詩 批評 エッセイ 電脳 都市第4号〒154 東京都世田谷区弦巻5-14-26-301 (TEL:03-3428-4134)発行者 清水鱗造 1991.4.15 206円 (本体200円) 5号分予約1000円(切手可) |
再刊にあたって |
三号を出してから、ずいぶん時間が経ってしまった。三号で「鮎川信夫特集」を予告していたが、これは今号では果たせなくなった。重厚な評論をたくさんまとめて一冊にするというのも面白いと思うのだが、それだけの原稿と労力がいまのところ持続できないということが原因である。これはいつか実現してみようと思っている。しかし、やっと鮎川に対する距離感が掴めてきたような気がする。鮎川が到着できた場所、また限界というようなものについて書ける時間がきたようだ。その意味で鮎川論を集成する面白さが二、三年前と変わってきたと思うので、いつか実現してみようと思っている。 昨年十二月に「あんかるわ」が廃刊になった。北川透にある点で共鳴して集まっていった詩人たちの発表場所が一つなくなった。「あんかるわ」が堅持し続けたものは貴重であると思う。「開かれる」という意味は、かならずしも急激に売れ部数が増えるということではなく(もちろん売れることはその雑誌の一つの指標にはなりえる)、どれだけ読者とコミュニケートできるかにかかっている。もちろん「ブービー・トラップ」は「あんかるわ」と同じような試行をするということは考えていない。これは気ままに始め、持続したい雑誌であって、大それたことをもくろむのではない。肩の力を抜いて気軽に再開し、展開していきたい。 ひとつはっきりとした新しい要素が加わっているとすれば、「電脳」という項目に象徴されるコンピュータによるコミュニケーションの要素を入れようとしていることである。コンピュータによるイメージの追求や、詩に接していく部分を積極的にとりいれたい。これはまたこの雑誌の制作上にも生かしていくことになる。よくコンピュータがドラッグと比較されることがあるが扱うのは言葉であり、ただその処理や流通がぜんぜん変わってくるだけである。もちろん文書の処理がやりやすくなっていくわけであるから、おのずから言葉のほうにも変成があろう。とりあえずは雑誌が作りやすくなってきたので、それをどこまでやるかという意識を持っていきたい。 それから郵政省メールを使って反響を聞きたいのと同時に電子メールを使い始めている人に電子メールで応答していただきたいことがある。このことについては今号ではなく、様子をみてこちらの状態を公開していくことにする。 とりあえずは僕の個人誌のようなかたちであるが、面白い詩人やほかの書き手に力を貸すこともやっていく。僕としては「批評的切片」という連続して書いてきている文章をここで続けたい。これは文字どおり切片であって、状況的、時評的なものも含めつつ僕のモチーフを断片的に明らかにしていくという文章である。「切片」という言葉にはプレパラートに置くあの有機体などの「切片」のイメージも託している。 コンピュータ関係の仕事をしている人には電話回線を通じて原稿を送ってもらうことにした。来号から「電脳」のコーナーをはっきりした形で作るつもりである。 いまのところこの雑誌を再開することに「楽しみ」を増やそうということをつなげようと僕はしている。積極的にやっていきたい。(清水鱗造) |
都市を巡る冒険 |
清水鱗造 |
東京のイメージの現在の段階で定位してみたい。昨年あたりから、それまでいとおしんできた「つげ義春」ふうの都会というイメージが崩れてきているのを、自分のなかで感じる(いまでもそのイメージが大切に思うのであるが)。これは僕だけの個人的事情にかかわっている部分が多いと思うし、切実な問題にぶつかったらイメージなどすべて払拭して考えなければならない事態になるかもしれない。しかし、いま現実をとらえる目が切開すべき中心点からずれることをしばしば見かける、という思いがある。イメージを定位するとは、いずれ破壊されるものを定位するという意味でもあるが、さまざまな角度からの視点(その個人にとってもっとも切実な視点)が必要なのであり、僕の場合「イメージ」から出発するわけである。とりあえずの猶予期間、これは宮沢賢治の「イーハトーボ」に展開されたイメージ群のような、気ままな旅のコラムである。 「イーハトーボ」には賢治が生きていた空間時間が焼き付いている。たとえば、源氏物語にも濃密な空間があった。それはもちろん日本の限定された固有の空間を核にしてはいるが、物語の一般的な人間の空間設定というところまで広げてみることができると思う。確かに誰でもが限定された空間のなかで生きているのだし、個人の描く空間のイメージの領域にそんなに広がりの差があるはずがない。 ということでいろいろな題材から、現在の東京という時間空間のイメージを広げてみたい。次号から具体的な材料をとりあげてみる。 |
五月のための七つの連 |
倉田良成 |
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詩・88・1 CHIへのレクイエム |
藤林靖晃 |
サイコは点滴を受けながら終日寝ている。大丈夫、これくらいの熱は自分でも分かっているから、と言って口を堅く閉じている。何か食べなければと言うと、何も要らないと答える。「ほっといて」と強い口調で私を見ながら言う。枕許には小さなバッグが置いてあり、その中に数十種にも及ぶ薬が入れられてある。陽がカーテンの影をサイコの顔の上に投げかける。「眠りたくないの」「どうして」「眠るとね、悪い夢ばかり見るの。つらい夢。だから眠りたくない……」「悪いって、どんな」「たとえば身近で死なれた子供や男の夢。それが正夢みたいで……。子供が眼の前で車に轢かれるの。肺炎になった男が蒼白い顔でこちらを見るの。縊死した男の後姿が目蓋に焼きついて離れないの」虚ろな眼でサイコはぽつりぽつりと言う。「窓を閉めて下さる、風が嫌なの」私はサイコの額に手を当てる。「やはり医者に言って痛みどめをもらったほうがいい」「ちょっと待って。さっきスルピリンを多めに呑んだから、だいじょうぶ。熱は下がるの。熱はかならずさがるからだいじょうぶなの」「そうかな」「ひとりで生活してるとね。大方のことは自分で分かるの。あと二時間もしてスルピリンが効かなかったら抗生物質を持ってるから……」喋りながらサイコは目を閉じる。心なしか顔が上気しているようだ。私はタオルをしぼってサイコの額に乗せる。その同じ動作を何回も繰り返している。どうやら眠ったようだ。サイコは一種の放浪者である。多くの体験をしている筈なのだがそれが顔に表われていない。いわば白痴美のようなものがその表情にある。童顔なのだ。「海が見たいわ。そう、海よ、海」うわ言だろうか。「たつお、かならずゆくからまっててね」かたことまじりで口を開く。「いいのよ、いいの、もういいの、しんぱいしないで……」私はバッグから体温計をとりだしてそおっとサイコの腋の下にさしこむ。さようなら、サイコ。サイコ、永久にさようなら……。 |
衛生と発語 |
陣内淳介 |
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蛞蝓 |
長尾高弘 |
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長い夢 |
長尾高弘 |
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ゆで卵 |
長尾高弘 |
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追悼、のように |
田中勲 |
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ヒドラ |
清水鱗造 |
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塵中風雅 (一) |
倉田良成 |
天和二年(一六八二)陰暦二月上旬、新風顕揚に余念のない芭蕉は深川芭蕉庵から一通の書簡をしたためている。宛先は谷木因、美濃大垣の人で回船問屋を営む。家は、藩主より屋敷を下賜され、「此木因迄は年始節句共に御目見得仕(つかまつり)候由」(家伝『おきなぐさ』)という格式の高さであった。通称九太夫、また杭川(くいぜがわ)の翁と号す。この時期あたりから芭蕉に親炙し、傾倒していった美濃俳壇の有力メンバーであった。 以下書簡の全文を写す。 当地或人附句あり。此句江戸中聞(きく)人無御座(ござなく)、予に聽評望来(のぞみきたり)候へ共(ども)、予も此附味難弁(このつけあぢわきまえがたく)候。依之(これによつて)爲御内議申進(ごないぎのためまうししんじ)候。御聞定(ききさだめ)之旨趣ひそかに御知せ可被下(くださるべく)候。東武へひろめて愚之手柄に仕度(つかまつりたく)候。 附句 蒜(ひる)の籬(まがき)に鳶をながめて 鳶のゐる花の賤屋(しずや)とよみにけり 二月上弦 はせを 木因様 世に「鳶の評論」として知られるものであるが、これは木因の返書と併せて読まなければならない性質のものだ。ここで示されている芭蕉の問いかけに、もし木因が答えられなければ「評論」は成立しなくなる。 花牒(くわてふ)拝見、或人之附句、貴丈(きぢやう)御聞定無之(これなく)、依之愚評之儀、予猶考(かんがえ)に落不申(おちまうさず)申(ママ)候故、乍殘念(ざんねんながら)及返進(へんしんにおよび)申候。随而(したがつて)下官(やつがれ)去比(さるころ)在京之節、古筆一牧(枚)相求候。此キレ京中定(さだむ)ル人無之候。何れの御代の撰集にや、貴丈御覚(おぼえ)候はゞ、ひそかに御知せ可被下候。花洛(くわらく)にひろめて愚之手柄に仕度候。 菜薗集 巻七 春 俳諧歌 蒜のまがきに鳶をながめ侍りて 鳶の居(ゐる)花の賤屋の朝もよひ まきたつ山の煙見ゆらん 二月下弦 木因 芭蕉翁 まずは明答であるというほかはない。このことは芭蕉自身、「杭瀬河之翁こそ予が思ふ所にたがはず、鳶の評、感會奇に候」(天和二年推定三月筆推定中川濁子宛書簡)、「日来(ひごろ)彼翁此道知りたる人と定置(さだめおき)候へば、聊了簡(いささかれうけん)引見(ひきみ)ン爲、書付遣(かきつけつかは)し申候處(ところ)、愚案一毫の違無御坐(たがいござなく)、誠不淺(まことにあさからず)候」(同)と激賞していることからもあきらかである。同じ書簡の中で彼は「当地」の人々の「附句」に対する評を、「爰元(ここもと)にも珍しきと而巳云(のみいふ)人三分、同―物に同物付たる、古今類(たぐひ)なきと云捨たる人二分、又道ヲ無(ナイガシロニ)して云度(たき)事云(いは)るゝなど嘲野輩(あざけるやはい)も適々(たまたま)有之、予が心指(志)ヲ了察の士も一両人は有之候ヲ…」と伝えており、気をつけて読めば芭蕉は江戸で必ずしも孤独であったわけではない。にもかかわらず、遠い美濃まで書簡を書き送ったのは「江戸衆聽人(きくひと)なきと申候は聊僞(いささかいつはり)、彼(かの)翁が心ヲ諜(はから)ン爲に候」という次第だったのであり、そのあたりの文面に、正負両面でやや複雑な芭蕉その人の性格を見てしまうのは私のひがみであろうか。ちなみに私は芭蕉がそれほどにゆたかな詞藻の天分に恵まれた人だとは思わない。ただ、彼は連衆という「座」における希有な実践者であったので、木因の返書もこれを抜きにしては語ることができないだろう。「鳶」書簡の冒頭、「当地或人附句あり…」とはじまるとき、虚構とまではいえないものの、一種の作為が日常のちょっとした場所にしつらえられるのであり、芭蕉はこのとき木因をともに試みへと誘っているわけである。このへんの機微に、さりげなく「詩」に挑んでいる俳諧師の面目が躍如としているではないか。きわどいといってしまえばきわどい話だが、芭蕉はそのあたりを充分見切ったうえであたかもこの時期の木因という人物を抜擢した。そしてまた芭蕉の「鳶」書簡に対して、いかにもつらりと「古筆一牧(枚)相求候」とか、「何れの御代の撰集にや」などと書き送る木因返書がいい。返書の中の「菜薗集 巻七」「春 俳諧歌」といった設定は、次の芭蕉の言葉とともにやや注目に値する。彼が「古往達人、花に櫻を付ルに同意去ルヲ本意と云(いへ)リ。増テ鳶に鳶を付ルに一物別意ヲ付分(ワケ)…」(前出推定濁子宛書簡)と書くとき、あきらかに眼は伝統的なもののいわば新生にむかっている。そのことが彼の「破格」を通してよく伝わってくるのである。「鳶」書簡の中で彼は「東武(江戸)へひろめて」といういい方をしているが、木因がオウム返しのように「花洛(京)にひろめて」と応えていることも、たんに言葉の帳尻を合わせただけのものではないだろう。「花洛」はいうまでもなく古今集以来の王城の地であり、そのこともまた芭蕉をよろこばせたのではなかったか。 |
批評的切片 発信セヨ、 発信セヨ ――菅谷規矩雄『死をめぐるトリロジイ』 |
清水鱗造 |
この時代の生活のなかで、詩を書いたり批評を書いたりすることはどういう意味を持っているのか、を痛切に感じさせる本である。かなり偶然には違いないが、自分の表現のエリアを詩や批評に定めたときから、彷徨を始めざるをえない。しかし、うまくそれらを生活のなかに組み込んだ、と思ったとき、新しい疑問が発生する。言葉であるから、常に反応があるはずでありまたそれに促されるように書くのであるが、このエリア自体をめぐる共同的な建築みたいなものに遭遇するのである。そしてまず確実にそれは「壊す」ものとしてイメージされる。 しかし救いは、どうしようもなく手のつけられない状況のなかにいても、固有の切り口で、あるいは急襲のように感性を表わす可能性の夢をここでは捨てなくてすむことである。実は救いはオールマイティなのだ(あたりまえだが)。それがあるかぎり詩人は突進するにちがいない。こういうふうに書いてみて菅谷規矩雄の生を自分なりにすっきりさせる端緒としたいのだ。また菅谷規矩雄がどうしようもなく逢着した地点(これはかならずしも文学的な地点ではないが)にある「困難なもの」を僕たちも継続的に問題にしていこうと思うのである。 しかし「困難なもの」もその時々において変わってくるのもあたりまえなのである。菅谷において困難なもの≠セったものが、はたして今僕に困難と感じられるのか? ここを概念化しなければ泥沼にはまっていく。これも必定である。 巻頭に収められた詩篇「Zodiac Series」は山本陽子の詩に影響を受けているように思われる。しかし決定的に違うのはそこはかと現われる教養的な雰囲気だ。山本陽子はアパシーと見えるまでに落ち込んでいたところがある。同じ過度の飲酒による肝硬変によって死んだどしても、菅谷はついに山本と同じようには死んでいない。山本は言葉を発してその反応をみることができる状態はとても貧しかった。評論集を商業出版社から刊行することができ、さまざまな感想を聞くことができた菅谷とはもちろんぜんぜんちがう。菅谷が晩年、山本陽子の詩に惹かれたのは菅谷の音韻論を考えるうえで山本の詩がひっかかったというよりは、むしろその徹底性を感じる生活と言葉との関連にあったように思う。しかし山本の詩がああいう形になったのは、「どうしようもなく」であった。なにか確然とした思想のもとにあの詩形にこだわったのだとは思われない。つまりあの詩形になんらかの思想的意味を付与しようとしても無駄なところがある。菅谷は幾分無理やりに山本陽子の詩にいれこんだ。こういういれこみは、思い付きとして誰にでもあるものだし、普通しばらくして脱却するものだ。しかしここに自身の肝臓疾患が二重写しになる状況がやってきた。いわば、いれこみではすまなくなる状況がきたのだ。 そして一遍上人へのこだわり。最後に「おのおののはからい」にいった親鸞の教義の中核をなす念仏をラディカルに実践した一遍へのこだわりは、じつは思想的に深化させる契機を含んでいた。迷走するような音韻論の裏側に、ある「思想的決着」をつける一つの試みとして一遍上人の思想探究がありえたはずだと思う。 親鸞の称名、たとえばその浄土和讃にくりかえされる「……帰命せよ」「……帰命せよ」の断言は、一遍のようなエクスタシス(合体の成就)にたいして、必ずしも(あるいは、決して)オプティミスティクになれない自覚をつげているのかもしれぬ。 いや、親鸞の称名念仏には、いっさいのエクスタシスが欠如しているといっていい。 「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと……」という唯円の問いにたいする親鸞のこたえがそれである。 また「とても地獄は一定すみかぞかし」というような自覚の相は一遍にはありえなかったろう。つまり一遍は思想としての〈孤独〉をほんとうには知らないですんだのにちがいない。 親鸞が思想であるとすれば、一遍はまさしく(語のいかなる意味においても)〈現象〉であった。一遍は思惟のメランコリイから、修辞的論理によって脱したのにちがいない。この論理をフェノメノロジカル(現象論的)とよんでもいいだろう。(〈手記〉より) ここに二つの僕なりの異和を書いておけば、親鸞の称名念仏の徹底性の根底には天台本覚思想に対する根本的な反措定が横たわっていることであり、オプティミスティクになれないことも深化の意味をもっているということであることが一つ。「現象論的」という場合には、現象学が行なう最初からの「根源的な疑い」を一遍はもつような資質ではないのだから、それは当たらないということが二つである。菅谷は一遍の行方をある「すがすがしさ」をもって、晩年受けとめたのではなかったのか。それがなにかといえば、文学者としての一遍である。 親鸞はヴィジョンがかぎりなく広がることを許さなかった。あるいは重きを置かなかった。天台本覚思想が、ヴィジョンを果てしなく広げることを手法にしていたのに対して、親鸞の思想は否定的だった。一遍は親鸞の思想の殉教者とみえるが、じつは親鸞の思想に殉教するような単純な順説は含まれているとはみえない。一遍がその限界を露わにするところが「文学的」な一遍である。 或時、野原を過たまひけるに、人の骸骨おほく見えければ をしめどもつひに野原に捨てけりはかなかりける人のはてかな 皮にこそをとこをんなのいろもあれ骨にはかはるひとかたもなし (『一遍上人語録』巻上) しかしわきに流れだしたようなこれらのヴィジョンは、そこにおいて池の一つの溜まりのようなものをつくりだす。思想の道草としての「文学的」ヴィジョンである。菅谷はこのあたりに共鳴していた。一遍を思想的に追いつめていけばその殉教的な限界に対応する親鸞の思想の捉え方の限界を考えていかざるをえない。そこはかなり明確にできる思想的地点ではないのか。 菅谷が『宮沢賢治序説』で一つの中心とした「食べる」ことへのこだわりも、ある順説に貫かれているようにみえる。賢治の思想の中心点へ向かおうとするとき、こんどはヴィジョンが果てしなく広がることをとことん徹底する先にある思想を賢治は掴もうとしたという論点が中心になるのであり、傍流である賢治の菜食徹底性は周辺の思想としてもいいように思われる。ここに菅谷の単純さがあるとも思える。この単純さといいえるものは、しかし「反逆的」なものの接線という意味においては十分な力を示しているものでもある。大学からの離反などに絡められるこの「反逆的」なものの接線は、状況的にも六〇年代後半において意味をもっていたのである。一時一緒にやっていた「凶区」の天沢退二郎などよりはるかに影響力をこの時点でもっていたと思うし、問題の明確さは天沢などより現在でもよほど重要さをもっている。菅谷の迷走的な音韻論は、別に『詩とメーロス』などを読み解くことで検討しなければならないが、この『死をめぐるトリロジイ』がその接線の逢着した場所であったと思われる。 「文学的」にゆきついた場所は「Zodiac Series」であり、巻尾の《生きることをやめてから/死ぬことをはじめるまでの/わずかな余白に》と最初に書かれている〈死をめぐるトリロジイ〉である。この言葉は敗北の言葉にほかならないが、菅谷はなにに敗北したのか? なにもできなくなったらなにもしなくていい、というふうに考えられなかったのが菅谷の生活者的でないところなのではないだろうか。しかし、これはあまりにつらい問いだとも思う。では、盛んに書くべき主題があることが肝臓を治そうとする契機になりえただろうか、という問いもあまりよくないと思われる。 「書くこと」ことも「食べること」(生活のことでなく文字どおり、食べること)も一つの問いに立てられないほど錯綜しているのだ、という意識と逆説を資質的に取り込めなかったのだ。これは、反対にいうと現代思想の課題を十分に解析する鍵を見つけることができなかったということも意味すると思う。なにかしては駄目ということと、それをしていいということは、二律背反ではなく網の目のように複雑に連続しているのだ。 一つの行動規範を設定することは、普通過程的な嘘が含まれているとみたほうがいいのだ。あるいは、その設定は過程的なもの考えたうえでを「とりあえず」行動規範とする、とみたほうがいいと思われる。なぜならば、実践上での問題を処理していくフレキシビリティを失ってはならないからである。 「書くこと」に殉教することは、ほかの殉教と同じように間違えている。それは宮沢賢治が「食べること」になんらかのこだわりをみせたのを、単純にそれだけとりだして論じて浮かび上がるものを固定的に考えてはいけないというような理路に繋がるように思える。賢治の思想に迫るときの中心は何かと考える周辺にさまざまな解析試論を置いてみることが、結局賢治に近づく方途なのではないだろうか。 そして、この本に示されるいくつかの批評的断片、これらもまた菅谷が逢着した地点を表わす。 どのみちわたしたちは都市のなかで死ぬ。もはや、イエのなかでもムラのなかでも死ねない。そして、それがどんな死であれ、カルチュアを死ぬものではない――むしろ、サブ・カルチュアを死ぬ。 (〈縄文的遊魂、か。〉) 都市は、その現前は、外延をもたない円環としてのそれじたいであり、ただ、二〇〇〇年の稲作文明の消滅を内包し、そしてその内包を、縄文的原生として復活させる――それが、都市としてのわたしたちの無意識の領分であり、そしてそのすがたである。 (同前) 圧倒的に多く書かれている死に対する批評的断片は、さまざまに読者を反応させる論点を含んでいる。しかし、それもまた菅谷の音韻論のように迷走している。断片への断片としての反応を読者はしなければならないようだ。都市論にしても、楽観的あるいは悲観的な論の中心を錐のようにこちらに突きつけてくる感じではない。しかしまた、これらの批評的な断片が多くの思想のヒントや発端に繋げていく目印をつけてくれているのも確かだ。 発信セヨ、発信セヨ (つれて帰れるだろうか 身ぐるみ ぱっ……しゃ。 けけれ、アレ、や それからのオキノコジマ 見エズ、カクレズ キノミヤ、木の宮、ミナミの木そびえ キケリトン、キケリトン、 ぱっ……しゃ けけれ、アレ、や みうみ あちらにもケリがいて 頬の血、なまぬるく わめいている (〈〔ケリ〕〉部分) この本がまた菅谷規矩雄の全部の本を読み返すきっかけになればいい、と僕は痛切に思う。発信された信号に反応するために。 |
編集後記 |
ようやく版下をつくれるところまできた。字の大きさなど、ちょっと問題のあるところがあるが、断片的に作業してきたので、来号からは気をつけるつもりです。(:-P) 時間の合間を縫っての作業だったが、この感じだと先にどんどん書いておいて、割付もそんなに時間がかからないように思える。今のところはほとんど非売品という感じでもずっと続けられると思うが、Booby Trapに興味を持った方は直接購読してくださるとありがたい。紙面の印刷上のグレードアップはかならずできると思う。もちろん、内容が大切なので、頑張っていく。 湾岸戦争が始まりそして終わり、さまざまな感慨をもったが、これについてはもし発言する契機があったら、なにか書くつもりである。 いろいろ障害は多いが、読者の方々も楽しくやってください。 桜が咲いてそして散る。一挙に生物の息が激しくなる時期、なんとか十分に遊んだり書いたりしていきたい。
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