iroha 17

いろは 17



---------------------------------------------------------------第十七弾 目次
CONTENTS 17
■巻頭言
■駒場寮1999
■東大は危険なフェンスを撤去しろ!
■『明渡し裁判』の報告
■『6・28裁判』の報告
■OBインタビュー N.Tさん(16期寮委員長)
■寄稿・駒寮の桜から遠く離れて 佐藤実千秋(83年入寮)
■お知らせ
■10,000円カンパで駒場寮に灯りを! 寮委員長からの要請全文

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駒場寮経験をつなぐ討論紙    99/5/23 投稿歓迎

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編集/発行:    駒場寮存続を支援する会
連絡先:        目黒区駒場3-8-1東京大学駒場寮北9S
電話:          ***-***-****
                **-****-****(呼)
代表:          成瀬 豊        (95,99期寮委員長)
WEB版           http://www.longtail.co.jp/iroha/
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巻頭言


北寮前の入寮募集立て看(撮影:足達)
 「これを残して何の意味があるの?」とは、ある教官が駒場寮について語った言葉である。本紙では様々な記事を通じて、駒場寮の経済的側面(=福利厚生施設)だけでなく、文化的側面も抽象してきたつもりである。そうした駒場寮<文化>に対する無邪気な無理解…。この教官の専門が<文化>人類学だというから恐れ入る。  「教養学部のカリキュラム改革は一定の成果を上げてきた。英語や基礎演習の教科書は、よく売れたでしょ」。寮問題から教養学部改革に話が及んだ時に、別の教官が語った言葉である。テキストが売れたことは悪いことではないだろう。外部から講師を呼ぶなどカリキュラムの改善を行っていることも承知している。が、それらが即成果と言えるのだろうか。教育の成果は、そんなにすぐに表われるものではないと思うのだが。
 学部改革の結果については、むしろ正反対の意見を少なからぬ教官・元教官から聞いている。「'90年代に入って大学院化などの学部改革が行われて以後、学部長室=執行部の支配体制が強くなったのではないか」。こちらの問いに対し、ある元教官は即座に賛意を示し、こう語った。「大半の教官は、計画を上から押しつけられても何とも思っていない。そのような体制を黙認している側にも問題がある」。現在でも、学部執行部ににらまれると何かと不利益をこうむりかねないのは、駒場寮に限った話ではないらしい。上のような教官の発言に接するにつけ、学内の政治問題に対する黙認の態度が思想性にまで影響を与えているのではないかと危惧してしまう。(大学自治に対する教員大衆の無自覚が抱える問題については、本紙前号で田熊義徳氏が詳察している。)
寮委員会作成の入寮募集立て看(撮影:足達)
 学部が乱発している警告文は、まるでロボットが書いたような無機的な文面である。寮生の書いたビラの方がずっと内容のあることを語っている。近年学部が行ってきた強行措置は、寮生を論理で説得できなかったために手詰まりになり(論理的根拠が弱いのだから当然であるが)、物理的な力に物を言わせ、押し切ろうとしているだけである。紛争を力で解決することは最悪の方法である。権力を行動原理とする官僚ならともかく、教育・研究にたずさわる者(=言語を媒介として行動する者)としてこのままでよいのだろうか。とりわけ人間や社会や生物を研究対象としている教官に訴えたい。汚れ役を買ってくれているなどという口実で自分を納得させ、三鷹特別委や学部長室の強行措置を黙認していいのだろうか。図書委員会の意見すら聞き入れられずに決まったという図書館の移転計画に、すでに問題が表われているのではないか。  政治的なことを長々と述べてきたが、駒場寮問題を踏まえて問われるべきなのは、大学にとってより本質的なことだ。大学教育は何を行うのか、大学は社会に何を与えるのか。
 携帯電話や電子メールなど、最新のコミュニケーション形式は寮の中にも浸透している。しかし、その一方で、寮の醍醐味と言える共同生活での対面的なコミュニケーション(=日常会話、議論、交流)も静かに根付いている。自分で考え、人と意見交換をし、共同作業をする。これは広い意味での教育機能である。寮から自治活動や批判精神が産まれているとすれば(寮発行のビラやパンフを読めばそれは明らかである)、これが源泉だろう。教室や研究室が知識・技術の習得を目的とするのに対して、寮はそれらの実践・実験の場と言ったらいいだろうか。
 現代の駒場寮は、田中秀征氏が寮生だった時代のように情報の発進基地にはなり得ないかもしれない。また、社会が求める新しい価値を産み出すこともできないかもしれない。しかし、それでもかまわないだろう。駒場寮に社会的意義を求めるとすれば、もう少し長期的な視野で考えたい。寮生活を経験した者が(=寮生活という大学教育を受けた者が)社会の至る所に散っていき、その経験を折に触れて参照しながら活動する。それだけでも十分に意義があると考える。OBインタビューや廃寮反対花見などで元寮生に会うたびに受ける偽らざる感想である。
 遠くにあるセミナーハウスにわざわざ出かけていかなくても、絶好の教育の現場が、キャンパス内に学生の手によって(!)継承されている。大学としてこれを活用しない手はないだろう(足達研太)。


駒場寮1999

3・10前期試験の合格発表。おめでとうパーティ。
3・23後期試験の合格発表。おめでとうパーティ。
3・26卒業生の追い出しコンパ。
3・28寮委員長選挙。新寮委員長が信任される。
4・2三鷹特別委を中心とした「説得隊」約30人が寮内に侵入。警告ビラをまいていく。鍵の空いていた部屋は、中をのぞいて写真を撮るなど、居住者を調査する意図もあった模様。寮生が対応して追い出す。
4・3オリパンフ『愛してこまりょう・自治生活編』 を新入寮生に配布。
4・4廃寮反対花見。
4・8「説得隊」が来る。
4・11三鷹特別委、職員ら数人が北中寮前で寮への警告ビラをまく(=「ビラまき隊」)。
4・13明渡本訴の口頭弁論。第七回。東京地裁民事615号法廷で( ページに関連記事)。弁論前に地裁前でビラまき。
4・15対教授会行動。ビラをまく。
4・16新歓コンパ。
4・19「説得隊」が来る。
4・25寮内大掃除。
5・14オリパンフ『愛してこまりょう・存続運動編』 を新入寮生に配布。
5・20定例教授会。ビラまき。

概況: 新入寮生が今春もたくさん入っている。クラスルームにも応募多数。北寮0Sのカフェも盛況。新入生に対する情宣活動も、クラス入りなどを4月以降持続的に行っている。


東大当局は危険なフェンスを撤去しろ!


 南ホールの取り壊し工事に際して立てられたフェンスは、工事終了後もそのままになっている。現在、北寮、中寮の二棟は、北側、東側、南側と三方からすき間なくフェンスに囲まれており、寮に入るには、入り口のある西側に回らなければいけない。これでは、通行にも不便であるし、災害時の避難にも支障がある。
 もう工事は終了したのだからフェンスを撤去するようにと、寮自治会が学部当局に要求を続けている。これに対して学部当局は、4月の教授会で永野学部長特別補佐が「工事区域だから、フェンスは撤去できない」と回答。5月の教授会では、小林寛道三鷹特別委員長が、「フェンスに囲まれている方が、外部からの人の侵入が防げてかえって安全だ」と発言。教官の間からも疑問の声が出た。不要かつ危険なフェンスは早急に撤去するように、学部に要求していく必要があるだろう。




駒場寮明渡裁判

次回:6月22日(火)10:30〜 東京地裁民事615号法廷


4月13日 第七回口頭弁論

国・大学側:永野学部長特別補佐、小林寛道ら12名。
寮側:加藤、尾林、藤田、中西弁護士。
傍聴者:寮生を中心に20名強。

裁判官:双方から準備書面が出ている。被告は陳述をしてくれ。
寮側:準備書面4、5*(1)に沿って説明する。
入退寮選考、部屋割などの寮の管理は寮自治会が行ってきた。また、大学当局との間で書面を作成し、自治寮という共通の認識、取扱いをしてきた。そうした経緯(=慣習)に反する一方的な廃寮決定が許されるのかが、この裁判の争点である。
我々の主張の骨子を述べる。
  1. 本案前の抗弁…本件は大学の自治に委ねられるべき事案であり、法令の適用によって紛争を解決することは適当でない。訴えの却下を求める。
  2. 大学は研究・教育機関だから、大学の自治の原則に基づき、内部で管理権の委譲を決定できる。【事実たる慣習に基づき、寮自治会は管理権限を有する】。法例第2条、民法第92条の規定にその法的根拠がある。国側は、国有財産の管理権の分属は法的に許されないと主張しているが、その理由を全く述べていない。国側の主張に反し、国有財産の管理に関わる問題について、慣習に基づく権限の委譲を認めた判例がある(=東京中央郵便局の慣行休息権事件の高裁判決)。駒場寮についても、管理権を委譲した事実があったのか否かが問題だ*(2)。
  3. 権利濫用について=国側準備書面3*(3)に対する反論。 跡地の有効利用を国側は主張しているが、跡地計画であるCCCL計画は根拠を失い破綻している。97年の明渡仮処分審尋においても、国側は北中寮については請求を取り下げざるを得なかった。現在寮を取り壊しても、跡地に新しい建物が建つ可能性は小さい。今の建物を改修して使っていく方が有効利用だ。
  4. 寮の必要性 現在でも入寮希望者が後を断たない。昨今の経済状況からもますます寮の必要性は増している。国の準備書面3には、次回反論する*(4)。
  5. 昨今の大学の自治をめぐる問題 大学の管理運営をめぐり、教授会の自治をなくしていく方向で法案が検討されている。しかし、大学には本来、効率よりも権力からの自立・教育研究の自由・教育の機会均等が求められるべきである。それらを通じて社会に貢献することが大学の重要な役割であり、それを踏まえた実質的論議をするべきである。
裁判官:紛争の中心にある実態と法律論が合っているのか否かが問題だろう。社会の変遷に対して、法律上の問題が変更を要求されているのかと思う。裁判所としては、現実的な合理的な処置の仕方がよいと考える。被告の主張は法学上は理解できる。しかし、今後意味のある解決をするために、裁判所にどう考えてもらいたいのかを次回以降明確に述べてほしい。裁判所としても把握しきれていないところはあるが…。
双方とも次回は5月中に書面を出してくれ。

弁論は約15分で終了。

【解説】
裁判官のコメントは、いかようにでも解釈できるため、真意は確かでない。次回で裁判官が、このあたりで判決を書こうとか、担当を行政部に移そうとかの決定をする可能性は依然残る。それゆえ、今後の展開については次回が重要な意味を持つと考えられる。

*(1)準備書面4は前回、5は今回提出。
*(2)駒場寮への管理権の委譲について東京大学と国とが異なった規範意識を持っていることを示す、以下のような事実がある。この裁判で国=大学側は、東大ポポロ事件判決を引用し「学生は大学の自治の主体ではなく、営造物の利用者にすぎない」と主張している(本紙14号で既報)。これを問題にした学生自治会が「東京大学の現在の立場を示したものなのか」と追及したところ、永野学部長特別補佐は、「この文章は過去にあった最高裁判決の判例を法務局が引用しているだけであり、法務局の主義主張を述べたものでもないし、大学当局の主義主張を述べたものでもない」と回答しているのである(今年3月9日の学部交渉において)。「あれは学部当局の立場とは違うのか」という学生自治会の確認に対しても、永野ら学部当局者一同はうなずいていたとのこと。つまり学部当局は、駒場寮の管理につき、学内では裁判時と異なる立場を取って平然としているのである。許し難いいいかげんな態度だと言える。寮側は、準備書面5などで裁判所にその旨を報告した。
*(3)国側準備書面3…寮側の主張=「明渡請求は権利濫用である」に対する国側の反論。「教養学部長が行っていた入寮許可は、公法上の占有権限を設定する性格のものではない。よって、その許可に基づく寮の使用は、法的保護の対象とはならず、反射的利益にすぎない。保護すべき利益がないのだから、権利濫用の主張は理由がない」というもの。
*(4)国側の主張=「寮生43名が寮を共同占有している」に対する反論は、今回書面で行った。1.各寮生と全寮連・都寮連が独自に管理・占有する部分は、彼らが居住・使用する部屋のみであり、その他の部分は、寮自治会が直接管理・占有している。2.このことは、寮規約、同室願、教養学部当局と寮自治会との間の様々な合意の事実などから明らかである。3.証拠として国側が提出した占有移転禁止仮処分決定書及びその執行調書(=96年東京地裁が作成)は、上記の事実と抵触する虚偽の報告書(=教養学部当局が作成した疎明資料)に依拠している。よって、決定書などにおける認定も誤りである。4.寮生43名の中には、進学等に伴ってすでに退寮し、寮を占有・使用していない者が多数含まれている。5.一方で、新たに学生が多数入っているため、現在駒場寮には、名宛人となっている者以外にも、多数の寮生が居住している(たとえば、97年3月当時は、合計117名の寮生が居住していた)。


6.28裁判

次回:6月1日(火)11:30〜 東京地裁民事721号法廷


 口頭弁論はここしばらく開かれておりません。今回は新しい読者の方々のためにこれまでの経緯をふりかえっておきます。
【6.28裁判とは】
 1997年6月28日(土)、教養学部が教職員200名、警備員150名を動員して、北寮の一部と寮風呂の破壊工事を強行、激しい衝突の中、警備員の暴行により怪我人が続出、4名が救急車で運ばれる惨事となりました。工事が行なわれた区画はいずれも占有移転禁止仮処分の対象区域ではなく、工事は明らかに違法な自力救済行為でしたが、学部当局は「キャンパスプラザ」建設のためと称して、周到な「作戦計画」の下にこの肉弾戦を仕掛けたのでした。この事件の責任を問うべく、特に大きな身体的・物的被害を受けた4名を原告として起こされたのが6.28裁判で、当会でも積極的に支援してきました。
 この提訴の直接的・形式的な目的は損害賠償にありますが、警備員を傭兵とした学生弾圧という、明寮明渡し仮処分のとき以来の当局の手法に待ったをかけるところにより実質的な意味があります。
【裁判の経過】
 被告のうち永野三郎は教養学部の評議員として、小林寛道(三鷹特別委)は当日現場で総指揮をとっていた者として、生井澤寛(同)はその補佐としてそれぞれこの事件に直接的責任があるにもかかわらず、「国家公務員としての公務であるから民法上の責任を問われることはない」と逃げに終始しました。一方の新帝国警備保障(株)も、警備員の権力行為(特に労働争議などへの実力介入)を固く禁じた警備業法に明らかに違反しておきながら、「当日の警備員の行為(=暴行傷害行為!)には公務員性があった」なる奇妙かつ危険な理屈を立てて争う姿勢を続けています。使用者責任を問われることを恐れた大学当局が後ろについてそう言わせていることは明白です。
【今後の裁判】
 訴えのうち教員3名を相手どった部分については、民事での損害賠償請求が98年12 月に棄却されたため、国家賠償請求に切り替えました。今後はこの国賠訴訟と新帝国警備保障(株)を被告とした民事訴訟が併合して行なわれることになります。併合後の第一回口頭弁論は6月1日(火)11時30分から(東京地裁民事721号法廷)。今後の展開への注目と支援、そして傍聴をよろしくお願いします。(編集部)


OBインタビュー

第4回  N.T.さん(68年入寮。大学教授)


聞き手:足達


--入寮されたきっかけは? 下宿やアパートに行こうとは思われませんでしたか?

当時はだいたいみんな貧しかったから、最初から寮です。受験も、寮があるから国立大学を受けようと。

--寮が楽しそうだから入るというよりは、生活上の必要からですね。

最初はそうですね。でも住んでみた感じでは楽しそうだったし、実際楽しかった。

--入った直後、カルチャーショックはありましたか?

最初はやはりすごかったですよ。入試の時にちらっと見てすごいとこだなと思ったんだけど、実際部屋に入ってみて、よくこんなとこに人が住んでるなと思いました(笑)。80年代はもっとひどかったと思うけど。

--建物の外壁や内壁の汚れは、その当時からあんな感じだったんですか?

60年代はまだきれいでしたよ。当時は入り口の脇に下駄箱があったんで、そこで履物を替えたんですね。廊下にもじゅうたんのようなものが敷いてあった。

--土足厳禁だったんですね。

そう。廊下に使わないベッドを置いたりとかは全然なくて、まだ汚いとは言えどもきれいだった。

--下駄は多かったですか?

ああ、下駄の人もいました。ぞうりの人の方が多かったですが。僕はそこまでいかなかったけど、授業にどてらを着て(笑)、出てた学生はいた。68年ごろはね。一人だけ、毎日必ず学生帽をかぶってる人もいた。天然記念物という感じに見えた。絶対はずさなかった。

--そういう人は、68年ですでに古かったわけですね。

でもつい最近、入学直後の記念写真を見たんだけど、男性は80パーセント以上、詰め襟の学生服ね。シンポジウムの記録*(1)で田中秀征氏が言ってましたが、寮食堂は、僕のころでも、朝35円、昼55円、夜55円でした。残食もあったし。で、寮委員の給料は4500円だったんです。食事部は、さらに味見と称して食事が食べられた。家庭教師は、週2回4時間で月6500円でしたね。奨学金は月8000円でしたし、大学の授業料が1万2千円の時代ですから。学費の年額の半分くらいがひと月の家庭教師で稼げるという時代ですね。

--国立大学の授業料が今と比べてずっと安かったんですね。

そうそう。物価と比べてもね。南寮一階の隅に床屋さんがありましたけど、130円だったと思います。

--部屋に電化製品はどのくらいありましたか? テレビはまだなかったですか?

ないない。テレビは70年代に入ってからでしょう。ステレオも68年当時はなかったけど、70年代入ってすぐありましたね。

--今は漫画の雑誌を買って部屋でよく読みますけど、そういうのは?

それはありました。とりわけ70年代ぐらいから。

--麻雀は?

60年代からあったと思いますけど。僕は一回もやってないから、ついに知らないんですけど。シンポ記録*(2)で誰かが書いてた通り、最初は洗濯場とか廊下の隅でやってたけど、だんだんと部屋の中でやるようになったという感じですね。

--部屋での生活は?

68年は、入ったとたんに6月17日に本郷時計台(安田講堂)への機動隊導入があって、7月から(教養学部無期限ストで)全面的に授業がなくなっちゃったから、それからはみんないろいろアルバイトに精を出したり、自分で勉強をしたりとか、人さまざまだったと思いますけど。

--アルバイトは家庭教師をなさったんですか?

ええ。僕に関してはそうだし、多くの学生もやっていました。ほかに駒場寮特有のバイトがあって、オカムラの椅子運びというのが、割が良かったですね。会社ができて移るときに、ビルの中に新しい机や椅子をどんどん運び込むわけね。予定の時間が延びたら割り増しを払ってくれたし、肉体労働だけどそんなに疲れないし。

--やっぱり当時は高度成長だから、そういう需要がいっぱいあったんですね。

そうそう。寮内放送で募集がかかったら、寮に遊びに来てる友達や他大学の友達もいっしょに、「それー行けっ」と言ってみんなで行きました(笑)。

--オカムラというのは会社名ですか。

そう。岡村製作所とか言ったと思うけど。寮のおばちゃんを長く務められた門野さんが、よく「岡村の…」と言って(笑)、放送してました。

--サークル活動は?

「山の会」に入ってました。最初に入った部屋は違うんだけど、68年の後半くらいから作ったんですね。それがたぶん85、6年くらいまで続いてたような気がするんですが…。中寮21B、22Bの辺りにあって、時々僕もちらちらと行ってたんですが。一番活発なころは、一ヵ月に一回くらい山へ登ったと思うんです。簡単な丹沢とか、八王子の高尾山とかが多かったと思います。なかには北アルプスから、ヒマラヤへ行った寮生もいます。とりわけ「法学部山の会」にも入っていた人などは。

--お酒を飲んだり、議論したりとかは?

うん、それもけっこうありましたよ。でもまあ、みんなお金がないから、半年ごとの部屋替えをした時とかにね。その当時は条件を同じにするとか言って、けっこう本当に部屋を替わってたからね。中寮から北寮とか。のちに形骸化するんだけど。

--クラスの友達が外から遊びに来るということはありましたか?

それはありました。寮生じゃないけど「山の会」に入りびたっている人はいましたからね。僕の部屋に遊びに来ていて知り合ってね。友だちの友だち、という具合いにメンバーが増えていった。

--教官は来ませんでしたか?

教官はあんまり来ませんでしたね。ただ、有名な先生ですけど、酔っ払ってよく来てた先生はいました。

--え…、ひょっとして早坂先生ですか?

そうそうそう、早坂先生。彼は芳賀先生や平川先生と同期で、確か教養学科の一期生なんでしょ。

--それは68年当時の話ですか?

僕が会ったのはもっとあとだと思うけど、でも70年か71年ころでしょう。

--僕が寮にいた80年代にも来てましたけど…。

よく来てましたか、80年代も(笑)。

--じゃあ、あの先生は70年代の初めからずっと寮に来てたという…(笑)。

そうそう(笑)。で、駒下に寮生といっしょに飲みに行ったりね。僕なんかも行きました。もうその当時から酒の度が過ぎている感じでした。

--総代会とか寮委員会の自治活動はきっちり行われていたんですか?

行われていた。で、時々ものすごい激論になった。そりゃまあ、そういう時代だったんでしょう。68年から70年の当時はすごかった。民青はそんなに強くなかった。そのせいもあったんでしょう。例の学生大会でも、フロントがトップだった時代で。代議員大会でも社青同が民青に対案を出して、しばしば民青が負けた。

--入寮された当初、党派からのオルグは盛んだったんですか?

それはありましたよ。寮委員になったのも、あとから考えるとそのせいだったと思うし、僕は民青とか党派には一切入ってないのですが、勉強会とかの場所でそういう勧めもあった。上越線の湯沢に寮委員会の合宿も行きましたけど、それもあとから考えるとオルグの会だったんだろうね。党派の部屋もそれぞれあったし。

--SとBで部屋を使い分ける区別はあったんですか?

68年はありました。部屋によっては崩れ出している時代でした。厳格に区別してた部屋は2割か3割でしょう。一部屋の人数は6人でした。

--食事は寮食堂ですか?

はい、僕は特にそうです。安かったですね。70年以後は物価も上がっていったので、食堂の値段も上がっていきましたけど。寮生以外もよく食べに来てました。でも経営は苦しかった。で、我々の時代はずっと、炊フ公務員化という運動をやっていました。寮食堂のおじさん、おばさんを公務員にせよ、学部で雇ってくださいと。もちろんほとんど実現されたことはない。事務の採用は我々がやっていて、微妙な問題はありました。働いている人で、ふらっといなくなって帰って来ない人がいたりとか。あの人といっしょに仕事はしたくないと言って、炊フさん同士が仲違いしたりとか。そういう苦情がしょっちゅう食事部に来るわけね。二十歳くらいの学生の所に。学生はだいぶ困ったけど。僕はその食事部と管理部を一期ずつやりました。

--その当時の寮生で、その後著名人になった方はいませんか?

世間的な意味の著名人はいないですね。寮生ではないけど、橋本治さんは68年入学で同級だそうですよ。文3だと思います。知り合いではなかったけど。先日「山の会」結成30周年の会合を学士会館でやったんですが、30人集まった中の6、7人が博士号を取ってたんで、すごいなと思いました。主として理系の人ですけど。優秀な人たちなので、いつかぜひ取材してください。文部省の宇宙関係の研究所にいる人とか、食品関係の研究所にいる人とか。研究者や大学の先生だけじゃなくて、官僚とかマスコミの人もいますね。寮委員長をやった人も二人います。

--その当時の寮委員長選挙は対立選挙になっていましたか?

なってました。だいたい3、4人はいつも出てたと思いますね。民青と各党派、革マル、社青同解放派、社学同とか、MLとかね。ただ寮委員長とかのポストは、だいたい民青だったと思います。ノンセクトから立候補した人もいたと思いますが、当選はしなかった。党派以外の勢力も寮内に一部あったと思います。最後に闘争を収拾させた牛久保さんはノンセクトに近かったんじゃないでしょうかね。

--68年に寮委員長をされた友光さんは、6・17に安田講堂に機動隊が導入されて一夜にして学内の空気が変わったとおっしゃっていましたけど*(3)、いかがですか。

100パーセント信じられるかどうかわからないけど、おおむね正しいんじゃないかと思う。無期限ストになって前期試験もなくなっちゃって、寮内でもこれからどうなるんだろうと言ってました。状況がすごくなったのは、10・21の国際反戦デーあたりからだったと思います。線路上を歩いてつかまったりとか。そんなに積極的に闘っているわけじゃないんだけども、みんなにつられて行ってそこでちょっと石を投げてつかまったりとか。そういう人は寮生の中にもけっこういたと思います。60年安保のころのようにみんながそうだったというわけではないけれども、ビラには「駒場を出撃」みたいなことが書いてあったと思います。

--この闘争に対する関わり方をめぐって、寮内が政治的に割れたりしましたか?

ノンセクトとかほとんど政治には関係ないといわれるサークルでもそういう議論はあったと思いますね。ほとんど全員がそういう議論はしてたと思います。政治的に割れていたと言って良いでしょう。

--全共闘は寮内では少数派だったんですか?

最終的にはそう言っていいでしょうねえ。全部合わせれば民青より多いけど、やはり分裂が激しかったから。寮内では社青同解放派は強かった。民青に次ぐ勢力だった。それは終始一貫してそうだった。

--中立的な立場の人には、いろんな党派からこの集会には出るなとか、出てくれとか働きかけはあったんですか?

ビラとかはありましたけど、そういうのはあんまりなかった。紛争には全く無関係に寮で生活してる人もいたけど、そういう人は少数だった。理系の人とか。わざと無関心を装ってたのかもしれない。乱闘とかの暴力も、構内ではあったかもしれないけど、寮内では目撃してないから、なかったと思いますよ。1月15日に8号館の封鎖を解除したときに、いざこざがあったのを覚えています。銀杏並木の辺に見に行ったと思います。それから、そのちょっと前に前名古屋大教授の特別講義を学生食堂でやっていた気がします。有名な哲学者で、そう、古在由重の講義だった。

--70年代ずっと住んでいらして寮生の気質の変化を感じられませんでしたか?

それはやはり個人主義化が進んだと思います。77年ごろはもう一部屋3人になってましたし。73、4年ごろから、部屋をカーテンで仕切ったりする人が出てきていましたね。140部屋もありますから、一概には言えないと思いますけど。

--80年代から90年代を通して大学生を教えてこられて、学生のパーソナリティに変化は感じられますか?

結局社会の豊かさの前進が関係してると思うけど、相当違うと思いますよ。

--社会的な問題に関心を持たなくなったとか…。

ますますそういう姿勢は強くなっているでしょうね。たぶん僕の大学だけじゃなくて全体に共通していると思うけどね。

--あまり勉強しなくなったとか、本を読まなくなったとかいう傾向は?

それも進んでいると思うんですね。今年、T大でロシア語を教えているのですが、そこの学生でさえ、なぜロシア語を勉強しようと思ったかという質問に対してね、やはり相当違う。よく言えばバラエティに富んでいる。「バレエで何とかという有名な人が出たから」とか、「運動選手で何々という有名な人がいるから」とか、「シベリア鉄道にいつか乗ってみたいから」とか。シベリア鉄道に乗るためにわざわざロシア語をやる必要もないだろうと思うんだけど。真意かどうかはわからないけど、でも「ドストエフスキーが読みたいから」とかいうのは40人に1人くらいで、あとはもうみんな全然違う。

--ロシアの文化や社会に関心があるからという人は?

うん、それもないかもしれませんね。68年ごろに比べれば、そういう意味ではロシアに対する関心は、10分の1かそれ以下かもしれない感じ。ロシア語履修者の数自体がそうなっているしね。履修者はめちゃくちゃ減ってますよ。68年ごろは駒場で300人以上は取ってた。十数パーセントくらいいたと思うんだけど。それがだんだん減ってきて、100人になり、一時期ちょっと盛り返したけれど、2、3年前に57人だと聞いた。去年は37名。一学年3500人とすると、ほとんど1パーセントの世界。

--習得が難しいというのは関係あるんでしょうか?

学生はみんなそう言ってますね。今の学生はチャイ語とか言って、中国語が非常に多くて。ドイツ語がちょっと盛り返してきていて。英語だけでいいという大学が多いんでしょう。いろんな所に書かれていると思うけど、今の学生には、ロシアは発展途上国というか後進国で日本が学ぶことは一つもない、そういう国の言語をやってもしょうがないという、あとはまあ難しそうだということでしょうね。キリール文字が難しそうに見えるのでしょうね。

--寮で生活して良かった点は?

絶対に寮の影響と言えるかどうかわからないけれど、やはり10人、20人の共同生活者がいれば無言のうちに影響受けていると思うし、彼はこれだけ勉強しているという刺激とかね。それはいいことだと思いますね。考え方でも、人間てこんなに興味の持ち方が違うんだと、それだけでも。時々変な後輩とか見つけたりして、こんな考え方もあるのかとかね。文3から理3に翌年入り直したような奴なんか、ものすごく独特なことを言ってたし(笑)。いろいろな変わった人を見てきた。寮生が友達を引き連れてきて、その友達と話したり。とりわけ68年は時間がいっぱいできたから、本を読んだり議論したりなんかして、そういう意味では面白かった。「山に登って、位置エネルギーを高め、それをまた0に戻して何が面白いの?」などと言っていた男が外務省にはいったよ。

--寮を出てからもおつきあいはありますか?

うん、たいていの「山の会」の人とは。外国行ったりなんかして、なかなか会えないけど。僕もつい先程ポーランドとウクライナに行ってきたんですが、これも非常に変わった社会で。ポーランドはどんどん資本主義社会に近づいてきており、ウクライナは不思議な社会でした。

--ロシア的な社会ですか?

そうでもあるけど、またちょっと違った部分もある。日本人から見れば、どんなこともすんなり行かない。電話でもブチブチって言って途切れちゃうことがしょっちゅうある。

--工業化が遅れているということですか?

一言で言えばそうですね。オデッサ(戦艦ポチョムキン号の反乱で知られる港湾都市)に住んでいたんですが、日本へかける電話回線が町に二つしかない。モスクワにかけた時も通じないから変だなと思ったら、一番最後に今かけている自分の電話番号を入れないと通じないシステムになっていたり。システムからして全然違う。不思議ですね。おそらく単純に技術面で遅れているだけなんだと思うけど、どこの先進国のどういう技術を取り入れるかでまた変わってくるしね。20年前のポーランドはフランスから取り入れたのかな。そういう意味では、ドイツ、日本に比べれば遅れているという気がしましたね。ワルシャワから地方都市にかける時は、特殊な電話ボックスに入らなきゃいけなかった。

--ワルシャワに留学された時は、政治的に大変な時期だったんじゃないですか?

77から79年はその直前でした。まだ共産党が強かった、よく言えば安定していた時代でした。

--最後に、学生寮を現代に残す意義については?

あなたはどう思います?

--僕の場合は地方から出てきて、一人暮らしもしたことがない、東京のことも全く知らないという状態でしたから、大学生活をスタートする上で、寮があったのはありがたかったですね。共同生活をすると先輩、友人がたくさんできますから、いろいろな面で守られていたなあと思います。

たぶん、そういう人は今も昔もいると思う。そのせいで寮生の所に遊びに来てた下宿生がいたんだと思う。みんなで無言のうちに修練し合う、勉強し合う場所というのは、必要でしょう。きれいではなかったけれど、ぜいたくな空間ではあった。ああいう場所は大学の中にあっていいと思うんですが。けっこう駒場寮はイギリスの有名大学のコレッジに似た役割を果していたのではないでしょうか。

--今の寮生を見ても、大学生になったのだから親元から経済的精神的に自立して生活したいと思う人は多いようで、そういう学生に安く住める寮を提供するのも大学の役割の一つだと思います。

その通り。社会主義国はその面では、優れていたと思うしね。駒場寮よりずっときれいな所で安価な値段でやっていました。ちゃんと食堂もあったし。今日本はほんとに豊かになったけど、そういう自立したい人はいると思う。僕も高校一年くらいから奨学金をもらっていて、中学高校大学大学院と、一切家からもらってはいないんですけどね。自立してきたわけです。僕の知り合いの人も、「わたしの旦那は、駒場寮に住んで家に仕送りしてましたよ」と言っていた。僕の時代もそういう人がいたんだなあと。僕は仕送りまではしなかったんですけどね。まあ、そういう経済的な部分だけじゃなくて、さまざまな人と知り合ったり、時に激しい議論もする場所は、大学にずっとあってもいいんじゃないかと思います。

--教室や学生会館で会う友人ともちょっと違う関係ですよね。

はい。やはりまた全然違う部分だと思いますね。俗にいう、「同じカマの飯を食った仲」ですよ。僕の「山の会」で言えば、寮がなければ理系のすぐれた人々と知り合えなかった。顔を見ただけ、あるいは、あたりさわりのない話をしているだけでは全然普通の人と変わりないかもしれないけれど、若いころに頑張って博士号を取っている、そういう人には普通の社会ではほとんど会わない。考えてみればすごいことなんだなあと思います。皆40台を超えて各方面で活躍していますが、それらが自分の仕事のようにうれしいですね。

--そういう意味では、寮には、多分野から知的刺激を受ける機会があるわけですね。今日はどうもありがとうございました。

4月某日 下北沢にて。


*(1)6・22公開シンポジウム報告集(最終版)=
http://www.win.or.jp/~cba/ds/kd/sympo/sympo.htmlの、田中秀征さんの項を参照。
*(2)同上の、金子万平さんの項を参照。
*(3)同上の、友光健七さんの項を参照。


駒寮の桜から遠く離れて

佐藤 実千秋(83年入寮。新聞記者)


 駒寮の桜が好きだ。5年ほど仕事で地方支局にいて、東京に戻ったとき、廃寮反対の花見に行った。妻と娘と、駒下で酒を2本買って参加した。
 OBが一升瓶をまたにはさんで「よかちんちん」と踊っているときに、連れていった当時2歳の娘は、「よく見えない」と前に出たがって困った。それ以来、私のトイレによくついてきたものだ。
 結婚生活を送っている彼女は中寮と北寮の間の桜を見上げて、北寮30Sの部屋を見上げながら、「お父さんとお母さんもここを何度も歩いたんだよ」と娘に話していた。娘は「ふーん」と言っているだけだった。わかっているのか、どうなのか。
  *  *  *  *
 今年の桜の季節に「おまえ、民青か」という言葉を聞いたのは、本当に15年ぶりだった。何の話の続きだったか忘れたが、午前3時ごろ六本木の安いバーで、10歳ほど年上のひげ面のデスクと二人で飲んでいて、尋ねられた。そのとき、なぜだか懐かしい気がしたのは、そういう言葉が出る空間から、かなりの時間離れていたことの証かもしれない。
 「どちらかというと、対立しているほうでした」とあいまいに答えると、そのデスクは肩に手を回して外に連れ出し、「あそこが山本義隆の仕事場」と道路と駐車場と植え込みを隔てたマンションの一室を指さした。「ああ、そうですか」とうなずいたが、酔いが回っていて、どの部屋だかよくわからなかった。
 15年ほど前に北寮9Bの部屋で、牢名主だったような人に、同じように聞かれた時には、そんなあいまいな答え方はしなかった。一生懸命、自分は何者か、説明したはずだ。確かに、民青の人たちが主宰する勉強会に何度も出てはいたのだが。
  *  *  *  *
 仕事をしているいまよりも駒寮時代の方が、「社会との接点」を感じられたのはなぜだろう。
  *  *  *  *
 廃寮の攻撃はいま聞くところより、ずっと牧歌的だった時代に寮委員会の管理部長や副委員長をやった。「寮共闘」という名前で活動もした。アルバイトを終えて、夜10時ごろから会議を始め、寝転がっての議論は午前2時、3時まで続いた。立て看を作り、ビラを書いて、明け方寝た。代議員会や総代会で「政治」らしきことも、嫌いだったがやった。デモ行進も、教授会前で座り込みもやった。
 しかし、本当に牧歌的だったのだろう。そんな対立がありながらも、例えば、寮委員会の100期祭の麻雀大会に、学生課の職員チームと、「寮共闘」チームが同席したりしていたのだから。結果は「寮共闘」チームは、予選は勝ち抜いたが、学生課に負けた。
 それに対して、「実際には戦っているのにおかしいではないか。裏と表は別なのか」と違和感を持つほど、自分も純粋だった。
  *  *  *  *
 突出した部分と、それ以外の日常生活がなだらかに連続していたのが駒寮での生活だったような気がする。自分が仮に突出していたとしても、冷たい風を、背中に感じずに済んだ。
 いま一緒に生活している彼女と北寮の屋上で抱き合いながら渋谷の夜景を見て、午前7時に30Sの自室を自称「岸首相の孫の家出娘」から訪ねられ恋愛の相談を受け、お金がなくなり2日間何も食わず最後は耳の奥が痛くなって正門で最初に現れた友人に150円借りて寮食堂でカレーを食べ、新左翼の活動家と夜中に将棋を指していて3回続けて勝ったら喧嘩になり、同じ階の住人が電球を使って作った味のないヨーグルトを味わい、買血の放送に応じて病院に行ったら前日酒を飲んでいたらだめだと言われ、ユーミンの歌の歌詞の「最果ての国」とはどこかということで一晩中議論が成り立ち、1月4日の夜に終電に乗り遅れ西武線清瀬の駅からヒッチハイクで駒場まで帰ったり・・・・。
 そんな混沌とした駒寮の日常が好きだった。そんななかでは、自分を問い返すしか、ないのだから。
 日常自体が突出していたのかもしれない。
  *  *  *  *
 駒寮時代に、障害者の介護をしている新左翼の活動家の車で、集会から一緒に帰ったことがある。助手席で地図を広げてナビゲーター役をやっていた。
 武蔵野にさしかかったあたりだったと思う。運転していたその活動家が突然、車のラジオから流れた曲に合わせて、山口百恵の「秋桜」を歌い出した。「このごろ涙もろくなった母が、庭先でひとつせきをする」。何だか、こっちまで、泣きたくなった、のを覚えている。
 突出した活動に突然、垣間見える日常。
 彼はいま、どうしているのだろう。
  *  *  *  *
 「なぜ、いま社会との接点が感じられないのか」。自分への問いかけがなくなり、社会への問いかけがなくなり、そして、経験が凝縮された場所から遠ざかっているためか。
 単にたくさんの人と接しているだけでは、だめなのだろう。自分への問いかけが不可欠なのだ。多分。それを必要とする日常が不可欠なのだ。
 駒寮にいたころ、呼びかける側にいた。いまはあのころの自分に呼びかけられているような気がする。
 変わらないのは、いまでも酔うと窓から用を足したくなることぐらいだ。
  *  *  *  *
 でも、しかし、日常が平板な日常になっても、根っこの部分で、特に徹夜明けの朝などは、心の奥でざわつく感じがするのはなぜだろう。
  *  *  *  *
 高橋和巳の「孤立無援の思想」が好きで、特にナロードニキに触れた一節が好きだ。セルゲイ大公の馬車に爆弾を投げつけようとした、ナロードニキの一員は大公の隣に幼い二人の子どもの笑顔を見て、どうしてもできなった。それを同志が非難する。「でも、あの子どもたちの白紙の未来にかけたい、それを自分たちが消すことはできない」。
 子どもたちの白紙の未来を消すことはできない。いま、本は手元にないが、そんな風に受け取った。
 高校の世界史の教師をしていたころ、この一節を試験問題に使ったことがある。あのころの生徒たちはいまどうしているのだろう。授業のことを少しでも覚えていてくれるだろうか。
  *  *  *  *
 いま、自分への問いかけをしているのは、子どもと接しているときだ。私たちは、ここまでだ。あとは、おまえたちだ。でもね、もう少しはできるかもしれないけれど。
  *  *  *  *
 束ねる議論には抗議した。いまも抗議したい。でも、束ねられれば、桜はもっときれいに見える、のだろうか。
 もう一度、駒場の桜を見にいきたい。今度は息子も連れて。4人で。
 駒寮時代のビラやパンフが、屋根裏の段ボール箱に眠っている。
 根っこの部分は、忘れたくない。なくしたくない、そう思う。希望でしか、語れないのが、少しくやしいのだけれども。




お知らせ


『いろは』は紙版もあります。WEB版にはない「寮生インタビュー」記事が読めます。ぜひ購読申込をしてください。

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また、『いろは』では駒場寮経験をつなぐという試みの一環として、OBの方々にインタビューをさせていただいています。在寮当時の様子をお話しいただける方、推薦していただける方からの連絡をお待ちしております。
電子メールの連絡先は、**(足達 研太)まで。

「駒場寮存続を支援する会」会員募集中
支援する会は、元寮生など駒場寮に一宿一飯の恩義を感じる駒場寮経験者を中心に96年の春に結成されました。東大当局の「廃寮宣言」をものともせず「駒場寮の存続をめざし運動を続ける寮生を支え」、ともに「駒場寮の存続を勝ち取ること」を目的に、駒場寮経験を交流させ、寮存続に向けたうねりを作り出していこうとしています。そのために必要となる、寮生への物質的・精神的支援、駒場にはそうそう足を運べないでいる会員のみなさんへの情報還流を主な活動としています。いま手にしていただいている討論誌「いろは」は、そのためのメディアです。支援する会では会員を引き続き募集しています。駒場寮の存続を勝ち取るために、ぜひあなたの力を貸してください。まずは購読会員に、購読会員の方は正会員に、正会員の方は運営委員になって支援する会を支えてください。

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 97年11月に会員制度を新たに整備した関係で、それまでに会費相当額以上のカンパを寄せてくださっていた方々を自動的に会員に数えさせていただき、98年10月分まで会費納入済と見なす措置をとらせていただきました。該当する会員の皆様、更新の時期がまいりましたので、会員登録の更新をお願いいたします。
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さくら銀行の支店の閉鎖統合により、6月14日からカンパ振込先口座が以下のものに変わります。郵便振替については従来通りです。
6月14日以降
さくら銀行 中野坂上支店(普)
口座番号 *******
口座名称 駒場寮存続を支援する会  難波 卓志
郵便振替
口座番号 *****-*-******
口座名称 駒場寮存続を支援する会


6月13日まで
さくら銀行 中野新橋支店(普通口座)
口座番号 3480811
口座名称 駒場寮存続を支援する会 難波 卓志


10,000円カンパで駒場寮に灯りを!


 前号で訴えました発電機カンパの要請に対し、さっそく多くの方々からご協力をいただきました。心よりお礼申し上げます。電気確保のかいあって、今年は昨年にも増す新入寮生を迎え入れることができたようです。彼らの定着とさらなる寮生確保のためにも、寮運動の全般的発展のためにも電気の安定供給は欠かせません。目標額の100万円に到達するまで引き続きカンパを受け付けておりますので、ご支援のほどよろしくお願いいたします。(「発電機カンパ」と明記の上、一口一万円を目安に支援する会の口座まで振込をお願いします。まとまった額になり次第、寮委員会に渡す予定です。)

駒場寮への支援カンパのお願い  147期駒場寮委員長

北寮の廊下。非常灯だけが灯る(98年12月:足達)
 学部当局による96年の電気・ガス停止以来、駒場寮では南ホール(旧・駒場寮生食堂)から全寮に対し電気を供給してきました。ところが、昨年9月の南ホールでの放火とそれに乗じた当局の南ホール建物に対する電気停止により、全寮が停電してしまいました。これに対し、電気を止めて寮生をむりやり追い出すというのは許せないことであるし、そもそも「廃寮」自体が不当なものであるということから、付近の建物からそれを管理する学生団体の許可を得てわずかながら電気を供給することで、公共部分にのみ電気をつけ、寮生は部屋ではランタンの灯りで生活し石油ストーブで暖をとるなどして、あくまで電気復を求めてきました。こうして今年の3月まで、周りの学生や全国の学友そしてOBのみなさんの協力もあて、わたしたち駒場寮生は実に半年間にわたる停電に耐え続け当局に対し送電再開を求めて闘ってきました。電気復旧仮処分の不当却下後、入寮募集を成功させ新入寮生の定着を図るためにも、安定的な最低限度の電気が必要であろうという判断などから、大型発電機を購入し、充分とはいえないながら全寮への電気供給を開始しましたが、このような電気供給体制には二百数十万円という金額がかかっており、さしあたり寮自治会のこれまでの貯蓄を充ててきたため、財政を徐々に圧迫してきていますし、今後も燃料費がかかるものと思われます。そこで駒場寮では、駒場寮存続のための支援カンパを募っています。停電攻撃をくぐり抜け、新入寮生も例年通りたくさん迎え入れることができ、今後も送電再開と駒場寮存続を求めてたたかっていきますので、駒場寮OB・支援する会のみなさんには、是非とも駒場寮存続支援のカンパにご協力下さいますようよろしくお願いします。
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