December 13122015

 冬空は一物もなし八ヶ岳

                           森 澄雄

書に、「甲斐より木曽灰沢へ 十句」とある中の四句目です。二句目に「しぐれより霰となりし山泉」があります。山あいの泉を訪ねているとき、しぐれは霰に変わり、寒さの実感が目にもはっきり見える趣きです。この二句目は、しぐれ、霰、泉という水の三つの様態を一句の中に盛り込んでいて、掲句の「一物もなし」に切れ味を与えています。諏訪盆地あたりから見た八ヶ岳でしょうか。独立峰ではなく連山を下五に置くことで、広角レンズで切り取ったような空の広さを提示しています。この冬空は、水気が一切ない乾燥した青天です。ところで、当初は七句目の「山中や雲のいろある鯉月夜」を取りあげるつもりでしたが、単独で読むと句意も季節もはっきりしないので、断念しました。「鯉月夜」は、たぶん造語です。木曽谷の山中に移動して、月夜の空を見上げると、雲の色彩によって、それが鯉の鱗のように見えたということでしょうか。鯉の養殖が盛んな土地でもあるので、今宵の食卓に鯉こくを期待する心が、雲を鯉に見立てさせたのか。恋しいに掛けたわけではないでしょうが、鯉月夜という語が食欲と結びついた風景なら、茶目っ気があります。なお、十句目の「やや窶(やつ)れ木曽の土産に山牛蒡(ごぼう)」以外は叙景の句なので、鯉こくを食べながら月夜を見ているのではなさそうです。と、ここまで書いて、「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん」という声が聞こえてきました。「鯉月夜」とは、池の水面に雲と月が映り込んでいるその下で、鯉がひっそり佇んでいる。そんな写生のようにも思えてきました。宿の部屋から池の三態を眺めているならば、これも旅情でしょう。『鯉素』(1977)所収。(小笠原高志)




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