August 2482015

 なりすぎの胡瓜を煮るや煮詰めたる

                           小澤 實

瓜を煮るという発想は、あまり一般的ではないだろう。したがって、この句も事実を述べたものではないと思う。煮詰まったのは、アタマの中の鍋でである。情景を想像すると、なんとも暑苦しく鬱陶しい。ここがこの句の眼目だろう。胡瓜はナマで食べるもの。私にもこの固定観念があるけれど、いま、思い出してはっとしたことがある。正確には「煮る」という感じではないが、私が子供だったころに、毎日のように胡瓜の味噌汁を食べていたことだ。食料難で母も味噌汁の具に困ったすえの工夫だったのだろう。もう半世紀以上も前の話だが、子供にもこれがなかなか美味だった。大人になってから、友人にこの話をすると、みなびっくりすると同時に「ウソだろう」と本気にしてくれなかった。それほどに胡瓜のナマ神話は強力なのだ。どなたか、胡瓜の味噌汁を食べたことがある方はいらっしゃらないでしょうか。「俳句」(2015年9月号)所載。(清水哲男)




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