19 高田



写真19-1

写真19-1 ゴルフ練習場に上がる坂
 篠田鉱造『明治百話』(岩波文庫)を読んでいたら、「家柄は五百石の旗下で、知行所は玉川在高田村、山田村の一部で、高田には有名な禅刹興善寺というがある。」(上・136ページ)という文章が出てきて驚いた。そうか、この辺の領主は旗本だったのか。興善寺という寺の名前は初耳だった。早速地図を引っ張り出して調べてみる。日吉元石川線は東山田を過ぎると高田に入り(写真15-6の港北区の看板の先)、綱島に行くときにはかならずここを通るのだが、それよりも北側に興禅寺というのが書かれている。たぶん、これのことを言っているのだろう。あちこちから見えるゴルフ練習場(たとえば、写真15-19)から日吉元石川線と平行にこの寺に向かって道があるようだ。地図を繰り返し見て、どこでどのように曲がったらよいのかを頭に入れた。そして、地図を持たずにデジカメだけ持って出かけた。
写真19-2

写真19-2 ゴルフ練習場の前から見たニュータウン
 まず、道中坂の中原街道に出て(写真6-6)、第三京浜の下を潜り抜ける。潜り抜けてすぐのところに右に鋭角に曲がって上がっていく細い道があり、「イーグルスゴルフクラブ→」の看板が立っている(写真19-1)。その道を上がっていけば、まずはゴルフ練習場に出られる。急坂で歩くのは辛いが、景色がどんどんよくなっていく。頂上まで来ると、コンフォール城山の丘(写真15-2)をはじめとして、ニュータウンのさまざまな高層建築が見えた(写真19-2)。道はゴルフ練習場の回りをぐるっと回って反対側に出る。細くて車が通りにくい道が、ある三叉路から車の通りやすい道になる。目の前に山本記念病院というのがあるが、ここは日吉からのバスの終点になっている(写真19-3)。畑の向こうに見えるのは、川崎市営久末団地だろう。ここまでは、予習通りの道を通ってきたようだ。
写真19-3

写真19-3 山本記念病院
 しかし、そこからすぐに、どうも道を間違えたような感じになった。自然なカーブで道は南側に曲がっていき、下り坂になってきた。この道は、1、2度だが車で通った記憶がある。このまま歩いていくと、日吉元石川線の不二家があるところに行ってしまうはずだ。これはまずい。少し坂を下りたところに左に曲がる道があった。もうどの道が正しいのかよくわからなかったが、とにかくそちらに曲がってみた。何やらプーンと臭ってくる。コッコッコッという鳴き声が聞える。鶏を飼っているらしい。卵直売という幟も立っている。近所にそんなところがあったのかと驚く。今度買いにきてみようか。
写真19-4

写真19-4 高田の畑
 そこからは一面の畑だった(写真19-4)。今まで歩いてきたところでも、これだけ広々としたところはあまり見ていないはずだ。しかし、今度の道は自然なカーブで北に向かっている。日吉元石川線からは離れていくが、興禅寺からも離れてしまう。そこで、まあこのあたりで曲がればよいだろうと思ったところで左に曲がり、東に向かう。やがて右手奥に学校が見えてくる。確か、興禅寺は、学校のそばにあったはずだ。50mほど南に学校に沿って同じ向きに進む道があったので、そちらに移る。この学校は高田中学校だった。道を1本隔て、今度は高田小学校が続いている。そして、小学校の東端まで行ったところで、右に(南に)曲がると、小学校の正門前に出てきた(写真19-5)。校舎の壁に「祝高田小創立124周年」という文字が貼ってある。1875年開校ということだから、小学校という制度が始まったのとほぼ同時に存在していたわけだ。
写真19-5

写真19-5 高田小学校
 道を隔てて反対側には、金網越しに多宝塔が見えた。これが興禅寺なのだろう。回りを歩くと、やがて入口が見えた(写真19-6)。禅寺ではなく、天台宗だった。篠田鉱造に昔話をした旗本の息子も、けっこういい加減なものである。「興禅寺の沿革」と書かれた看板を見ると、平安時代に開かれたらしい。明治四年頃まで、高田小学校の前身となった「高田学舎」という寺子屋が境内にあったとのこと。高田小学校の歴史が古く、寺と隣り合っているのも、これを見ればなるほどと思う。芭蕉の句碑もあったが、それは興禅寺で句会が盛んだった明治の初め頃に建てられたとのこと。地方文化の中心だったのだろう。しかし、今見れば、ごく普通の寺である。なかの本堂や多宝塔を見て、外に出てきて写真を撮っていたら、法事から帰って来た住職らしき人に「なんだ、こいつ」という目で見られたので、早々に立ち去った。
写真19-6

写真19-6 興禅寺の山門
 興禅寺の裏に天満宮というのがあることは、地図で見て知っていた。あとは、実物を探すだけである。高田小学校と興禅寺の間の道を南に歩いていくと、急斜面で下の家々をよく見渡せる場所に出た。そこで左を見ると、神社があった。これだろう。神社の沿革を見ると、これまた興禅寺がらみだった。後醍醐天皇の頃に西の方から光る物が洗われ、この山中に留まった。また、小蛇が梅の若木の下に表われ、異香を放った。これは天神に観音の垂迹だというのである。そこで興禅寺の弁殊法印という人が先達となって榊の枝を取って前に置くと、小蛇はその上に留まった。興禅寺を再興した時の領主、桃井播磨守直常がこの話を聞いて神社を建立し、近所一帯の氏神としたという。超常現象はともかく、興禅寺と深いつながりがあることに間違いはないのだろう。
写真19-7

写真19-7 高田天満宮
写真19-8

写真19-8 天満宮交差点
 天満宮には、山田神社(写真2-4)と同じように横から入って正面に抜けた。大きさもちょうど同じくらいである(写真19-7)。この正面は急な階段になっていて、ちょっと歩くのが恐かった。階段を下りてから少し歩くと、交通量の多い道に出た。左を見ると、天満宮という信号付きの交差点があった(写真19-8)。あの天満宮の交差点で右に曲がると、高田交差点で日吉元石川線を越えて綱島の駅前通りになるのだろう。この道はこの道で、天満宮交差点と反対の方に歩いて行けば、日吉元石川線にぶつかるはずだ。これ以上遠くに行くと歩いて帰れなくなるかもしれないので、天満宮交差点とは反対の方に歩いていった。しかし、交通量が多くて歩くのが恐い。早くこの道から離れて、早渕川でも見ていこう。
写真19-9

写真19-9 高田の日吉元石川線
写真19-10

写真19-10 高田の早渕川
 途中で左に曲がると、すぐに日吉元石川線を渡り(写真19-9)、早渕川に出た。早渕川は、スポーツ会館のあたりから高田交差点までは日吉元石川線、高田交差点から綱島駅近くまでは綱島駅前通りに沿った形で流れ、綱島で鶴見川と合流する。川沿いの道は、意外と人が多かった(写真19-10)。このあたりは、日吉元石川線のバスに乗っていても、東京鋼器前、大同メタル前といったバス停が続くのだが、日吉元石川線と早渕川にはさまれたところに工場が建ち並んでいるようだ。川沿いに新北川橋(写真15-9)まで歩いて帰った。
写真19-11

写真19-11 高田中学校のそばから見た高田の街並
写真19-12

写真19-12 塩谷寺
 帰ってから地図を見て歩いたところを調べてみると、高田中学校のそばにもう1つ塩谷寺という大きな寺があることに気付いた。3日後に、この塩谷寺を目指してもう1度高田に行った。今度は、最初から興禅寺の正面入口の前を通る道を探り当てることができた。高田中学校の手前で右に曲がると、また急斜面で家々を広く見渡せるところがあった(写真19-11)。反対側は墓地である。塩谷寺のものに違いない。入口を探して坂を下るうちに、墓地は家の向こうに隠れてしまったが、適当なところで左に曲がって歩いて行くと塩谷寺の山門があった(写真19-12)。しかし、あいにく補修工事中である。なかに入ることはできなくて、門前で引き返した。
写真19-13

写真19-13 高田の早渕川の鴨
 適当に歩いて行くと、前回よりは東山田寄りのところで日吉元石川線に出た。この道はそのまま渡ってまた早渕川沿いに出た。あまりきれいだとは思えない川だが、鴨が泳いでいた(写真19-13)。新北川橋まで歩き、新横浜東山田線を渡って、川沿いからまっすぐに伸びる道を歩くと百石橋交差点(写真15-10)に出た。よく見ると、この道は日吉元石川線など存在しないかのようになおもまっすぐに伸びてのちめ不動交差点(写真4-5)の近くの中原街道まで続いていた。


参考地図

99/3/26


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