詩 批評 電脳第5号 1992.5.3〒154 東京都世田谷区弦巻5-14-26-301 (TEL:03-3428-4134)編集・発行 清水鱗造 206円 (本体200円) 5号分予約1000円 |
詩と世界へのノート 1 何ごとをも断念しないことだ |
福間健二 |
詩はどうあるべきだとか、あるいは詩はこういうことができるとかできないとか考えること。それを一般論として、ときには何らかの体系の一部に組み込んで展開しようとするからおかしくなる。私はそういうことがいやになった。たとえば去年の定型論議。あんなものはそれに参加した詩人それぞれの個人的事情のつじつまあわせでしかない。 どんな幼い書き手にも、自分の理論はある。その理論が浅いところで固まってしまわなければいいのであって、正しさや水準の高さを競うことではない。 どんな問題意識からも詩をときはなつこと。いいかえると、詩はどう書かれたっていい。それに限定を設けない。私はまずここからスタートする。もうひとつ。できるだけ朝早く起きて考えるようにしたい。夜の思考はもう十分に提出されたと思う。それで疲労をつのらせてきたということもあるのだ。もちろん、夜の思考を棄てさる必要はない。そもそも忘れてしまうことはあっても意識的に棄てられるというものではない。その生きるところは生かして朝という現実に接続させるようにしよう。「でも、どうやって?」「そのために夢を見ているんじゃないか」 人は世界に対して発言する。そのとき、世界が抽象されるレヴェルはさまざまだ。そのことのほうが、世界自体が複雑であることよりも、複雑な感じがする。むしろ世界が複雑になったということの内実はそれなのだ。 そして、詩はかつてのように世界をとりこめなくなったという発言があった。一方、世界を「認識」できる批評や世界なんかどうでもいいという批評が大手をふって歩いていた。私は、世界に対して無力感におちいっている詩と自分との姿をかさねて見ていることがあった。どうしてそんなことになったのかと思う。これからそこをときほぐしてゆきたいのだが、自分を追いつめすぎていたのだ。昼の光の中で見えているまわりの風景を世界に結びつけることのできない夜の思考で。 ほんとうは、もうわかっているのだ。生きているこの現実に接しているという条件を手ばなしさえしなければ、世界はどう抽象してもおなじなのだ。どんな小さな好奇心に対しても、世界は顔を見せている。それが手のとどく枝になった熟れた果実のように存在する場面までは、いつもあと一歩なのだ。そこまで行ったら、あとはそれをただ指をくわえて見ているか、もぎとって食べてしまうかということになる。 ここにJ・M・G・ル・クレジオの言葉を引用しておきたい。 《何ごとをも断念しないことだ。幸福をも、愛をも、怒りをも、知性をも。ためらってはいけない。快楽のなかに快楽を、傲慢さの中に傲慢さを味わうことだ。喧嘩を吹っかけられたら、激昂することだ。なぐられたら、やり返すことだ。話すのだ。幸福を求め、自分の財産を、金を愛することだ。所有するのだ。少しずつ少しずつ、これ見よがしにせずに、有用なものすべてを手に入れるのだ、そして無用なものも、そして肝心かなめのもののうちに生きることだ。そのあと、地上においてすべてを手に入れてしまったなら、自分自身を手に入れることだ。壁がむき出しの、ただ一つの大きな、灰色で冷たい部屋に閉じこもるのだ。そしてその中で、あなた自身のほうへ向き直ることだ、そしてみずからを探訪する、絶えずみずからを探訪することだ。》(豊崎光一訳) 一九六七年の本『物質的恍惚』の中の一節だ(翻訳が出たのは一九七〇年)。私はたぶん二十歳のときに出会った。『物質的恍惚』は、いつまでも読みきることができない。そしていつまでもその輝きを減じることのない本のひとつだ。難解な本ではない。単純なことがいつもはっきり言いきられている。ル・クレジオ自身の小説以外で、この記述が何に似ているかと考えるとわからなくなる。本にならない言葉としては、この現実のどこにでもある言葉、多くの人間が心の中で発している言葉かもしれない。人がただ思考するのではなく、自分を教育しようとするときの言葉。こんなふうに世界とむきあい、そしてものすごい速さでそれを通りこしてしまう。いま必要なのはこれではないか。 この一節は、前半と後半のどちらにポイントをおいて読むかでちがった受けとめ方をしそうだが、「何ごとをも断念しない」から「あなた自身のほうへふりかえる」までを一息に言い抜いていることがすごいのだ。 湾岸戦争があった。それをめぐるさまざまな発言があり、私もいろいろなことを考えた。大づかみにまとめてみると、私は「何ごとをも断念しないことだ」と自分に言いつづけてきた気がする。これでもう何も怖くないな、というような奇妙な到達感とともに。 |
夏山 |
倉田良成 |
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千年 |
倉田良成 |
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生命 |
藤林靖晃 |
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花器の雪にしずむ |
沢孝子 |
北の街に透きとおる 水酔いのくらしには 花器のような湖にみだれる衣の波襞が 雪に浮きしずみする それはどこからやってくるのだろう いつものぼりつめる茎の無智 離れない月夜の水の儀式が 裏返る葉の一枚一枚の記憶にながれて 今 思いだしている 急激な波のおこりを待つ習慣にひろがる 剣山の針のような歴史の波 葉裏の眼が語りだす 一枚の葉がながれつく 紫がなしの南の砂浜に 立ち上ってくる茎の 真の一系――安定してきた 花器の雪にしずむ衣の波襞の乱れ 水酔いのくらしへ 突きささる 飢えているウニ! あちらこちらでざわめく葉裏の眼が 急激な波のおこりを待つ 水の儀式の習慣で 月夜へながれ 祖先がえりする 突きささるウニの南の砂浜に住む 飢えの泉の充実があり その余韻にひたる 一枚の葉の満月の礼拝を凝視する 北の庭の雪に浮きしずみする 虚構の峯をかぶとにする 青葉ぶしょうの 花のわざの別れの 四季に散る 花器のような湖にみだれる衣の波襞に よぎる寒色の花びら いつものぼりつめる木の無智の 一本一本の枝の記憶にながれて 孤独の月をひしと抱く 水の恋情の 枝先の眼が語る 切り落とす要領のような歴史の波に 透きとおる 水酔いのくらしのふるえは 泉なのだろうか 一本の枝に散る南の砂浜に 炎をしたがえる鉄が くちづけるかぶとの峯を裂く ずるずる垂れる雨の別れに 立ち上ってくる木の 真の一系――― もえひろがる暖色の花びら 無限の空の 古代の響き忘れない 異変がおこりつつある 花器の雪にしずむ衣の波襞の乱れに飢えているウニ! 孤独の月の水酔いのくらしに浸透する あちらこちらでおどる枝の 虚構の峯の裂け目 なんじゃくな根元の四季に狂う充実があり 古代に散る 雨にずるずる垂れる別れの 洗い骨の水の恋情 南の砂浜のウニにふるえて 花びらの飢えの古代が響いて その余韻にひたる一本の枝の ほほえむ月の世界を割る (改稿) |
邪悪な影 |
清水鱗造 |
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仮面の女 |
清水鱗造 |
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マリヤの隙間 |
清水鱗造 |
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白濁した街 |
清水鱗造 |
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塵中風雅 (二) |
倉田良成 |
貞享元年(一六八四)八月、『野ざらし紀行』の旅のために江戸を発った芭蕉は、同年冬、名古屋で荷兮、野水ら尾張衆と『冬の日』五歌仙を巻いたあと、郷里伊賀に帰り、そこで越年する。翌正月二十八日、句作りの上での具体的な指導を述べた書簡を残している。同郷の門人半残宛である。 半残、山岸氏。名は棟常、また重助。通称重左衛門。(十左衛門とも)。承応二年(一六五三)に生まれ、享保十一(一七二六)年六月二日没。享年七十三。(芭蕉書簡当時三十二歳)。伊賀藤堂藩士で三百石前後の禄を食む。母は芭蕉の姉、すなわち半残は芭蕉の甥である。父の陽和、子(一説に弟)の車来とともに芭蕉に師事する。 書簡は、半残が自らの句稿(発句と思われる)に評を求めたのに応える形をとっているが、芭蕉が「作品」に対してどんなふうに接していたのかを顕著にうかがわせるものだ。紙幅の都合で全文を載せることはできないが、いくつかのポイントを拾っていきたいと思う。まず前文を写す。 御細翰辱(かたじけなく)致拜見(はいけんいたし)候。御清書請取申(うけとりまうし)候。先日了簡(れうけん)殘り候句共(ども)、殘念に而(て)、其後色々工夫致候而、大かたは聞すゑ、珍重に存候へ共、少づゝのてには不通(つうぜざる)所共、愚意に落不申(おちまうさず)候。句々、秀逸妙々の所、難捨(すてがたき)所々有之(これあり)候へ共、しかと分明ならず候間、御殘多(おほく)、江戸迄持參、彼是にもきかせ可申(まうすべく)候。 まず、「其後色々工夫致候而、大かたは聞すゑ」という言葉が注目される。「了簡」が残る句は、少しずつのテニヲハがおかしかったり、「しかと分明」でなかったりして意に落ちないのであって、あたまから駄目なものとして切り捨てられているわけではない。これはたんに相手に気を遣って、というだけのことではなさそうだ。むしろ芭蕉は、総じて「難捨所々」のなかに油断なく「句意」を探っている。「句意」は、作る側のみならぬ読む側の「工夫」のすえにはじめて顕ちあらわれてくるものであり、何かある漠然とした気分といったようなものではない。「聞すゑ」るとは、そういう目に見えない一連の手順を踏んだうえでの言葉だと思う。そして、「御殘多、江戸迄持參、彼是にもきかせ可申候」という一節に芭蕉の独特な姿勢が見てとれる。句稿を江戸まで持って帰るというのだ。江戸の連衆の誰彼に「きかせ」るうち、またどんな「句意」にゆきあたるものとも知れない――というところまで句の「評」は押し拡げて考えることができる。暮夜、句稿を前に、と見こう見している俳諧師の姿が浮かんでくるようだ。 △京の砧、御講尺(釋)之上に而あらかたきこへ(え)申候。是はさも可有御坐(ござあるべく)候か。 「京の砧」の全句形や、そこでどんな「講尺」が行われたのかは不明だが、句の背景の説明を聞いて納得したという点が面白い。「あらかたきこへ」たというのは、芭蕉の「工夫」がそこに「俳」を見出した、というところか。たんに説明を受けて句の意味がわかったということではあるまい。 禰宜が櫻は、しかも珍重秀逸に候。祇園か加茂などに而有之(これあり)候へば名句可有(あるべく)候。一ノ宮ノ景氣移兼(うつりかね)候而、判殘(はんじのこし)候。 禰宜独(ひとり)人は櫻のまばら哉 と申に而、一ノ宮の景氣は盡(つくし)候はんか。され共句の景ははるかにを(お)とり申候。 「禰宜が櫻」の全句形は『小柑子』(野紅編・自跋。元禄十六年[一七〇三]刊)所収の「烏帽子着て禰宜が桜のまばら哉」。「一ノ宮」は伊賀一の宮敢国(あえくに)神社を指す。要するに句は「秀逸」だが、その背景がちぐはぐだということだろう。いかにもひなびた神社に「烏帽子」はない。これも「しかと分明」ならぬ類であって、芭蕉は「判殘」したあげく、句自体を改作して相手に示し、おそらくは自らも納得させている。ひとつの手本であるにはある。しかし「句の景ははるかにをとり申候」というように、芭蕉はこれを相手に強いてはいない。問題はあくまでも一の宮の景気を尽くすことであり、自分だったらこのようにする、という連衆心が、半残の句を改えさせたと見るほうがよい。芭蕉にとって「座」は、こんなところにも出現しているのである。
本文中の事実関係、伝記等は『俳諧大辞典』(明治書院)、『総合芭蕉事典』(雄山閣)、当テキストに依る。 |
都市を巡る冒険 渋谷・新宿・池袋(一) |
清水鱗造 |
繁華街を歩いている感じはこちらの状態でまったく変わってくる。渋谷、新宿、池袋は仕事が終わり、飲みに行く街である。ただ、家に帰る前の気分転換でひたすら歩くこともあるのだが、おおむねシンプルな目的でこれらの街にいく。渋谷の場合、場外馬券売り場のほうへ歩くと、二十年ほど前から寺山修司のことがすぐ頭に浮かぶ習慣ができてしまった。しかし寺山の美学を体現する風俗は遠く去ってしまったようだ。喫茶店のテレビで競馬を見ている人たちが日曜にはいつもいる。駅から北西方向に道玄坂を上ると円山町のラブホテルが集まっている街に出る。新宿にも池袋に酒場が集まっている場所、ラブホテルが集まっている場所などの歓楽街がある。田舎では僕は凝視するために道をあるく。というのも、植物を凝視するのが好きだからである。 もし童話的配置を考えるのなら、「完備している」ところに注目する以外にはないように思える。しかし僕はわざと無駄を人工的に造ることの重要性がいつか気づかれるように思う。 ○わざとドクダミやぺんぺん草を集中的に繁茂させる場所をつくる○サンシャインビルには水族館があるが、ビルの上のほうに大きな熱帯植物園をつくり、そこに露天風呂をつくる つげ義春の『貧困旅行記』(晶文社)にでてくるような無意味なうらぶれた物たちは、なにかしら安心させるのだから、わざとペンキの剥げた看板を作ってみる、等々。わざと男根や女陰崇拝の祠なども道に配してみる。 |
編集後記 |
前号で長尾高弘の名前が高広になっていましたが、高弘が正しいです*。長尾さん、すみません。彼の訳した『コンピュータウィルス』(アラン・ランデル著、JICC出版局)は面白い本だった。倉田良成が詩集『わたしの洛中洛外図』を出す。これもお勧めの詩集です。小さなパンフレットの小誌がまた一年のブランクを空けてしまった。陣内淳介はアメリカに長期滞在するようだ。僕も相変わらす怠惰かもしれないし、突然筆まめになるかもしれない。「Booby Trap」は忘れた頃にやってくると思われているようだが、読者もご自愛ください。 *HTML版製作者註: このHTML版では、直しておきました。 |