November 09112015

 骨壷を抱きしこと二度露の山

                           矢島渚男

二度」とあるから、父母をおくったときの骨壷だろう。二人の命日がたまたま露の季節であったのかもしれないが、そうでなくても別にかまわない。「露」は涙に通じるが、この場合には涙そのものというよりも、露のように生じてくる故人へのさまざまな思いのほうに力点がかかっている。つまり、この「露」は常識的な抒情の世界に流れていくのではなく、ある種の思念にたどり着くのだと読んだ。故人への思いから生ずる思念は、当たり前のことながら、人によってさまざまだ。天野忠の詩に「顔の記憶」がある。部分を引用しておく。「父親の顔ははっきりしている(私より少し若い) 母親の憂い顔は気の毒で思い出せない、 思い出せるけれど私は思いだしたくない」。このように、思い出さないようにして思い出すということだって起きてくる。私の体験から言っても、十分に納得できる。そのように複雑な思念がからみつく故人との関係ではあるけれど、思い出す源にある「骨壷を抱く」という行為の、なんと単純で素朴なそれであることか。しかしその単純素朴な行為の実感から流れ出てくる思念の不思議なありようを、作者は不思議のままに受けとめているのだろう。『梟』所収。(清水哲男)




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