June 2162016

 代掻いて掻いて富士には目もくれず

                           黛 執

植え前の準備である代掻きとはいささか時遅しとも思うが、田植えを終える目安の半夏生まではまだ少し間があるということでお許し願いたい。生まれてから20年余を静岡市で育ったせいか、富士山は方角を知る目印のような山だった。毎日当たり前のように目に入る山が、どれほど美しいものだったのかを知るのは、遠くに離れてからである。代掻きは現代のトラクターを使用する方法でも、ひたすら田の面を見つめ、往復を続ける作業である。掲句でも「掻いて掻いて」の繰り返しに、その作業が単調であることと、なおかつ重労働であることが伝わる。ほんの少し目を上げれば美しい富士があることは分かってはいる。その「分かっている」という気持ちこそ、ふるさとの景色に見守ってもらっているのだという信頼関係を思わせる。仕事が終わり、もう暗くなった頃、富士のあったあたりに目を上げて、一日の無事を知らせるのだろう。『春の村』(2016)所収。(土肥あき子)




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