湖面

谷元益男



国道脇に小さな案内所がある ここで今夜の宿泊地を決めねばならない 車はひなびた民宿を目指し 右手に白く凍った湖面を見て走った 路面もところどころ氷っていて 車が横に尻を振るたび家族が耳のさけるような声をあげた 薄暗く暮れて行く山の深さに車は何度も 立往生する 旧家の煤けた柱が何本も立ち 冷えた空にわずかな湯けむりが吸われる 何時間掛かって辿り着いたか 夢は僕らを容赦なく眠りへと引き込んだ 夢の持ち主が 黒い入れ物を僕に差し出すが それが母の肉片であろうことぐらいは すぐに想像がついた 切れ目の入った黒い柱が 一斉に寝入った僕の幕内に落ち込んで来る 帰りたくないと家族は言う 深い湖面が左側になり車が滑れば 転落するからだ 僕は雪を一口くわえそれが消える間に この山を抜け出したい 車は降り続く雪の中をゆっくりと走り出し 声もなく白い湖の中に消えた 昨夜の夢だけが蝋のように 湖面に描き出されている

Booby Trap No. 1



湖面--獣の気配-旧道


谷元益男



いつもの道を 車で大きく曲ったとき 兎が轢かれ 肉片が飛び散っていた それが 猫でないと 見分けられるのは 毛が周囲と同じ枯れ草色をして 耳が路面に長く立っていたからだ 次の朝 同じ場所を走った時 血は黒味をおびて 兎とは別な生きものの 形となり 行き交う車輪に 歯型をつけていた 潰された影が ウインドーガラスに張りついている それから何日か経って 通ると 肉は鳥がついばんだのか ほとんど残ってなく 兎の皮だけが 野山を走った夢をうつすように ゆっくり跳ねる 長く路面に立っていた 耳は そこにはなく 降りる車のバックミラーに するどく映っている

Booby Trap No. 20



湖面--獣の気配-旧道

獣の気配

谷元益男



毎年 初冬になると 人里に降りて来て 村人を脅した 作物を根こそぎ荒し 時には子供まで襲った その黒い獣を犬を連れたハンターが 仕留めようとしたが 影さえ見ることはできなかった 母はたまりかねて父に話した 作物が畑ごと喰われるので そこに通じる獣道に罠を 掛けたのだ 狩人は罠など笑って見向きもしない 寒い日が何日か過ぎ 母が木立の中を見に行くと 黒く大きな獣が罠にかかり 絡まって死んでいた 近くの木はなぎ倒され 細い木の枝は皮をはがれ 白い糸のように巻きついていたという 村人は酒を酌みかわし 罠の仕掛けのうまさをほめ合った だが それから数日後 父は突然病で倒れ 自分が 誰なのかさえ判らなくなり ただひとを見て 泣くだけだった ぼくが駆け付けた時 一言も話せず ただ 壁だけを見つめていた ぼくは村から離れ 父からも離れて生きているが ときどき 黒い獣の影を 皮のように かぶるのだ

Booby Trap No. 22



湖面--獣の気配-旧道

旧道

谷元益男



ここから少しにぎやかな その地まで いつも 国道を走っていく 車が混み合い 時間がかかるので 別の道を捜そうか 車は家族をのせて狭い道を 走り出した 当たり前だけど 道はどこかと必ず繋っているよ 生まれは南の端だが そことも切れずに何かが 流れている 乗り物だけでなく―― あどけない幼心が出発した あの土地から 体の中を走ることを おもっている いろんな道を捜して 新道だと 思って 徐々に頭部にのぼってくる 幼心を 見失ったとき 道は死ぬんだね ――背後で幼い子の声がする

Booby Trap No. 26


[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳] [bt総目次]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[Jvj目次]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp