妙に違うのではないかと思うことがあるが、確かめる術はない。しかし、晩年とは思えない穏やかな透明感のある子規の絵の中で、たとえば「紙人形」に描かれた帯の赤にふと冷たさを感じる時、子規の心を通した色を実感する。明治三十五年九月十九日、子規は三十五年の生涯を閉じる。虚子の〈子規逝くや十七日の月明に〉の十七日は、陰暦八月十七日で満月の二日後、そして今日平成十八年九月九日は、本来なら陰暦八月(今年は閏七月)十七日にあたる。前出の虚子の句が子規臨終の夜の即吟、と聞いた時は、涙より先に句が出るのか、と唖然としたが、もし見えたら今宵の月は十七日の月である。ただし、今年は閏七月があるため、暦の上の名月は来月六日とややこしい。ともあれ、月の色、空の色、仰ぎ見る一人一人の色。『子規全集』(1925・アルス)所載。(今井肖子)


December 23122006

 装ひてしまひて風邪の顔ありぬ

                           田畑美穂女

邪は一年中ひくものだが、やはり風邪の季節といえば冬だろう。十二月になると、テレビでも毎年のように風邪薬のCMが目立ってくる。虚子に〈死ぬること風邪を引いてもいふ女〉という一句があるが、作者の田畑美穂女さんは、大阪の薬の町として名高い道修町(どしょうまち)の薬種商の家に生まれ、長く製薬会社の社長を務めた方である。風邪くらいで死ぬなどと言うのはもってのほか、仕事を休むこともせず朝からシャキッと着物を召し帯を締め終えて、さあ出かけようと鏡を見た。するとそこには、気持とはうらはらにぼんやりと風邪に覆われた顔が、正直に映っていたのだろう。装う、は身支度をすることだが、いつもより少し気の張った身支度だったのかもしれない。ああ、やっぱり風邪だわ、と思うとなにやら力が抜け、着付けた着物が急に重く感じられ、そのため息のような気持が、顔ありぬ、の下五に表れている。しかしそこで、その気持を一句にするところがまた、虚子門下の女傑、ユニークでおおらかと言われた所以であろう。ある句会の前、虚子に「昨晩、三句出句の句会で、四句先生の選に入った夢を見ました」と言い、虚子がその話を受けて、〈短夜や夢も現も同じこと〉という句を出したという逸話も残っており、その人柄句柄は多くの人を惹きつけた。『田畑美穂女句集』(1990)所収。(今井肖子)


January 0512007

 松過ぎのまつさをな湾肋骨

                           原田 喬

正十三年「ホトトギス」第一回同人に推された原田濱人(ひんじん)は、虚子の許可を得て「ホトトギス」に書いた主観重視の論「純客観写生に低徊する勿れ」を理由に虚子に破門される。「ホトトギス」の同期の飯田蛇笏、原石鼎ら主観派に対する見せしめとしてスケープゴートにされたのだ。早い話が虚子にハメられたのである。その七年前、まだ二人の関係が良好であった頃、虚子は、奈良で教鞭をとっていた濱人宅を尋ね、その時四歳だった濱人の子喬(たかし)を句に詠んでいる。「客を喜びて柱に登る子秋の雨」虚子の句集『五百句』所収のこの句に詠まれた喬は、失意の父とともに郷里浜松で暮す。父は地元で俳句結社「みづうみ」を興し、生涯その指導に当る。父死後、喬は父の跡を継がず加藤楸邨に師事する。喬は1999年没。喬もまた郷里浜松で生涯を終えている。「まつさをな湾」は遠州灘。肋骨(あばらぼね)は、そこに生活の根を置く自己の投影。それはまた父から受け継いだ血と骨格である。句柄はおおらかで素朴。「土に近くあれ」を自己の信条とした。『灘』(1989)所収。(今井聖)


April 0842007

 三つ食へば葉三片や桜餅

                           高浜虚子

月八日、虚子忌です。桜餅という、名前も姿も色も味も、すべてがやわらかなものを詠っています。パックにした桜餅は、最近はよくスーパーのレジの脇においてあります。買い物籠をレジに置いたときに、その姿を見れば、つい手に取ってかごの中に入れたくなります。「葉三片や」というのは、「葉三片」が皿の上に残っているということでしょうか。つまり、葉を食べていないのです。わたしは、桜餅の葉は一緒に食べてしまいます。あんなに柔らかく餅と一体化したものを、わざわざ剥がしたくないのです。もしもこれが三人で食べた句なら、三人が三人とも葉を残したことになりますが、この句ではやはり、一人で三つ食べたと言っているのでしょう。どことなくとぼけた味のある句です。男が桜餅を三つも食べること自体が、ユーモラスに感じられます。ああいうものは、一人にひとつずつ、軽やかに味わうもので、続けざまに口に入れるものではありません。句全体がすなおで、ふんわりしています。個性的で、ぎらぎらしていて、才能をこれみよがしにしたものではありません。虚子からのそれが、ひとつのメッセージなのかもしれません。さらに、これほどに当たり前のことをわざわざ作品にする、俳句の持つ特異性を、考えさせる一句ではあります。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


April 2742007

 春水や子を抛る真似しては止め

                           高浜虚子

の川べりを子供と歩き、抱き上げて抛る真似をする。「ほらあ、落ちるぞ」子供は喜んではしゃぎ声をあげる。ああ、こんなに子煩悩な優しい虚子がいたんだ。普通のお父さん虚子を見るとほっとする。「初空や大悪人虚子の頭上に」「大悪人」と虚子自身も言ってるけど、俳句の天才虚子には、実業家にして政治屋、策士で功利的な側面がいつも見えている。熱狂的追っかけファンの杉田久女に対する仕打ちや、「ホトトギス」第一回同人である原田浜人破門の経緯。そして破門にした同人に後年復帰を許したりする懐の広さというか老獪さというか。そんな例を数え上げたらきりがない。とにかく煮ても焼いても食えない曲者なのだ。虚子は明治七年生まれ。同じ明治でも中村草田男の啓蒙者傾向や加藤楸邨のがちがちの求心的傾向、日野草城なんかのモダンボーイ新しがりと比べると、幅の広さが全然違う。上から見るのではなく、「俗」としっかりと四つに組む。ところでこの句、抛る真似をするのは、他人の子だったら出来ないだろうから自分の子、とすると虚子の二男六女、八人のうちの誰だろう。子の方はこんなシーン覚えているのかな。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)


August 2482007

 みづうみの水のつめたき花野かな

                           日野草城

体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


February 0122008

 白鳥にもろもろの朱閉ぢ込めし

                           正木ゆう子

はあけとも読むが、この句は赤と同義にとって、あかと読みたい。朱色は観念の色であって、同時に凝視の色である。白鳥をじっと見てごらん、かならず朱色が見えてくるからと言われれば確かにそんな気がしてくる。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」と趣が似ている。しかし、はっきり両者が異なる点がある。虚子の句は、白牡丹の中に自ずからなる紅を見ているのに対し、ゆう子の方は「閉ぢ込めし」と能動的に述べて、「私」が隠れた主語となっている点である。白鳥が抱く朱色は自分の朱色の投影であることをゆう子ははっきりと主張する。朱色とはもろもろの自分の過去や内面の象徴であると。イメージを広げ自分の思いを自在に詠むのがゆう子俳句の特徴だが、見える「もの」からまず入るという特徴もある。凝視の客観的描写から内面に跳ぶという順序をこの句もきちんと踏まえているのである。『セレクション俳人正木ゆう子集』(2004)所載。(今井 聖)


June 1662008

 タイガースご一行様黴の宿

                           山田弘子

っ、なんだなんだ、これは。「失敬な」と思うのは、むろんタイガース・ファンだ。いつごろの句かはわからないが、私はこの「黴(かび)の宿」を比喩と見る。つまり遠征中のタイガースが黴臭く冴えない宿に泊まっているのではなくて、弱かった頃のタイガースの成績の位置がなんだか黴の宿に宿泊しているみたいだと言うのだろう。万年最下位かビリから二番目。実際にどんな宿に泊まっても、そこもまた黴の宿みたいに思えてしまえる、そんな時期もありました。作者は関西の人ゆえ、たぶん阪神ファンだと思うが、あまりの不甲斐なさに可愛さあまって憎さが高じ、つい自嘲を込めた皮肉の一つも吐いてしまったというわけだ。今季のタイガースにとてもこんなことは言えないが、ここにきての三連敗はいただけない。こういう句を作られないように、明後日からの甲子園ではあんじょうたのんまっせ。虚子に一句あり。「此宿はのぞく日輪さへも黴び」。こんなに黴レベルの高い宿屋には、二度と泊まらないですみますように。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


January 2812009

 座布団を猫に取らるゝ日向哉

                           谷崎潤一郎

の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0432009

 人形も腹話術師も春の風邪

                           和田 誠

どもの頃、ドサまわりの演芸団のなかにはたいてい腹話術も入っていて、奇妙といえば奇妙なあの芸を楽しませ笑わせてくれた。すこし生意気な年齢になると、抱っこされて目をクリクリ、口パクパクの人形の顔もさることながら、腹話術師の口元のほうに目線を奪われがちだった。なんだ、唇がけっこう動いているじゃないか、ヘタクソ!とシラケたりしていた。腹話術師は風邪を引いたからといって、舞台でマスクをするわけにはいかないから、人形にも風邪はうつってしまうかもしれない。絶対にうつるにちがいない、と考えると愉快になる。――そんな妄想を、否応なくかきたててくれるこの句がうれしい。冬場の風邪ではなく、「春の風邪」だからそれほど深刻ではないし、どこかしらちょいと色気さえ感じられる。そのくせ春の風邪は治りにくい。舞台の両者はきっと明かるくて軽快な会話を楽しんでいるにちがいない。ヨーロッパで人形を使った腹話術が登場したのは、18世紀なかばとされる。イラストだけでなく、しゃれた映画や、本職に負けない詩や俳句もこなすマルチ人間の和田さん。通常言われる「真っ赤な嘘」に対し、他愛もない嘘=「白い嘘」を句集名にしたとのこと。ことばが好きであることを、「これは嘘ではありません」と後記でしゃれてみせる。ほかに「へのへのと横目で睨む案山子かな」という句も楽しい。虚子の句に「病にも色あらば黄や春の風邪」がある。『白い嘘』(2002)所収。(八木忠栄)


May 2252009

 たべのこすパセリのあをき祭かな

                           木下夕爾

七の連体形「あをき」は下五の「祭かな」にかからずパセリの方を形容する。この手法を用いた文体はひとつの「鋳型」として今日的な流行のひとつとなっている。もちろんこの文体は昔からあったもので、虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」も一例。日の当たっているのは枯野ではなくて遠山である。独特の手法だが、これも先人の誰かがこの形式に取り入れたものだろう。こういうかたちが流行っているのは花鳥諷詠全盛の中でのバリエーションを個々の俳人が意図するからだろう。この手法を用いれば、掛かるようにみせて掛からない「違和感」やその逆に、連体形がそのまま下五に掛かる「正攻法」も含めて手持ちの「球種」が豊富になる。今を旬の俳人たちの中でも岸本尚毅「桜餅置けばなくなる屏風かな」、大木あまり「単帯ゆるんできたる夜潮かな」、石田郷子「音ひとつ立ててをりたる泉かな」らは、この手法を自己の作風の特徴のひとつとしている。夕爾は1965年50歳で早世。皿の上のパセリの青を起点に祭の賑わいが拡がる。映像的な作品である。『木下夕爾の俳句』(1991)所収。(今井 聖)


June 1262009

 柿の花こぼれて久し石の上

                           高浜虚子

の小さな柿の花がこぼれて落ちて石の上に乗っている。いつまでも乗っている。「写生」という方法が示すものは、そこから「永遠」が感じられるということが最大の特徴だと僕は思っている。永遠を感じさせるカットというのはそれを見出した人の眼が感じられることが第一条件。つまり「私」が見たんですよという主張が有ること。第二にそこにそれが在ることの不思議が思われること。これが難しい。川端茅舎の「金剛の露ひとつぶや石の上」は見事な句と思うが露の完璧な形とその危うさ、また露と石の質感の対比に驚きの目が行くために露がそこに在ることの不思議さとは少し道筋が違う気がする。それはそれでもちろん一級の写生句だとは言えようが。どこにでもある柿の花が平凡な路傍の石の上に落ちていつまでもそこにある。この句を見るたび、見るかぎり、柿の花は永遠にそこに在るのだ。『ホトトギス季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)


August 0782009

 紙伸ばし水引なほしお中元

                           高浜虚子

まどきのデパート包装のお中元を考えていたものだから、どうして紙は皺になったのか、水引の紐は直さざるを得ない状態になってしまったのかと不思議に思った。運ぶ途中で乱れを生じたと単純に考えればよかった。でも虚子のことだから何かあるなと考えたわけである。これはひょっとしたら人からもらった物を使いまわして誰かに持っていったのかも知れぬ。それなら紙を伸ばし水引をなおす理由があるだろうと。これはきっとそうに違いないと考えて、一晩置いてもう一度この句をみたら、いや、これは単に大切な方にお中元を出すとき失礼のないように整えて出したというだけではないかと思い始めた。つまり日頃の感謝というお中元の本意だ。そう思った途端、自分の想像が恥ずかしくなった。そういう可能性を考えたということは自分の中にそういう気持ちの片鱗があるということだ。ああ、俺はなんてセコイことを考えるんだろうと自己嫌悪に陥ったが、この句、単なる感謝の配慮なら当たり前の季題の本意。どこかで僕の解釈の方が虚子らしいんじゃないかとまだ思っている。『ホトトギス俳句季題便覧』(2001)所収。(今井 聖)


August 1182010

 秋風や拭き細りたる格子窓

                           吉屋信子

年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 0512011

 おとなしく人混みあへる初電車

                           武原はん女

年の季語には「初」が付くものが驚くほど多い。笑って「初笑い」、泣いて「泣初」である。まあ、めでたいと言えばまことにめでたい。売っても、買っても、「売初」「買初」と「初」は付いてまわるのだから愉快だ。日本人の初ものに対するこだわりの精神は相当なもの。武原はん(俳号:はん女)の場合だったら「初舞」だろう。正月気分で電車は特ににぎやかなことが多いだろうけれど、着飾って妙にとり済ましている人もあるにちがいない。正月も人が出歩く頃になり混み合っているにもかかわらず、乗客はおとなしく静かに窓外に視線を遊ばせて、新年を神妙にかみしめているという図だろう。あわただしい年末、先日までの喧噪との対比が、この句の裏にはしっかり押さえられていると言える。ホッとして、しばしこころ落着く世界。「初電車」にしても「初車」にしても、電車や車はあまりにも私たちの日常身近なものになってしまったゆえに、季語として格別詠みこまれる機会が今は少ないかもしれない。はんは俳句を虚子に学び、句集『小鼓』などがある。虚子の句に「浪音の由比ケ浜より初電車」がある。のどかな江ノ電であろう。鎌倉の初詣とは別ののんびりした正月気分がただよう。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


June 1762011

 春水をたたけばいたく窪むなり

                           高浜虚子

の句とか同じ虚子の「大根を水くしやくしやにして洗ふ」などの機智はまさに今流行のそれ。虚子信奉の現代の「若手」が好んで用いる傾向である。窪むはずもない液体が窪んでいるという、液体を個体のように言う見立て。くしゃくしゃになるはずもない水をそう見立てる同類の機智。同じような仕立ての句を見たら、あ、この発想は虚子パターンだろと言ってやるのだ。虚子の発想の範囲を学びその埒の中で作り、自作の典拠としての虚子的なるものの数を誇る。そのままだと俳句は永遠に虚子から出られない。バイブルの方には責任はない。学ぶ側の志の問題だ。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)


June 2262011

 川面吹き青田吹き風袖にみつ

                           平塚らいてう

性解放運動家らいてう(雷鳥)は、戦時中、茨城県取手に疎開していた。慣れない農作業に明け暮れながら、日記に俳句を書きつけていたという。小貝川が利根川に流れこむ農村地帯だったというから、いずれかの川の「川面」であろう。見渡すかぎりの田園地帯を風は吹きわたり、稲は青々と育っている。いかにも男顔負けの闘士の面目躍如、といった力強い句ではないか。疎開隠棲中の身とはいえ、袖に風を満たして毅然として立つ女史の姿が見えてくる。「風袖にみつ」にらいてうの意志というか姿勢がこめられている。虚子の句「春風や闘志いだきて丘に立つ」が連想される。らいてうが掲句と同じ土地で作った句に「筑波までつづく青田の広さかな」がある。さすがにこせこせしてはいない。らいてうが姉の影響で俳句を作りはじめたのは二十三歳の頃で、「日本及日本人」の俳壇(選者:内藤鳴雪)に投句し、何句か入選していたらしい。自ら創刊した「青鞜」にも俳句を発表していたようだ。戦後は「風花」(主宰:中村汀女)の句会に参加した。他に「相模大野おほふばかりの鰯雲」という壮大な句もある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


June 2062012

 一つ蚊を叩きあぐみて明け易き

                           笹沢美明

の消え入るような声で、耳もとをかすめる蚊はたまらない。あの声は気になって仕方がない。両掌でたやすくパチンと仕留められない。そんな寝付かれない夏の夜を、年輩者なら経験があるはず。「あぐ(倦)みて」は為遂げられない意味。一匹の蚊を仕留めようとして思うようにいかず、そのうちに短夜は明けてくる。最も夜が短くなる今頃が夏至で、北半球では昼が最も長く、夜が短くなる。「短夜」や「明け易し」という季語は今の時季のもの。私事になるが、大学に入った二年間は三畳一間の寮に下宿していたので、蚊を「叩きあぐ」むどころか、戸を閉めきればいとも簡単にパチンと仕留めることができて、都合が良かった。作者は困りきって掲句を詠んだというよりは、小さな蚊に翻弄されているおのれの姿を自嘲していると読むことができる。美明は、戦前の有力詩人たちが拠った俳句誌「風流陣」のメンバーでもあった。「木枯紋次郎」の作者左保の父である。他に「春の水雲の濁りを映しけり」という句がある。虚子には虚子らしい句「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


June 2462012

 鯖の旬即ちこれを食ひにけり

                           高浜虚子

瞬で、ぺろりと鯖鮨を食った。旬だから、好物だから、足が速いから、握られて置かれてすぐに召しあがった。鮨屋のカウンターならば、これがよい食べ方です。山本健吉の歳時記には、「五月十四日作る」とあります。鯖は五月が味の旬とされているので、それを逃さず、これも季節と人との出会いです。それにしても、ただ鯖を食っただけなのに俳句になっているのはなぜでしょう。また、俳句としては例外的に「即ちこれ」といった接続語と指示語を使っています。この効果について、思いついたことをいくつか書きます。一、五七五の定型にするため。二、一瞬で食べられてしまう鯖を「これ」で指示して注目させるため。三、韻律の効果。前半を「サ行音」で、後半を 「カ行音」でまとめた。四、五七五 を三コマのフィルムとみれば、一コマ目は眼の前の鯖鮨、二コマ目は手に取った鯖鮨、三コマ目は腹に入った鯖鮨。と分析しましたが、こんな野暮な考えよりも、句のスピード感が心地いいからでしょう。とくに、「旬」と「即」が漢語でカチンとぶつかっていながらも、「シュン・スナワチ」の音が、速度のある食いっぷりを形容しています。最近の研究で、鯖などの青魚は肝臓がんの抑止効果があると発表されましたが、八十五歳まで健筆を奮った虚子を内側から支えていたのかもしれません。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)


September 2092012

 子規逝くや十七日の月明に

                           高浜虚子

規が亡くなったのは明治三十五年九月十九日だった。この句にある十七日は陰暦八月十七日の月という意味だという。夜半過ぎに息を引き取った子規の急を碧梧桐、鼠骨に告げるべく下駄を突っかけて外に飛び出た虚子は澄み切った夜空にこうこうと照る月を見上げる。「十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何者かが其処に動いてゐるやうな心持がした。今迄人間として形容の出来無い迄苦痛を舐めてゐた彼がもう神とか仏とか名の附くものになつて風の如くに軽く自在に今大空を騰り(のぼり)つゝあるのではないかといふやうな心持がした」と子規と自分をモデルにした小説『柿二つ』に書きつづっている。子規が亡くなって110年。病床にいながら子規の作り上げた俳句の、短歌の土台の延長線上に今の私たちがいることを子規忌が来るたび思う。講談社「日本大歳時記」(1971)所載。(三宅やよい)


May 2552013

 薔薇呉れて聖書貸したる女かな

                           高浜虚子

きい朱色の折り鶴が描かれた表紙を開くと写真が載っている。喜壽の春鎌倉自邸の庭先にて著者、とあるその表情は穏やかだがちょっと不機嫌にも見え、男物にしては華奢な腕時計をした手首に七十七歳という齢が確かに感じられる。そんな『喜壽艶』(1950)の帯には、喜壽にして尚匂ふ若さと艶を失はぬ永い俳句作品の中から、特に艶麗なる七十七句を自選自書して、喜壽の記念出版とする、と書かれている。掲出句、自筆の句の裏ページの一文に「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」とある、さういふ女、か。薔薇を剪ってくれた時にあった仄かな気持ちが、聖書を読んでみよと手渡された時、やや引いてしまったようにも感じられるが、明治三十二年、二十六歳の作ということは、五十年経っても薔薇の季節になると思い出す不思議な印象の彼女だったのだろう。(今井肖子)


December 28122013

 焼藷がこぼれて田舎源氏かな

                           高浜虚子

前初めて『五百句』を読んだ時、その一句目が〈春雨の衣桁に重し戀衣〉で、いきなり恋衣か、と思ったが、必ずしも自分の体験というわけではなく目に止まった着物から発想したのだと解説され、え、そういう風に作っていいの、と当時やや複雑な気分になった。その後「戀の重荷」という謡曲をもとにしていると知り、昔の二十歳そこそこはそういう面は大人びているなと思いながら、恋衣と春雨にストレートな若さを感じていた。掲出句の自解には「炬燵の上で田舎源氏を開きながら燒藷を食べてゐる女。光氏とか紫とかの極彩色の繪の上にこぼれた焼藷」とある。ふと垣間見た光景だろうか、五十代後半の作らしい巧みな艶を感じるが、春雨と恋衣、焼藷と光源氏、対照的なようでいて作られた一瞬匂いが似ている。『喜壽艶』(1950)所収。(今井肖子)


March 2432014

 春風の真つ赤な嘘として立てり

                           阪西敦子

者の意識には、たぶん虚子の「春風や闘志いだきて丘に立つ」があるのだと思う。これはむろん私の推測に過ぎないが、作者は「ホトトギス」同人だから、まず間違いはないだろう。二句を見比べてみると、大正期の自己肯定的な断言に対して、平成の世の自己韜晦のなんと屈折した断定ぶりであることよ。春風のなかに立つ我の心象を、季題がもたらすはずの常識通りには受けとめられず、真っ赤な嘘としてしか捉えられない自分の心中を押しだしている様子は、いまの世のよるべなさを象徴しているかのようだ。しかしこの句の面白さは、そのように言っておきながらも、どこかで心の肩肘をはっている感じがあるあたりで、つまり虚子の寄り身をうっちゃろうとして、真っ赤な嘘を懸命に支えている作者の健気が透けて見えるところに、私は未熟よりも魅力を感じたのだった。「クプラス(ku+)」(創刊号・2014年3月)所載。(清水哲男)


April 0642014

 峰の湯に今日はあるなり花盛り

                           高浜虚子

本最古と言われる和歌山県湯の峰温泉に句碑があります。熊野古道につながる湯の峰王子跡です。熊野詣での湯垢離場として名高く、一遍上人が経文を岩に爪書きした伝説が残り、小栗判官蘇生の地でもあります。句碑の脇の立て板にはこう記されています。「先生は昭和八年四月九日初めて熊野にご来吟になり、海路串本港に上陸され潮の岬に立ち寄られてその夜は勝浦温泉にお泊まりになり、十日那智山に参詣『神にませばまこと美はし那智の滝』と感動され新宮市にご二泊。翌十一日にプロペラ船で瀞峡を経て本宮にお着きになり、旧社跡から熊野巫神社に参詣された後、湯の峰温泉の『あづまや』に宿られて私どもと句会をしこの句を作られました。十二日に中辺路から白浜温泉に向われたのであります。途中野中の里にて『鶯や御幸ノ輿もゆるめけん』とお残しになられました。先生は昭和二十九年十一月、文化勲章を受賞されましたが、同三十四年四月八日八十四歳で逝去されました。 昭和五十五年七月 先生にお供した福本鯨洋 記」。名湯と花盛りと、虚子を慕って集った人々と、その喜びが「今日はあるなり」に集約された挨拶句です。なお、「湯の峰」を「峰の湯」としたのは、地名よりも場所を写実した虚子らしい工夫で、凡庸を避けています。(小笠原高志)


January 0712015

 役者あきらめし人よりの年賀かな

                           中村伸郎

っから芝居がたまらなく好きで堅実に役者をめざす人、ステージでライトに照らし出される華やかな夢を見て役者を志す人、他人にそそのかされて役者をめざすことになった人……さまざまであろう。夢はすばらしい。大いに夢見るがよかろう。しかし、いっぱしの役者になるには、天分も努力も必要だが、運不運も大いに左右する。幸運なめぐり合わせもあって、役者として大成する人。ちょいとした不運がからんで、思うように夢が叶わない人。今はすっぱり役者をあきらめて、別の生き方をしている人も多いだろう。(そういう人を、私も第三者として少なからず見てきた)同期でニューフェイスとしてデビューしても、一方は脱落して行くという辛いケースもある。長い目で見ると、そのほうが良かったというケースもあるだろうし、その逆もある。このことは役者に限ったことではない。「役者をあきらめし人」の年賀をもらっての想いは、今は役者としての苦労もしている身には複雑な想いが去来するのであろう。親しかった人ならば一層のこと。そういう感懐に静かに浸らせてくれるのが年賀であり、年頭のひと時である。虚子の句に「各々の年を取りたる年賀かな」がある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


January 1512015

 祖父逝きて触れしことなき顔触れる

                           大石雄鬼

寒のころになると「大寒の埃の如く人死ぬる」という高浜虚子の句を思い出す。一年のうちでもっとも寒い時期、虚子の句は非情なようで、自然の摂理に合わせた人の死のあっけなさを俳句の形に掬い取っていて忘れがたい。私の父もこの時期に亡くなった。生前は父とは距離があり、顔どころか手に触れたことすらなかった。しかし亡くなった父の冷たい額に触れ、若かりし頃広くつややかだった額が痩せて衰えてしまったことにあらためて気づかされた。多くの人が掲句のような形で肉親と最後のお別れをするのではないか。掲載句は無季であるが虚子の句とともにこの時期になると胸によみがえってくる。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)


March 1532015

 うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ

                           高浜虚子

事でよく訪れる長野県の人々は、蜂と密接な暮らしをしています。森を歩けば「蜂を保護しています。近寄らないでください」の立て看を見かけます。高校には養蜂部があり、秋になると市場では蜂の巣が売られていて、蜂の子が羽化してブンブン飛ぶのを見かけます。蜂蜜の味がする蜂の子の缶詰も売られていて、長野特有の食文化が生きづいています。一方で、花が咲き始める頃になると、家の軒下では蜂が巣作りを始めます。蜜蜂ならば歓迎するのですが、スズメバチが巣を作り 始めたら大きくなる前に退治しなくてはなりません。句集では、掲句の前に「巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ」があり、連作です。(昭和二年三月十七日の作)。「かぶと」と見立てるところに蜂に対する身構えがあります。蜂蜜は、このうえなく甘い味をもたらしてくれるけれど、刺されたことのある身は、生涯その一撃を忘れることができません。私も小学六年の時、蜂の巣箱を襲撃した後、自転車をこいで逃げても逃げても追いかけられて、頭皮を突き刺された痛みを恐怖とともに覚えています。多かれ少なかれこのような経験は皆もっていて、蜂をモチーフに句作する場合も畏怖の念をともなうことになるのでしょう。掲句は、上五と下五で動詞を二つずつ使用して、それらが対称的に配置されています。「うなり落つ」は、羽ばたく音の激しさと落下をやや客観的に描写しているようなのに対して、「怒り這ふ」は、主観を含んで擬人化されています。ただし、その擬人化は比喩というよりも、作者の身から率直に出てくる表現で、蜂は、蝿や蚊とは違った「怒り」の情念を持てる種として尊重しているように思われます。また、中七では「蜂や」で切ることによって、一匹の蜂と「大地」という言葉を同じスケールの中で受けとめることを可能にしており、蜂の最期を広大な空間における一つの出来事としてその様態を注視しています。「うなり、怒り」は、雷神のようであり、「落つ、這ふ」は、落ち武者のようです。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)


June 1462015

 神にませばまこと美はし那智の滝

                           高浜虚子

は夏の季語です。しかし実際は、昭和8年4月、南紀に遊んだ時の作句です。参道の脇には句碑が建っています。一方、山口誓子は昭和43年、前書を那智として「鳥居立つ大白滝を敬へと」と詠みました。私も初めて那智に行ったとき、鳥居をくぐると本殿・社殿はなく、じかに大白滝を拝むことに驚きました。それまで神道にはほとんど関心がなかったのですが、「那智の滝が枯れる時は世界が終わる時」という言い伝えは聞き及んでいたので、たしかに、この滝が枯れたら那智川流域の植物も枯れてしまうと思いました。ここ、飛瀧神社は、那智の滝を中心にして成り立っている鎮守の森の生態系それ自体を聖域とみて、鳥居で俗界と区切り、滝の下り口には注連縄を渡して神さ まであることを示 しています。那智の滝は、植物にも動物にも人にも水を与え、元気にしてくれます。それが、神さまのはたらきなのでしょう。また、鳥居をくぐり抜けて滝をおがむ者は、133mの落差のなか、水が多様に変化しながら落ちていく様を見ます。滝壺からは轟音がこだまして、風は涼しい飛沫(しぶき)を運び参拝する者を包みます。この動態を、虚子は「美(うる)はし」の一語で切ります。日本の神さまは、このように直接的な自然現象を人に与えている場合が多く、人々は、山や岩や海や樹や稲など、それぞれの土地の恵みを崇拝してきました。それにしても、滝そのものをご神体にしている事例は、ここ以外に知りません。ご存知の方がいたら、教えてください。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)


September 1292015

 芋虫に芋の力のみなぎりて

                           杉山久子

虫といえば丸々と太っているのが特徴だ。手元の歳時記を見ても〈芋虫の一夜の育ち恐ろしき〉(高野素十)〈   芋虫の何憚らず太りたる〉(右城暮石)、そしてあげくに〈   命かけて芋虫憎む女かな〉(高浜虚子)。なにもそこまで嫌がらずともと思うが。しかしこの句を読んであらためて、元来「芋虫」はイモの葉を食べて育つ蛾の幼虫のことだったのだと認識した。大切なイモの葉を食い荒らす害虫として見れば太っていることは忌々しいわけだが、ひとつの生き物、それも育ち盛りの子供としてみれば、まさに生きる力がみなぎっているのだ。芋の力、の一語には文字通りの力と、どこか力の抜けた明るいおもしろさがあって数少ないポジティブな芋虫句となっている。「クプラス」(2015年・第2号)所載。(今井肖子)


December 27122015

 百八はちと多すぎる除夜の鐘

                           暉峻康隆

者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)


May 2152016

 書くほどに虚子茫洋と明易し

                           深見けん二

年冬号を以て季刊俳誌「花鳥来」(深見けん二主宰)が創刊百号を迎えられた。その記念として会員全員の作品各三十句(故人各十五句)をまとめ上梓された『花鳥来合同句集』は、主宰を始め句歴の長短を問わず全員の三十句作品と小文が掲載されており、主宰を含め選においては皆平等な互選句会で鍛錬するというこの結社ならではの私家版句集となっている。掲出句はこれを機会に読み返してみた句集『菫濃く』(2013)から引いた。作者を含め、虚子の直弟子と呼べる俳人は当然のことながら少なくなる一方であり筆者の母千鶴子も数少ない一人かと思うが、その人々に共通するのは、高濱虚子を「虚子先生」と呼ぶことだ。実際に知っているからこそ直に人間虚子にふれたからこそ、遠い日々を思い起しながら「虚子先生」について書いていると、そこには一言では説明のできない、理屈ではない何かが浮かんでは消えるのだろう。茫洋、の一語は、広く大きな虚子を思う作者の心情を表し〈明易や花鳥諷詠南阿弥陀〉(高濱虚子)の句も浮かんでくる。(今井肖子)




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