シンポパンフレット

公開シンポジウム
自治と大学と社会
駒場寮の過去・現在・未来




パネラー紹介


隅谷三喜男
 ◎東京大学名誉教授
 ◎1916年8月26日生まれ
  1937年 第一高等学校卒
  1941年 東京大学経済学部卒
    ―高在学中、本郷より駒場へ移転となり、移転前後、移転準備委員
  1936年 寮総代会議長
  1948年 東京大学経済学部助教授
  1955年     同   教授

小出昭―郎
 ◎東京大学・山梨大学名誉教授
 ◎1947年3月  旧制静岡高校理科甲類卒業
  1950年3月  東京大学理学部物理学科卒業
  1950〜86年  東京大学教養学部(物理)助手・助教授・教授
      この間 評議員二期、学部長
  1986〜92年  山梨大学長
  1994年〜   山梨県立女子短期大学長

田中秀征
 ◎前経済企画庁長官
 ◎昭和15年9月 長野県に生まれる
  昭和40年3月 東京大学文学部卒業
         第32期察委員長
  昭和58年12月 衆議院議員初当選(61年6月迄)
  平成2年3月  北海道大学法学部卒業
  平成2年4月  福山大学教授(現職)
  平成2年2月  衆議院議員再当選(8年11月迄)
  平成3年11月 経済企画庁政務次官
  平成5年7月  新党さきがけ結成
  平成5年8月  首相特別補佐
  平成8年1月  経済企画庁長官

金子万平
 ◎フリー(物書き)/
  長野県農村文化協会理事
 ◎1941年4月長野県上田市生まれ。
  1960年東大入学、駒寮住まい(音感、部落研、劇研)。
  1970年より長野市および近辺に在住、
  フリー稼業二〇年。
  主な著書に『修那羅の名神仏』『信州そばの話』『真田一族のふるさと』
  『ムラのきた道』など。

長谷川和彦
 ◎映画監督
 ◎1946年   広島生まれ
  1964〜65年 駒場寮に在寮(ギリシャ悲劇研究会所属)
  1968年   今村プロ助監督として映画『神々の深き欲望』に参加
  1976年  『青春の殺人者』で監督デビュー
  1979年  『太陽を盗んだ男』
  1983年  映画製作会社『ディレクターズカンパニー』設立(10年後に倒産)
  現在 来年撮影予定の「連合赤軍』の準備中

友光健七
 ◎弁護士(友光法律事務所)
 ◎1948年生
 ◎1967年4月 駒場寮入寮
  1968年6月 同寮委員長就任
         直後に東大闘争発生`
  1970年7月 全国学生寮自治会連合
       (全寮連)委員長就任
  1976年4月 弁護士

大池功
 駒場寮在籍は[76.4―80.3]公害研−食事部−ひのもと救霊会―文理研。     やったことと酋えば、寮食堂の仕事(皿洗いから 宿直まで)、JAZZ、
 反差別・三里塚・反「百年年」その他諸々の闘争、パイト、そして酒、‥…
 今は一児の父、私立中学校教師、琉球民謡愛好家。琉球の自立,解放と
 自らの演奏カの飛躍的向上を望む毎日です。
 1957.10.31.生まれ。住んだ場所は川崎─世田谷―新潟−高槻―栗東─
 練馬─東村山─日野─駒場!─新宿―国立―小金井─調布─府中─調布。
 都立立川高校─(76)─理科2類─(80)―教育[学校教育](83卒)

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学内寮の存在意義について


西村秀夫


一、私は1936年4月に駒場の一高の寮に入寮し、39年3月まで庭球部で生活し、1951年3月から再び駒場で、東京大学教養学部学生部専任教官として、学生生活への助言支援の仕事をし、75年8月に退職、それ以後今日まで、障害者と呼ばれる人たちの自立を支援することを仕事として来ています。78才の今日までの生涯を振り返って、3年の学寮生活が極めて重要な意味を持っていたことを思います。自立した人間としての主体の自己形成が始まった時期であり、学寮はそのための貴重な条件に恵まれていたがらです。
 60年前のことですが、青年後期の人格形成には今も共通のものがあるのではないかと思います。
二、その条件を整理して書いて見ます。
  1. 親の保護拘束の下で、出来ていたそれまでの生活から脱出して、精神的に(経済的には親に依存していたが)自立し、自分の生活を始めることが出来たこと。
  2. 寮生活は学校との信頼関係に基いて、寮生の自治自律に委ねられており、庭球部には、対三高戦の勝利を目的とする共同生活の規律があったが、極めて自由であったこと。
  3. 人生観の確立を求める青年たちの共同生活のなかで、ごまかしのない話し合いの伝統があり、自分で考え、自分の言葉で語り、学び合うことが出来たこと。尊敬出来る先生、先輩との出会いに恵まれたこと。(この寮を魂の故郷とする先輩たちの訪問が絶えずあった)私にとっては、キリストを信じて生きる先達との出会いが生涯の目的と支えを見出だす契機となった。
  4. 学校の授業に追われることなく、シーズン中は激しい練習の毎日だったにもかかわらす、自由な読書の時間があったこと。
  5. 練習は部としての勝利を目指す共同行動であり、団体のなかで役割を果たすことを学ぶ機会になった。
三、歴史的には第一高等学校の学寮が校内に作られたのは、誘惑の多い社会からの隔離のためであったようですが、真の意味での学問的環境、学び問う生活の環境として意味があったと思います。戦後の窮乏情況では、経済的効果が大きい意味を持ったようでしたが、経済状態が好転して来ると、教養的な要求が強く出て来たように思います。戦後の学生運動にとっては、学内寮はよい拠点を提供することになり、文部省には嫌われるようになりました。老朽化した駒場寮の改築、改修は必要でしょうが、学内寮を廃止するという方針には文部省当局の意向が反映しているのではないかと疑われます。東京大学は、学生の人間形成にとっての学内寮の存在意義を確認し、よい伝統を生かす方向で考えるべきであると思います。大学教育の源流をたどると、わが国の僧院も私塾も、ヨーロッパの修道院、カレッジも生活を共にするなかでの、真実探求の場だったのではないでしょうか。
四、シンポジウムのよびがけ文には「駒場寮の社会的機能」ということが書かれていますが、戦後の社会では時代の課題を敏感に感じとって問題提起することをして来たのではないでしょうか。このシンポジウム自体が、国家の求める人材養成選別め手段に堕している学校・大学教育への問いかけではないでしょうか。
 教授会は研究者の集団ですが、その研究は何のため何を価値としているのでしょうか。深いところで時代の課題を意識することがあってこそ大学の社会的使命は達せられるのではないでしょうか。その意味で学び問う者、本来の意味での<学徒>の人間としての出会いの場である学内寮の存在は、大学にとっても必要なのではないでしょうか。

(1997年6月15日)にしむら・ひでお 元教養学部学生部専任教官


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「光栄(はえ)ある城を 動揺(ゆるぎ)なく守(も)り行かんかな」


信貴辰喜


 表題は、旧制一高の寮歌(1937)の一節である。駒場の寮とその伝統をまもりたい,というのである。
 私は,1945年から48年まで一高生であったが,「ああ玉杯」をはじめとして,―高の寮歌は好きになれなかった。「栄華の巷(ちまた)」を低く見ながら,自分自身は最も世俗的な立身出世の欲にとらわれてしまいそうな気がしたからである,「人生の偉業」なにごとか成らざらん,邪魔者は斬って捨てればよい,と。 一高が東大となったのち,駒場祭のころハカマなどはいて現われては,寮歌を高唱するおじいさんたちにも,私は共感を持てなかった。
 しかし,さきごろ戦没学生の手記を読み,そのなかに一高寮歌が引用されていることに気づき(『きけわだづみのこえ』中村徳郎氏の手記),そのメロディーを知りたく思い(あるいは思い出したくなって),同窓会にたのんで寮歌集のテープを送ってもらった。探求の曲は見つからなかったけれども、私は何十年ぶりかで寮歌に対しなづかしさを覚えた。
 その「なつかしさ」の実体は何だろう,と私は自問する。古語をちりばめた美文調の詩句に引かれたのか――アメリカ英語にむしばまれた現代日本語との相違はじつに大きい。むずかしい漢字も多い(寮歌は古めかしくて,軍国調の侵略主義にむしばまれたとごろがあるではないか,と言う人もあろう)。いや,むしろ,先人たちの「自治寮」への執念こそ、いまなお尊重されるべぎものかもしれない(寮歌集には「自治の健男児」「三十年の自治の栄(は)え」「伝統(つたえ)なる自治の流れ」などという言葉が,じつに数多く見いだされる,「もしそれ自治のあらずんば,この国民(くにたみ)を如何にせむンとも)。表題にかかげた「光栄ある城」とは,寮生の自治を讃えた言葉である。ぞして,日本の国がまだ破れずにあったころの雰囲気や人びとの心意気を思い出したために,感得ざれた「なつかしさ」でもあろう。
   「失はじ我らがほこり
    護り来し伝への法火(ともし)
    浄らかに燃えさかるとき
    継ぎゆかな来ん若人に」
           (いくつかの漢字をかなに代えて引用。)
 しかし,いまや寮生はこの地を追われ,明寮がこわされてゆくさまを見なければならない。
× × ×
 旧制一高は消えた。現在の駒場の教授たちは,新生東大が確立した五科の体制。(人文・社会科学,外国語,自然科学,体育)をこわし,「超域文化科学」「広域科学」など,妙な名称をひねり出し,もともと少なすぎる職員に過重負担を強いて,重点を大学院にうつした。東大においては,職員も学生もそれぞれに固有の権利をもって大学の自治を形成する,と認めたはずなのに(加藤一郎,確認書解説,1969年,69ページ),その誓いは,いまどこに?
 ──おや,学生も教官と対等だと言うのか? いまの幼稚な,たよりない連中が? Γ確認書」はもう古ぼけてしまったのだ,「学生との合意」など必要ないとして,もっと古ぼけた。Γ説諭」だの「告示」だのという言葉が登場する(学内広報N0.1071,9ページ)。キャンパスから寮がなくなれば,管理のゆきとどいた新天地がひらかれることだろう。私はただ,寮周辺の木の伐られることが一本でもすくないようにと,願うばかりである。そして,私の亡霊がそこにあらわれ,先人たぢの和魂(にぎたま)とともに歌うだろう,「光栄ある城を,動揺なく守り行かんかな」と。

(1997年6月10日しるす)/ しぎ・たつき 教養学部元教授,1988年3月退職


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自治空間としての駒場寮と自然。


小川晴久


 駒場寮廃寮問題は少くとも二つの問題を孕んでいる。学内から24時間生活できる学生の自治空間をなくしていいのか否かの問題、今一つは駒場寮の周りの自然が開発によって破壊されてもいいのかという問題である。二つは一見して別の問題であるが、駒場の東部地域の豊かな自然を抜きにしで駒場寮を語ることができないのも事実で、両者は密接な関係がある。だからこそ駒場寮の廃寮は二重に深刻な問題であるのである。
 五年前、駒場寮廃寮問題がおきたとき、存続を願う寮生がいるのにそれをつぶすのには勿論反対であった。その後でてきた再開発計画は樹木を大半伐る計画であったため、前者にも増して反対であった。私はこの十年間同僚と共に南北問題の全学ゼミを開いてぎたため、熱帯林の伐採をはじめとして樹木の価値について理解を深めてきた。二年前首から下が麻蝉という星野富弘さんの詩画集を知ってからは、樹木ごそ人間の教師であるという確信をいだくに至った。またもう一つの契機があった。五・六年前であったであろうか、寮の東側に一二郎池(地元の人は昔から深池(ふかいけ)と呼んできた)とよばれる池があるが、その下を(首都高)地下高速道路が通るという計画があることを知った。一二郎池は駒場で二つ確認されている湧水の一つである。 地下高速道路はその湧水源の下、なんと七mの所を通るというのである。この事実を知ったのは農学部の鈴木譲先生が学内広報に投書された記事によってであった。鈴木先生は学生時代生物研究会に属し、一二郎池の野鳥の観測に当られたという、日本野鳥の会のメンバーでもあった。鈴木先生のと出会いによって私は一二郎池の価値と地下高速道路問題に目を開くことになった(鈴木先生は地下高速道路が通る予定の新宿区中落合にお住いで、八年前がら道路建設に反対する住民運動の先頭に立たれている)。
 私は冒頭に掲げた二つの問題のうち、駒場東部地区の自然を守る立場にまず立った。一二郎池の湧水を破壊ずるおそれ大の地下高速道路も、また寮を撤去してその跡にいくつもの建物を建てようとするのも、どちらも自然を破壊する開発である。南北問題ゼミの実践としても、駒場の中の南を守らねばならない。
 24時間寝泊りできる自治空間の大切さを知ったのは、実はその後であった。二・三年前であったか。東大新聞が駒場寮廃寮問題で座談会を組んだとき、学生時代に演劇の裏方をしていたという同僚が24時間使える生活空間があることの貴重さを語っていたのがキッカケであった。もし駒場キャンパスから寮が消えたら、少くとも夜間は全く無人化し、灯が消える。大学の中に明け方まで灯をともして勉強していたり、語りあっていたりする生活空間があることの温かさ、灯がともっていること、生活のぬくもりが大学のキャンパスの中にあるのとないのとの歴然たる差に、このとき気がついたのである。この時以来私は駒場東部地区の自然の大切さと共に、自治による生活空間が大学の中に存在することの大切さを考えるようになった。
 そして今年の四月―日、大学側のいう廃寮の日を迎えたのであった。これ以後の私の駒場寮認識の深化は小冊子『4月の駒場からの挨拶』(拙編)を読んでいただけるとありがたい。しかし四月以後のことでどうしても二つのことだけは書いておきたい。一つはシモーヌ・ヴェーユの遺著『根をもつこと』(春秋社、品切れ)(残念ながら図書館でよむしかない)との関連である。
根を下ろすことい(土着)は生物の平和な営みである。したがって根を抜くこと(根こぎ)こそ犯罪的な行為はない。戦争がその最大なもので、平和時にあってはお金と教育がその役割を果たしていると彼女はいう。この書を愛読してきた私は、四月二日と四月二四日、大学側が寮の渡り廊下の撤去を始めたとき、そして一棟ずつ寮を撤去していくという大学側の意思に触れたときに、はじめて駒場寮が根こそぎされるという痛みを全身で感じたのである。あの頑丈な駒場寮が三棟、六十年根を下ろしたその土地から引き抜かれる。駒場寮の死である。生きている者を殺す。どうして痛ましくないことがあろうか。一棟でも残してほしい。これが私の切なる願いである。
 今一つは五月二十日に宇沢弘文氏の「駒場寮問題を憂う」という一文(この一文に接したい人は5454―6212までTELされたい)に接し、駒場寮をもった一高、その後身としての教養学部こそりベラルアーツの大学であって、本郷は専門学校であり、大学の周辺部であるという認識に触れたことである。ごの一文の中で宇沢氏は最近逝去された丸山真男氏を中心に、一九六九年東大闘争時に、駒場を東大の中心にした東大改革案が提示されたことを紹介しでいる。駒場学内寮はりベラルアーツの一源泉であり、駒場をして東大の中心に据える一大根拠であったという先達の見識が、急いで顧られる必要のある一九九六年の秋である。駒場寮はまだ生きている。

〔東大生協発行誌「ほん」「(第244号,1996.9.17)〕おがわ・はるひさ 教養学部教授


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私の大学 駒場寮


沢田洋


 私が駒場寮にお世話になったのは1961、62年でもう35年も前になる。わずか2年間であれ私にとって駒場寮は青春のわが家であり同室の友人たちは兄弟みたいなものである。この思い出の一杯つまった駒場寮を「開発」の名のもとに取り壊してしまうとは、自分の家に土足で上がり込んでこられたような感じがして憤りを禁じ得ない。私は全国に数万はいるであろう駒場寮のOBが心の底では寮の存続を願っているに違いないと確信している。
 私が入学した61年は安保闘争の余じんのくすぶる混沌とした時代であった。寮の各部屋は伝統的にサークルの同好の士で構成されており、最初私は物理学に憧れて「物理研究会」に入った。その部屋の連中は昼間からベクトル解析の勉強などをやっており、ろくに話もしない。私はこの雰囲気が不満で最初の部屋替えで「哲学研究会」に移った。するとそこは種々雑多な個性的な人間の集まりで毎晩が議論と酒宴の連続であった。実存主義にマルクス主義、無頼漢(?)に教養主義……。そして学生運動のあらゆる党派が同居していた。いろんないたずらをしたりされたりした。起きて顔を洗わずに授業に出る奴は、寝ている間に顔に墨で眼鏡を書かれで教室で珍騒動が起きるなどということもあった。サークルで文集を作ったりもした。当時の人々はいまどうしているであろうか……。根っからの怠け者で無能な私は物理学者にも哲学者にもならず社会の片隅でようやく生存しているに過ぎないが、このときの寮生活で与えられた影響が捉えどころの無い自分という個性の核心を形づくっていると断言できる。
 大学当局がどの様な考えでこの歴史ある寮を壊そうとするのか、私にはどうも理解できない。寮の建物は今後何十年も持ちそうな堅牢さではないか。
 なお驚くことに35年以上を経過してそこに何ら補修改善の跡がみられない。文部官僚の国立大学寮無視=敵視を観るのみである。このくたびれた設備に今の学生が入寮をしりごみするのは当然である。
 寮の跡地に食堂、サーグル棟、劇場等を作る……。なるほど。でもそれは既存のビル、例えば学生会館を高層化するなど工夫の余地があるのではないか。要するに三鷹寮の土地の有効利用を文部省に指摘され、駒場寮廃寮=「三鷹国際学生宿舎」と辻棲を合わせ官僚のご機嫌をとったというのが真相ではないのか。
 私は駒場寮存続のキーコンセプトは幾多の指摘がなされているとおり「自治空間」であると思う。今に続く自民党支配=安保体制を築く先駆けとなったレッドパージや安保改定などに駒場寮生は抵抗の火を燃やした。尊敬するに足る幾多の人材がこの火のなかで培われたことは高橋健而郎氏の労作『回想の東大駒場寮』(文芸春秋社)で活写されているとおりである。
 しかし、駒場寮廃寮に対して「昔の東大と今の東大とは違う。今の東大生の保護者の所得水準は早慶の上だ。そんな経済エリートに寮など税金のムダ使い。」との理由で認めてしまう人がいる。だがこれはいささか短絡的・近視眼的思考だと思う。 確かに高等教育が普及し大学入試が激化して経済力がないと一流校に入れないという社会現象と、国立大学授業料が私立と昔ほど差がないこととがあいまって昔の東大らしさがなくなっていることは事実であろう。しかしその事実によって寮の価値は減るのだろうか。経済的エリートの子供は必ず保守的人間になるといえるだろうか。自治寮をなくすことは東大がさらに一層エリートの再生産機構となることにつながるのではないか。
 今日本および世界はかつてない多難な時代に突入している。時代が求めているのは深くてしかも総合的な思考である。駒場寮の薄ぐらい混沌は次の時代を切り開く若い思想の醗酵の場所である。これは可能性であるがごの可能性を残じておいてほしいものである。

(1997年6月17日)  さわだ・ひろし 高校教諭


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駒場寮が私に残したもの


菅伸介


 抑圧的な高校生活や受験勉強に息がつまる思いであった私が駒場に来たのはもう14年前のことだった。駒寮に入ったのは単純に経済的理由からだった。
 しばらく住んでみて寮に出入りする人びとの多様さに気が付いてきた。年齢も、専門も、暮らし方もきまぎまである。とても面白かった。それに比べるとクラスは均質であり、どことなくよそよそしさを感じさせる集まりだった。偏差値やら進学する大学のランクやらの単線的な指標に支配されていた高校時代と同じにおいを嗅ぎ取ったのだった。
 つまるとごら高校の延長のような授業に比べると、得られる友人関係や刺激の質において駒寮は比較にならないほど楽しい場であった。小綺麗な所に一人で住んでいたとしたら、私の中で 「東大」ほ全く別の像を結んでいたであろう。下宿などする金などなかったことを今となっては感謝したいぐらいである。
 駒場寮は時代遅れだとも言われる。きっとそうなんでしょう。大学側のスマートと言い難い廃寮工作の進め方を見るに「時代」に取り残きれないために――あるいは迎合するために―─躍起になっていることはよくわかる。だけど、そうした追い付こうとしている「未来」とはどの程度のものなのだろうか。大学の目論見通り立派な設備ができたとして、ぞれが学生の心のなかに何を残せるようになるようだろうか。駒寮のような豊かな世界を人為的に作り上げるのは多分不可能である。
 私にとっては、酒もアカデミズムも政洽も怠惰もすべで駒場寮のにおいを通して覚えたものであった。受験秀才―東大生─会社員といかにもありそうなコースをたどった私にどって、駒寮の体験に照らして物事を考える、という視点は欠くことができない。それがなかったら今の生活や会社での仕事あるいは「時代の要請」にどこまで適応し流されていくか本当に恐ろしいのである。
 時代の先行きがあやしげである以上、「時代遅れの」駒場寮は今消えるにはあまりにも惜しい存在だと思う。

(1997年6月15日 すが・しんすけ(1983─86年在寮) 会社員


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駒場寮で学んだこと


橋本暁


 ニ年間の寮生活で学んだことはいろいろあるが、現在の私にとって特に大きな意昧を持つことが二つある。
 一つは「世の中には様々な人がいる」ということで、当たり前と言えば当たり前すぎるのだが、本当の意味でこのことを理解したのは、寮に入って長い時間つきあっていく中でであった。「ゴリッ」とした人もいたし、チャランポランな人もいた。細やかに気のつく人もいたし、本当に「善人」という言葉がぴったりの人もいた。こうした、大学入学前には遭遇することの無かった人々との出会いは、自分の人間観を大きく変えた。
 二つには「権威を無条件に信じるな」ということ。浪人時代までの私は「左翼の権威主義」に弱いところがあり、「左翼教官」というだけで何故か「親しみ」を感じてしまうところがあって、その人の言うことは正しいのだと思ってしまいがちであった。しかし、寮をめぐる様々な活動に参加していく中で、言っていることと実際の公道が違う姿を見る中で、持っていた幻想が崩れていった。人として信用できるかどうかは、その人自身が誠実かどうかということにつきるのではないか、と考えるようになったのはその時からである。
 寮で暮らすということは、時間がいくらでもあるということであり、様々な人間と嫌でも共にその時間を過ごすということであった。現在の社会ではそのような場は限りなく貴重だと改めて思うのである。

(1997年6月8日) はしもと・あきら(1986─88年在寮) 中学校教諭


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オレは浜っ子


山内恵太


プロローグ


 思い返せば暑い夏だった。寮委員長の重責を終え、私は一段落した7月下旬に突如、出身地横浜に帰郷してしまいたくなり、フラッと出て行った。夜の国道1号はすいていて、青信号が延々と統く。一見快適そうなナイトライドも、実は襲い掛かる様々な仕事の重苦、そして糾弾の嵐を撥ね除けての帰郷であった。しかし私が帰郷するに至った真の目的は、仮に作業放棄ではあったとしても決して現実逃避ではなかったことをここに誓う。私は壮大な任務を背負って故郷横浜へと向かったのだった。

弟はふてくされ、おふくろは黙り込み、オヤジが怒った夜


 私が両親の家に行く時はいつもそうだ。大概夜遅くに着き、10年来の友であるポチに帰郷を告げて互いに友情を確かめ合う。そしておもむろに家に入ってうがいをし、メシ食いがてら家族3人に説教をするのだ。しかしこの日は何かが微妙に違っていた。私の並々ならぬ決意が雰囲気をこわばったものにしていたのかも知れない。
 私はいつものように自分が駒場寮問題に取り組む理由を述べ続けた。この闘争に取り組むことが如何に社会に貢献することなのか。自主管理空間=まさに自分たちの手で創造していく可能性を残す場としての駒場寮の意義が、権力によってありとあらゆる場所に管理統制が行き届こうとしている社会の現状にあって如何に大きいものであるか。そのような管理統制された社会の中にあってなお守り続けられた駒場寮を、単に学生寮として規定するのではなく、如何に社会の中の自主管理空間として位置付けるか。即ち如何に特権性を排し駒場寮を開放していくべきか。そして様々な人との交流から社会の中に自己をどう位置付け、自分はどうあるべきか。その問い掛けからのみエリート予備軍=東大生は変わり得るし、権力者の論理に搦め捕られずに「どちら側」に立つのか、人を踏み台にしてさらに体制内上昇していくのか否か、が決まっていくのではないか。東大生が変われば、社会にもいい影響こそあれこれ以上の悪影響はない筈だろう。このような問題意識を我々学生に生じさせる契機として自主管理空間=駒場寮は絶対に残すべきだし、残らねばならない、権力が暴力によって潰しにかかって来るならば飽くまで住み抜き闘争を闘い抜き、それと実力で闘うまでではないか。
 我々寮生が学内に於いて学生自治の重要性を訴え、駒場寮の存続を掲げているのもこのような社会への貢献を考えているためであって、学生、とりわけ東大生の特権性をさらに塗り固めるものでは決してないのである。
 「でもね、そんな立派なこと言っても誰も聞いて呉れなきゃ意味ないでしょ。まずは卒業してちゃんと働きなさい。それから影響力を持てるようになってから堂々と意見をすればいいでしょ。そうだ、評論家にでもなれば?」
普段は寮も大学も辞めて帰って来いと言うおふくろはたしなめるように言った。
 「そんなんじゃ駄目なんだよ。さっさと卒業して、どうやって寮が残るってんだ。それに社会を変えていくにしたって何も影響力を持つような立場からでなくたって出来るんだ。寮の先輩には新宿の野宿労働者と一緒に現場で闘っている人もいるんだよ。寮潰しなんてあからさまな権力による暴力じゃないか。それに正面から闘う主体が必要なんだよ。その主体に自分はなるんだ。」
「差別主義者だったあんたがそんなこと言うようになるとは思わなかったわ。」
「オレだって反省したんだよ。」
沈黙が暫し続いた。
「でもいいじゃん、寮汚ねえし。」
「お前はどういう立場でモノを言ってるんだ。お前は「どちら側」に立つんだ!?」
「分かんねえよそんなの。大体止めろよ、危ねえし。」
「弱いものの味方に立たないのか。お前みたいな反革命は変わんないんならいるだけで有害だから消すしかない。殺す。」
「だって分かんねえだからしょうがないじゃん。殺すとかいってやっぱ危ねえよ。」
「殺すったってあんた……」
おふくろも不安げに口を挟む。
「反革命はいるだけで有害なんだ。そりゃ変わるようにしなきゃ駄目だよ。でも変わんないんだったらむしろ今ある暴力や抑圧を固定化することになるじゃないか。そんな奴は殺すしかない。何か違うか。」
「でも殺すのはなしだぜ。」
「殺す殺さないに関わらず、お前は殺される側にいるんだぞ、今。」
弟はふてくされた。
「大体、お前は東南アジアに興味があるとか言って、それが無自覚のままに日本帝国主義のアジア侵略のお先棒を担ぐことになることを分かっているのか。お前は侵略の手先になるつもりなのか。」
「そんなっもりな訳ないだろ。でも日本軍はラオスでは友好的だったらしいよ。」
「それが「大東亜共栄圏」の虚像なんだと言ってるだろうよ。そういう歴史の見方が染み込んだお前は現在進行形の経済侵略にも喜んで手を貸していくんだよ。ベトナムでは戦闘ではない侵略=飢餓輸出の形で200万人が餓死したことをお前も知っとくべきなんだよ。そうゆう基本的な考え方が権力の論理に毒されてるからお前は駄目なんだって言ってるんだよ。」
「そんなこと言われたうて分かんねえよ。」
弟はふてくされるばかりだった。
「殺すだのなんだのってこにやろ」
怒りに燃えたオヤジが突然口を開いた。
「何が「どちら側」だ、何が弱い立場に立つだ。そんなこと言ったって結局お前は東大生なんだろ。東大生なんて権力の凝り固まったヤツじゃないか。偉そうな口聞くな。寮なんか出てさっさと大学出ちまえ。社会に出ないで働いてないお前の方がよっぽど有害だ、学生の分際で。ただでさえ安い学費で社会にぶら下がってるんだ、お前は。」
「そうゆうオヤジはベトナム戦争の時何してたんだよ。」
「会社でちゃんと働いてたんだよ。」
「何がちゃんと働いてたんだよ。何もしてなかっただけじゃないか。」
「一人で何が出来るってんだ。」
「だからみんなでやろうって言ってるんじゃないか。」
「だれもやりゃしねえよ。寮を見ろよ、誰がやってるってんだ。だからお前がそんなにやってるんじゃないか、バカ。」
「オレだけでやってる訳ねえだろ、バカ。寮生がたぐさんいるから寮が残ってんだよ。知らねえくせにゆってんじゃねえよ。」
 「ああそうだろうよ。どうせバカが祭り上げられてるだけだろう。とにかく偉そうな事言うな。そんなに偉そうにしたいなら東大辞めてから言え。東大生なんて特権的なんだ。マリナード(註:横浜の関内駅の地下街。ホームレスが多く住んでいる)にでも住んでから言え。」
「お前に言われる筋合いじゃねえ。自分の現場で東大生を変えるために闘ってんじゃねえか。お前みたいな反革命は殺す。寮潰れたら辞めてやるよ、そしたら最初にお前を殺してやるよ!」
怒りのあまりオヤジは2階に行ってしまった。
ウチの家はいつもこうだった。私とオヤジとが際限なく対立し、どちらか一方がいなくなるしか解決策がなかった。おふくろが止めに入っても駄目だったのがますます酷くなって、結局私が家を出る以外になかったのである。
「でもねえあんた、殺すとか言うのはやっぱり駄目よ。」
そんなことは分かっている。メタファーとして使う中に若干の感情が移入されただけのことだったのだ。
「でも権力に刃向かって闘うことは重要だよ。」
「でも誰も聞いて呉れないんじゃ意味ないでしょ。」
「火炎瓶とかいって危ねえよ。やだよそんなの。」
「あんた、読売を止めるんだってヤクザみたいのが来て大変だったんだから。そんなに何でもかんでも直ぐに出来る訳ないのよ。」
「今直ぐにとは言わないよ。」

母校へ


 翌日、私は母校に足を運んだ。別に久々という訳ではない。年に1度くらいは何をする訳でもなく顔を出していた。「社会党なんかもう駄目だ」と言っていたどうも気になる教師がいるからだ。しかし今年は弟が卒業してしまったので、多少の行きづらさを感じての訪問となった。
 しかし最近の緑高の女の子は何とまあ可愛いことか。一昔前とは丸っきり違った雰囲気を漂わせた女子の多さに暫し目を奪われたのは、何も歳のせいだけではなさそうだ。思わず何をしにきたのか忘れてしまうところだった。いや、私は図書室に行こうとしているのだ。誰かは分からないが図書室に私の載った記事を貼った教師がいるらしいという話を聞いたのである。私と親しい教師なんてそう多くない。一体誰が?その教師を通じて生徒をオルグし、東大合格者全員を駒場寮に迎え入れる。さらに他の生徒も駒場寮についての理解を深め、支援者として育て上げる。そして決戦状況になればその教師を先頭に戦闘的高校生らが駒場に結集する。母校は、そうは言っても毎年誰かしら東大合格者を出している。母校を今まさに駒場寮防衛の拠点とする。ごれこそ私が密かに胸に秘めて遠路横浜まで出向いた真の目的であった。
 なんと図書室は閉まっていた。「図書整理期間中」の掛け札は遠路遥々やって来た者にとってあまりに無情だった。私はドアのガラスから中を覗いてみた。誰もいない。いつものようにドアをこじ開けるか。いや、母校に来てまでそれではいかん。それでは二セ左翼になってしまうではないか。私は苦悩の末、司書室のドアノブに手を掛けた。
「あの、すいません。今日図書室は閉まってるんですか。」
閉まっていると書いてあったが、他に気の利いた切り出し方が思い付かなかったのだ。
「御免なさい。今日は臨時休館なんですよ。」
中から若い女性の声が返ってきた。若い女性?はて、そんな司書が高校にいただろうか?私は声の主を確かめずにこの場を去る訳にはいかないという使命感に駆られた。
「あの、実は僕の載った記事が図書室に貼ってあるとかないとかで。ちょっと来てみたんです。」
すると中から声の主が現れた。歳は20代半ばくらい、身長は私よりやや低いくらいだから150何センチといったところか。着飾らない、しかし笑顔の中にあどけなさすら感じ取れるような可愛らしい司書さんだ。知らない。こんな人が司書だったのか?私が高校生の時にはもっと年を取ったおばさんだったと記憶しているのだが。とにかく初対面らしいことは間違いない。
「あら、山内君じゃない。」
何故?私はこの人を知らない。なのに何故この人は私を知っているのだろう。しかもこんなに親しげに。公安は我が母校にも潜入してきているのか。私は一抹の不安と期待を抱かざるを得なかった。しかし、こうした場合、一体どのような対応を取ればよいのだろう。暫し思案した挙げ句、一応面識はあることを前提にして会話することにした。忘れてましたではまずいだろう。
「あの、僕が載っている何かの記事が高校の図書室に貼ってあって、しかも、ウチの卒業生です、頑張って下さい、とか書いてあるとかいう話を小耳に挟んだもんで、何が貼ってあるんだろうと思って来たんです。それで、もしよかったらお茶でも、あっいや、よかったら誰が貼ったのか教えて貰えませんか。その先生と駒場寮の話をしたいと思ったんですけど。」
「ああ、AERAの記事ね。」
「はあ、AERAの記事なんですか。あの反革命の放火記事ですか。」
「そんなのじゃなかったけど。何か、東大が新入生に変な警告を出したとかいう……。」
「あ、それじゃ3・10対合格者恫喝書類のことですね。あれはふざけてるんですよ。合格して早々、新入生を恫喝して思想統制しようという、大学のファシズムが満天下に明らかになった決して忘れてはならない―大攻撃なんです。大学が権力をかさにきて剥き出しの暴力を学生に突き付けたんですよ。あれじゃ合格者が合格取り消しになるかも知れないと思って何も出来ないじゃないですか。署名するだけで合格取り消しになると思ってた人もいるんですよ。で、記事はどこですか。」
少し興奮してしまった。これも若気の至りなのだろう。
「記事はね、ここよ。」
そう言って司書さんは図書室のドアに手を伸ばした。記事はドアの内側に貼ってあった。
「あれ、ドア開いてたんですか!?」
「ここは二セ左翼が蹟凰するどこかとは違うのね。開けておいても大丈夫よ。」
「僕もここの出身ですから大丈夫ですよ。」
「別に山内君が二セ左翼だと言ってるんじゃないわよ。」
悪戯っぽく笑う司書さんの笑顔に、私はまたしても目的を忘れるところだった。
「記事はここよ。」
「何々「緑高の卒業生で、東大で頑張っている山内恵太君が載っています。先輩、頑張って下さい。」だ!?(くーっ、高校時代にセンパイとか呼ばれたかったぜ。名実共に人の視界に入ってなかったからなぁ。)なるほどね、やっぱり僕のことを知ってる先生なんですかね。でもわざわざ東大でとか言われるとちょっと進路指導のネタみたいでヤですけどね。でも高3の時の担任はすごくむかつくし、一体誰が貼ったんでしょう?」
「女の先生だったと思うんだけど……。文系の人で、髪が長めで、え−と。」
「ひょっとして国語の先生ですか。」
「そうだったかも知れないし……。」
「もしかして英語の先生とか。」
「そんな気もするし……。」
「(それじゃ分かんないよ。)ということは五十嵐先生か今村先生ですね、きっと。」
「きっとそうでしょう。」
「じゃ、職員室に行けば会えますかね。」
「えっと、いや、お二人共今年の4月で転勤なさったわよ。」
何ということだ。記事を貼った教師をオルグして駒場寮シンパの生徒を多数獲得し、決戦ともなれば母校から教師をはじめ最大動員100名を勝ち取るという私の壮大な計画はどうしてくれるというのか!?権力は既に母校にまでも手を回していたというのか。私は寮委員らの糾弾の視線をかいくぐり、やっとここ横浜の母校に辿り着いたのだ。このまま手ぶらで帰れ と言うのか。私は絶句した。
「やはり憧れの先生だったんですね。」
「あっいや、お土産がないのに寮に帰れるか、と。」
「そんなに怖い所なんですか、駒場寮は。」
「あの、あんまり誤解しないで下さいね。そりゃ駒場寮にだって女の人も出入りしますよ。女子入寮だって始めてますからみんなそんな血相変えてなんてことは、今はもうないですよ。」
「知ってますよ。だって私も3回くらい駒場小劇場(こ行ったことがありますから。私はお土産がないと駄目なくらい寮生はガツガツしてるのかと思って。違いますよね。」
何と司書さんは駒小に行ったことがある!?目的変更、司書さんをオルグすぺし!
「駒場小劇場に行ったって本当ですか。」
「ええ。ところで寮生はやっぱりガツガツしてるんですか。」
妙なことに興味を示す人だな、不意を突かれた。Γあっえぇと、それは正しいです。ところでいつ頃だったんですか。」
「いつだったかしら。加藤登紀子さんが歌うとか言ってた頃なんだけれど。」
「じゃあ93年の秋ですね。寮の中には入ってみなかったんですか。」
「寮の中には入りませんでしたけど。寮の間を通って駒場小劇場に行ったんです。木々がいっぱい生えてて、東京なのに緑が多いなと思いましたよ。寮にも草が生えてて歴史を感じましたね。」
「……てゆうか、ツタが巻き付いていたんですね、それは。屋上には木も生えてますけど。」
「ええ。建物も古いけどすごく丈夫そうで、重みがあって好きですよ、ああゆうの。」
「大学は老朽化しているから潰すと言ってるんですけど、冗談じゃないですよ。建物にはヒビ割れはないし、駅からキャンパスに入って最初に時計台の建物ありますよね、あれと同じ頃に建てられたんですよ。そっちを残して寮は潰すんじゃ、理由になりませんよね。しかも寮は関東大震災後に設計されたんで、耐震設計が優れているらしいんですよ。鉄筋なんか戦艦の鋼板が入ってるとかで。」
「今時ないですよね。ここの校舎の西館なんか、オイルショックの頃のだからポロポロですよ。」
「1年生の棟ですよね。開いたドアが閉まんないんですよ。閉まったドアが開かないと結構笑っちゃいましたよね、特にむかつく先生が出れなくなったりすると。」
「神奈川って県の財政が多い方じゃないですか。なのにもう予算はつかないんですよね。バブルの時は乱発して、ほら、隣の学区の平沼高校なんか高層化してエレベーター付きになったでしょ。うちでもそんな話はあったんだけどもう予算つかないんですよね。同窓会なんかが募金集めてやろうとしてたけど、最近は話も聞かなくなっちゃった。」
横浜は阪神大震災を教訓として、公立学校を拠点に災害避難場所の強化を図っている。神戸にも、地方自治体として真っ先に救援隊を送り、土木工学が専門だという市長自らが陣頭指揮を取っていたらしい。しかし、防災都市を目指すのは大いに結構だが、その財源として文教予算は大きく削られてしまった。もっとも母校は県立なので直接関係はないが事情は横浜市に準ずるだろう。
「バブル後で、しかも震災ですか。何かどこも同じですね。うちの大学でもなかなか予算がつかないとか言っていて、教授会は苦労してるみたいですけど。まぁ、うちらには好都合ですけどね。」
「大体、予算が付きづらいのに無理して壊すことないのにね。無駄使いでしょ、それって。」
「そうですよ。東大ばっかり予算取ってもしょうがないし。大体学生のためにならないんですから止めりゃいいんですよ。」
「そう、それなんだけど、学生のためっていうのがよく分からないんだけど。テレビで山内君がいろいろ言ってたけどいまいちよく分からなくて。寮存続の主張の理由は何なの?」
「あぁ、よく言われるんですよね、お前のテレビで言ってたこと全然分かんないって。あのですね、やっぱり自主管理空間だということに尽きると思うんです。寮生をはじめとする寮に関わるもの、だから寮当事者と言っていいと思うんですけど、その人達の手によって全てが決められ、実行されていく。まさに当事者が決定し、実行していく。こんな単純で当たり前なことが実は滅多に出来ないようにされているのが今の社会じゃないですか。そこには統制されて、管理されて、縛られっぱなしで自由のかけらもない。社会的に見ても多くない、そうじゃない場所が駒場寮なんです。だから残したいんです。別に東大生の特別な場所なんじゃなくて、もっと寮を開いていろんな人が繋がれる場にしたいんです。それと、大学からの一方的な押し付けにハイハイと従うんじゃなくて、自分でモノを言う?っていうか上からの管理には反対していくような人間が育つことが必要なんじゃぁないですかね、特に東大生の場合。そうゆう考え方っていうのは自主管理をしているという実績に裏付けられるし、実際にそれを行う場所が必要ですよね、しかもそれはエリートのおままごとではない、社会との関係性を考えることの出来る場所でなければ意味がない。となると、駒場寮はそれにとってすごくいい条件を潜在的に兼ね備えてると思うんです。」
「すごいね。でも新しい寮がどっかに出来たからもう潰してもいいとかテレビで言ってたけど。」
「それはですね、三鷹に新しい宿舎が作られてるところなんですが、まず、これは完成してないんです。というのも駒場寮を潰してからじゃないとどうも駄目らしくて。それから、話すと長くなるんですけど、そもそも三鷹に新しい宿舎を建てるのと駒場寮を潰すのを一緒にしてることがおかしいんですよ。だって誰も廃寮に賛成した訳じゃないんですから。それにこの計画が決まったのも、寮生に隠してたんですよ。こ
れじゃ廃寮には賛成しないですよね。それから新しい宿舎の問題もあるんですよ。例えば遠い。バイトが出来なくなるし。高いのも問題です。駒場寮の3〜4倍になるんだから。」
「お金のない人だっていっばいいるでしょ。」
「そうです。僕も仕送り0で学費も貰ってないんです。」
「東京でよくやっていけるね。」
「えぇ。それとやはり個室だから。」
「個室ならいいんじゃないの。勉強もし易いし。」
「確かに個室の方が点取る勉強はし易いでしょうね。でも勉強するってそんなんだけじゃないんですよ。みんなで議論する中で得られるものは多いですよ。だって自主管理とか言ったってやっぱり共同性の上に成り立っている訳ですからね。むしろ東大生はそうゆうものを勉強しろと。」
「東大生に言われると説得力ないけど。」
「ですね。でもやっぱり三鷹じゃ代わりにはならんのですよ。」
「山内君は三鷹に移らないの。」
「僕は三鷹には移りませんよ。それに入れて呉れといったところで入れないし、横浜出身じゃ。親を基準にしてること自体、僕はアホかと思いますけどね。いつまでもガキじゃないんだし、だけど働いて全部稼げなんてとても人に勧められるもんじゃないですよ。住環境くらい国が別け隔てなく保障すべきですよ。私としては必要な人に駒場寮を、を心掛けてますよ。」
「何かすごいことになっているみたいね。また駒場小劇場に行くかも知れないし、頑張って下さいね。健康には気を付けて。」
「健康といえば、電気止められて寮生で集団風邪になってしまいましたよ。大学は本当むかつきますね。僕それじゃ社会の先生ンとこに行きます。どうも有り難うございました。」
司書さんのオルグは一定成功したようだ。しかし、こんなところに寮を知っている人がいるとは結構驚きだった。まして廃寮問題についてこれ程知っているとは。テレビもあれだけ出ていると一回くらい見ている人が意外と多いようだ。

社会科教師の嘆き


 ノックしようにもドアが開けっ放しになっている。ここが社会科教室だ。
「あの、浅田先生はいらっしゃいますか。」
「もうじき戻って来るよ。どうぞ。」
「失礼します。」
顔は知っているが習ったことのない教師が一人。向こうは私のことを知っているようだ。
「……」
「東大はどうだい?」
「許し難いです。」
「……」
期待に沿わぬ答えだったようだ。
「あ、浅田先生こんにちは。」
「おや、山内じゃないか。どうしたんだい。」
「えっいやあの、ちょっと横浜に来たもんで。緑高の図書室に駒場寮の記事が貼ってあるというのを聞いて、誰が貼ったのか聞きに来たんですけど。司書の人に聞いたんですけど、もう転勤しちゃったみたいで。」
「駒場寮も大変みたいだな。電気が止まったらしいけど、どうしてんの。」
「いえ、寮の裏にある寮食堂だけ電気が止められていないんですよ。そこから太い電気ケーブルで寮に直接流し込んでますんで、一応電気はあるんですけど、容量はとても足りたもんじゃないですね。蛍光灯は暗いし、電熱関係は全部駄目です。電気が止められた最初の頃はローソクでしのいだり、冷蔵庫はカビだらけになるし、大変でした。自慢じゃないですけど僕の冷蔵庫まだカビてますよ。」
「東大もやるね。そんなことして大丈夫なのかね、東大は。」
「あれ以来、何でもアリですよ。東大がそこまで腐ってるというのがよく分かりましたよ。渡り廊下は壊すし、電気ドラムは盗むし、ガラスまで叩き割るし。ゼイ肉で押す奴までいる。」
「俺もテレビでよく見たよ。でも学生の雰囲気はどうだい。やっぱりそうゆうの見ても無関心なんじゃないの。」
「う―ん、確かにこれだけやられている割りにはおとなしいってゆうかやっぱり無関心なんですかね。でもこんな事態になったからこそ、決心を固めた人も実は多いんですよ。僕らの周りにいる連中なんてのは大抵がそうゆう人ですよ。」
「とは言ってもね。時代の流れってのをよく感じるよ。緑高でも同じだからね。山内の二つ上くらいで劇団高木ブーってのをやってた生徒達は知ってるの。」
「劇団高木ブーってのは聞いたことありますけど、誰が何をってのは知りません。」
「あれなんかすごくバイタリティーあったよね。でもあの後といえば山内がすごい生徒だと思ったくらいでもうそうゆう人は出てきてない。粒が揃ってて面白みのない生徒ばっか。そうゆう生徒が大学に行くもんだから、大学も画一化されたつまらない学生ばっかになって、寮の問題とか言っても全然関心を持とうとしないんじゃないかって思うんだよ。」
「(オレがすごい生徒だったって何だ一体?欠席の回数か教師への態度かね?)確かにそうだと思いますよ。でもですよ、やっぱりそうゆう流れがいいか悪いかは別の問題ですよね。僕はそれがいいとは決して思いません。でも放っておくとそうなりがちなんでしょう。だからそうゆう学生の雰囲気ってゆうのを変えていくためにも駒場寮問題を切っ掛けに働き掛けていくのが大切なんだと思うんですよ。だから僕は聞いて呉れる人が少なくても止めようとは思わないんです。」
「まぁそうだね、何でも。」
「それに学生が何でそうなったのかを考えれば、教育が決定的な働きをしていることが分かりますよね。管理されるのになれてしまった人が声を上げるのはそう簡単なことではない。単に学生自身がバカだからではなく、それまでにたっぷりと洗脳されてきた訳で、そうゆう管理をしている連中に一撃を食らわせることが重要なんじゃないですか。駒場寮で闘うことは管理教育を大学でも徹底しようとしている東大にそれへの反対の意志表明をして、それを食い止めることになると思ってます。」
「本当にそう思うよ。学生の自治とかいったってねぇ、自治をする人がちゃんと考えてないとやっぱり潰れるよ。」
「そう。自治をする人が結果として潰すことになる訳ですからね。でもそうさせているのは管理教育なんだということをしっかり見ておくことが必要だと思いますよ。」
学生の雰囲気とか自治とかいった話をしているうちに昼休みが終わってしまった。先生はそれを嘆きながらもやるしかないことを確認したようだった。

数学教師の言い回し


 とりわけ卒業してからの職員室というのはいい気分のしない場所の一つである。詐欺師でも見るかのような視線を新入り教師や可愛い女子高生から浴びせられるのはなかなか耐え難いものがある。
「斎藤先生は御存命で、あっいや、いらっしゃいますか。」
「斎藤はここにおる。」
回転事務椅子に座りながらくるりと振り向き、そこに数学科の斎藤先生がいた。いや、正確には私を東大に押し込んだ進路指導の斎藤と呼ぶべきか。相変わらずの変な言葉遣いと声は健在だ。
「久しぶりです。駒場寮の記事が図書室に貼ってあるというのを、とある妙な筋から聞き付けたもんで、真相を確かめに来たんですが、貼った先生はもう転勤したとかで。」
「誰?」
「今村先生か五十嵐先生だと思うんですけど。」
「あぁ、もう転勤したな。で、どうしようと思った?」
「いやぁ、頼んだ訳でもないのに貼って呉れるとはなかなか見込みのある人だと思ったんで、寮の話を沢山してオルグしようと思ったんですよ。でも転勤したんじゃなぁ。まさか転勤先にまで押しかける訳にもいかないし。先生はあの記事どう思います?」
「どの記事かは分からんが、駒場寮はもういいんじゃないか。どうも東大の方が正しいぞ。恵太ももう4年生じゃないか。就職はどうする?院に行くか?}
「ってゆうか、僕はあと4年くらい寮にいると思いますよ。」
「ぁっちゃぁ、今時学生運動なんかやっとる奴おらんぞ。お前はスパッと東大受かってスパッと教養学科に進学して、頭いいんだから、もっと別のことに頭使ってみたらどうだ、ん?」
「東大生なんて一つの町作れるくらい多いんですよ。僕とか生井沢が混じってても不思議じゃないですよ。それに別のことに頭使ったら僕本当に詐欺師になっちゃいますよ。」
「でも学生運動だろ。テレビとか新聞で見るからおおやっとるなって思ったけどさ。誰もやってないんじゃないか。今の学生はあんまり好きじゃなさそうじゃないか。」
「僕もすごく好きって訳じゃないんですよ。でもやる時はやるんじゃないんですかね。それに学生運動とか言いますけど、何か昔の憧れとかでやってるんでもないですし、大体僕そうゆうの良く知らないんですよ。やっぱ、やられたらやらざるを得ないってことですかね。」
「まあいいことさ。元気でよろしい。でも退学するんじゃつまんないぞ。」
「……あの、まだ退学するとかって言っちゃいないじゃないですか。」
モノの見方がステロタイプ。斎藤先生も老いたのか?
「ところで東大の方が正しいって具体的にどこらへんがですか。そうゆう悩める人類を救済することが僕の仕事なんですよ。」
「学生の反対って本当にあったんか。あの歌手の、加藤登紀子がどうのって頃まで廃寮話は全然聞いたことがなかったぞ。東大は反対がなかったから計画を進めたって言ってるじゃないか。外から見れば東大の方が正しいぞ。」
「それはですね、91年の10月に計画が決定済みとして出されてから、学生は検討するための時間を呉れ、1年間凍結を訴えたんですよね。頭ごなしにただ反対するんじゃなくて建設的に考えたいってことだったんじゃないですかね。ところが学部の方というとハナから学生の意見を聞く意志はなかったんですね。だから計画に賛成の意志表示がされないとみるや、恣意的なアンケートをやって学内世論を捏造した。それで反対なしを強弁して計画の見切り発車を宣言するんです。それが92年1月。たった3ヵ月で計画強行宣言となった訳ですよ。それ以降も92年には一方的廃寮反対とかが学生自治団体の決議として上がってるんですけど、踏み付けられてきたんですね。それが93年になって寮自治会が積極的に存続運動を始めるようになって署名とか集会とかやられるようになったんです。でもこんな学内での運動がいちいちマスコミに取り上げられることもないでしょう。話題性からいってやっぱり93年秋の加藤登紀子コンサートは大きかったってことじゃないですかね。」
「なるほどね。でもなかなかこっちに伝わってこなかったもんだからね。」
「まあ、共産党のせいでもあるんですけどそれはいいや。他に何かあります?」
「新しい寮が出来るんだろ、調布かどっかに。」
「えぇ、三鷹に国際学生宿舎なるものが建てられてます、もう半分は出来てるんですけど。でも遠いですよ。駒場寮だったらキャンパスの中にあるのにそんなところに建てて、流罪じゃないんですから。定期代だってばかになんないし、バイトが,出来なくなっちゃうんですよ。」
「そんなの贅沢だ。」
「いや、わざわざ大金つぎ込んで新しく建てる方がよっぽど「贅沢」なんじゃないですか。しかも中身はただのアパートですよ、狭い個室に学生を分断する。個室なんて聞こえはいいけど要するに独房ってことじゃないんですかね。」
「個室の方がいいじゃないか。相部屋じゃごちゃごちゃしていてよくない。」
「よくないかどうかは学生が判断することなんじゃないですか。お仕着せはよくないですよ。それにそうゆう雑多なところから得られるものも多いですよ。いわゆる勉強なら別に図書館でも出来るし。それに僕のように人間との接し方が分からない奴が多いから相部屋にぶち込んだ方が後々いいんだと思いますよ。まぁ、便所ぐらいは個室の方が僕はいいですけどね。」
「要するに独房と雑居房のどっちがいいかってことなんだな。」
「えぇ、でも独房の方が発狂率が高いっていわれてますからね。看取(ママ)によるイジメの問題もある。三鷹でいえば学部当局が看取な訳ですけど、隣の誰ちゃんが学部にイジメられたなんて分かんないですからね。駒場寮を廃寮にするってことで学部は駒場の寮生を三鷹に移したんですよ。それで定員オーバーで逆に三鷹から押し出されちゃった学生がかなりいるんですね、普通なら居続けられたのに。そうゆうのって由々しいと思うんですよ。でも三鷹からは批判の声一つ上がらない。これが独房の実態です。繋がりないから関係ないし、そもそも情報が得られない。こんな独房育ちの東大生が社会に出ていった日にゃ、それこそ大変なことになりますね、あ、もうなってますね。」
「追い出された学生もいるとは聞いてないぞ。」
「そんな情報学部が外に出す筈ないじゃないですか。そう、三鷹といえば2年間しか居られないんですよ。だからもし留年でもしようものなら、奨学金は止まるわ住処は追われるわで学生辞める羽目になるというすごい制度なんですよね。要するに留年なんかしないでさっさと出て行け、規格品のベルトコンベアを乱すなってことですよ。でも留年ったって遊んでばっかいたからってゆうもんでもないんですよね意外と。今でもバイトしないと学費稼げなくて忙しついでに留年する人とか、反対運動に忙しくて降年する人とか、思想信条に基づいて休学する人とかいるんですよ。」
「それは困るな。降年って何だ。」
「スムーズに留年するやり方です。」
「じゃあ、恵太だったら降年するって訳だな。」
「いや、僕は休学ってとこですかね。」
「……」
段々くだらない話になってきた。私は使えるものは全部使いたいと思った。
「先生、ここってまだ予備校のビラとかパンフとか置く棚ってあるんですか。」
母校は一浪コースなので「進路指導コーナー」は予備校パンフが堂々と並ぶ棚である。
「ああ、あるよ。」
「あすこにうちの寮のパンフレット置いてもいいですか。東大受ける奴には是非寮に来て欲しいし、受かったら入って貰うし、他大学からは支援部隊で来て呉れるだろうし。」
「そーんなことにあんまり生徒を引っ張らんで呉れ。」
「いや、緑高からの東大受験生が増えるかも知れませんよ。」
「よし、許す。苦しゅうないぞ。」
「おまけに駒場寮への入寮を進路指導して貰えると有り難いんですが。」
「それは受かった奴にやった方がいいんじゃないのか。」
「いえ、危急存亡の危機の時には緑高から大支援部隊が送り出される筈ですから。」
「わしゃ、行かんぞ。」
「いや、先生には襲い来るパワーショベルの前で得意のバック転して貰わなきゃ。」
何とか駒場寮のパンフレットを「進路指導コーナー」に置かせて貰えることになった。人生を変えてしまうことになるかも知れない寮パンフレットは、まさに「人生の進路指導」と言えるだろう。そして女子高生と寮生との運命の出会いを約束するに違いない。

エピローグ


 苦しい闘いだった。ブルジョワイデオロギーに毒された考え方の人々を相手に、私は一人闘い抜き、そして勝利したのだ。それは駒場寮存続への小さな、しかし確実な一歩を標したのである。キーを回し、エンジンをかける。いいぞ、校舎の窓から女子高生がこっちを見ている。注目は抜群だ。
   「あんな大っきなバイクで足届くのかしら、あの人?」
   「キャハハ、届かないけど声が届いてるかも!」
 (どっちも届いてるぜこのアマ!)
しかし駒場ではさらなる激動が私を待っていたのである。《つづく》

〔寮内交流誌「ぷあ」96年再刊準備号〕 やまうち・けいた 96年に二期寮委員長(138 ・ 140 期)


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パネラー紹介 | 学内寮の存在意義について(西村秀夫) | 「光栄ある城を 動揺なく 守り行かんかな」(信貴辰喜) | 自治空間としての駒場寮と自然(小川晴久) | 私の大学 駒場寮(沢田洋) | 駒場寮が私に残したもの(菅伸介) | 駒場寮で学んだこと(橋本暁) | オレは浜っ子(山内恵太) | 徒然草外伝 食わず嫌いと想像力と | 駒場寮関係史年表|

徒然草外伝  住職のひ孫
食わず嫌いと想像力と


 近頃の吾人眼を赤らめること頗る多し。駒寮の「廃寮」罫なるを喜ぶが為?あるは処分におののくが為?さにあらず。世にいう花粉症なるが故に候。とめどなく流るる鼻水如何ともし難し。苦々しき極まるも、花粉症なるが吾人に与えし教訓これあり。花粉症の厄介なるは花粉症にならずんば知るを得べからず。昼は懐紙手放すこと能はず、眼痒かればこれを掻く、眼益々赤らむ。夜は鼻通らず苦しきこと寝を得難きほどなり。吾人花粉症の苦しみ今にして初めて知り候。
 これは有名な吉田兼好の『徒然草』を編纂した息子兼継がボツにしたものを孫の継好が外伝として秘蔵した文章で、先月京都の吉田神社の御神体の中から偶然発見された。
 ここで兼好は、花粉症に苦しむ他人が何故そんなに辛そうにするのか理解出乗なかったということをほのめかし、自らの想像力の欠如を控えめながら自己批判している。同時に、自分の身に降りかかって初めて分かるものだということについても、降りかかってからでは駄目なのだと言いたかったのだろう。不毛なシニシズムを否定し無常の中でも最大限の努力を要求する兼好らしく、可能な限りの想像力を働かせることを訴えている。
 花粉症に自分からなることは出来ない。しかしやってみることの出来ることならやってみるべきだ。食わず嫌いはよくない。食わず嫌いはそもそも想像力を働かせること自体の必要性を否定するものである。分かろうとする作業の放棄だからである。
 想像力は好奇心であることもあるが、ここで言う想像力とは寧ろ思いやりに近い。思いやりは思いを遣ること。食おうにも食えない部分に思いを馳せることである。
 確かに想像しても結局分かるとは限らない。しかし重要なのは、実は想像力を働かせるという作業の過程とその経験なのである。ドイツ大統領が1985年に行った戦後40周年演説はそれを「Die Arbeit der Erinnerung 」と呼び、ユダヤ人やジンティロマの嘗めた苦しみを思い浮かべようと呼びかけたことは知っていて損はない。
 我々はまず我々から食わず嫌いの態度を一切捨てよう。常に想像力を働かす努力をしよう。それでも足りない分は仕方ないのではなく不断の努力で克服するしかない。
 ではそれは他人に強制することが出来るだろうか。当然否である。しかし、想像力が欠如し、かつ想像力を働かせる努力もないところから不利益が我々に降りかかろうとするとき、我々はそれでも甘んじて受け入れるべきなのだろうか。或いは降りかかってきたとき、我々は想像力を働かせる作業を怠った連中に思い知らせるのだろうか。意見は別れるだろう。ただ一つはっきりしていることがある。ガンジーは分かることを促すことはした。しかし残念ながら我々は彼のような哲学者ではなく Born to be WILD だということだ。食わず嫌いにいっぱい食わせるか。

〔「ぷあ」1996年のある号より〕


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駒場寮関係史年表


1877.東京大学・第一高等中学発足
1883.3.明治16年事件(卒業式に東大寄宿舎で暴動)
1889.3.22第一高等中学校移転:神田一橋→本郷向ヶ岡
1890.2.24第一高等中学校の寮として創設(木下広次):「東寮」「西寮」〜四綱領・「籠城主義」
    2.27全20箇条の規約制定
1894.9.12第一高等学校寄宿寮となる〜規約改定
1903.5.12藤村操入水自殺(華厳の滝・「厳頭之感」)
1906.6.9栗野転校事件(新渡戸稲造)
1911. 2.1徳富蘆花謀叛論演説事件
1918.〔「新人会」結成〜1929解散〕
1934.帝大農学部と一高のキャンパスを交換〜寮新築
    1.17駒場の寮の名前決定:「南寮」「中寮」「北寮」
    9.14寮の移転完了:本郷向ヶ岡→駒場
     〜洋風ベッド排撃運動
1942.卒業年繰上げ:3年→2年
1943.10.大学生、高等・専門学校生徒徴兵猶予停止
   12.学徒出陣開始・文科系学生の入営
1944.「学徒勤労動員令」
    7.31自治寮改革(安倍能成)(軍による査閲→学校取り潰しの危機に対処するため):寮幹事制導入・総代会廃止・寮主任住み込み
1945.3.18明寮を第二海軍技術廠が接収〜軍との間に絶えず摩擦
    5.26駒場空襲〜寮生が命を賭と(ママ)して消火に当たる
    8.28明寮を東京高校に貸与
    9.3一高授業再開〜全寮制度復活
    9.6米軍の寄宿寮接収の噂により寮生の荷物の疎開指示
   12.12休校(食糧事情による)〜翌2.2
1946.2.22寮委員会制復活・総代会復活(天野貞祐)
    7.17明寮が東京高校から返遷される
   10.12規約改正:正門主義・長髪美髪禁止の否決、懲罰委員会設置
   10.25原口統三入水自殺(逗子の浜・『20歳のエチュード」)
1947.3.31「学校教育法」公布・東京大学となる
1949.2.1第一高等学校最後の紀念祭(紀念祭=駒祭・寮祭の前身)
    5.31新制東京大学発足〜南寮は第一研究室となる
 レッドパージ
 GHQの圧力で駒祭中止
1950.3.24一高最後の卒業式
 東京大学総長の諮問機関として学寮委員会設置
    6.東京大学寄宿寮となる
    9.29レッドパージ反対試験ボイコット(〜9.30)〜寮食堂でピケ隊組織
   11.25第一回駒場祭
1952.7.18血のメーデー事件(5.1)で寮に捜索が入る:検挙者7名
1953.8.自治庁選挙部長「学生は郷里で投票せよ」通達→「選挙権問題」
1954.3.14「不法監禁事件(3.14事件)で寮内捜索
1956.5.26「教育三法」反対ストライキ
    6.現行規約の基本となる抜本的規約改正:ストーム禁止
1958. 11・ 9 「全日本学生寮自治会連合」(全寮連)結成
1959.11.28清水丈夫籠城事件(〜12.10)
1964.2.18文部省「学寮における経費の負担区分について」通達(2.18通達)〜「教育投資論」の思想→80年代に「受益者負担主義」の姿をとって現われる
    8.文部省「○○大学学寮管理運営規則」(マル管規)策定〜大学当局による寮管理の徹底を求める
1965.12.8マル管規・2.18通達をめぐり紛糾の末「寮自治五原則」採択
1966.6.12「東京大学寮連合」(東大寮連)発足
1968.7.5教養学部無期限スト突入(〜1.16)〜東大闘争
    9.9基礎科学科無期限スト突入(〜1.14)
   10.22教養学科無期限スト突入(〜12.27)
   12.11総代会「暴力集団(ママ:全共闘を指す)を駒場から追い出す」決議
   12.13寮食堂で代議員大会〜加藤提案に応じる代表選出
1969.1.10大衆団交〜「確認書」取り交わし
    1.11北寮屋上で学生大会〜ストライキ解除決議
    1.18安田講堂攻防戦(〜1.19)
1974.文部省「新々寮6条件」:食堂不設置/居室の完全個室化/大学当局による入寮選考/負担区分の徹底/各大学の寮生総数の固定/管理運営規則の明確化
1978.4.寮食堂北ホール改築
   10.8会計検査院「負担区分不適正」の指摘
1979.12.4解放派に明寮の一部が不法占拠される(〜12.9)(12.8警察導入)
1981.4.寮食堂の自主運営権を学部に返還;学部は生協に経営を委託
1982.1.25学部「2.18通達は遺憾」発言(団体交渉にて)
    7.7学部 同発言を一方的に破棄
1983.7.学部「新負担区分制度の導入」通告〜負担区分闘争
   12.14「新負担区分制度導入」反対ストライキ
1984.3.19負担区分問題に関し合意書仮調印(〜20)(84.5合意書を全寮投票で批准/5.24合意書正式調印)
    7.寮婦さんの学部雇用化(従来は寮生雇用)
1985.電気容量3倍化:一部屋5A‐→15A(〜87秋)
1988.4.寄宿寮の値上げ
 大蔵省関東財務局「三鷹寮敷地の非効率利用」の指摘〜敷地没収の惧れ
1988. 総代会「天皇制に反対する」決議(「Xデー」情況を受けて)
1989.9.「風の旅団」事件〜学生3名逮捕される
1990.3.寮風呂改修(87年の建て替え合意を破棄)
1991.10.17「三鷹国際学生宿舎(仮称)構想」の電撃的発表(10.9臨時教授会で一方的に決定の上)(1990.3から三鷹寮建て替え計画を極秘裡に進める→1991.7の学部交渉では計画の存在を否定する答弁)
   11. 11緊急総代会「予算請求待て、三鷹新宿舎建設と駒場寮廃寮を抱き合わせにするな」決議(11.12学生自治会代議員大会で同上の決議)
   11. 28交渉決裂〜学部「予算請求をここで取り下げると文部省に対して面子・信頼を失う「学生の間に強い反対の声はないものと解釈する」
   12.学部 無作為抽出した学生を対象にアンケート実施〜駒場寮の廃寮に触れず、三鷹新宿舎の「素晴らしさ」だけ歌って計画賛成に誘導
1992.1.13学部 計画の見切り発車を宣言
    6.「駒場60周年記念事業」募金学内で開始
1992.10.8三鷹国際学生宿舎(仮称)第一期工事起工式
    5.〜寮と学生自治会にこれまでとは異なる路線が浮上:三鷹新宿舎建設推進に重点を移動/駒場寮については「一方的な形での廃寮には反対」との言い方で「条件によっては廃寮も呑む」の立場に立つもの
1993.1.22総代会 以前の路線に軌道修正;ほぼ同時期、学生自治会も
    2.24学部「学内世論が盛り上がれば駒場寮は残る」発言
    7.27500名分の廃寮反対署名提出
    11.1学部「創造的学園スペース『駒場CCCL(Center for Creative Campus Life )』の創設に向けて」発表
    11.19 「寮存続を求める」ストライキ(学生の賛成数3500名)
    11.23寮存続を訴える加藤登紀子コンサート(動員数4000名)
1994.10.28総代会「95年度以降の入寮募集続行」決議,
   11.14学部95.4.1以降の入寮募集停止、96.3.31をもっての駒場寮廃寮を通告
   12.2「入寮募集停止撤回・駒場寮存続を求める」ストライキ
1995.10.17学部「廃寮通告」を行なうことを告知〜学生の結集により破産
    12.1〜教養学部学生全学投票:廃寮反対・キャンパスプラザ構想(CCCL一期計画)撤回を投票総数の7割で批准
    12.22学部「プレハブ仮サークル棟」建設通告(駒寮廃寮後の「サークルスペース」の一時的代替として)〜 「プレハブ」座り込み阻止行動→96.2 交渉の末、学部「プレハブは廃寮とは無関係の施設である」と認める
1996.4.2〜学部「説得隊」と称する教職員を寮内に送り込む
    4.8学部 電気・ガスの供給停止/渡り廊下を破壊〜寮生・学生の強い抗議で止めさせる
    4.24学部 再度取り壊し工事の強行を図る〜寮生・学生の行動により阻止
    5.教養学部学生全学投票:電気とガスの復旧・渡り廊下取り壊し中止・誠実な交渉を求める主文I 7割以上の賛成を以て批准/寮存続を求める主文II 賛成が約半数を占めたものの規定数に達しないため再投票(6月の再投票も同じ結果)
    〜学部「学生の皆さんへ」と題するビラを撒いて寮存続運動の妨害を繰り返す
    6.3学部(寮生が学生自治諸団体との協議の上、生存のために引いていた)電気コードをリール数十本ごと盗む.
    6.14全国集会(京大吉田寮・東工大サークル連合・信州大サークル協議会・山形大学学寮など参加)
    6.学部「学部長への法的措置の一任」を教授会で決定(採決を求める動議を否決の上)
    9.10学部による「占有移転禁止」仮処分申請を受けて東京地裁、仮処分執行
     〜「寮生20名で寮全体を共同占有している」というでたらめな決定
1997.2.5国=大学側「明渡し断行」仮処分申請
    2.25学部長名恫喝文書を寮生に郵送:「自主的に退寮しなければ執行費用・損害賠償を請求する」
    3.6東京地裁にて第一回審尋〜キャンパスプラザ計画の杜撰さが露呈
    3.18第二回審尋〜審尋打切り決定
    3.19国=大学側、仮処分申請対象を明寮のみに変更
    3.29「明寮明渡し断行仮処分」強制執行(200名ほどの警備員動員の下)
    4.25学部との交渉で、CCCL計画のうち北寮の敷地と重なる「スポーツスクエア」を概算要求していることが判明
    〜北寮・中寮に対する法的措置の可能性を示唆する学部との間でぎりぎりの交渉が続いて現在に至る

1997年6月21日 編集: 6.22シンポジウム実行委員会



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