September 2792015

 歳月の胸をこおろぎ蹴り尽す

                           永田耕衣

11句集『物質』(1974)所収です。「あとがき」に、書名の由来が記されています。「精神とて即物質に過ぎぬ(略)身心即物質(略)私という物質から不法にも跳ね出た瓦礫の数数、約六百句は、ここマル三年間の無茶苦茶行を証す赤裸裸に過ぎない。」一元論に徹しています。耕衣は、f-MRIの発明によって、脳を臓器として即物的にとらえることを 可能にした脳科学の見方を先見していたのかもしれません。さて、掲句の「歳月の胸」は、お初にお目にかかる比喩です。これを人体 から即物的にみると、胸には胸筋の起伏があり、肋骨には凹凸が、乳房にはふくらみがあります。今年六月に亡くなった文化人類学・言語学の西江雅之先生は、世界は濃淡と凹凸だけで出来ているとよく話されていましたが、「歳月の胸」も同様に、地表の凹凸のことのように思われます。そんな地表を「こおろぎ」が「蹴り尽す」。ここから、「蹴る」という動詞に論点を移します。蹴る直前の地表Pは、こおろぎにとって未来ですが、蹴った直後の地表Pは、こおろぎにとって過去です。では、こおろぎの現在はどこに在るのか。それは、こおろぎの身体=物質=動体です。ところで、俳句を作るうえでは「こおろぎ」という秋の季語を必要としますが、耕衣が、「存在の根源を追尋すべき事」と言っている俳句信条を ふまえると、さらに敷衍(ふえん)できるでしょう。物質としての動物(人間)は、つねに目の前の地表Pに未来として向き合い、それを現在化すること(蹴ること、即ち行動すること)によって地表Pを過去にしていきます。つまり、「歳月の胸」を「蹴り尽す」行動の連続は、現在から未来を「踏み」、その未来を「蹴って」過去を創ることです。「蹴り尽す」直前には未来を「踏みだす」実存があり、その時「胸」の内側に鼓動を感じとれるかもしれません。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます