iroha 15

いろは 15



---------------------------------------------------------------第十五弾 目次
CONTENTS 15
■巻頭言
■秋の寮祭
■駒場寮1998
■電気供給仮処分を申立て
■『明渡し裁判』の報告
■『6・28裁判』の報告
■OBインタビュー
■お知らせ

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駒場寮経験をつなぐ討論紙    98/12/20 投稿歓迎

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                                                                【15】
編集/発行:    駒場寮存続を支援する会
連絡先:        目黒区駒場3-8-1東京大学駒場寮北9S
電話:          ***-***-****
                **-****-****(呼)
代表:          成瀬 豊        (95,99期寮委員長)
WEB版           http://www.longtail.co.jp/iroha/
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巻頭言



10・15 停電攻撃粉砕!学内集会/101号館に抗議行動(撮影・千葉)

 9月初頭の不審火に乗じて大学当局が南ホールへの送電を停止したことによる全寮の停電から、3か月が過ぎようとしている。
 この間、2度の集会・学内デモを含む抗議行動が組まれ、教室には連日、多種大量のビラが配られ、正門外や寮前などには、寮存続や停電の不当性を訴える立て看板が乱立している。
 寮の弱体化という当局のおそらくの思惑は裏切られ、停電という「措置」をきっかけに、寮に残る寮生たちの運動には勢いがついている。
 今年は駒場祭の2日前からの5日間にわたった寮祭も、停電の中で開催された。
 駒場祭では禁止されているカレー・炒飯といった「ご飯もの」の屋台も、電気炊飯器が使えないのではどうなることかと思ったが、それは無用の心配だった。北寮前ステージの大看板も復活、いや、復活というだけでは正確さを欠く。過去最大の高さ6メートル×幅11メートルの36枚看としてお目見えし、駒場寮がいまだ健在であることを象徴した。
 「駒場寮のアパート化」というようなことが言われてから久しいが、停電はそのような状況にも当局の望まざる変化をもたらしたかもしれない。限られた電力、かさむ予定外の出費、等々の限定の下で生活を営むためには、部屋同士、寮生どうしの連携・協力の必要が生れてくる。北大恵迪寮を思い起こせば明らかなように、今の駒場寮に見られる共同生活は、それが特定の政治的主張と結び付かずとも、すでに国=大学にとっては脅威かつ攻撃・解体の対象であり、いっぽう現在の寮生は、「安い・近い」に安住しがちだったかもしれないOBの知らない寮生活を発見しつつあるのかもしれない。
 大看板の準備に当たり、私はいくつか相談を受けた。その過程で、我々OBが残すべきだった、残してきたはずのノウハウや知識が、もはや残っていない現実を知った。直接に関わった作業ですらこうであるから、もはや寮に住まう者でない以上、私の知る寮の状況、あるいは大学全体の動きには、推理や想像、憶測や願望といったものが紛れ込んでしまう。
 まもなく本格的な冬が来る。いずれ電気復旧を求める仮処分申請に対して決定が下るだろうが、相手が国=大学であり楽観は許されない。冷え込む朝を、暗い夜を寮生はどうやって過ごすのか。あらかじめ大きなハンディのある本裁判をどう闘っていくのか。何が寮生が求める〈支援〉なのかは、寮生との対話の中で考えて行かなければならない(運営委員・千葉)。


秋の寮祭



北寮前の36枚看/屋台(撮影・寮生I君)

 今年の寮祭は、新入寮生がたくさん入ったことを反映して、大変活況だった。
 その象徴が、寮祭史上最大の36枚の大看板である。某一年生の野心的提案に端を発し、予算案から、設計、材料の調達、設置場所、安全性の確保、実作業まで多くの寮生が知恵と力を出し合って、看板を立てることに成功した。
 企画も盛りだくさんだった。北寮前ステージで大看板をバックにして、昼間はバンド演奏、夜はカラオケ。さまざまな食べ物の屋台。フリーマーケット。カフェやバー。麻雀大会。映画やビデオの上映会。講演会やシンポジウム。寮の内外で、どれも大勢の人を集めていた。
 訪問者も多かった。とりわけ、北寮1Sで行われた展示「写真とビデオで見る寮問題」には、ふだん近寄り難く感じていたという寮外生や他大生も多数立ち寄り、掲示物を見ていた。応対をした寮生によると、展示を見た多くの人が、大学のやり方に反感を表わし、寮に興味を示していたそうである。


駒場寮1998


10・12寮への電気供給を求める仮処分を、地裁に申し立てる。第1週から第2週にわたって、クラスアピールが続々と上がる。電気・ガスの復旧、「廃寮」反対、明渡し裁判反対などを求める内容。
10・13明渡し裁判の第四回口頭弁論。東京地裁で。終了後、弁護士会館で報告集会(関連記事あり)。
10・15寮委員会主催の学内集会。電気復旧、南ホールの修復・存続、「廃寮」粉砕などをスローガンに、学内デモと101号館に抗議のシュプレヒコールを行う(巻頭言参照)。
10・21電気供給を求める仮処分申請に伴う記者会見。5〜6社が来る。翌日の赤旗、ジャパン・タイムスなどで記事になる。寮内交流誌『ぷあ』発行。
10・22教養学部教授会に対して抗議行動。ビラまきとアジテーションを行う。
10・29寮への電気供給を求める仮処分の第一回審尋。東京地裁で。審尋の前に、地裁前でビラまき(関連記事あり)。
 
11月
11・10教養学部代議員大会。「廃寮」の撤回、明渡し裁判の取り下げ、電気・ガスの復旧、南ホールの封鎖・取り壊しを止めて直ちに修復することなどを、学部当局に要求していくことが可決される。
11・16代議員大会決定を受けた学内集会。寮自治会、教養学部学生自治会の連名で、教養学部長に対して要求書を提出。寮の電気・ガスを直ちに復旧すること、南ホールの封鎖・取り壊しを止めて直ちに修復と電気復旧をすることを要求。
11・17寮への電気供給を求める仮処分の第二回審尋。東京地裁で。審尋の前に、地裁前でビラまき(関連記事あり)。
11・186・28裁判の第四回口頭弁論。東京地裁で(関連記事あり)。
11・19寮祭が始まる。23日まで(関連記事あり)。教養学部の定例教授会に対し抗議行動。
 
12月
12・1教養学部が文書「学生の皆さんへ98(2)」を配布。寮問題の経緯や現状について従来の立場をなぞる、代り映えしない内容。数日後、寮が反論ビラで応酬。
12・26・28裁判で、永野、小林寛道、生井澤の三教員については個人責任が問えないとして、提訴棄却の判決が出る。
12・4寮への電気供給を求める仮処分の第三回審尋。東京地裁で。審尋のあと、地裁前でビラまき(関連記事あり)。
12・8寮自治会が永野特別補佐ら学部当局との間で学内交渉。当局は、用途廃止した建物には電気は通せないと型通りの回答に終始。
12・14寮への電気供給を求める仮処分の第四回審尋。東京地裁で。審尋の前後に地裁前でビラまき(関連記事あり)。
12・17定例教授会に抗議行動。
12・18明渡し裁判の第五回口頭弁論。東京地裁で(関連記事あり)。


電気供給仮処分を申立て


 10月12日、債権者=駒場寮自治会は、債務者=東京電力、国、東大学長、教養学部長らに対する仮処分命令申立書を、東京地裁に提出した。東電に対しては「寮建物に電気を供給せよ」、国・学長・学部長に対しては「東電が寮に電気を供給するための工事を妨害をするな」という内容。

10・29 第一回審尋

 固い国側の態度

東京地裁民事第9部第2審尋室。
出席者は、裁判官3名、国・大学側5名(訟務検事など。教官は永野三郎のみ)、東電側4名、寮側5名(代理人プラス寮委員長)。

国側代理人:不法占拠だから、電気は通せない。
東電側代理人:申し込みに必要な要件を満たしていない。大学が反対しているから。
寮側代理人:(国に対して)本訴に入っているのに、一方的に電気を消すとは何事だ。(東電に対して)こちら側で、施設の設置や電気代の費用を持つなら、契約はできるだろう。
国側:寮が東電と契約するのは自由。しかし、学内に電線を通すことには、同意できない。
寮側:それでは、借家契約の時にも、大家が自由に電気を止めてよいことになる。
国側:国有財産だから、借家契約とは違う。
寮側:人が住んでいるのに、電気を止めてよいのか。常識論だ。
国側:国有財産だからダメだ(の一点張り)。
裁判官:費用を寮が持つという点がこれまでと違う。その点を国は考えてくれ。

 国の訟務検事は、寮側の追及に対して「国有財産だから」と、文字通り木で鼻をくくった態度に終始。非常に固い態度だった。

国側の書面での主張
 廃寮になるまでは、建物が寮として使用されていたので電気を供給してきた。しかし、寮に対して電気を供給するという契約や合意をした事実はない。84年の合意書は、寮生と教養学部との間で電気料金の分担(負担区分)を定めたものにすぎず、寮生に対し電力供給義務を負っていることを確認したものではない。
 寮生が電気を使えたのは、大学が通していたという事実上の利益であって、廃寮にともなって、電気の供給を停止する措置を取ったにすぎない。

国側の書面の解説
 結局、学内での双方合意に基づく寮運営の歴史については故意に触れないで、自分が廃寮決定をしたのだから電気を止めてもいいんだと一方的に言い募っているだけ。その根拠を契約文書の不在に求めているところはいかにも官僚的な発想。少しでも学内の歴史・事情を知る者が読めば、笑止千万な内容である*。
 実態から遊離した形式論で押し切ろうとする当局者の不誠実きわまりない姿勢、明渡し裁判ですでに明らかなその厚顔無恥ぶりがここでもまた繰り返されている。


 *ちなみに、国・大学側がここで水光熱費の負担区分をめぐる合意書の存在に公式に言及していることは、明渡し裁判での彼らの主張「大学が寮に管理権を与える決定をすることは、法律上ありえない」との間に矛盾をもたらさずにはおかない。「教養学部との間で電気料金の分担(負担区分)を定めた」契約当事者は、正確に個々の寮生ではなく寮自治会であったから、この合意書を教授会で承認したということは、とりもなおさず「大学が寮に[少なくとも財政]管理権を与える決定」を下したということ、「法律上ありえない」はずの決定が実際にはなされていたということを意味するからである。−−−形式論に頼ったがゆえの落し穴と言うべきか。)


11・17 第二回審尋

 裁判官に、寮側の主張を聞く姿勢。情勢はやや好転か

 寮側が、陳述書を提出した。寮生、寮内サークル、学生自治会委員長など、計16通。停電による被害や生活の不便な現状をさまざまに訴える内容。
 寮生が6〜7分、陳述。

寮委員長:憲法で保障されている健康で文化的な最低限度の生活さえ営めない状態だ。電気が供給されずに寮に住めなくなると、経済的な理由で学生をやめなければらない者もいる。
寮生S君:これは、寮生の追い出しが目的だ。

 裁判官は、寮生の主張を熱心に聞いていた。

寮側:今年も新入生がたくさん入っている。寮の必要性は日々確認されている。
国側:ほとんどしゃべらなかった。(反論の書面にも、積極的な理由なし。予算がつかないから、ぐらいしか言っていない。)
東電側:供給できるかどうかは、大学次第だ。(実際、電気を通す権限は学部長にある。)

 裁判官は、早急には決定を書きたくない様子。寮生らの訴えを受けて、電気を供給しないでよいとは簡単に言い難いのだと思われる。当事者の間で自主的に解決してほしい意思がうかがえた。
 国側を外した、寮との個別の話し合いでは、裁判官が妥協案として期間を限定する方式を提示した(一年間や、一審判決が出るまでなど)。寮側代理人は、明渡しの本訴が確定するまでなら考えてもよい、と返答。いずれにしても、裁判官が電気供給について考え始めてきたと言える。このあと裁判官は、国側とも個別の話し合いを持った。

12・4 第三回審尋

 妥協点の方向、ほぼ定まる

東電抜きでの、寮、国、裁判官、三者の話し合い。寮生も約10人入室。

裁判官:用途廃止した建物だから、予算がつかないことを大学は問題にしている。期限を切るという方式では、どうか。
寮側:本訴で明渡しが確定したら(つまり、最高裁で明渡せという判決が出たら)、出て行かざるをえないので、それまでなら受け入れてもよい。
裁判官:一審判決が出るまで電気を通すという方式ではどうか。一審判決後、電気を消されても、再度訴えることはしないという条件つきで。それを約束しないと、国側は提案を呑まないだろうから。
寮側:それには、即答できない。
裁判官:高裁判決まで電気を通すという方式では、どうか。(近年、高裁判決は比較的早く出る。)

 12月14日(月)14時から、もう1回審尋をやることに決まった。
 「決定を書くのか」という寮側代理人の問いに対し、裁判官は、慎重に決定すると返答。
 前回審尋から、期限つき電気供給の案が裁判官から出ているが、それが今回、より具体的になった。裁判官の態度ははっきりしたと言える。期限つきという案で両者を説得しようという意図。
 しかし、期限が切れたあと、再び電気を通せと言わないという条件は、こういう交渉にはあまりなじまないものである。普通は、いつまでという期限がつくだけ。裁判官の提案も、その点は明確ではない。
 国は、寮から出ていく時期を決めれば電気供給を考えると言っている。(それは本訴で係争中だから、こちらとしては当然呑めない。)裁判所の決定は避けながら、何らかの和解に持ち込みたいところ。

12・14 第四回審尋

 国側が裁判官の和解案を拒否。裁判所による決定へ

寮側:(前回までの審尋の経過を受けて)一審判決までという期限つきの供給方法で和解したい。再度訴えないという条件をつけることに関しては、裁判官が文面を考えてほしい。
国側:寮に通電するためには工事が必要で、用途廃止しているからその予算がつかない。よって、通電はできない(と強く拒否)。

 裁判官が国、寮と個別の話し合いを4回ほど(約1時間)続けたが、国側があくまで和解を拒否したため、

裁判官:これでは、両者を取り持ちようがない。前回の案で、国を説得できなかった。

ということで、結論は、今月25日(金)に出る裁判所の決定に委ねられることになった。
 現在、裁判所の決定待ちの状態。明渡し裁判も含めたこれまでの裁判の経過から見て、電気供給を認める決定を勝ち取ることは難しいと思われる。


明渡し裁判の報告


 駒場寮自治会らが国から寮建物の明渡しを求められている裁判、いわゆる明渡し裁判について報告する。

10・13 第四回口頭弁論

寮側:加藤、尾林、藤田、中西の四氏弁護士。
国側:永野、小林寛道、浅野評議員ほか計10名。
裁判長が交代(最高裁からの玉突き人事によるもので、当裁判とは無関係の模様)。
傍聴者:約30名。けっこう盛況。

 前回国側が提出した書面に対する反論書面を、寮側が提出。冒頭、寮側代理人が、概略を口頭で説明した。

寮側:駒場寮は、歴史的に学生が管理してきた。大学との間で合意もある(確認書、合意書など)。
大学の自治の観点から考えて、法律に基づかない自主的な学内の運営も保障されねばならないし、それは事実、行われてきた。「大学が寮に管理権を与える決定をすることは、法律上ありえない」という国側の主張は、事実に基づかない机上の空論である。そもそも、この問題は学内で解決されるべき問題であり、国有財産法の単純な適用で決着をつけようとすることは重大な誤りである。
こちらが寮運営に関して書面で述べた事実関係を、明確に認否してくれ。
国側:返答なし。
裁判官:寮側の主張を、荒唐無稽と言うつもりはない。しかし、通常の規範の範囲を超えて紛争が生じた場合は、双方とも譲歩しないといけない。
この事件を通常の事件として処理するのか(一般の民事裁判。通常部が担当)、それとも、公法関係の分野として処理するのか(行政部が担当)が、まず問題になる。引き続きこの法廷でやるか否かを、次回に判断する。

 以上、約15分。次回口頭弁論は、12月18日(金)16:05から、民事615号法廷に決まった。
 終了後、弁護士会館で報告集会。傍聴した寮生・学生との質疑応答が持たれた。

解説
 裁判官(通常部に所属)は、行政部(専門部)に譲りたがっている。仮処分の時と違って、自分の部では判断したくないようだ。行政部は行政法の解釈適用を専門とする部だから、寮側としては、その土俵で裁判はやりたくないところ。(しかし、通常部から行政部への変更は、裁判所内部の事務分配の問題だから、異議申し立てはできない。)
 国側は、相も変わらず、学生の自治を認めない形式的な法律上の議論を繰り返している。寮自治の歴史については、証人申請なども含めて、きちんと事実関係を調べさせる必要がある。
 また、国(法務省、文部省)はともかく、大学の立場としては、これでは大問題。裁判になったのだから学内解決を離れたんだという無責任な態度と共に、学内でも大学を追及する必要がある。
 なお、6月以降、訴状の送達はなく、寮生を含む約20人の名宛人については、訴状送達がなされないまま、裁判は進行している。

12・18 第五回口頭弁論

国側:永野、小林寛道、浅野評議員ほか計10名。
寮側:尾林、藤田、中西の三氏弁護士。(加藤氏は、病欠。)
傍聴者:約20名。

 12月中旬に、まだ訴状が送達されていなかった約20名の名宛人に対して、住民票の住所に住んでいない者がいるとの理由で、裁判所によって公示送達*と付郵便送達がされた。
裁判官:すでにご承知のことと思うが、公示送達と付郵便送達を行って、訴状の送達は全て完了した。今回送達された者は、今日の口頭弁論から先行の裁判と併合する。代理人への授任はどうなるか?
寮側:基本的にほぼ全員に授任されるはず。次回までに確定する。
裁判官:今回、原告が準備書面を提出した。寮側は追加する主張を検討しておいてくれ。
寮側:今回の書面については、次回反論する。

国側の書面の解説
 国有財産法に依拠する従来の主張を踏襲しただけ。寮側が前回求めた釈明・認否(原告の主張は、大学の自治に関する東京大学の考え方を示したものなのか/寮自治会は、大学の自治に基づいて寮建物の管理権限の移譲を受けていた/原告の言う寮建物の共同占有とはどういうことかなど)に対して、その要はないとして全く答えなかった。確認書についても、学生自治団体との合意がなければ教授会は何事も進められないという趣旨ではないと回答。

裁判官:通常部で裁判を続けるか行政部に移すかは、次回までに考える。(公示送達があった関係で、この判断が次回に延びた。)

 以上、約10分。次回期日は、2月16日(火)1:15から、民事615号法廷で。
終了後、地裁内で弁護士、寮生・学生を交えた懇談を行った。

*公示送達…裁判所内に公示を貼り出すだけで送達に代える方法。名宛人が訴状を受け取っていない間に裁判が進行する危険がある点で、欠席裁判にもなりかねない送達方法である。



6・28裁判の報告


 昨年6月28日、教養学部当局により強行された北寮裏口および寮風呂の取り壊し工事の際、学部が導入した警備員から暴行を受けた四名(支援者を含む)が、永野三郎・小林寛道・生井澤寛の三教員と新帝国警備保障に対して損害賠償を求めた民事訴訟=「6・28裁判」について報告する。

11・18 第四回口頭弁論

 原告弁護団が国に対して行った訴訟告知について。

原告代理人:我々の所には国からの返事は来ていないが、裁判所には来ているのか。
裁判官:来ていない。そこで、提案がある。国家公務員である三教員については、国家賠償請求裁判を起こして、民事裁判と並行してやっていったらどうか。国家賠償請求裁判を起こせば、教員の「公務員」性について国が答えるだろうから。
被告(三教員)代理人:「公務員」性があれば、国家賠償請求裁判になるし、「公務員」性がなければ、民事裁判になる。三教員について、両方を並行してやっていくのは矛盾している。
裁判官:では、こうしよう。三教員については、いったん判決を出す。で、三教員については国家賠償請求裁判で、警備会社については民事裁判で並行してやっていく、ということでどうか。

 三教員についての民事判決マ三教員について国家賠償請求マ国が答弁書を提出、という日程がおよそ2カ月かかるとの見込みから、警備会社についての次回口頭弁論期日は、3月3日10時半から、民事721号法廷に決まった。
 三教員についての民事損害賠償請求裁判は、個人責任が問えないとして棄却する判決が、12月2日に出された。これを受けて、原告弁護団は国家賠償請求裁判を起こす予定である。


OBインタビュー

    第2回

  西 村 秀 夫 さん(36年入寮・元教養学部学生部専任教官)


 西村秀夫さんは1936年に旧制一高時代の駒場寮に入寮、庭球部で寮生活を過ごされました。'51年には再び駒場に戻られ、教養学部学生部専任教官として学生生活に関する助言や支援を行なう仕事に当たられ、'75年に退職。以降、今日まで、障害者の自立を支援する仕事に取り組まれています。
 数年前にも駒場キャンパスを訪れたことがあるそうですが、ご自身が植えた樹木をご覧になり、「大きくなったなあ」と、その成長を喜んでいらっしゃいました。

聞き手:足達




  一高時代の寮生活

−入寮されたきっかけは?

中学校三年(旧制)の時に、今までの自分を変えたい、家から出ようと思って、「東京に行って、もまれて勉強したい」と親父に言ったら、「そうか、俺も今の仕事をやめて東京に出よう」と言われて、家ごと東京に出ちゃった。それで家出ができなかった。二年目に試験に受かって入寮して、その時に「ああ、これで俺は家出ができた」という感じでした。家は下目黒にあったんだけど。

−寮生時代の寮生活の様子をお聞きします。何人部屋でしたか?

十二人です。南側が自習室で北側が寝室。割り算すると、一部屋六人です。僕らのいた庭球部はわりとジェントルマンだから、ちゃんと自習室と寝室を分けて使っていました。
僕は北寮13番に入ったんだけど、そこは庭球部の一年生の部屋で、隣の席に加藤周一氏がいた。彼はねえ、一年生の時から、フッサールの現象学序説なんかを読んでて、僕はトルストイの民話を読んでて、まるでレベルが違う。そして、彼はテニスの方もたちまち正選手になって、僕は一年半、もっぱら球拾い。そっちの方もまるでレベルが違う(笑)。
庭球部に入って最初にぶつかったのが、歓迎コンパ。折に触れてコンパがあって、これは極めてまじめな、率直に話し合う会で、お茶と煎餅ぐらいあったかもしれないけど、とにかく一人一人、その時に思ってることを、気張らないでありのままに話す。庭球部だから練習のつらさを話したりしましたね。
やっぱり青年時代だから、生きていく拠り所を見つけようという気持ちがあって、友達や上級生に触発されて、本を読む、友達と話し合うということができるようになって。そういう意味で僕にとっての寮生活は、本音で話し合う生活がそこにあったということです。まあ、庭球部はジェントルマンですから、生活はきわめて真面目な方でね。加藤君なんかは真面目じゃない方で、庭球部は禁酒禁煙なんですが、それに反抗して彼は煙草を吸ったんです。それをとがめられて退部させられた(笑)。霜が降りるころになると庭球部はシーズンオフで、練習はない。その期間は、煙草を吸っても良かった。ところが加藤君はシーズン中に、反逆して煙草をやったんだね。

−退寮させられたわけではないんですか?

うん、退寮じゃない。他の部屋に変わった。そこが文学青年の集まりで、彼はそこで自由に育ったわけですね。彼の目から見て、西村がどんな寮生だったかは、『羊の歌』っていう岩波新書の加藤君の本に、僕のスケッチが書かれています。まあ、当たらずと言えども、遠からず(笑)。

−去年、寮の公開シンポジウム『自治と大学と社会』では、隅谷三喜男さん(34年入寮)に講演していただきました。

隅谷さんは僕より2年上で、一高が本郷からここへ移って来る時の移転に関する委員をやってたんですね。僕が一年の時に彼は総代会の議長をやってて。名議長でした。議長ってのは、寮規約を全部暗唱してるわけね。それで随時、それを引用してさばいていくわけ。やあ、えらいなあと思って、感心した。2年上っていうと、一年生にとっては神様みたいなもんで、1年上は兄貴なんだけど、みんな畏敬の念を持って見てた、その一人ですね。

−では、隅谷さんは優等生タイプで、加藤さんは不良タイプという感じですか?

僕達から見ると、加藤君は括弧つき不真面目なんです。だけど、彼の生き方は、ほんとに真面目だったと思いますよ。今でも、きわめて真面目な人間です。正直に批判を書いてる。
あと寮生活について言えば、庭球部の他に運動部の中では、テニスとボートと陸上と野球が代表的な部で、一高と三高の試合が毎年あって、それに勝つことを目標にして練習してた。ですから、猛練習で、授業終わってから、夕方ほとんど球が見えなくなるまでやってました。でも庭球部は真面目だから、練習終わって風呂に入って飯食って部屋に戻って、それから猛然とみんな勉強した。で、夜の10時ごろになると、今の学生会館の辺りに喫茶部っていうのがあって、そこ行ってコーヒーを飲んだり菓子を食ったりして、また12時ごろまでがんばったものです。

−食事は寮食堂ですか?

そうです。食堂は、昔から今の所にありました。けっこう、おいしかったですね。三食。これも完全自治で、寮委員が調理人達を監督してね、調理人のおじさん、おばさん達もいい人達だったけど、献立を作り、材料を寮委員が築地の魚市場まで買いに出かけて。

−寮内で、どういう行事がありましたか?

部屋単位だったんだけど、毎学期に一回、つまり年に三回、晩餐会というのがあって、全寮の生徒が食堂に集まって、多少ふだんよりご馳走を食べて、先輩を呼んで話を聞くという会がありました。
これは、おじいさんから若い人までいろんな先輩が来て、それぞれの人生経験を語ってくれるので、大変参考になりました。
戦後の晩餐会で、文部大臣の灘尾弘吉が来て、矢内原総長と並んで座ったんだけど、「なぜ文部大臣を呼んだのか」ということについて、矢内原先生は、「あくまでもこの寮の中では、友人関係なんだ。諸君と我々も友人だし、灘尾君とも友人関係なんだ」ということを強調しましたね。文部省に対してはっきり線を引いて、文部省を呼ぶことはしてはならんと。友達として、先輩として呼ぶならいいけど。はっきり言われた。文部大臣の前で釘を刺した。
先輩達が帰ったあと、全寮茶話会というのがあって、寮生が次々に立ってみんなの前で話をして、いつの間にか東の空が白むという時まで、話し合いが続いた。それでも寮に帰ってベッドに入って、授業に遅れないように行くというのを誇りにしてた。誇りにしない人もいたけどね。

−部屋を超えた友人関係は?

隣室コンパというのがあったけど、僕は運動部だったからその余裕はなかったね。運動しない一般の学生は、クラスの部屋があった。クラスで対抗レースをやって、それを組選と言ったんだけど、組選の部屋というのもありました。
とにかく自由に話ができる、話し合いの中から学ぶということが寮生活のいいとこだったんじゃないかなあ。それについて学校当局は一切介入しない。生徒主事というのが当時はいて、監督する役割なんだけど、一切口を出さないですね。僕らも親父として、晩餐会なんかには呼んでた。その役割を戦後、僕がやったわけ。

−アルバイトは?

少しはありました。あんまり必要なかったんだよね。必要な人も寮に入ってはいたんだけど。家庭教師やったりね。戦後僕が学生部に来た時(51年)は、これが大問題で、食費が出せない学生がいたから。有名だったのは、一日にコッペパン一つで生きているという伝説の人物がいてね。だけど、そんなことは不可能だから、本当かどうか。とにかく、生きていくためにアルバイトをするという時代だった。売血、血を売って食費を稼ぐという人がいました。それはまるで蛸が足を切るように、悲惨なことだった。それで、猛然と僕はアルバイトの世話をした。

−先生が寮生活を振り返って、そこで得たものは何ですか?

やっぱり、一つは自由です。それは、さっき言った、家出をしたこと。親の監督や、それまでの自分のでき上がった生活から解放されて、若い同世代の人のぶつかり合いの中で自分の生き方を作っていくという自由、それが寮生活の第一だったと思います。その自由の中でいい先輩、つまり同じような目標を持って少し先を歩いている人、それからだいぶ先を歩いている先生、そういう人に会う機会があったということ。
僕の場合は、三谷隆正という先生で、内村鑑三門下のお弟子さんでね、立派な哲学者で、他の高校の校長に要請されたこともあったけど、一高で学生と一緒に暮らしたいということで、終生、一高の教授で通した人です。一高の寮生はほとんど全ての教授にあだ名をつけていたけど、三谷先生だけは、あだ名がつかなかった。実に清潔な感じの、やさしい明朗な方で、非常に芯の強い人でした。そういう先生に出会ったのは本当に幸いでした。岩波文庫で『幸福論』という本を出されています。
それから、矢内原忠雄教授は、僕がここに入った37年に東大を追われたんだね。戦争に反対したんで。だから一年の途中まで法制経済という科目を担当していた。

−その事件があった時の学内の様子は?

もう僕らの時にはわからなかった。寮にいたわけだけど、本郷のことで、こちらにはほとんど伝わらなかった。というのは、学生に対する思想的な弾圧が昭和の初めから厳しくて、ある意味では骨抜きにされていた。だから、あんまりそういうことに関心を持つ人はいなかった。戦争反対の気持ちはあっても、あんまりそれを表に出さなかった。特に運動部は対抗戦に勝つことに専念してたからね。軍国主義的ではなかったけれども、矢内原事件ていうのは、僕らの所には波紋が及ばなかったなあ。あれ、矢内原さん、いつの間にか来なくなったよという感じで。

−33年の滝川事件はどうでした?

僕らの時代には、滝川事件は、遠い霞の向こうのことになってました。すぐ近くで起こった矢内原事件でさえ、関心を持たなかった。

−寮生の間でも、現実の政治に対する問題意識はなかったんですか?

始まったばかりの日中戦争を支持する右翼的な連中はいたけども、全体からは浮いてたね。

−矢内原事件の時は、他の教授の反応は?

黙ってたね。三谷先生なんかはもちろん、矢内原さんを支持したと思うけどね、表立って何も言わなかった。もう相当、軍部の圧力が強い時期だったんだねえ。矢内原先生は2・26事件が起こった時に、もうこりゃあいかんということで、その絶望というか、日本の運命に対する怒りの表現として自分の髭(ハナヒゲ)を剃ったと書いています。これでもう破滅まで行くと見通したんだね。

  一高時代と現代との違い

−去年のシンポジウムで隅谷さんは、自分が寮にいた時は共同生活だったのが、戦後来てみると、個人的でバラバラな生活になっていた、また、前より汚くなっていたと言われていました。その点、一高時代は、部屋の中で騒がないとか、部屋をきれいに使うといった、規律正しい生活がされていたんじゃないかと思ったんですが。

清潔ということは、一高の寮の始まりの校長が寮生に、自治生活の指針として、五箇条を書いて渡してるのね。それ以外、一切学校は介入しない、指針を寮生も尊重するという関係だったと思うんだけど、その中に、清潔、静粛がありました。それで、清潔ということは、わりとやってたんじゃないかな。本郷の寮では虱が有名だったけど、駒場に移った時にそれを徹底的に駆除したから、僕らは経験しなかった。特に庭球部は清潔でした。部屋の掃除も当番決めてやってたんじゃないかなあ。戦争でそのへんが崩れて、寮の中が荒れてしまって、でも寮委員会が努力して、清潔にするようにはしてたんじゃんないかなあ。
それから、バラバラっていうのは、一面から言うと自由っていうことでね。それは昔からありましたよ。ただし庭球部は、勝つために規律は厳しかったから、他の人の迷惑にならないように夜更かしするとか。

−他に隅谷さんが言われていたのは、自分達の時代は、「人生、いかに生きるべきか」という議論を夜を徹してやった、それが戦後は思想性が希薄になっていった、と。そのあたりが、一高世代の方の共通する見方じゃないかと思うのですが。

あなた方はそれに対してどう思いますか。共同性がないという点に関しては。

−そうですね。僕の頃(80年代)は、生活の仕方は人によって違っていましたね。

幸か不幸か、廃寮なんてことが起こって、共同性はむしろ強まったんじゃない?(笑) 僕は今年の入寮案内パンフレットを見てね、やあ生きがいいなあと思って感心した。結局、人間てのは闘う課題があるといきいきするわけ。おそらく大学があんなことやってくれたおかげで、かなり共同性は回復したんじゃないかな。

−昔から変わらない共同性は、残っていると思うんですが。

昔から変わらずありますか。

−ええ。

それは僕は戦後、学生部教官として51年に寮に来て、そこは崩れたとは思わなかったね。その当時も、アパート化ということが、盛んに言われていました。つまり、バラバラになりそうだと。そういうことを言うということは、共同の意識があったということ。
僕は寮委員会との関係はこちらから何も指示したりはしないけども、孤独、孤立の生活じゃなくて、お互いに交流ができることが、寮の大事な、いいとこなんだということを意識して寮委員と話をし、そういう寮の企画に対しては大いにやれやれと言う関係はあったと思うね。
55年頃からオリエンテーションの活動が盛んになって、寮生も含めて上級生が合宿して話し合う、そこで話し合ったことを新入生に伝えるという活動が始まって、これは全国に広がったみたいですねえ。「オリ」という言葉を、孫娘が五年ぐらい前に大学を出た時に言ってた。
そういうふうに、共同性が育つようにという配慮は僕にありました。また、実際、育ってきたと思う。ただ、残念なことは、東大闘争より前の65年頃から、寮委員会が共産党、民青の指導下に入って、学生部を文部官僚として排斥するという関係になった。僕は文部省の言うことは聞かないという意識はあったから、そんなことは絶対ないんだけど、民青、共産党の宣伝で排斥されて、それ以後の寮のことはあまりよくわからない。東大闘争の時もここは民青の牙城で、全共闘との間に石合戦があった。

−一高OBの方が、自分の学生時代と比べて現在の寮に違和感を持つのはわかるんですが、そもそも社会背景が違うと思うんですが。

知らないんだよ、一高の先輩はね。寮の先輩、前田知克氏、杉本昌純氏のあたりの時代の人も、あんまりその後のことを知らない。だから距離感を持ってるみたいだなあ、戦後の50年代の寮生はね。高等学校までの生育環境が違ってくれば、ここでの生活も変わるでしょう。

−去年のシンポジウムでの、田中秀征さんや金子万平さんのお話をうかがっていると、60年安保の前後くらいから、経済的に豊かになってきて、寮の中の一高的な特質が薄れて現在のような形態へと移り変わったんじゃないかと思ったんですが。例えば、酒や麻雀が寮内に広まったりとか。

それは、51年の頃から麻雀は非常に盛んでした。僕の時代、36、7年頃にはほとんどなかったのにねえ。麻雀は僕は嫌いだったね、退廃的だから。


  教授会の変質

−田中秀征さんと小川晴久先生が、59年入学で、同じクラスだったそうなんですが、ちょうどその頃の60年代前半に駒場の学生だった世代が今、教養学部教授会の中心になっていて、廃寮を推進しています。
僕が入学した80年代半ば頃はまだ、一高世代の先生が多くいて、その先生達のリベラルな思想が、教養学部に反映していたように思います。本郷に比べれば、駒場の方は自由な雰囲気があったと。その世代の先生が退官された90年代に入ってから、そういう雰囲気が失われていったと感じているんですが。


寮生活をした教授というのが、あまりいないんじゃないのかなあ。一方的に廃寮を決めるなんていうやり方が間違っていることは、今の教授にもわかるはずなんだけどねえ。

−認識としてはわかっていると思うんですが、現実には、自分の研究や学科のことには熱心だけれども、学内の大きな政治的問題には触れないでおこうというような保身的な態度が大半ですね。

研究の競争が激しいから、そうなっちゃうのかねえ。

−寮の取り壊しのような衝突があれば、動員がかかるので教官も出てくるんですが、大半の教官はそこで積極的に学生を弾圧する行動をするんじゃなくて、ただ傍観しているという。

義理でやっているんですね。やっぱり、研究が大事なんだなあ。他のことはあまり深入りしないようにして。

−教授会の決定が基になって起こった紛争ですから、駒場寮の価値だけじゃなくて、教授会の本質も問われていると思うんですが。

先程申し上げた、一高の寮自治の発端における教授と学生の関係が変わり果ててしまっているわけね。矢内原忠雄の時代の大学の自治についての考えと、今の教授会の大学の自治についての考えは、非常に変わっている。今はおそらく、研究活動の運営が中心で、たくさん予算をもらって、しかもお互いの競争をうまく調整して、コーディネイトしてやっていくということのための自治になってしまっている。矢内原忠雄の場合は、大学の自治は学問の自由、教育の自由を守るためであって、権力の介入を許さないという面があった。今は、もし研究が活発にできるんだったら、できるだけ文部省の言うことを聞いて、お金もらえるようにした方がいいわけで。おそらく、そこが本質的に変わっちゃっているんじゃないかな。
文部省は60年安保の頃から、学生の寮自治を目の仇にしてる。あれが学生運動の拠点だということで。文部省は頭が固いから、依然として昔の、学寮を目の仇にした意識が持続してると思う。執念。

−三鷹国際学生宿舎にしても、個室で食堂もなく、新しい寮を建てる時には、依然として共同性を排除した方向でしか、文部省は建設を認めません。

今の若い人達が高校までに経験した生活の中でそういう生き方ができちゃっているわけで、そこを何とかしてもう少し、お互いの人間的な出会いがあるようにするのが、学寮の意味なんだけど。そういうことを大学は考えないから、結局きれいなアパートを作って、そこへ入れたげようっていうことになるんでしょう。逆に言うと寮生諸君はやっぱり、ここでどういう寮生活を自分達が作ってきたのか、今後どういう寮生活を作っていこうとするのかってことを大いにアピールすべきだね。世間の目から見たら、汚くて、だらしがないと言われるかもしれないけど、この中で人間がいきいきと生きてるんだってことを、知らせるべきだと思う。そりゃ、さまざまな寮生がいるだろうけど、でも全体としては若い人達が自由に暮らすこういう場所があれば、そこには命があると思うから、そういう所は大事にすべきだと思うねえ。
「それでも人生にイエスと言う」というね、ビクトール・フランクルがアウシュビッツの経験を語った言葉があります。強制収容所で明日殺されるかもしれない囚人達が、ナチスの兵隊の監督の下で行進する時に歌った歌なんだ。こんな状況でも、人生にイエスと言うと。それをフランクルはとても大事にして、そういう題の本が最近出ています。そういうものを、僕はこの寮で見つけてほしいと思う。今若い人達は絶望してるでしょう。21世紀は人類はいつまで生きられるかわからないと。それに対して、「いや、生きられる」と言える人は今いないでしょ。その状況で、絶望しないで生きていく根拠というか、方向性、エネルギーだけは、寮生活で獲得してほしいと思う。


  学生部専任教官の仕事

−学生部では、どのようなお仕事をなさったのですか?

僕が学生部専任教官として駒場に来た1951年は、前年のレッドパージ反対闘争のあとでした。で、その時に学部長だった矢内原先生は、大学の自治の立場に立って、学生の試験ボイコット運動を強硬に押さえようとしたわけね。警官隊まで呼んで、正門の学生のピケラインを突破したんだけど、そこへ試験を受けようとして集まった学生が、警官隊の開いた道を俺達は通れないと言って中に入らなかった。で、完全に矢内原学部長は敗北したわけ。教授会で、不徳の致すところで大変な恥ずかしいことを引き起こしたと涙を流されたという話が伝わっている。その反省に立って、学生との信頼関係ができるようにというので、学生部教官を置いたわけです。
僕らは、学生のあらゆる問題の相談に乗ろう、よろず相談というのが建て前で。一人一人の学生の問題解決に協力するという立場でやってきた。で、その僕らの学生部と、それから2年後に心理学者が中心になった学生相談所というのができた。その二つの相談活動の中で一番学生にとっての大きな問題は、本郷への進学の問題だということが浮かんできたんで、67年に、学生相談室の他に進学相談室ができたんです。私と心理学の杉本敏夫さんが専任の指導員になった。で、東大闘争のあと、大学の指示に従って何でもやるというわけにはいかないと、僕は学生部厚生課長をやめさせてもらって、進学相談室の専門になったわけです。それが69年の中頃から。
そこで僕がやったのは、学生の進路についての悩みを聞くわけだけども、どうしても「そんなにあなたは苦労してその学科に行きたいの? どうしてなの?」と聞かざるをえない。その問題を話し合うことが進学相談の中心で、何のためにという問題意識を呼び覚ますのが仕事になってきて。今でもそうだと思うけど、進学相談ていうと、本郷の学科の情報を得ること、あるいは、どうすればそこに行けるかということを問題にする人が多いと思うけど、それは教務課に行って情報を得なさい、あるいは、本郷のその学科に行って先生に会って聞くことが大事でしょう、と。一体何のために自分の専門の学科を選ぶのかを、僕が教えるんじゃなくて、自分で考えられるように努力したと思います。

−学生部でたくさんの学生と接してこられて、他の学生と比べて寮生の特徴はどうでした?

やっぱり、寮生の方が友達関係が多い点では恵まれている感じがしました。50年頃に学生部で学生の生活意識の調査をしたことがある。その調査でも明らかなことは、サークルに入っている学生、寮生活をしている学生には、あまりないんだけども、全体としては、大学は砂漠だと、人間が個別バラバラで寂しい環境だという意識が強かった。それが僕らの仕事の課題の一つになったんだね。砂漠のような大学をもっといきいきした所にしたいと。だけど、相談に来る学生の中に、寮生は少なくなかったですよ。進学の問題、生活問題、健康問題。結核という病気がまだ当時は盛んで、寮の中にも、結核の学生の部屋がありました。結核から治って復学したんだけども、自分の家から通うのは大変だから寮の部屋から通っていた。くるみ会という会を作っていて。最首悟さんは、その会員だったんだけど、彼は喘息で会に入った。そういう虚弱学生もいました。


  学寮の教育的意義

−駒場の教授会は、今の学生は駒場寮のような共同生活を求めていないと言っていて、それは時代遅れだと言っています。

そんなことを言うんだったら、意識調査をちゃんとやるべきです。学生と共同で。それが学問的な方法ですよ。寮生と、サークルに属している学生、アパートに住んでいる学生とどう違うかを、はっきり見るべきだと思うね。
受験生活でほとんど人間的な欲求が満たされないまま大学に入ってきて、重圧から解放されて、5、6月ぐらいになるとちょっとおかしくなる学生が多くて。それを心理学助手の杉本さんは、5月危機、6月危機という言葉を使って、それはかなり長い間使われました。その点でも寮生は幸せで、お互いの中でぶつけ合うことができるからね。アパート、下宿だと、そういうことが満たされる場がない。
学寮の存在意義を学生の意識調査から明らかにする、それから、学寮を経験した人としない人とで、大学生活をどう評価しているか、そのテストをやってみたらいいだろうねえ。アンケート調査だけではなくて、自由記述を重視してね。
一般教育というのは、どういう学生が入ってきているのかをきちっと捉えないと、本当はできないはず。この人達が求めているのは何かというのを見て、それに答えるのが本当の一般教育だろうね。それを東大は一貫してやっていない。

−今の駒場では、英語や基礎演習などの授業が改革されて、英語のヒヤリングやディスカッションの練習は行われているんですが、以前に教養学部にあったリベラル・アーツの理念に比べて、技術偏重の印象を受けます。

技術にしても、ディスカッションというのは大事ですね。お互いに考えをぶつけ合う中で、弁証法的に高まっていくことは本当に大事です。その中での人間としての出会いもあり得るから。
僕たちは、55年から63年頃まで合宿を重視してやっていました。セミナーと称して、教師と学生が一緒に合宿して話し合うということをやりました。それは今でも大事だと思う。
リベラル・アーツというか、自分の人間を育てるための学びについては、やっぱり、そういう意識を持った教授がいなければ、学生が自分でやるしかない。で、学生が自分でやるために有意義な、役に立つ場が学寮。数年前に、一高自治寮60年史の刊行を記念した座談会をやったことがあります。その時に、一高自治寮の教育的意義の一つとしては、やっぱり、暇があったということが良かったという我々の仲間の感想がありました。何事も効率的にやっていくという生活ではなくて、暇があって無駄なことができたという所で人間が育ったんだということを、共通に認めていたな。今の寮生活も、そうなんじゃないかな。
リベラル・アーツという観点から言えば、やっぱり、寮生活が大事だと思う。通学生だったら、せめて一年間に一週間は合宿生活をする。そこに教師も参加できたら素晴しい。それにプラスして、ゼミが大事だと思う。本当に自分が人間として生きようという方向性を持った教授が、研究した学問について若い人と共有するために。そこでは、少数の学生に教授が自分の学んだことを伝えてそれについて討議することで、学問的な訓練もされるし、教師と学生の人間としての出会いもあり得るわけね。望ましくは、ゼミの合宿があるということね。

−最後に一言。

大学は学寮の存在をどう考えるのか。学寮の大学教育における意義を正面から討論すべきだと思う。
学生諸君も、法律論で、管理権の問題として議論するのは向こうの土俵に乗っかるようなもの。学寮はそんなもんじゃないんだ。やっぱり、学寮の存在意義という次元で、教師と討論すべきだと思うね。教授会の中でそんな議論もなかなかできそうにないということだけど、去年隅谷さんが来られたシンポジウムでも、そういう議論にならなかったんですか。

−少しなりました。

そこが大事でね、その討論を基盤にして、さらに議論を深めていかれたらいいと思う。だいたい、隅谷さんは成田の問題の調停を見事にした方で、隅谷さんだったら、教授会と学生の話し合いの道を開いてくださるかもしれない。僕は東大闘争でさんざん苦労して失敗した人間だけど。隅谷さんの偉いのは、調停を頼まれたわけだけど、基本的には、弱者の権利を守るという線を通したということね。権力に対して、権力を持ってない側の利益を守るという。それは、この学寮の問題についても同じでしょう。管理権の問題で議論をするのは、大学教授の恥さらし。文部省なら、しょうがないけどね。大学教授なら、文部省の圧力に対して、これは教育上、学生が人間として成長するために大事なことだから放っておきなさい、我々に任せなさいと言うべきだと思う。寮が汚いのなら、お金出してきれいにすればいい。きれいにするのを学生が断わるわけがない(笑)。きれいにしないで、灯り消してるんじゃしょうがない。

−どうもありがとうございました。

10月某日 駒場寮にて。



  インタビューを終えて

 インタビューの前にも、西村さんは、一高寮の自治が新制駒場寮に継続された歴史から考えて、寮の自治は管理権の問題ではない、と大学の態度に強く憤慨されていました。
 後日、その主張をまとめた書簡をいただきました。


  西村秀夫さんからの書簡

 『いろは』14号所載の裁判報告を見ると、国側の主張は、次の三点と思われます。
1.寮生には寮建物の占有権限はない。 2.大学の自治の主体は教授会である。 3.大学が寮自治会に管理権を委譲することは法理に反する。
 これに対しては、歴史的事実から反論できると思います。
 駒場寮の自治は、1890年に、東京大学教養学部の前身である第一高等学校の校長、木下廣次が寮生に対して、寮の管理運営を寮生の自治に委任することを提案したことに始まります。それは、当時の言葉で言えば「徳育」のため、現代の言葉で言えば「人間形成」のためでした。それを学校の管理から学生の自治に移すことを提案したのです。これは高等学校の大きな前進でした。その根底には教師の学生に対する信頼がありました。それに応えた寮生が自治的に委任を受諾することを決議したのです。国側の主張の3.は、この事実を見誤っています。
 寮自治は事務手続きの問題ではなく、教育の問題であり、教授と学生との関係は法律の関係ではなく、モラルの関係なのです。たとえ、教授にその自覚が希薄になったとしても、大学が教育の場であるかぎり、モラルと信頼関係は失ってはならないのです。ついでながら申せば、2.に言う「大学の自治」は、学問・教育の自由・自律を守るために、文部省の言うままにならないということなのです。(さらに、社会的には、寮自治は生活の主体としての居住者の、権利としての自治です。)
 現在のトラブルの原因は、教授会が寮生を信頼せず、密かに廃寮の計画を進め、百年以上生き続けて来た寮自治を無視して、一方的に通告したことにあります。
 それ故、廃寮反対の行動を不法として裁判で解決しようとするのは謬りで、教授会が「知のモラル」を回復して、寮自治会と話し合うことによって解決すべきなのです。
 小林康夫・船曳達夫編著『知のモラル』の「社会的公正への道」(隅谷三喜男著)の序文にK氏は「長い間の激しい衝突、しかしそれが忍耐強い対話を通じて、ひとつの妥結点に至るというプロセスの重要性はどれほど強調してもしすぎることはないでしょう」と書いています。
 「知のモラル」に立つ忍耐強い話し合いによって解決が得られ、秩序だけでなく、教授と学生との信頼関係が回復されることを願います。


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