高野素十の句

July 0971996

 大梅雨に茫々と沼らしきもの

                           高野素十

たまま俳句の名手が、ほとんど何も見えませんねと書いているのだから、なるほど大梅雨なのだろう。最近の梅雨はしばしば根性がなく、たぶん大梅雨先輩に叱られているのではないかしらん。(清水哲男)


July 2771996

 円涼し長方形も亦涼し

                           高野素十

暑の折りから、何か涼しげな句はないかと探していたら、この句に突き当たった。しかし、よくわからない。素十は常に目に写るままに作句した俳人として有名だから、これはそのまま素直に受け取るべきなのだろう。つまり、たとえば「円」は「月」になぞらえてあるなどと解釈してはいけないのである。円も長方形も、純粋に幾何学的なそれということだ。いわゆる理科系の読者でないと、この作品の面白さはわからないのかもしれない。円や長方形で涼しいと感じられる人がいまもいるとすれば、私などには心底うらやましい昨今である。ふーっ、アツい。『空』(ふらんす堂・1993)所収。(清水哲男)


October 08101996

 雨だれの棒の如しや秋の雨

                           高野素十

は意外に雨の多い季節。この雨は本降り。雨だれもショパンのそれのように優雅ではない。しかし、なぜか心は落ち着く。あたりいちめんに、沛然たる雨音と雨の匂い。だんだん、陶然とした心持ちにすらなってくるのである。(清水哲男)


April 0341997

 春泥に押しあひながら来る娘

                           高野素十

かるみを避けながら、作者は用心深く歩いている。と、前方から若い女性たちのグループがやってくる。陽気なおしゃべりをかわしながら、互いの体を押し合うようにして軽やかにぬかるみを避けている。そんな溌溂とした娘たちの姿は美しく、そして羨ましい。春の泥も、日にまぶしい。若さへの賛歌。私も、こういう句のよさが理解できる年令になってきたということ。ちょっぴり寂しくもある。(清水哲男)


June 0461997

 明日は又明日の日程夕蛙

                           高野素十

にもかくにも今日の仕事を消化して、作者はしばし夕蛙の鳴き声に耳を傾けている。ホッとしている。明日もまた忙しいが、明日は明日のこととして、今日はもう仕事のことは考えたくないという心境だ。このように、昔は蛙たちが一日の終りを告げたものだが、いまの都会では何者も何も告げてはくれない。もっと言えば、一日の終りなどは無くなってしまっている。だから、明日の日程のために眠ることさえできない人も増えてきた。過労死が起きるのもむべなるかな。こんな世の中を愚かにも必死につくってきたのは、しかし私たちなのである。『雪片』所収。(清水哲男)


October 30101997

 船員とふく口笛や秋の晴

                           高野素十

つてパイプをくわえたマドロスの粋な姿が大いにモテたのは、もちろん彼らが行き来していた外国への庶民の憧れと重なっている。片岡千恵蔵の映画「多羅尾伴内シリーズ」の「七つの顔」のひとつは「謎の船員」であったし、美空ひばりなどの流行歌手も数多くのマドロス物を歌っている。戦前、素十は法医学の学徒としてドイツに留学しているから、この句はその折の船上での一コマかもしれない。船員といっしょに吹いたメロディーは望郷の歌でもあったろうか。秋晴れの下の爽快さを素直に表現しているなかに、充実した人生への満足感が滲み出ている。そういえば最近は、口笛を吹く人が減ってきたような気がする。私の住居の近辺に、休日ともなると機嫌よく口笛を吹きながら自転車の手入れする少年がいる。救いがたいほどの音痴なのだけれど、私はとても楽しみにしており、ヒイキしている。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


December 30121997

 冬波の百千万の皆起伏

                           高野素十

この海だろうか。漢字の多用効果で、いかにも冬の海らしい荒涼たる雰囲気が力強く伝わってくる。視覚的に構成された句だ。句意は説明するまでもないが、歳末に読むと、自分も含めた人間の来し方が百千万の波の起伏に象徴されているようで、しばし感慨にふけることになる。高野素十は医学の人で、俳壇では昭和初期に4S (秋桜子、誓子、青畝、素十)とうたわれた客観写生俳句の旗手であった。虚子は素十について、「磁石が鉄を吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。文字の無駄がなく、筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光であろう」と書いている。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


April 2441998

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

かにも「そのまんま俳句」の素十らしい作品だ。苗床などという場所に、普段は子供は立ち入らない。そこに子供がいたので、なかばいぶかしげに、作者は思わずも「どこの子か」と聞いたのである。そういえば、私が子供だったころには、よく「どこの子か」と聞かれた。いぶかしさもあってのことだろうが、半分以上は心配する気持ちからだったろう。それにしても、この「どこの子か」という聞き方は面白い。名前ではなくて、所属を聞いているのだ。名前よりも所属や所在、つまり身元の確かなことが重要だった。狭い田舎のことだから、それを答えると、どの大人も「ああ」と納得した。今はどうだろう。子供に「どこの子か」と聞くこともないし、第一、そんな聞き方をしたら警戒されてしまうのがオチだ。素十の「そのまんま俳句」も「そのまんま」ではなくなってきたということ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


October 14101998

 まつすぐの道に出でけり秋の暮

                           高野素十

んだい、これは。おおかたの読者は、そう思うだろう。解釈も何も、それ以前の問題として、つまらない句だと思うだろう。「で、それがどうしたんだい」と、苛立つ人もいるかもしれない。私は、専門俳人に会うたびに、つとめて素十俳句の感想を聞くことにしてきた。私もまた、素十の句には「なんだい」と思う作品が多いからである。そんなアンケートの結果はというと、ほとんどの俳人から同じような答えが帰ってきた。すなわち、俳句をはじめた頃には正直いって「つまらない」と思っていたが、俳句をつづけているうちに、いつしか「とても、よい」と思うようになってきた……、と。かつて山本健吉は、この人の句に触れて「抒情を拒否したところに生まれる抒情」というような意味のことを言ったが、案外そういうことでもなくて、このようにつっけんどんな己れの心持ちをストレートに展開できるスタンスに、現代のプロとしては感じ入ってしまうということではあるまいか。読者に対するサービス精神ゼロのあたりに、かえって惹かれるということは、何につけ、サービス過剰の現代に生きる人間の「人情」なのかもしれないとも思えてくる。みんな「まつすぐの道」に出られるのならば、今すぐにでも出たいのだ。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


January 0611999

 小説を立てならべたる上に羽子

                           高野素十

月休みが終わって、孫たちも引き上げてしまった。小さい子はにぎやかだから、いればいたでやかましいと思うときもあるが、いなくなると火の消えたような淋しさが残る。いまごろはどうしているかなと、時々思ったりする。そんなある日、本でも読もうかと書棚を探していたら、並べてある小説本(めったに読まない本だから、きれいに整列したままなのだ)の上に、ひっそりと置かれた羽子を見つけた。孫の忘れ物だ。このとき、作者はそっとその羽子を手に取って一瞬微笑を浮かべただろう。ただそれだけのことではあるが、句からは作者の慈眼がしみじみと伝わってくる。詩歌集の類ではなく、小説本の上にあったところにも味わいがある。小説本には、さまざまな人々のさまざまな人生や生活が具体的に描かれているからで、句は言外に、そのとき孫の行く末までをもちらりと想像した作者の心の動きを伝えているようだ。とまれ、作者には、いつもの静かな生活が戻ってきた。また会える日まで、とりあえずこの羽子は、書棚の隙間に元どおりそのままに置いておくことにしよう……。『雪片』(1952)所載。(清水哲男)


April 0941999

 片栗の一つの花の花盛り

                           高野素十

球のピッチャーの投法になぞらえれば、この句の技巧は「チェンジ・アップ」というやつだ。速球を投げるのとまったく同じフォームと勢いで、例えば物凄く緩(ゆる)い球を投げるのだ。素十というおっさんは、写生という速球投法を金科玉条としながらも、なかなかに喰えないボールを放ってくるので油断がならない。だって、そうではないか。片栗の花なんてものは、桜などとは違って、はなやかでもなんでもないし、その地味な花のたった一つをとらまえて「花盛り」もないものだ。よく言うよ。しかし、言われてみると、どんな花にも盛りはたしかにあるわけで、読者はみんな「うーむ」と唸ってしまう。プロのテクニックである。見事な技だ。こんな技を知ってから、片栗の花を見ると、なんだか違う魅力を覚えたりするから妙でもある。この片栗の花を、私の番組にブーケにして持ってきてくださった女性がいる。彼女は、八百屋で求めた食用の花を「もったいないので、花束にしてきた」という。東北産の一束が、およそ三百円弱。片栗の若葉は食用になるが、まさか八百屋で売っているとはねエ。これまた、田舎育ちの私には、強烈なチェンジ・アップを投げられた気分であった。見逃しの三振だった。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)


May 1251999

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

                           高野素十

ある昆虫の名前のなかで、いちばん不気味なのが「蟻地獄」だろう。地上を這わせると後退りするので、別名「あとずさり」とも言う。こちらは、愛嬌がある。要するに、ウスバカゲロウのちっぽけな幼虫のことだ。一見して、薄汚い奴だ。命名の由来は、縁の下や松原などの乾いた砂の中に擂り鉢状の穴を掘り、滑り落ちる蟻などを捕らえて食べるところから来ている。蟻の様子を観察したことのある人なら、ごく普通に「蟻地獄」の罠も見ているはずだ。句は、そんな蟻地獄が、はるか上空を吹き過ぎる松風の音を聞いているというところだが、これまた不気味な光景と言うしかない。乾いた蟻地獄の罠と、乾いた松風と……。完全に人間世界とは無縁のところで、飢えた幼虫がじいっと砂漠を行くような風の音を聞いているという想像は秀逸にして、恐ろしい。素十はしばしば瑣末的描写を批判された俳人だが、この句は瑣末どころか、実に巨大な天地の間の虚無を訴えている。徹底した写生による句作りの果てでは、ときに人間が消えてしまう。したがって、こんなに荒涼たる光景も出現してくる。『初鴉』所収。(清水哲男)


August 1481999

 づかづかと来て踊子にさゝやける

                           高野素十

句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


March 2732000

 たんぽぽのサラダの話野の話

                           高野素十

んぽぽが食べられるとは、知らなかった。作者も同様で、「たんぽぽのサラダの話」に身を乗り出している。「アクが強そうだけど」なんて質問をしたりしている。そこから話は発展して野の植物全般に及び、「アレも食べられるんじゃないか、食べたくはないけれど」など、話に花が咲き、楽しい話は尽きそうにもない。この句は、いつか紹介したことのあるPR誌「味の味」(2000年4月号)の余白ページで見つけた。いつものことながら、この雑誌の選句センスは群を抜いていて、読まずにはいられない。偶然だろうが、これまた楽しみにしている詩のページに、坂田寛夫のたんぽぽの詩「おそまつさま」が出ていた。全文引用しておく(/は改行)。「ストローをくわえるかっこうで/すこしずつ/ウサギの子がたんぽぽを/茎の方から呑みこんでゆく/しまいに花びらが小さい口のふたをした/いいにおいをうっとり楽しむかと思ったら/ひと思いに食べちゃった/「おいしかった」/ため息まで聞こえたような気がしたから/たんぽぽもさりげなく/「おそまつさま」/と答えたかったが/ぎざぎざに噛みひしがれて目がまわり/先の方はもう暗い胃散にこなれかけている」。今日は「味の味」におんぶにだっこ、でした。(清水哲男)


May 2252000

 たべ飽きてとんとん歩く鴉の子

                           高野素十

素十肖像
語は「鴉(カラス)の子」で夏。スズメやツバメの子の姿は親しいが、カラスの子は見たことがない。素十は写生に徹底した俳人だから、描写は正確無比のはず。カラスの子は、きっとこのようにあどけなくて可愛らしいのだろう。「とんとん」歩く姿を、一度は見てみたい。いまや都会の天敵視されているカラスも、「烏といっしょに かえりましょう」と一年生の教科書の『夕焼け小焼け』で歌われ、『七つの子』という童謡もあるほどに昔は愛すべき存在だった。それが、現在はこんな御触れ書きが出されるまでに、不幸な関係に入ってしまった。以下、近隣自治体の「お知らせ」より抜粋。「ヒナが育つこれからの時期は更に攻撃性は強まります。カラスは、捕ったり殺したりできませんので、被害を減らすためには、巣を撤去し、数を制限することが効果的な方法となります。巣の撤去は、全て樹木などの所有者の責任で行うことになっています。また、巣の中に卵やヒナがいる場合には、特別な許可が必要となります。……巣がある場合は、造園業者などに依頼して、早い時期に撤去するよう御願いします」。カラスにたまたま巣をかけられた樹木の所有者や管理者は、自分の責任で(つまり、自腹を切って)撤去すべしということ。知らなかった。気になるのは「特別な許可」の中身ですね。やがて「とんとん」歩きだす子ガラスの命を尊重するための、せめてもの法的配慮なのでしょうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


August 0582000

 子の中の愛憎淋し天瓜粉

                           高野素十

上がりの子供に、天瓜粉(てんかふん)をはたいてやっている。いまなら、ベビー・パウダーというところ。鷹羽狩行に「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」があって、父親の情愛に満ちたよい句だが、素十はここにとどまらず、さらに先へと踏み込んでいる。こんな小さな吾子にも、すでに自意識の目覚めが起きていて、ときに激しく「愛憎」を示すようになってきた。想像だが、このときに天瓜粉をつけようとした父親に対して、子供がひどく逆らったのかもしれない。私の体験からしても、幼児の「愛憎」は全力で表現されるから、手に負えないときがある。その場はもちろん腹立たしいけれど、少し落ち着いてくると、吾子の「愛憎」表現は我が身のそれに照り返され、こんなふうではこの子もまた、自分と同じように苦労するぞという思いがわいてきた……。さっぱりした天瓜粉のよい香りのなかで、しかし、人は生涯さっぱりとして生きていけるわけではない、と。そのことを、素十は「淋し」と言い止めたのだ。「天瓜粉」は、元来が黄烏瓜(きからすうり)の根を粉末にしたものだった。「天瓜」は烏瓜の異名であり、これを「天花」(雪)にひっかけて「天花粉」とも書く。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2482000

 夢で首相を叱り桔梗に覚めており

                           原子公平

頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


August 2582000

 生涯にまはり燈籠の句一つ

                           高野素十

書に「須賀田平吉君を弔ふ」とある。素十の俳句仲間だろうが、どんな人だったのかは知る由もない。「須賀田平吉君」が亡くなった。そこで思うことに、ずいぶんと熱心に句を作ってはいたが、はっきり言って下手な男だった。ヘボ句の連発には、閉口させられたものだ。だが、たった一度だけ、彼が句会で満座を唸らせた「まはり燈籠」の句がある。実に見事な句であった。誰もが「あれは名句だねえ」と、いつまでも覚えている。通夜の席でも、当然のようにその話が出た。……こんな具合だろうか。故人への挨拶句としては珍しい作りであり、しかも友情がじわりと沁み出ている佳句だ。おそらくは「須賀田平吉君」が存命のときにも、作者はこの調子で軽口を叩いていたにちがいない。だからこその手向けの一句になるのであって、あまり親しくもなかった人がこんな句を作ったら、顰蹙モノだろう。その上、故人の句の季題が「月」でも「花」でもなく「まはり燈籠」であったことにも、人の運命のはかなさを感じさせられる。どんな句だったのか、読んでみたい。考えてみれば「生涯に一句」とは、たいしたものなのである。たいがいの人は「一句」も残せずに、人生を終えてきた。ところで「まはり燈籠」の季節だが、当歳時記では「燈籠」の仲間として「秋」に分類しておく。でも、遊び心のある涼しさを楽しむ燈籠だから、夏の季語としたほうがよいのかも知れぬ。ただし、掲句がどの季節に詠まれたのかは不明なので、本当の作句の季節はわからない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


January 0412001

 年酒酌むふるさと遠き二人かな

                           高野素十

事始め。出版社にいたころは、社長の短い挨拶を聞いてから、あとは各セクションに分かれて「年酒(ねんしゅ)」(祝い酒)をいただくだけ。実質的な仕事は、明日五日からだった。帰郷した社員のなかには出社しない者もおり、妻子持ちは形だけ飲んでさっさと引き上げていったものだ。いつまでもだらだらと「年酒」の場から離れないのは、独身の男どもと相場が決まっていた。もとより、私もその一人。早めに退社しても、どこにも行くあてがないのだから仕方がない。そんな場には、揚句のような情緒は出てこない。この「二人」は夫婦ととれなくもないが、故郷に帰れなかった男「二人」と解したほうが趣きがあるだろう。遠いので、なかなか毎年は帰れない。故郷の正月の話などを肴に、静かに酌み交わしている。しみじみとした淑気の漂う大人の「年酒」であり、大人の句である。揚句は、平井照敏の『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)で知った。で、本意解説に曰く。「新年の祝いの酒なので、祝いの気持だけにすべきもので、酔いつぶれたりすることはその気持に反すること甚だしい」。『歳時記』に叱られたのは、はじめてだ(笑)。阿波野青畝に「汝の年酒一升一升又一升」という豪快な句があり、どういうわけか、この句もこの『歳時記』に載っている。(清水哲男)


July 0472001

 端居してたゞ居る父の恐ろしき

                           高野素十

語は「端居(はしい)」で、夏。家の中の暑さを避け、縁先や窓辺で(つまり「家の端」で)涼気を求めくつろぐこと。夕方や夜のことが多い。いまや冷房装置の普及でその必要もなくなったので、すっかり「端居」という言葉も聞かなくなった。掲句は、作者が血清学研究のためのドイツ留学より戻ってからの作品なので、二十代も後半の一句だろう。子供時代の回想ととれなくもないけれど、なにせ作者は「写生の鬼」だった。生涯を通じて、回想句はほとんどない。そんな年齢でもまだ父親が「恐ろしき」と感じる心は、しかし素十ひとりのそれではなく、当時の人の大半が共有していたものだと思う。というよりも、昔から私くらいの年代にいたるまで、大人になってもなお父親の気配をうかがう性(さが)が身についてしまっているのだ。「ただ居る」という措辞が、子供のおびえの深度をよく言い当てており、ぎくりとさせられた。くつろいでいようが、父親が「ただ居る」だけで、家中がピリピリしていたことを思い出した。ちなみに、素十にあっては珍しい回想句に「麦を打つ頃あり母はなつかしき」がある。掲句を知った後では、「母は」の「は」に注目せざるを得ない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


July 3172001

 夏木立一とかたまりに桶狭間

                           高野素十

念なことに現地を知らないので、掲句が「桶狭間(おけはざま)」の光景をうまく言い当てているのかどうかはわからない。桶狭間といえば、古戦場として名高い。1560年(永禄3年)5月19日、尾張桶狭間(現・愛知県豊明市)における今川義元と織田信長の壮絶な戦いがあった土地だ。この戦(いくさ)に勝利したことで、信長には決定的な弾みがついた。そんな歴史を持つ土地を訪ねてみると、想像していたよりもずうっと狭い感じがしたので、「一とかたまり」と言ったのだろう。往時と変わらぬはずの「夏木立」を遠望しながら、作者は武将たちの運命を決した舞台のあまりの小ささに感じ入っている。「一とかたまり」が、よく効いている。ところで、素十の句集をパラパラ繰ってみるだけでわかることだが、彼は「一」という数字を多用した俳人だ。句作にあたって「先ず一木一草一鳥一虫を正確に見ること」を心がけたというが、逆に多面的重層的な森羅万象を「一」に帰すことにも熱心だった。彼の「まつすぐに一を引くなる夏書かな」のように、たしかに「一」は気持ちの良い数字ではある。むろん、掲句も気持ちがよろしい。素十の「一」を考えていると、素十句にかぎらず、俳句は具体的に「一」という数字を使わないまでも、つまるところは「一」を目指す文芸のように思えてくる。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)


November 19112001

 自動車のとまりしところ冬の山

                           高野素十

だ「クルマ社会」ではなかった頃の句。「自動車」という表現から、そのことが知れる。これは作者が乗っている「自動車」ともとれるし、それなりに句は成立するが、私は乗っていないほうが面白いと感じた。さて、バスやトラックではなくて、いわゆる乗用車が田舎道を走ってくることなどは滅多になかった時代である。走ってくればエンジン音がするし、いやでも「何事だろう」と村中が好奇の目を注ぐことになる。みんなが、どこの家の前でとまるのかと、じいっと眺めている。同じように作者も目で追っていると、点在する人家を遠く離れたところでやっととまった。はて、不思議なこともあるものよ。人の降りてくる気配もないし、なかなか発車もしない。しんと寝静まったような小さな「冬の山」の前に、ぽつんとある一台の黒い「自動車」は奇怪だ。好奇心はいつしか消えて、だんだん光景が寒々しい一枚の絵のように見えてくる。見慣れた自然のなかに、すっと差し込まれた都会的な異物が、ことさらにそう感じさせるのだ。昔の乗用車はたいてい黒色で塗ってあったから、この山がすっかり冠雪しているとなると、ますます寒々しい光景となる。子供の頃、近くを「自動車」が通りかかると、走って追いかけたのが私の世代だ。そんな世代には、懐かしくてふるいつきたいような寒々しさでもある。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


December 15122004

 惜別の榾をくべ足しくべ足して

                           高野素十

語は「榾(ほた)」で冬。囲炉裏や竃に用いる焚き物。枯れ枝や木の切れ端など。今宵限りで長い別れとなる友人と、囲炉裏端で酒を酌み交わしているような情景だろう。「くべ足し」のリフレインに、なお別れがたい心情が切々と響いてくる。囲炉裏の火勢が弱まると、それを潮に相手が立ち上がりそうな気がして、せっせと「榾」をくべ足しているのだ。惜別の情止み難く「まだ宵の口だ、もう少し飲もうじゃないか」と、口にこそ出さないが、くべ足す行為がそのことを告げている。くべ足すたびに強まる榾火に、友情が厚く輝く。詠まれたのは戦前だ。惜別に至る事情はわからないが、たとえば友人が外地に赴任するというようなことかもしれない。現在とは違い、外国に行くとなると、もう二度と会えないかもしれないという思いも強かったろう。なにしろ、交通の便がよろしくない。いまのように、ジェット機でひとっ飛びなんてわけにはいかない。多少の時間をかければどこにでも行けるようになった現今では、それに反比例して、惜別の情も薄くなってきたと言うべきか。この句が載っている処女句集の序文で、虚子は「磁石が鉄を吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。文字の無駄がなく、筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光である」と絶賛している。同感だ。「榾」で、もう一句。「大榾をかへせば裏は一面火」。顔面がカッと熱くなる。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


February 0522005

 父と子は母と子よりも冴え返る

                           野見山朱鳥

語は「冴(さ)え返る(冴返る)」で春。暖かくなりかけて、また寒さがぶり返すこと。早春には寒暖の日が交互につづいて、だんだんと春らしくなってくる。普通は「瑠璃色にして冴返る御所の空」(阿波野青畝)などのように用いられる。掲句はこの自然現象に対する感覚を、人間関係に見て取ったところが面白い。なるほど「母と子」の関係は、お互いに親しさを意識するまでもない暖かい関係であり、そこへいくと「父と子」には親しさの中にも完全には溶け合えないどこか緊張した関係がある。とりわけて、昔の父と子の関係には「冴え返る」雰囲気が濃かった。「冴返る」の度をもう少し進めた「凍(いて)返る」という季語もあって、私が子供だったころの父との関係は、こちらのほうに近かったかもしれない。女の子だと事情は違ってくるのかもしれないが、一般的に言って男の子と父親は打ち解けあうような間柄ではなかった。ふざけあう父子の姿などは、見たこともない。高野素十の「端居してたゞ居る父の恐ろしき」を読んだときに、ずばりその通りだったなと思ったことがある。でも、見ていると、最近のお父さんは総じて子供に優しい。叱るのは、もっぱら母親のようである。となれば、この句が実感的によくつかめない世代が育ちつつあるということになる。良いとか悪いとかという問題ではないのだろうが。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 29122005

 餅板の上に包丁の柄をとんとん

                           高野素十

語は「餅」で冬。昔の餅は円形が普通だったので、「望(もち)」からの命名とも。句の餅は、いわゆる熨斗餅(のしもち)で四角形だ。これをいまから切り分けようというわけで、その前にまず包丁の柄(え)を餅板の上で「とんとん」とやっているところ。懐かしい仕草だ。というのも、昔の包丁の柄は抜けやすかったので、とくに固い物を切るときには、途中で抜けない用心のため逆さにして「とんとん」とやったものだ。しかし、この句の場合はどうだろうか。包丁の柄が少しぐらついていると解してもよいけれど、柄はしっかりとしているのだが、これから固い餅を切るぞという気合いがそうさせたのだと、私は解しておく。一種のちょっとした儀式のようなものである。それにしても、「とんとん」とは可愛らしい表現だ。そう言えば、素十には「たべ飽きてとんとん歩く鴉の子」がある。山口県育ちの私は丸餅が主流だったので、こうやって切るのはかき餅だけ。薄く切らねばならないこともあって、子供の手ではとても無理だった。当時の農家の餅は、むろん正月用のもあったけれど、大半は冬の間の保存食として搗かれた。すなわち、正月が終わっても、来る日も来る日も餅ばかりなのであって、あれにはうんざりだったなあ。とくに朝焼いて学校の弁当にした餅は、食べる頃にはかちんかちんになっている。味わうというよりも、とりあえず飲み込んでおこうという具合で、その味気なさったらなかったっけ。三が日で食べきってしまうくらいの量が、理想的である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 08122006

 漂へる手袋のある運河かな

                           高野素十

い、おい、ちょっと待てよと虚子は慌てたに違いない。「素十よ、確かに俺は写せとは言ったけれど」と。虚子が「ホトトギス」内の主観派粛清の構想を練ったのは、飯田蛇笏や渡辺水巴、前田普羅などの初期の中核が、主観へのこだわりを持っていたから。見せしめに粛清され破門となったのは主観派原田濱人。そして、虚子は素十の作品を範として示して、「ホトトギス」の傾向かくあるべしと号令を発する。標語「客観写生」の始まりである。素十はいわば虚子学級の学級委員長として指名されたのである。心底虚子先生を尊敬して止まない素十は、言われるままに主観を入れずただひたすら写しに写した。その結果こういう句が生まれてきたのである。「客観写生」に対する素十の理解は、素材を選ぶことなく眼前の事物を写すこと。その結果、従来の俳句的情緒から抜けた同時代の感動が映し出される。たとえばこの句のように。虚子が考えていた「客観写生」はそれとは違う。従来の俳句の「侘び、寂び」観の中での写生。虚子のテーマは写すことそのものではなく、類型的情緒の固定化だった。運河に浮く手袋のどこに俳句的な情緒があるのか。虚子は自分の提唱した「客観写生」が、その言葉通り実行された結果、自分の意図と違った得体の知れない「近代」を映し出したことに狼狽する。モダニズムが必ずしも一般性を獲得しないことを虚子は知っていたから。虚子は慌てて「客観写生」を軌道修正し、「花鳥諷詠」と言い改める。「写生」が、本意と称する類型的情緒と同一視されていく歴史がこの時点から始まるのである。『素十全集』(1971)所収。(今井 聖)


September 2892007

 籾殻より下駄堀り出してはき行きし

                           中田みづほ

秋の農家の風景。「写生」は瞬間のカットにその最たる特性をみるが、この句のような映像的シーンの中での時間の流れも器に適合したポエジーを提供する。掘って、出して、履いて、歩いていく。一連の動作の運びが、この句を読むたびに再生された動画のように読者の前に繰り返される。生きている時間が蘇る。同様の角度は、高野素十の「づかづかと来て踊子にささやける」や「歩み来し人麦踏をはじめけり」も同じ。みづほと素十が同じ東大医局勤務だったことを考え合わせるとこの符合は興味深い。僕らが日常的に目にしていながら、「感動」として記憶に定着しないひとこま、つまりは目にしていても「見て」いない風景を拾い出すことが、自己の「生」を実感することにつながる。そこに子規が見出した「写生」の本質があると僕自身は思っている。見たものを写すという方法を嗤う俳人たちがいる。無限の想像力で、言葉の自律性を駆使して創作すればいいのだと。ならば聞こう、それらを用いて、籾殻の中から下駄を掘り出すリアリティに匹敵できるか。そこに俳句における「写生」理念の恐ろしいほどの強靭さがある。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


January 2612008

 雪片のつれ立ちてくる深空かな

                           高野素十

週、火曜日の夜。冷え冷えとした夜道で、深い藍色の空に白々と冴える寒満月を仰ぎながら、これは予報どおり雪になるかもしれない、と思った。翌朝五時に窓を開けると、予想に反していつもの景色。少しがっかりして窓を閉めようとすると、ふわと何かが落ちてきた。あ、と思って見ていると、ひとつ、またひとつ、分厚く鈍い灰色の雲のかけらが零れるように、雪が落ち始めたのだった。すこし大きめの雪のひとひらひとひらが、ベランダに、お隣の瓦屋根に、ゆっくり着地しては消えていく。それをぼんやり眺めながら、「雪片」という言葉と、この句を思い出した。その後、東京にしては雪らしい雪となったが、都心では積もるというほどでもなく、霙に変わっていった。長く新潟にいた作者であり、この句、雪国のイメージと、つれ立ちて、の言葉に、雪がたくさん降っているような気がしていたが、違うのかもしれない。雨とは違って、その一片ずつの動きが見える雪。降り始めたばかりの雪は、降る、というより確かに、いっせいにおりてくる、という感じだ。やがて、すべてのものを沈黙の中に覆いつくす遙かな雪雲を見上げ、長い冬が始まったことを実感しているのだろうか。『雪片』(1952)所収。(今井肖子)


November 28112009

 人々をしぐれよ宿は寒くとも

                           松尾芭蕉

日、十一月二十八日は陰暦では十月十二日。ということは芭蕉の忌日、と「芭蕉句集」を読んでみた。初冬の雨ならなんでも時雨というわけではない、高野素十の〈翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに〉の句にあるように、降ってはさっと上がり、日が差すこともあるのが時雨、東京では本当の時雨には出会えない、と言われたことがある、え〜そんなと思ったがそうなのだろうか。一方、芭蕉と時雨というと挙げられる、宗祇の〈世にふるもさらにしぐれの宿りかな〉のしぐれは、冷たく降る無情の雨という気がするが、いずれにしても、強く太く降る雨ではないのだろうという気はする。掲出句を読んだ時、寒くてもさらにしぐれよとは、と思ったが、解説には「ここに集まった人々に時雨して、この集いにふさわしい侘しい趣をそえよの意」とある。雨風をしのげれば十分というその頃の宿、寒ければ寒いまま、静かに時雨の音を聞いていたのだろう。「芭蕉句集」(1962・岩波書店)所載。(今井肖子)


May 2052010

 夏来る農家の次男たるぼくに

                           小西昭夫

をわたって吹く風が陽射しに明るくきらめいている。すっかり故郷とはご無沙汰だけど来週あたりは田植えかなぁ、机上の書類に向けていた視線をふっと窓外に移したときそんな考えがよぎるのは「農家の次男」だからか。この限定があるからこそ夏を迎えての作者の心持ちが読み手に実感となって伝わってくる。高野素十の句に「百姓の血筋の吾に麦青む」という句があるが、掲句のなだらかな口語表現はその現代版といった味わい。素十の時代、家と土地は代々長男が受け継ぐ習わしだった。次男、三男は出稼ぎいくか、新天地を開発するか、街で新しい仕事へ就くほかなかったろう。自然から離れた仕事をしていても身のうちには自然の順行に従って生活が回っていた頃の感覚が残っている。青々とつらなる田んぼを思うだけ胸のうちが波立ってくるのかもしれない。今は家を継ぐのは長男と決まっているわけではないが、いったん都会へ就職すると定年になるまでなかなか故郷へ帰れない世の中。そんな人たちにとって、老いた両親だけの農村の営みは常に気にかかるものかもしれない。ゴールデンウィークや週末の休みを利用して田舎へ帰り、田んぼの畦塗りに、代掻きに忙しく立ち働いた人達も多かったかもしれない「今日からは青田とよんでよい青さ」「遠い日の遠い海鳴り夏みかん」。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)


February 2622012

 春山に向ひて奏す祝詞かな

                           高野素十

書に「三輪山」とあります。春山は、大和の国一之宮、大神(おおみわ)神社の神体山、三輪山です。神体山とは、山そのものが信仰の対象ということで、富士山を信仰する浅間神社、守屋山を信仰する諏訪大社など各地にみられます。春を迎えた三輪山の神々に向かって、神官たちが祝詞(のりと)を奏(そう)す神事を、作者・高野素十は記念写真を撮影するように手前に神官を置き、向こうに三輪山を配置した構図に収めています。この客観写生は、師・高浜虚子から受け継いだ骨法なのかもしれません。春の語源を「張る」とするならば、芽張り、芽吹く新生に向かって祝詞の言霊(ことだま)が感謝し、応援し、今年もよろしくと、お願いしているようです。二年前の春、一人で三輪山を登りました 。思った以上に勾配がきつく、市街地からほど近い登山口なのに山は深く、神体山ゆえ、道も整備されておらず、通常の山行以上にしんどい道のりでした。神域なのでカメラも飲食も禁止されていますが、それゆえ生態系がそのままの状態で保全されています。掲句から、人の言葉が山の植物に張りをもたらし、春の訪れが人を喜ばせるといった季と人との交感を聴きとれますが、これも遠景と近景を対置した構図のたまものでしょう。大神神社の巫女さんたちの髪飾りが清らげに美しかったことをつけ加えます。『高野素十句集 空』(1993)所収。(小笠原高志)


December 05122013

 寒鴉歩く聖書の色をして

                           高勢祥子

の少ない今の時期、電柱などに止まってゴミ出しの様子を伺っている寒鴉の翅の色は冴えない。祈祷台にあり多くの人の手で擦れた聖書はくたびれた黒色をしている。街角にひっそりたたずみ、道行く人に聖書を説く人の多くは黒っぽい服を着ていてまるで鴉のようだ。「とんとんと歩く子鴉名はヤコブ」の素十の句なども響いてくる。そんな連想をいろいろと呼び込む聖書の色と寒鴉の結びつきに着目した。同句集には「曼珠沙華枯れて郵便受けの赤」という句もあって、植物や動物の色をリアルに感じさせる色彩の比喩がうまく句に組み込まれている。『昨日触れたる』(2013)所収。(三宅やよい)


February 1522014

 春の雪波の如くに塀をこゆ

                           高野素十

前歳時記でこの句を見たとき、あまりピンと来なかった。春の雪は降ったそばから光に溶けてしまうようなイメージで、波の如く、という感じが今ひとつわからなかったからだ。そこへ先週の雪、牡丹雪というにはあまりに細かい雪の粒が止む気配もなく降り続き時折の強風にまさに、波の如く、を実感した。傘をたたんでフードをかぶり、これを吹雪って言ったら雪国の人に叱られそうだけど吹雪だね、などと言い合いながら歩いたが、やや水っぽい春の粉雪は風に乗って塀を越え屋根を越え、東京を覆っていった。溶け残った雪にいつまでも街は冷たいままだが、日差しは確実に明るくなってきている。『合本俳句歳時記』(2008・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


May 1552014

 苗床にをる子にどこの子かときく

                           高野素十

床を子どもたちがのぞきこんでいる。その中に見かけない子がいるがどこの子だろう。句意とすればそれだけのものだろうが、このパターンは句会でもよく見かける。ベースになっているのが誰の句かな、と思っていたら素十の句だった。「苗床」が焚き火になっていたり、盆踊りになっていたり季語にバリエーションはあるけれど見知らぬ子がまじっているパターンは一緒だ。類句がつまらないのは、この句の下敷きになっている村の共同体がもはや成り立たないからだろう。子供神輿の担ぎ手がいなくて祭りの体裁を整えるのに縁もゆかりもない土地から子供に来てもらうこの頃である。子供のいない村では「どこの子か」どころではない。この句が持っているぬくもりは今や遠い世界に感じられる。『雪片』(1952)所収。(三宅やよい)


September 1292015

 芋虫に芋の力のみなぎりて

                           杉山久子

虫といえば丸々と太っているのが特徴だ。手元の歳時記を見ても〈芋虫の一夜の育ち恐ろしき〉(高野素十)〈   芋虫の何憚らず太りたる〉(右城暮石)、そしてあげくに〈   命かけて芋虫憎む女かな〉(高浜虚子)。なにもそこまで嫌がらずともと思うが。しかしこの句を読んであらためて、元来「芋虫」はイモの葉を食べて育つ蛾の幼虫のことだったのだと認識した。大切なイモの葉を食い荒らす害虫として見れば太っていることは忌々しいわけだが、ひとつの生き物、それも育ち盛りの子供としてみれば、まさに生きる力がみなぎっているのだ。芋の力、の一語には文字通りの力と、どこか力の抜けた明るいおもしろさがあって数少ないポジティブな芋虫句となっている。「クプラス」(2015年・第2号)所載。(今井肖子)




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